思い出エッセイ〔423〕「昔の昭和:戦後の生活3(家庭のエネルギー事情など(3))」

 前回、敗戦直後の昭和20年(1945)晩秋から、翌21年の、東京の家庭のエネルギー事情(と言うより、生活そのものについての記述の方が多いのですが)について書きましたが、今回は、その時期のことで思い出したこと、そしてその後の(昭和22年、23年)東京の生活について簡単に記して、23年の末近く、引っ越すことになった、関西での生活について記してみたいと思います。

荻窪の、母の実家での生活は、それぞれの事情でそれまで住んでいた家を失った親戚が集まって、一家族一部屋のアパートのような住事情でしたが、どの部屋も立ち入り自由で、仲のいい親戚が、大家族のようになって、特に苦しかった食料事情も助け合って切り抜け、寧ろ非常にポジティブに日々を生きた、という思いが残っています。

占領軍の放出物資と呼ばれるものは、フスマ、トウモロコシ粉、コウリャン、など、後になって家畜の餌と知る、何とも不味いものばかりが配給されていたのが、脱脂粉乳とか乾燥卵など若干マシなものが登場するようになり、遂にそれまでの少々の小麦粉の配給よりかなり多い、メリケン粉が配給されるようになりました。小麦粉と書かず、メリケン粉と書いているのは、その粉が本来の小麦粉と異なるものと思っていたからです。

今迄も書いたことがあるのですが、その粉は、調理をすると、例えばパンなどにして焼くと、白く透き通った感じになり、独特の粘り気があって、本来の小麦粉ではなかったと今でも思っています。日本の小麦粉は、色が黒っぽかったけど普通の小麦粉で、足りないので、フスマと混ぜてスイトンにしたりしたのですが、アメリカから来た「小麦粉」の正体は何だったのでしょうか。
決して不味くはなかったのですが。例えば、小麦粉に葛粉とかコーンスターチを混ぜれば、あんな感じになるかしらと、ちょっと思っています。

そして、あまり美味しくはなかったけれど、栄養面での役割を果たした脱脂粉乳などが、当時の、占領軍放出以外の援助物資として、子供でも名前を知っていた、「ララ物資」によるものと、今知りました。
ララ物資は、北アメリカ、南アメリカ在住の日系人の寄付によることも、初めて知りました。その事実をGHQは当時の日本人に秘匿するようにと通達を出したそうです(Wikipedia、他)。
それにしても、日本人は飢えている、おなかを空かせている、と世界中に認識されていたんですねえ。

敗戦後と言うと、まず食料難ですが、衣も手に入らず、住もウチのように祖父母の家がアパート状態になる、つまり空襲に遭ったり、官舎を出なければならなくなったりして家を失う、それより前に軍人一族だったために敗戦、即失職、戦犯になる恐れもある、そしてその後も公職追放、年齢も高くなっているので、再就職口などない、家族のためにどんな仕事でもしながら、少々の貯金を取り崩して生活するのですが、インフレが急速に進み、その対策として、新円発行、預金封鎖、月に500円前後だけ引き出せる所謂「500円生活」が、敗戦の翌年、昭和21年(1946)2月から始まります。
世帯主が300円、子供一人100円です。

細かい数字を今は思い出せないのですが、500円と言うのは当時の生活には足りない、でも買う物がないから、ギリギリ何とかやっていけるかも知れない、そんな感じの金額でした。

大人達が色々話し、動いていたことを覚えています。実施までに、預金を少しでも多く引き出す、と言うのが一番当たり前の風景だったのではないかと思います。
父方の裕福な伯父が、相当の現金を私名義で預かってもらいたいと言って来たという話は何故か早くから聞いていました。

当時、母は、私を児童合唱団に入れたり、放送局に歌いに行く時はそれなりの服装をさせたり、他の親戚の目には、こんな時世に何をという面もあったようです。
母がよく外出していたことを挙げた者もいました。
別にどうということではないように思えることですが、今頃、現金があるはずがないのにどうして、という意味だったと気づきました。
このことについては、父が晩年語ったことがあり、そうだったのかと複雑な思いを持ちました。

こうして一つのことを思い出すと、次々と別のことが思い出されて、エネルギー事情というテーマがどこかへ行ってしまう、或いは、電気使用量などに制限があっても、調理する物がないから、短時間しかガスや電気も使わないと言う、ごく短い結論めいたことが頭に浮かんでしまうので、今回は、戦後の生活、というタイトルをメインにして、エネルギー事情には( )をつけることにしました。

