思い出エッセイ〔378〕食の雑記帳23「おせちと嗜好の変化、他」

 食をテーマに二つ書きます。一つは(大方の方には)ちょっとショッキングなタイトルで、美味しい話とどちらを先に書くか、若干迷ったのですが、やはり美味しいものは後に食べた方がいいという結論に達しました。でも少し時間を置いたら、お正月早々こんな話題が最初ではと思い直し、順番を替えました。

1.嗜好は変わる
食べ物の嗜好は年齢と共に変わって行くもののようですが、お正月のおせちの好みにもそれが顕著に表れるように思います。

子供時代、お正月が来るのはとても楽しみでしたが、それは、新しい年が始まるということへのワクワクするような期待、きれいな着物を着せてもらって、お化粧までして出かける初詣、多くの親戚が集まって興じる、百人一首や双六、福笑い、羽根つき、凧揚げなど、お正月特有の遊び、「お獅子さん、お獅子さん」と手を叩いて呼ぶと、やがてやって来る、獅子舞など、お正月だけの風景・・・そうしたものが楽しみで、お正月料理、お節は、普段と違って、お重が並べられ、いい食器を出し、改まった気分で「おめでとうございます」と挨拶を交わしながら居ずまいを正して食卓に向う・・・そういう雰囲気が好ましかったものの、お節の中身、メニューはあまり好きではないと言うか、関心がありませんでした。

大晦日にのし餅が来て、それを切るのは子供の私の仕事でした。結構重要なお手伝いで、緊張したものです。
下に板のようなものを置いて、新聞紙を敷き、まだ柔らかさが残っている、大きな長方形ののし餅を、まず縦に切り、それから一枚ずつの大きさに慎重に切っていきます。包丁が粘ついてきたら、脇に置いた大根に切り目を入れて、粘つきを取ります。

東京のお雑煮は鶏ガラでスープをとり、鶏肉、里芋、椎茸、三つ葉などを入れた清汁仕立てで、さっぱりしたものでした。
我が家も若い頃はそれに倣っていましたが、何がきっかけだったか、コンソメと和風ダシを合わせ、お醤油を少し入れる、ちょっと変わった味を結構長く続けています。

お正月の前、冬至には冬瓜料理を作るのも東京の習慣でしたが、こんな不味いものがあるかしらと思う程嫌いでした。
大人になってから、中華料理の影響か、冬瓜好きになり、見かけると求めて、中華風の味で煮て、とろみをつけるなど、結構頂くようになりました。
この頃あまり冬至がどうのと言わないので、昨年末は柚子湯も忘れてしまいましたが。

お雑煮と言うのも、子供にはあまり美味しいと思えるものではありません。一つの儀式として頂くという感じでした。
昔は、黒豆、きんとん、膾、ごまめ、金柑煮、クワイの煮たもの、昆布巻き、数の子、寒天に食紅を入れて作る紅い水羊羹、など全部自家製でした。
伊達巻、蒲鉾など今は欠かせないものが当時お節にあったか、ちょっと思い出せません。

クワイは必ず用意しましたが、ひと品で別に盛られたように記憶しています。八つ頭もお正月にはつきものの煮物で、或いは野菜などと一緒に煮て、クワイだけ取り出したのかも知れません。縁起物ですから。

思い出したものだけを書いたお節料理で、好きだったものは、きんとんと八つ頭位でしょうか。クワイも変わった味で、お正月しか食べないものですから、一つは頂きましたが、それと黒豆も甘くて、美味しいと思いましたが、当時は大豆、小豆、インゲン豆など、お豆は普段よく煮たので、特に珍しいものではありませんでした。

我が家も、昔はしきたり通りのお節を用意しましたが、家庭をもてば、厨房は我が城ですから、お節も自分色になっていきました。家族の好みを優先させたことは勿論です(?)。

