思い出エッセイ〔404〕「ラジオ音楽:テレビのワンシーン4」

 テレビのチャンネルを廻したら、「フランク・永井ヒット曲の数々」と題した、ワンマン・ショーの趣きでしたが、局が独自に編集、作成した番組の再放送が始まるところでした(7月28日9時、NHK・BS3「フランク・永井ヒット曲の数々」)。何よりも懐かしさが湧いて、それとフランク・永井をテレビ画面で見るのは、いつのことだったかという程久しぶりだったので、ちょっと出かける予定を止めて、見ることにしました。まだ朝でしたが。

本当に歌がうまい歌手だったとあらためて思いました。
ただ彼の歌にも聞きほれましたが、私の思い出は、彼がデビューした昭和30年代前半に飛びました。私がまだ学生で、ラジオで音楽を聞いていた頃です。

大ヒットした「有楽町で会いましょう」が昭和32年(1957年)に発表されて、その前にもヒット曲はあり、デビュー前後は、ジャズ歌手を目指していたそうです。

昭和32年と言うのは、私にとっては、人生の節目になることがいくつか起きた年で、「有楽町~」が32年の何月に出たかによって、私がこの歌を、長年の自分専用とも言えるラジオで聞いたか、そうでないか、分かる・・・こんなどうでもいいことに拘ってしまいました。

少し調べてみると、この歌は、そごうデパートの有楽町開店に合わせた、一種の宣伝用の歌であることが分かりました。
そごう有楽町店が何月に開店したか、大分前に閉店してしまった所為もあるのでしょう、調べがつきませんでした。

ふと思い出したことがありました。当時、知人のお兄さんが関西のそごうデパート勤務で、近い中に東京に開店した有楽町支店に転勤になると聞いたことです。
これで、私がこの歌を初めて聞いたのは、関西の、私のデスクの上にあった、専用ラジオと分かりました。

その頃、既に東京へ戻れる目処はついていたのですが、ちゃんと実現するだろうかという思いはあったし、この歌で、いやが上にも東京への望郷?の思いをかきたてられたのです。
子供の頃児童合唱団に属していて、当時有楽町にあったNHKに時々歌いに行ったりしたこともあった、少々華やかな思い出も浮かびました。

ただ、「有楽町で会いましょう」と言われると、私にとっての待ち合わせ場所は、JRの有楽町駅で、もう何年も行っていないので、変わっているかも知れませんが、鳩居堂側のゴチャゴチャした所の改札口か、反対側の、ビル群や皇居に続く、出口ではあっても、ガランとした感じの、凡そ待ち合わせには相応しくない空間しか思い浮かびません。

この歌の歌詞について、間違って覚えていたことも、今日の番組で知りました。
「あなたを待てば、雨が降る」の次、「ぬれてこぬかとふりかかる」と、何十年も思い込んでいました。
こぬか=小糠(雨)と思い込んでいたのです。考えてみると、コヌカ雨が降りかかるのはいいとしても、濡れて、が先に来るのはおかしいということになります。

番組で歌詞が出て、「濡れて来ぬかと気にかかる」であることを知りました。ただこれも若干分かりにくいんですね。濡れて来るんじゃないかと気になる、という意味かと思いますが、濡れてしまって来ないんじゃないかという意味にもとれそうな気がするのですが。

歌詞と言うのは、案外間違ったまま覚えていることが多いように思います。特に子供の時学校の式などで歌わされた、例えば、昔の紀元節の歌は、歌詞が難しくて、低学年の頃は全然分からなかったのですが、「雲に聳ゆる高千穂の高嶺降ろしに草も木も靡きふしけん大御世を~」ふしけんを、子供の頃、試験がないという意味と思っていました。何故そこまで飛躍するか、その前も、よく分からないで、歌っていたからだと思います。「伏しけん」らしいと分かったのは大人になってからのことです。

あちこち思い出すことがとびとびですが、私にとって、音楽と言うのは、時として脈絡のないことを次々と思い出させるキッカケを作る、作用と言うか、一種の力のようなものを持っています。独特の刺激を私の脳に与える種類の音楽があるのではないか、そんな風に今でも思っています。