書いていて、あれこれ思い出したことの一つに、戦後、凶悪犯罪が多かったことがあります。
強盗殺人事件などが頻発したという記憶があります。

暗い道でのひったくりと言うか、強盗などが多く、私が通っていた小学校の辺りは、病院や教会の敷地が続き、夜になると、人通りが絶えるのですが、一番寂しい辺りに、ごく小さなお稲荷さんがあって、その近くに強盗が現れることがよくありました。

荻窪の駅から家に帰る時、必ず通る道で、合唱団の行事の帰りが暗くなることもあり、青梅街道沿いに遠回りをして帰ることもありました。
と言って、車も殆ど通らず、商店は閉まっているし、怖いという点ではあまり変わらなかったように思います。

そういう思いがちょっとした妄想になったのか、夜寝てから、その方向から「助けて」と言う声が聞こえることがあり、母に言ったこともありますが、気の所為よ、とあしらわれました。
二ヶ月とか三ヶ月位続いたような記憶があり、あれが幻聴というものだったのかも知れません。
それほど凶悪事件がよく報じられました。

「歌舞伎役者一家五人惨殺事件」と言うのがあり、それは同居人が犯人で、配給米の自分の分をピンはねされているということが犯行理由だったようです。
今でも信じられないほどの最悪の凶悪事件は「帝銀事件」です。
当時新聞やラジオで詳しく報じられ、あらましは覚えているのですが、あらためて事件の詳細をチェックしてみて、その異常さ、凄まじさに震えを感じました。

昭和23年(1948)の1月、豊島区の、現M銀行で起きた事件です。
銀行の外に這い出して、助けを求めた女性銀行員の顔などもぼんやりとですが、思い出せます。原節子似の美人などと言われていたことなど、妙にはっきり覚えています。

銀行の閉店直後、厚生省技官の名刺を持った中年の男が入って来て、近くで赤痢が発生したから、予防薬を飲んでもらいたいと言って、最初一液を、少し置いてから二液を飲むようにと言い、自分が飲んで見せた、16人の、行員と8歳の子供を含む用務員一家全員が言われたように、一液を飲んで、一分後、二液を飲み、次々と倒れた。
男はその間に現金16万円と額面1万7450円の小切手を奪って逃げた。小切手は翌日現金化された。
12人が死亡し、青酸化合物が使われたことが判明した。

当時報道された内容と殆ど同じなのですが(奪われた現金の額や小切手のことは、知りませんでした。忘れたのかも知れませんが)、子供だったからか、12人も亡くなったという事実がとにかく怖かった。

その赤痢の患者がこの銀行を訪れている、GHQが消毒に来る前に予防薬を飲むようにと言ったそうですが、当時、赤痢は珍しくなく、発疹チブスとか日本脳炎など、もっとコワイ伝染病が流行したこともありました。抗生物質などは存在も知られていず、漸くペニシリンが伝手で手に入ることもあったという時代です。GHQは絶対権力の代名詞のようなものでした。厚生技官の名刺も用意している。銀行側の人も疑いを持たなかったのでしょう。

一液と二液を組み合わせたのは、遅効性を持たせて確実に全員が飲むようにしたと説明がありますが、目の前で16人もの人が苦しみ、死んで行くのを平然と眺め、現金を強奪し、小切手は換金する、犯罪者に普通も特別もないでしょうけど、一体どんな人間なら、こんなことができるのか・・・
netで、「はした金」で大事件を起こしたという記述を見かけましたが、当時の17万7450円は大金です。預金封鎖が続いている500円生活の時代で、大きな家が2万円で売りに出ていました。その2万というお金は縁遠い額でした。
因みに当時、相続税が設けられ、17万円の相続税は50%とあります(net)。

この事件の犯人とされ、死刑判決を受けた故H氏が無実かどうか、資料も読んでいませんし、実はあまり関心もありませんでした。
しかし、H氏が毒物に全く知識がなかったという、今回知った、一つの事実は、どう説明されて来たのでしょう。

毒物を専門に扱って来た者でないと為し得ない犯罪と考えられ、731部隊の関係者も疑われ、実際に調べ始めてもいたようですが、犯人と思しき人を特定するに至らず、GHQから捜査の中止命令が出たとあります。
毒物事件なら731というような寧ろ安易な姿勢すら感じられます。

帝銀事件のような大きな事件について、ごく省略して書いてしまいましたが、今更のように敗戦直後の混乱期に起きた様々なことについて、単なる事件、事象と見て、多くを見逃して来たような気分に捉われています。(帝銀事件については、Wikipedia、他を参照)