伝統的な部分は残して、その他におかしらつきは、大海老の白ワイン煮を結構たくさん作ります。マヨネーズで頂きますが、バンバン売れます。
数の子も結構多めに用意しました。最近少し売れ残るようになって来たので、今年は量を減らしたら、ほぼ売り切れ状態です。

蒲鉾、伊達巻、他和風のメニューも勿論用意しますが、必ず売れ残っていました。
煮しめ。これが、長い間、売れ残りの代表格でした。一回か二回やめたことがありますが、煮物なし、というのが何か悪いことをしているような気がして、結局作ってきました。我が家は筑前炊きです。以前は手毬麩など飾って、きれいに見えるようにしましたが、手毬麩一つ買うために、別のお店に行き、順番待ちをしなければならないので、数年前にやめました。代わりに梅麩を求めたのに、使うのを忘れてしまって、賞味期限が切れてしまい、こんなことはなかったのに、寄る年波には克てないと、少々弱気になりました。
大海老など築地の場内に買いに行っていた頃を懐かしく思い出します。その頃のおせちのメニューには水前寺海苔のイクラ和えなどというのもありましたね。

ここ二三年異変が起き、煮物が全部売り切れるようになりました。
おせちの一番人気は、少々贅沢な、取り寄せ洋風おせちで、これはあしが早いし、とにかく美味しいので、朝、お雑煮と、おせちを形だけ出して、夜ゆっくり頂きます。その時、ちょっと和風、お醤油味が欲しいので、煮物を出して置くと、結構売れます。

煮しめに全く手をつけなかった、一世代若い家族が急に食べるようになり、自分で嗜好が変わって来たと言っています。
我ながらよく出来たなどと思っていたら、ユリネを入れ忘れたことに気づき、じゃあ、お正月明けにもう一度作ってなどとリクエストも出ました。

蒲鉾のような練り物、栗きんとんのような甘い物も全然食べなかったのに、今年は板ワサなどと言って、自分で山葵なども用意しています。居酒屋で味を覚えたのかも知れませんが。
余ったら、木の葉丼でも作ろうと思っていましたが、なくなってしまいました。

お節からはなれて、煮物と言えば、お魚の煮付けは、我が家では主だけが好きで、長い間、彼のためにだけお魚を煮てきました。
それが割りに最近のある時、お魚好きの口が奢っている知人(彼女が自分のことと思わないことを祈りつつ)と食事をした時、この鰈の煮つけ美味しいと感心したのが、お蕎麦屋さんには珍しくお魚料理のメニューが多い、時々行くお店です。私も同じく本当に美味しいと思いました。食事処で煮魚を頼んだことはないのですが。

最近外食に出ることがめっきり少なくなっているのですが、お正月明けに家族と行ってみました。金目鯛の煮物を頼んで、さすがプロは違うと感心しました。食べやすいように包丁できれいに切り分けた盛り付け、脇付けの里芋と大根、柔らかくなった昆布の味の滲み込み様。大根と生姜を、3センチ位の長さで針生姜、千切りより気持ち太めに切ってあるのが、しゃきっと角を立ててある。見た目もきれいだし、口直しにぴったり。
肝心の金目が実に丁度いい味つけ。しつっこさとか脂っこさがなく、淡白だが、しっとり味がからんでいる。

金目は主が大好物で、随分煮ました。私は、干物は好きですが、煮魚は自分が煮ているのに、苦手でした。多少生臭さや脂っこさが残っているように感じるからです。ひとにつくっておいて、このセリフ、我ながらいただけませんね。でも一生懸命煮たんですけどね。
焼き魚は脂が落ちるのに対して、煮魚は煮汁に全て残り、その汁をお魚が再び吸収するところが難しさかも知れませんが。