敗戦後、中学二年の終わりに、東京から関西に越し、住宅難の時代で、短期間に建てられた県営住宅で暮らしたことは何度か書きました。それまで住んでいた家の概念とは程遠い粗末な家で(それでも50数倍の籤に奇跡的に当たったのです)、母などそのことだけで落ち込んだのですが、今考えると、2DKの一軒家のようなもので、それ程悪くはなかったとも思えるのですが。以後殆どマンション暮らしで、広さも大して変わりませんし。

私の母方は、非常に親戚が多く、それも東京に集中していたのですが、中に桁違いに裕福な親戚がいて、戦後ご多分に漏れず、斜陽の道を辿り、数軒の別荘を次々に処分して、関西の、私達の引越し先の近くで、海を見晴らせる高台に住んでいたのですが、(その別荘の一つが、海沿いと言うより、海の中に建てられた感じの、庭先から釣ができると言う、頑丈な石垣で囲まれた家で、神戸への行き帰り、いつも電車の窓から眺めていたのですが、侵食によるのか、他の理由によるのか、ある時久しぶりに見たら、建物がなくなっていました。その家も舞台の一つにして、小説を書き始めてみたのですが、頓挫しています)

この当時も、色が抜けるように白く、往年の美貌をうかがわせ、華やかな雰囲気を振りまいていた、おばは、親しみやすい人で、ウチのボロ家にも気軽に遊びに来たのですが、母から聞かされていたことには、近くの美容院へ運転手付きの自家用車で行くとか、某有名デパートでズラッとお出迎えが並ぶとか、ちょっと上海に遊びに行くとか、浮世離れした逸話がありました。
私の勉強机がないことを知って、調理台に丁度いいのがあるからと、運ばせてくれたのが、部屋の一角を占めてしまう、相当大きいもので、以後その机が私の棲家のようになりました。

まず、わが家のラジオを奥に置きました。中学生の頃は、『鐘の鳴る丘』とか『向う三軒両隣』などラジオ・ドラマもよく聞きましたが、次第に音楽一辺倒になり、最初の中は、主にクラシックを聞いていました。
私が、敗戦後、初めてラジオで聴いた、著名なバイオリニストの生演奏と言うと、言い過ぎかも知れませんが、初来日したユーディー・メニューイン(当時はメニューヒンと発音していました)のバイオリン演奏を、ラジオの前でかしこまって聴きました。
司会の音楽評論家堀内敬三氏が、演奏後、涙声で感謝の言葉を述べていたことを記憶しています。
チャンネルはいくつもなかったと思うのですが、進駐軍向け放送もあって、音楽は不自由なく?聞けたと、あまりはっきりした記憶ではないのですが・・・

NHKのラジオ歌謡と言うのが、戦前から活躍して、国民的歌手と言われた、藤山一郎氏を中心に、「白い花の咲く頃」(1950)の岡本敦郎、三浦洸一、伊藤久男など、音楽学校出身の、声量豊かで歌もうまい、言わば本格的歌手の歌を次々にヒットさせた観がありました。
当時から作曲も多く手がけた林伊佐緒もいい声でしたね。
一方で、津村謙の「上海帰りのリル」(1951)などを筆頭に、近江敏郎の「湯の町エレジー」など、当時の流行歌も爆発的にヒットするものも多く、1952年にはNHKの紅白歌合戦が始まります。

小学校の頃は、流行歌は、歌っても聞いてもいけないと、あれこれうるさく干渉され、学校で習った歌を歌っていたところ、それは流行歌だと言われ、禁止されました。さすがに学校の音楽の時間に習ったのにと言ったのですが、流行歌と言って、母は受けつけず、好きな歌だったのに、封印されたままとなりました。