簡単にまとめるつもりが、長く書いてしまいました。この時期について短く書くことが無理なのかも知れません。
当時の生活の詳しいことは、別の機会に書くことにして、関西に越した後の生活について記したいと思います。

昭和23年半ば頃、何故か何月かはっきり覚えていないのですが、ある日、中玄関に誰か来た気配がしたと思って行ってみたら、軍服姿の父が、大きなリュックを脇に置いて、上がりがまちに腰掛けていました。

私が一瞬茫然とした時、一番上の伯母が気づいて、大声でKさんよ、Kさんが帰っていらしたわよ、と家中に告げて廻り、まだ上がらない父に、まあ、こんな所から、お玄関からお入りくださいと言いました。中玄関は、女中部屋に続く、普段使いの出入口だったからです。
母の姉や義姉は、義理の弟になる父のことを姓で呼んでいました。
私も精神状態が少しおかしくなったようで、お父様が帰っていらしたと走り回り、帰って来たばかりの父に、たしなめられる始末でした。

伯母もまだ興奮していて、私に、あなた、何をしているの、早くお母様を探していらっしゃい、と言い、私は、母がどこに行ったのかも分からないのに、外へ飛び出して、とりあえず、こっちから帰って来ると決まっている道に出て、走っていると、向うに母が誰かとのんびり話しながら、歩いて来る姿が見えました。

敗戦後、約3年の外地での抑留生活の後、父は帰国しました。私達がまだ疎開先の北陸にいると思って、たどり着いたのが、空襲の焼け跡で、立て札にあった、そこからかなり遠い奥地に親戚を訪ね、私達が東京に帰ったことを告げられ、ひと晩泊めてもらって、東京へ向ったと語りました。

六年ぶりの父との再会です。
本当に優しかった父もさすがに厳しい表情で考え込みがちで、すぐに仕事のことを考えていたようです。他に色々思うこともあったでしょう。

後に他の方が書かれた本で知ったことです。
父は、若い頃、軍からの派遣による、国内留学の形で東京外語(当時外専)で学んでいるのですが、その当時の恩師とその後も親しく付き合って頂いていたとか、その先生の所にも相談に行き、先生も色々当たってくださったようです。

いくつか他に話もあったようですが、戦後解体された、旧財閥系の会社に勤めていた、父の兄が神戸で興した貿易会社に勤めることを決めて、まず一人神戸に向いました。

荻窪の祖母の家は、いつ頃その話が決まったのか、売ることになって、その当時としては、結構な額で買い手がついたようです。
祖母と、伯父伯母達が話し合って、お金を分け、小さいながら、家を買った者もいて、そういうことが可能な値で売れたようです。実際に家を明け渡したのは私が関西に越してからのことですが。
当時、家の売買は、土地は関係ないと言うか、大体その辺一帯を持っている地主の借地で、家だけが売買されるのが普通でした。

既述したように、近くの大きな家が2万円で売りに出されていたので、祖母の家もそれに近い値だったのではと思います。因みに買ったのは(その後十数年経って家は取り壊されましたから、書いてもいいと思うのですが)、東京瓦斯の重役だそうです。エネルギー関係は、供給がスムーズでなくても、当時も安定した経営状態だったようです。

関西も住宅事情は非常に悪く、父は神戸に行って、何ヶ月か経っても、住む家を見つけられず、伯父や叔母の家に同居していましたが、神戸に隣接するP市に建築中の県営住宅の抽選に申し込んだが50数倍と手紙が来て、母が、そんなの当たるはずがないのに、どうするつもりなのかしらとイライラしていたのを覚えています。

それが当たったのです。すぐに越すことになりました。昭和23年の晩秋です。
話は変わりますが、当時、銀座とか新宿とか賑やかな所の歩道に露店が出ていて、必ずと言ってよく、ヒヨコを売っているお店が何軒かありました。
箱に隙間なく入っていて、角に電球を置いて、暖めているのですが、目をつぶって瀕死の状態のもいて、買ってもまず育たないのですが、子供がまず関心を持ち、大人は大きくして卵を生ませたい、或いは食べたい?と思う人が多かったのか、結構売れていました。

ウチも何回か買って、死んでしまったのですが、一羽が生き残り、関西行きが決まった時、中雛と言うか、大人になる前の大きさになっていました。素人には、トサカが出て来ないと、雄か雌か分かりません。懐いていると言うと言い過ぎかも知れませんが、ペット状態で、連れて行くことにしました。
当時汽車で鶏の持ち込みはどういう規則になっていたか分かりませんが、小さい篭に入れて布を被せて連れて行き、検札の時、クックックと鳴いて、ドキッとしたりしましたが、無事十数時間の汽車の旅を、乗り切りました。