ふと気がつくことがありました。
嗜好は確かに年齢やきっかけなどと共に変わる。しかし家庭で主婦として長年食事をつくってくると、常に家族の好物や、その日、その日、こんなものが食べたいのではと推測をして、献立をきめる。家族優先で食事を作って来た。そうしたことが自身の嗜好にも影響して、自身でも意外に思う変化を招いたり、逆に固定化をすすめたのではないか。自分が本当は何が好きか、あまり考えが及ばず、感覚が鈍ってしまった。

仕事をしている時、お昼過ぎに終る日、外で昼食をとって、天麩羅にすることもあるのは、うちで常に揚げ番で、出来立てを食べたことがなかったからではないか。だから、外食でちょっとでも揚げ方に問題があると、プロなのに、お金を取っているのに、と、心の中で憤慨しました。

私の場合、戦中、戦後の食糧難も育ち盛りの子供時代に経験したために、嗜好にかなり影響を及ぼしたかも知れません。
今から自身の食を考えるのは遅いかも知れないけど、振り返ってみることは、時々はしてみた方がいい、結論と言うほどでもないけど、そう思ってみました。


1.「ご飯にネズミの糞」
なんて、どういうことと思われるでしょう。あり得ないことに思えるかも知れませんが、実は私のブログのアクセス・レポートに結構現れる検索用語です。
「お米、ネズミのフン」とか「ネズミのフン、形は?」とかバリエーションもあります。

子供の頃のご飯に、たまにネズミのフンが入っていたことがある、と大分以前に書いたことがあり、それに対する、マサカ(おそらく)という反響?だと推察しています。
当時の生活についても少々触れながら、問題のものの形状などについてもちょっと書きます。

私の子供時代、特に記憶がはっきりしている幼稚園卒園前以後、ちゃんとした、と言うかまともな食事ができたのは、僅か数年です。
戦争が始まっても、食事に困るという経験は、敗戦(1945)の前年に北陸に縁故疎開するまで、特に感じたことはありませんでした。
色々配給になったりして、不足は加速していたのでしょうけど、贅沢なものを食べていたわけではなく、精々白米が食べられなくなっていたこと位しか今は思い出せません。

疎開地でも、配給のお米では足りなくなっていましたが、米どころで、家から五分も歩けば田んぼが広がるような所でしたから、時々所謂闇米を買出しに行って、お腹が空くという思いをしたことはありません。
ただ、集団疎開をした幼馴染などが語るところによれば、行き先によって事情は異なるのでしょうけど、本当にお腹を空かしていた、トンボまで食べたことがあると言っていました。東京の親が大豆などを炒ったものを枕の中に入れて送ったりしても、すぐ見つかって取り上げられ、行く先は分からずじまい、などという話も聞きました。
疎開地の、そこまでの食糧難はおそらく敗戦間近、そして終戦後のことだと思います(終戦後すぐに帰れたわけではありませんから)。

敗戦の年、東京に帰ってから、長く食糧難が続きました。特にお米は配給では全く足りず、あらゆる代用食の登場となるわけです。サツマイモと南瓜が代表格と言え、お米の代わりに様々な名前の粉類が配給になり、時折配給になるお米は玄米ではないのですが、二分搗きとか三分搗きの(おそらく)、茶色っぽいお米で、それを一升瓶に入れて、子供達も一緒に交替で棒で突いて、糠を落とし、少しでも白くするのが、当時の代表的な家庭風景の一つと言えるかも知れません。

戦争の敗色が濃くなって、東京から疎開するまでの数年、結構大きい家に住み(親戚の家だったと大人になってから知ったのですが)、まあ、恵まれた生活をしていた、小学校(当時国民学校)低学年の頃です。

当時は殆どの家にネズミがいたと思います。夜になると、天井裏で走り回り、時として部屋に降りて来ることもあり、そうすると座敷箒で追い回すのです。
お芋がかじられたりとか、目だった被害も時々はありますが、現に何かかじっている姿を見ることはありませんでした。