ほんの二、三年前、この歌が小学生唱歌、童謡であることを突きとめました。
「女馬子歌」という曲です。歌詞をよく覚えていないのですが、
「女馬子歌、朝靄縫うて、行くよ、寂しい草野(の)原
勇む栗毛にひと鞭あてて・・・・・」
こんな感じで、確かに、「女馬子歌」というタイトルと言い、歌詞もメロディも童謡とは違う雰囲気があるようにも感じますが、何故あそこまで厳しく禁止されたのか、今頃になっても若干の口惜しさが湧き上がるのには我ながら驚きました。

ニュースの時間以外、ラジオが私の管轄下?に入ってから、母もうるさく言わない、と言うか、関心を示さなくなり、音楽を聴きながら受験勉強をしていても、何も言いませんでした。私もその方が勉強が頭によく入ると本気で思っていました。

江利チエミの「テネシー・ワルツ」「カモナマイハウス」を聞いた時も衝撃を受けました。13歳か14歳で、こんな声で、こんなに達者に、とただ驚きました。
「テネシー・ワルツ」はパティ・ペイジ、「カモナマイハウス」はローズマリー・クルーニーの歌で、クルーニーは日本に来たことがあるのでしょうか、顔も覚えていて、美貌の歌手で、俳優ジョージ・クルーニーの叔母さんです。
この頃既にアメリカの歌が、非常な勢いで流行り始めていたのですが。

フランク・永井と昭和32年に話を戻すために、この年のNHK紅白歌合戦の出演メンバーをみてみました。第8回です。

女性陣は、美空、江利、雪村の三人娘(意外にも全員、2回目)、淡谷のり子、二葉あき子の両ベテランがそれぞれ4回、8回目。バナナボートで一躍有名になった浜村美智子が初登場、しかし歌は「監獄ロック」(「バナナ・ボート・ソング」は男性コーラスが必須で、当時はコーラスと言えども男性を入れることが許されなかったので、曲を変更したとのこと)、ペギー葉山4回目、他は、出場回数が多い人はいますが、そう言っては失礼ですが、地味なメンバーです。

男性陣。藤山一郎、初回からずっと出場、8回目。津村謙2回。林伊佐緒7回、伊藤久男、近江敏郎6回。ジャズ畑の笈田敏夫5回、旗照夫2回。ハワイアンの灰田勝彦5回。シャンソンの高英男4回、芦野宏3回。春日八郎3回、三浦洸一、三橋美智也、2回。フランク・永井も初めての出場を果たしていますが、曲は既に充分ヒットしている「有楽町」ではなく、「東京午前三時」です。因みに司会者は、女性、水の江滝子、男性は高橋圭三アナウンサー。
(第8回NHK紅白歌合戦の出演者、出演回数については、Wikipedia、NHK公式サイトの資料より)

フランク・永井は、デビュー当初は、東京を歌った歌が多く、低音でよく響く声で、発音に所謂訛りは全くなく、アクセント、イントネーションも完璧、ガ行の濁音、鼻濁音の使い分けもキッチリしている、陳腐な表現ですが、都会的な雰囲気を全面に出しており、東京出身と思っていたら、宮城県出身だそうです。

デビュー前、進駐軍のキャンプでジャズを歌っていたそうですから、英語やジャズの歌唱法の習得が、癖のない、それが個性の一つの歌い方に繋がったのかも知れません。
演歌とは全く異なる、と言って、音楽学校で学んだ優等生的な、真っ直ぐな歌や、歌唱法とも異なる、ムード歌謡などとも言われましたが、私が、子供から大人にさしかかる時期、私の棲家のデスクで、相棒のラジオで聴いた歌の中で、それまでと違う魅力を、フランク・永井の歌に感じた、しかし、それも間もなく、そのラジオともデスクともお別れの頃で、記憶に残っていても、それからは一人の歌手に惹かれることも殆どなくなった、私の大人へ変わる日々が始まりました。

フランク・永井は、昭和60年(1985年)自殺を図り、その後遺症を抱えたまま、二度と歌手として復活することなく、平成20年(2008年)この世を去りました。元気だったら、平成の世も、優れた歌手として活躍したでしょう。
昭和の歌手、フランク・永井の歌で、私が一番好きなのは、『君恋し』です。  《清水町ハナ》

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