県営住宅はまだ完成していなくて、一時叔母がP市に借りていた部屋に住まわせてもらいました。
P市は、戦中まで、父方の祖父母と伯父、叔母が住んでいたのですが、空襲で伯父達の家の所まで焼失し、他に住いを借りていたのです。

いよいよその県営住宅に入居することになって、母が茫然とした表情だったことを覚えています。
特に母にとっては、それまでの家と違い過ぎると言うか、家の概念に当てはまらなかったのかも知れません。

新築だし、小綺麗に見えたのですが、マッチ箱のような同じ形の家がズラッと並んでいるという感じでした。

ご参考までに、当時、昭和23年(1948)に住宅難解消の一助として建てられた、公営住宅がどんなものであったか、ご紹介します。

6畳と4畳半の二部屋。玄関は、今の普通のマンションより広く、丁度倍近い広さで、板の間もありました。横に手洗い。お風呂も洗面所もありません。畳の部屋はそれぞれ押し入れがあるだけ。台所は四分の一位の板の間があり、あとは土間、簡単な流しがついていて、洗面もそこでします。
水道の蛇口はここ一箇所。井戸水も自由に使えた東京と違って、洗濯一つも不便でした。
建物について、それ以外に何もなかったと思います。

最低限必要な機能?だけを備えた、言わば山小屋スタイルとでも言いましょうか。
今考えれば、2DKのハシリと言えるようにも思いますが。

既述したように、当時は土地に価値がある時代ではなく、その意味で後年この住宅が払い下げになった時、非常に有利な条件になったと思えることは、一軒の家の周囲に、結構空き地(庭の体裁を為していませんでした)があったことです。
一軒がどの位の広さか、特に北側の空き地については、草取りをする以外、殆ど足を踏み入れることもなかったので、広さがピンとこないのですが、40坪近くあったのではないかと思います(新たな宅地として整備したとすると、一軒当たりの分は更に削られたかも知れません)。

お風呂がなくて、銭湯通いになったことは結構大変なようで、私は銭湯が嫌いではなく、あまり苦になりませんでした。

一度書いたことがありますが、この住宅に入居する前後、母は、私を、P市の住宅地に連れて行って、一軒の二階家の前に行き、伯父様がこの家をあなたの名義で買って下さるとおっしゃっているんだけど、どう思うと聞きました。

突然の問いかけで、私が黙っていると、この家に入りたくないかと重ねて聞き、私は黙って首を振ったのだと思います。
母はそれ以上聞くことはなく、その家の話はその後出ることはなかったのですが、この件が母に大きな落胆を与えたのではないかと、後年思ったことです。
子供ですから、その場でその話は忘れてしまったのですが、母は絶対服従を求めると言うか、口答えを許さなかった人ですが、そんな大きなことが私の同意が条件と言うことは、子供のいなかった伯父、或いはK家の存続のため、私が伯父の養女になる、恐らくすぐではなく、例えば、将来伯父の家を継いで、(当時の言い方で)婿養子をとる、などという話があったのかも知れません。

預金封鎖の際の、私名義の多額の現金預かりなどを考えると、もっと早い時期に、例えば昔の民法の制度、家督相続人だった、など、何らかの事情があったと思え、と言って、身内が厭味で、伯父の子ではないかなどと言ったこともありますが、それはないと思っています。プライベートなことはこの位にしたいと思います。

関西での生活が始まって、一番不自由したのは、都市ガスが通っていなかったことです。
住宅事情改善のために応急に建てられた簡易住宅にガスを通すとは思えませんが。
電熱器は、調理は、短時間の鍋物位にしか使えず、炭火や炭団、練炭と言ったものも使いましたが、薪を使って調理すると言う、母には、殆ど経験のない燃料を使わなければならなかったことが苦痛だったようです。

