思い出エッセイ〔394〕映画雑記帳161「【わが母の記】感想など」

 【わが母の記】(役所広司、樹木希林、宮崎あおい、南果歩、ミムラ、三浦貴大、監督:原田真人)。この作品のポイントを取り上げた形の、テレビのコマーシャルを何度か目にして、いずれにしても母ものの範疇なのかと思って見たのですが、ちょっと違う感想を持ちました。

少し前、映画館の外で待つ時間が長かったので、開館ギリギリに行ったら、もう開いていました。
殆どが中高年、それも高齢者の女性が多いという観客層、平日初回に七割位ということに、少々驚きました。それで時間より早く開けたのかも。
ちょっとしたことにあちこちで笑い声が起きると言うのも、ほっとする光景でした。


冒頭、若い母親が激しい雨の中、二人の子供と軒下で雨宿りをしている。
反対側には一番上の男の子が一人で立っている。母親が、理由は分からないが、彼一人を、そこで雨宿りをさせたのだ。無表情で冷たい母親の顔。
何故か母の元を離れて、数年間、知らない女性と土蔵暮らしをさせられた主人公の長年の思いを象徴的に表す場面です。

一転、シーンは、姉妹が戯れるように、かなり早口の東京言葉で楽しげにおしゃべりをしたり、カード遊びをしたりする、作家として有名になった主人公の、いかにも恵まれた家庭を映し出す。家族、それも裕福で仲のいい大家族を、作家は一人意図して築き上げたように見えます。
その大家族が、認知症(以前の病名、痴呆症の方が合うような感じですが)になった母親に、振り廻され、困り果てながらも、愛情深く世話をすると言うのが、もう一つの、或いは中心となっているストーリーです。

作家井上靖の、同名の自伝的な小説を映画化したものですが、自身の思い出や家族のことを書いた作品は他にもあり、そうしたものも取り入れて制作されたと言えるようです。
実際に井上氏が住んでいた家で撮影されたそうです。

ストーリーを詳しく書くこともできますが、この映画は本当に見てのお楽しみと言うか、樹木希林の、神業的なボケ演技と言い、最後まで、特に女達のおしゃべりを中心にして描かれる一族の細やかな生活ぶりなど、見なければ分からないとしか言いようがなく、私はまた流し書きスタイルに戻らせていただきます。

私がこの作品に興味と同感を抱いたのは、昭和という時代でも、特に私が生きた時代と重なった頃が描かれていることで、当然私は違う生活を送ったわけで、その辺を自分に引き付けて書いてみたい、という方に思いが偏って行ったというところでしょうか。

作家井上靖(1907~1991)は、私の両親の世代の人で、その意味でも、彼の子供の世代を語れる部分もありますし、戦後の早い時期から著名な小説家となり、終生最もポピュラーな作家であり続けた人の生活は、当時の庶民の生活とはかなりかけ離れた面もあるということも興味を惹かれる点です。

敗戦後、新しい本を買うということは難しいことでした。
センカ紙という質の悪い紙を使って、徐々に本の出版もされ出すのですが、自分が読みたい本を自由に買うなどということは、ずっと後のことになります。

そんな状況の中で、唯一新しい書き下ろしの小説が自由に読める機会は、新聞の連載小説でした。
今の若い人でも、題名を聞いたこと位はあると思うのですが、石坂洋次郎の『青い山脈』などは、戦後の一番早い時期の新聞小説で(1947年)、非常に人気がありました。

子供達は大人の本を読んではいけないと注意されていましたが、戦後の混乱期、新聞小説までは干渉されず、私は小学生でしたが、この『青い山脈』あたりから、新聞小説は非常に楽しみに読んでいて、読み忘れるなどということはありませんでした。

大人の雰囲気に惹かれた小説が大佛次郎の『帰郷』です。
調べてみると、「毎日新聞」に連載されていたとあり(1948)、「毎日」をとっていた記憶がなく、当時は、読みたい新聞が自由に取れる時代ではなかったので、また敗戦直後の三年程、祖父母の家に何組かの親戚が同居していて、新聞を分けて購読していたのかも知れません。
従兄が毎日、ウチの新聞を借りて、部屋の前で『帰郷』を読んでいたことを記憶しています。