お米の中にネズミのフンが入っている時がたまにあり、それは家のネズミのものではなく、買った時点で混入していたものです。
農家で米俵の中に既に入っていたものかも知れません。
ただお米の配給制度は既に始まっていたと思うので、配給米をどのような形で受け取っていたかは記憶していないのですが。

お米はとぐ前に異物が入っていないか、よく見るのですが、それでも見逃して、例えば小さな石などが入っていることもあります。
ガリッと思い切り噛んでしまって、歯を痛めることもありました。

今のように完全密閉容器がないし、何しろ家の外には勿論、中にも色々な虫がいましたから、お米にも結構早く虫がつきます。コクゾウムシが一般的で、これは黒いごく小さい虫で、ウァー、気持ち悪い、という感じはあまりせず、いれば、つまんで取り出しますが、ご飯の中に入っていたという記憶がないのは、おそらく素早く逃げてしまうのではないでしょうか。

お米に卵を生んで、そうすると何故かお米がゾロゾロとつながって、それは取り除くのですが、そうなる頃には、お米が虫臭くなって、味が大きく損なわれます。虫臭いご飯ほどまずいものはありません。
虫臭い、という言葉は今殆ど使われないと思いますが。

トイレは勿論今のような水洗ではなく、汲取り式で、決まった日に汲取りやさんが来るのですが、大変な仕事だと思います。子供達はオワイやさんなどと失礼な呼び方をして、大人から叱られるのですが、大きな桶に汲取って、荷車の様なものにのせて、運びます。
東京のどこにでも肥溜めと呼ばれる貯蔵池のようなものがありました。
それと分かるようになっているのですが、時折事故がありました。知り合いでも落ちてしまった人がいます。
下肥と呼ばれていて、直接農作物にかける場合も多かったので、葉物などの野菜を生で食べるということは考えられないことでした。

今のような下水設備などなく、家の周囲のドブと呼ばれる細い溝に台所の水は流されます。雑多なものが流れ込むので、沈殿ができ、隣組で決めた日にドブさらいをします。
現在の燃えるゴミに当たるもの、特に生ゴミは、これも外に置いてある、セメント(多分)の結構大きいゴミ箱に入れます。前面に上に持ち上げられる木の横蓋がついていて、ゴミが回収された後掃除し易いようになっていました。
区役所が回収に来たのでしょうけど、その場面に居合わせたことはありません。もしかして回収を業者に頼んでいたのかも知れません。

その他の今で言う資源ゴミや不燃物などは、廃品回収業者(当時はクズやさんと呼んでいました)がいつでも取りに来てくれます。戦時中は、金属など供出対象になっていたものも多く、捨てる物、処分する物というのはあまりなかったと思います。

とにかくそんな環境ですから、そして庭には木々が茂っていますから、家の外にも中にも虫がたくさんいる。蠅もいれば、蚊もいる、その前に水溜りにはボウフラが湧いている、家の中で蛆が湧くこともある、ネズミもいる、というわけです。
但し、ゴキブリだけは一度も見たことはありません。

お米をとぐ時に見逃して、炊き上がってしまった?ネズミのフ・は、お米粒を少し大きくしたような形、色はグレーですが、炊く前はもうちょっと濃い色のグレーだったのではないでしょうか。

今だったら、迷わず茶碗のご飯を全部捨ててしまうでしょうし、食欲もなくなるでしょうけど、当時はお米も不足しがち、何よりお米を大事にという躾を受けていますから、ウァー、鼠の・・と口に出したかどうか、ひと口分位のご飯と一緒に取り除いて、黙々と食事を続けました。
勿論度々あることではありません。

今の若い方には、汚くて、臭くて、想像もできないことを書いて、申し訳ありませんでした。でも当時は、色々ムシがいても、ちゃんと衛生的で清潔な暮らしをしていました。敗戦直後の混乱期はもっとひどかったと思います。何しろネズミのフ・が入り込もうにも、お米がないのですから。
新年早々、旧い、古臭い話で失礼いたしました。  《清水町ハナ》

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