薪はどこで手に入れたか、覚えていないのですが、薪割りは手伝いました。
それと意外に苦労したのが、最初に使う焚きつけ、つまり紙などのすぐ火がつくものです。要らない紙と言うのが案外ない、と言うか、少々では足りなくて、ある時父の蔵書(家財道具等は空襲で焼失してしまったのですが、父の蔵書などで、特に~全集というような本を殆ど全て東京に置いて行き、それが私の当分の何よりの読書対象となりました)の中に文学全集ではない、言わば教養全集のような本があったのですが、ある日母は、その一冊を密かに焚きつけに使い出し、父が気づき、何ということをするのだと、茫然とする事件が起きました。わが家は、父と私が本のムシ、母ともう一人の身内は殆ど本を読まない、と分かれていました。
母も私に本を粗末にしてはいけない、などと教えていたのに、本好きではないことがこういうことに繋がったのかも知れません。
(現在のように、ハードカバーは剥ぎ取って資源ゴミとする、電子書籍にするために本をズタズタにしてしまう時代では、本を焚きつけにするなど、どうということもないでしょうけど)

でも焚きつけは必要。ふと気付いたことが、ウチのすぐ目の前に雑木林の丘があり、そこに松葉などの枯葉が落ちていることです。それを集めればいい、そう思って、熊手を持って集めに行きました。面白い程集まり、焚きつけは当分足りて、なくなったら、また取りに行けばいいという解決に至りました。

東京では食糧事情は好転しつつあるという感じだったのですが、と言うか、闇市でかなりのものが手に入るということもありましたが、関西では、相変わらずフスマ、トウモロコシ粉、コウリャンなどに、東京では配給されたことのないヤシ粉も加わって、お米事情はかなりよくなったとは言え、相変わらず色々の粉が 顔をきかせる食料事情でした。

ヤシ粉は、おそらく椰子の実の粉だと思いますが、葛粉を黒くしたような粉で、甘味が少しあり、透明になって、粘り気もあり、不味くはありませんでしたが、主食としては使いにくい粉でした。
中学の先生が、クラスがだれていると言って、今朝、何を食べて来た、トウモロコシ粉か椰子粉かと、ズラズラ戦後代用食の名を挙げたことがあって、ある時期までは七つか八つ位あった、粉などの名前を覚えていたのですが、さすがに忘れてしまいました。

ある所にはあった、伯父は自分が興した会社の接待ということか、当時から穴子なら神戸のA、などと言うことで、父もそういう席に行くことがあったし、私が伯父の家へ行くと、割烹料理もこなす伯母が、コースの和食を私一人に出してくれました。
この伯父からの援助もあったのか、食べる物に困ったという思いはしなかったように思います。

歩いて行ける海は豊富な漁場で、と言って、市の名前がついた、有名な高級魚などは当時ウチで食べたことはありませんが、とりあえず、例えば活きている小海老などを売りに来ましたから、配給になるのは粗末なものでも、食は結構バラエティが出て来たと思います。

もう一つ、東京から連れて来た鶏がどんどん育って立派な雄鶏になって、コケコッコーと鳴くようになり、それを見つけた鶏を扱うブローカーのような人が雌鶏を買いませんかと言って来て、最初に二羽の雌を買い、白のレグホンと茶色のコーチンは毎日卵を産み、卵が簡単に手に入るということは非常に魅力で、それから数羽増やして、卵には不自由しなくなりました。
東京から連れて来た雄鶏は、ある日いなくなって、母は、気が荒いから闘鶏に向くと言われて手放したと簡単に言いましたが。

伯父は、自分の会社が父に向いているとは思っていず、他にいい所があったら、移るように、父に、最初から言っていたのですが、神戸のフランス系の会社に、飛び込みに近く、交渉したら、すぐに採用が決まって、父は新しい会社に移り、そこで最初から結構恵まれた条件で定年後も70歳まで務め上げることになります。

この一文は、父について書いているものではないので、ほんのひと言の付け加えになりますが、中学の2年の終わりから大学卒業まで過ごした我が家、県営住宅生活で、父は、どんな意味でも最高の父親として接してくれました。感情に走りやすい母に対して、父には、私は一度も叱られたことがありません。反対する時は、静かに説き、どんな状況でも冷静に対処し、あらゆる面で私を導いてくれたと思っています。父は、亡くなるまで、私にとって一番の話相手でした。

軍人としては、若い頃、一番末席ながら軍縮会議の随員として、首席全権の副官を務めるなど、華やかな経歴も持つ人でしたが、粗末な県営住宅暮らしも何一つ苦にすることなく淡々と日々を過ごし、私に教えるのではなく、自分と対等の相手のように接してくれました。

この時期については、他のタイトルでも、書きたいことが多くありますが、とりあえず長くなったので、父についての、あまり具体的でない、ほんの表面的な表現のひと言を付け加えて、一旦ブレイクとしたいと思います。(この項続く)  《清水町ハナ》

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