今は購読している新聞の連載小説のタイトルも知らない有様ですが、当時は、面白くないなどと思った小説はなく、新聞小説としては珍しい、時代小説、所謂大衆小説である、村上元三の『佐々木小次郎』なども、独特の挿絵と共に楽しみに読んだものです。

寄り道ついでにもう少し書くと、新聞小説で、母から読むことを禁じられたものに、平林たい子の『地底の歌』があります。
平林たい子と言えば、当時の非常に有名な女流作家でしたが、映画『地底の歌』は検索できるのに、原作の新聞小説はなかなか辿りつけなくて、意外な感じを持ちました。

やっと1948年に朝日新聞に連載が始まった事実が分かりましたが、高校時代と思っていたら、中学生の時ということになり、記憶はズレが生じることがあるものと今更ながら思いました。
その年の末近くに私は関西に越し、朝日が購読できなくて、伝手で配達してもらえるようになったのですが(後にこの人が何か買って欲しいと言って来て、断ると、あの時新聞で便宜を図ったじゃないかと言われた、コワイ、と母が言っていたことを思い出しました)、その最初の新聞小説を読むのを厳禁されたということになります。

最初は、母も気付かず、私は随分強烈な小説と思いながら、読んだことは覚えていますが、この小説については、相当自由に接してくれた父がダメだしを出し、母が読んで、絶対にいけないと言って、新聞を隠したり(当時新聞紙は一種の貴重品で、今のように処分することは考えられず、最終的には火を起こす時の焚きつけとしても欠かせないものでした)、小説だけ切り抜いたり、今思ってもそこまでという、神経質な対応でした。

井上靖の最初の新聞小説『氷壁』が、朝日新聞に連載され始めたのが、1955年から1956年にかけて、と言うのも、もっと早い頃と思っていたので、意外でした。
登山用具のナイロン・ザイルが重要なキーとなる小説ですから、その一事でも、そんなに早い時期ではないことが分かるのですが。

井上靖氏が、短編『闘牛』で芥川賞を受賞したのが1950年(昭和25年)、翌51年に勤務先の毎日新聞社を退社、作家業に専念するのですが、ベストセラー作家としての地歩も固め出したのが、この『氷壁』が第二のスタートとも言え、続けて、『天平の甍』『敦煌』『蒼き狼』など、歴史小説、敦煌ブームに繋がるような太作を次々と発表して、大作家としての揺るぎない地位を確実なものにします。

映画、【わが母の記】では、既にベストセラー作家となっている主人公、伊上洪作(役所広司)が、実家の両親(父:三国連太郎、母:樹木希林)を伊豆に見舞って、東京の自宅に帰ると、家族総動員で、山と積まれた、出版される著書に検印を押している場面が、続いて映し出されます。その時、50万部という数字を聞いたように思います。

一挙にセチガライ話になりますが、昭和30年代の前半、サラリーマンの給料が1万円から2万円という時代ですから、何十万部というベストセラーを続けて出す作家の生活ぶりは、当時の庶民には、無縁のものだったと言えます。

桁が違うという例になるシーンがあります。
編集者、瀬川(三浦貴大)を、自家用車のお抱え運転手兼住込み書生ならぬ秘書にしてしまう(既に女性の住込み秘書がいる)ところも戦前のお金持ちを思わせます。
認知症の症状が出始めている母の誕生祝いに、川奈ホテルのダイニング・ルームで(貸しきり?)、豪華なディナー・パーティーを催すのはともかく、(いつものように)室内楽団を入れてという作家に、今日はラテン音楽でお願いしたいとホテル側が言って、生のバンドが呼ばれる場面も驚きました(などと書いて、終戦直後、前のお金持ちのお宅は、ご主人のお誕生日祝いに、有名なバイオリニストの演奏と、豪華なフルコースのパーティーだったと思い出したのですが)。

この映画をせちがらい事ばかりに結びつけるつもりはないのですが、敗戦直後の、まず食べるものがない、住む所もない、着る物も自由には手に入らない、という昭和20年代から、食べるものは何とか手に入るようになったけど、1万円とか2万円の月給が、数万円、やっと10万円に達するのに次の30年代、10年がかかったような時代、40年代に入ると、いい意味でも悪い意味でも変化の兆しが出て来るのですが、この映画は40年代前半で終わっているので、庶民の生活は、映画とは少々(ではなく相当)異なると言うことを、書いてみました。

役所広司が並々でない存在感で、それも押しつけがましさがなく、言わば彼が創り出した作家を演じています。
女性陣が、誰が姉妹でどの人が娘か一瞬区別がつかなくなった時があるほどです。
自分を捨てた母親に確執を抱いていながら、それを表には出さず、あくまで病んだ母親として接する、少々怒りっぽいが、大家族の長として、全体を見渡して律する、ちょっと変わり者の三女(宮崎あおい)にも、最後は譲る、許すという態度で、彼女の思い通りにしてやる、常識人、日常を重んじる、という面が強く感じられ、実際の作家はどうだったのだろうという思いを持ちました。

何しろ井上靖氏は、文壇の重鎮という存在で、写真しか見たことがありません。
そう言えば、敦煌の現地ロケのTV番組で、見かけたような気がしますが、記憶がはっきりしません。
案外気さくな方だったのかも知れません。

ずっと以前のことですが、金沢で偶然、井上氏の定宿という旅館に泊まったことがあります。
夫が、旧制高等学校が井上氏と同じ出身で、その後も金沢とは結構長く縁があった所為か、愛想のいい女将さんが、色々話してくれました。詳しいことは忘れてしまいましたが、井上先生絶対という感じでした。
レモン風呂には艶々したレモンがいっぱい入っていて、お風呂上りに、日本宿には珍しい厚手のタオルのバスローブが用意されていて、文字通り痒いところに手が届くというサービスの良さで、印象に残っています。

ほんとの脇道に逸れましたが、映画に戻ると、主人公の、母親に対する長年の確執、子供の頃に捨てられた、曽祖父の妾で、戸籍上は祖父の妻、つまり祖母ということになっている女性に預けられ、土蔵で一緒に暮らしたという事実。
映画で見逃したのかも知れませんし、原作を読めば分かることかも知れませんが、表面の事実を見る限り、明らかに母の意向や強い願いが届かない、昔の「家」を守るために、或いは相続上の理由などがあって、祖父や曽祖父の思惑で為されたことではないのか、自ら、自分の子供を、それも男の子の長子をそんな目に遭わせる母親はいないと思えました。
父親が理由を知っているのではないかとも考えました。
他にも真相を知る術があったのではないかとも思えます。

事実、無理のない、プロットとしても巧妙な形で語られる母親の真の思いは、やはり、と納得のいくものでした。
自分は、勿論ちゃんと母だった、母だから、当たり前でしょう、と言うような、押し付けがましさが一片もない形で、自分の気持ちを自身に語るように呟いている、長い間反芻して来た、強い思いがふと溢れた、という自然な形。そんな感じを持ちました。

樹木希林は本当にうまい、としか言い様がありません。
観客が、ひと言、ひと言に反応して観ているという感じで、遠慮なく笑っています。ドッと笑いが起きる場面もあります。
何故遠慮なく笑えるか。馬鹿みたいな言い草ですが、演技と分かっているからだと思います。希林さんも観客も上質な笑いを期待し、期待されているということだと思います。
作家のお母さんの実像から離れる、ということもチラと頭を掠めますが、作家の母親らしい呆け方、と言っては言葉が悪いので、病み方というものがあると言うわけでもないし、と思ってみました。

観客は、自分が母としてどうだったか、と考えるべき年齢の方が多かったと思いますが、自分の母はどうだったか、という目で見ていたのではと、直感的に?感じています。はっきりした理由はないのですが、映画を見て、自分が母としてどういう親だったか、ということを考えさせるような映画は、あまりないと思うし、映画と言うのは、引き込まれるようで、実は客観的に見ている場合が多いような気もします。
母はそれぞれ、十人の母がいれば、皆違う母である、と言うのが、私の密かな?結論的な思いなのですが・・・

押し付けがましいところが殆どない、実は、家族の愛とか、家族はこうあるべきなどということも全く主張していない、気を楽にして見られる映画でした。
仄々、などと言う古めかしい言葉を久しぶりに使いたくなりました。
あの時代の、いくつかの意味でのあの余裕、という感じも消せないのですが、家庭や家族が自然体で描かれているとも思いました。  《清水町ハナ》

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