思い出エッセイ〔328〕「記憶の中の杉並区3」

 子供時代のことを結構書いているのに、一番長く在校した杉並第六小学校(当時国民学校)、通称杉六のことをあまり書いていません。

何故と理由ははっきり言えないのですが、杉六はある意味で大きな境目となったことも一つ考えられます。
1941年12月8日、太平洋戦争開戦。次第に日本の敗色が濃くなって、学童疎開が始まったのが敗戦の前年1944年で、集団疎開と縁故疎開に分かれて、生徒が杉六を去ってから、日本国の運命と共に当時の杉六の在校生の運命も大きく変わった人が多いのではないかと思います。

サイパン島が同年七月陥落して、B29の日本本土空襲が容易になったこととほぼ時を同じくして、(おそらくそれまで案が考えられていた)学童疎開が実行に移されたのではないかと思います。
アッツ島玉砕は前年の5月であり、前線では後退の一途でも、内地は、防空演習などが行われていても、子供達はそれほど緊迫感を持っていず、疎開してもまた会えると簡単に考えていたのではないでしょうか。

私は杉六に戻ることはありませんでした。
疎開地の北陸で敗戦直前に空襲に遭い、子供ながらに苦労して、終戦の年昭和20年(1945)晩秋に東京へ帰り、数ヶ月西荻に住んで、荻窪の母の実家に移りました。

被災後の北陸では、農家にお世話になっていたので、お米だけは食べることができましたが、東京では大変な食糧難でした。
サツマイモが一日に数本しかない時もあって、最近、当時の米不足は昭和20年が凶作だったことが大きな原因とする記事を複数読みました。そう言えば、東京に帰る途中、長野の下諏訪に疎開していた伯母の所に寄ったりして、真っ直ぐには帰らなかったのですが、汽車の中から、稲が水没したり、倒れている光景を何箇所か見ました。時期的に晩稲(おくて)ということだと思います。

私が置いてもらっていた農家は、良と言われる収穫だったと思います。稲刈りも手伝ったのでそういう感じを持っているのですが。

荻窪の小学校、中学校で三年近くを過ごし、外地から復員した父が神戸で仕事に就いたため、関西に越して、次に東京へ帰ったのは、八年余後で、その時は私が杉六にいた頃住んでいた家は(実は伯母の家だったのですが)、人手に渡っていました。
お隣りの親戚は変わらず、母の実家に替わって、お正月など多くの親戚が集まる場を提供し続けてくれて、馬橋2丁目(現高円寺南)には頻繁に行ったのですが、杉六は近くて遠い存在となっていました。

仲のよかったT.ユキコさんは、母があちらは海軍さんよと言っていましたが、ウチは陸軍一族で、終戦後皆生活には苦労して、同期生でもかなりの時期連絡もとれなかったので、まして海軍のお宅の事情は分かりません。自分のことを考えても、元のお宅に戻っていらっしゃるとは思えませんでした。

勉強がよくできて、色が白く、可愛い人でしたが、お宅に伺ったこともあって、元気かどうかそれだけでも知りたいと思っています。
あまりある名前ではなく、潜水艦や駆逐艦の艦長名で同じ名前の方を見つけ、この方がお父様かも知れない、最近、元大佐とあるのを見て、敗戦時ご無事だったのだと、とにかく同じ名前の方がお元気と知って、ほっとしています。

近くに住んでいて、ウチにもよく遊びに来たI.ヨシエさん。子供ながらに既に美人でした。
整った顔立ちに涼しい目、濃い睫毛、オカッパで、うしろを刈り上げているスタイルがよく似合っていました。
勉強も非常によくできて、母のお気に入りでした。お隣りの伯母も、Iさんは本当にきれいねえ、といつも言っていましたし、従兄なども年月が経ってからもIさんのことは覚えていました。

当時小学校三年、四年でも、軍国少女とまで言わなくても、子供っぽさを抑えているようなところがあって、その中でもIさんは結構大人びた感じで、礼儀正しく、年上のような感じもありました。
本当のご両親ではないと、母や伯母が言っていたのが何故か分からなかったのですが、確かに後で思うと、両親と呼んでいた方はかなり年輩の方でした。

一本の道を挟んで、向こう側は、当時珍しいアパート群で、ご両親はそこの一つのアパートの管理をしている方でした。
管理室の一室にも、気軽に上げていただき、お母さんと呼んでいた方は今思うと、祖母と言っていい年輩の方で、ガラガラ声の気さくな方でした。
伯父も伯母もとうに亡くなり、家は分譲マンションになりました。
年月を経ていても、Iさんは私のことを覚えてくれていると思います。
(TさんとIさんのことは以前にも書いています。あらためて今でも元気という消息だけでも聞きたい、懐かしい人ということです。ただそれぞれご事情もあると思いますし、これでこのお二人のことを書くのは止めたいと思います。)

A.レイコさんという友達もいました。静かで優しい感じの人でした。
母や伯母の話では、阿佐ヶ谷の大地主のお嬢さんということでしたが。

杉六に面している青梅街道に通じる通りにH先生という歯科医院がありました。時々お世話になりましたが、眼鏡をかけたスラーッと背の高い方で、当時の隣組を束ねる町内会長のような役割をしておられたと思います。お嬢さんが同級生で、クリッとした目の人でした。

学校の前にSという文房具屋さんがあって、ご主人がアラブの人のような真っ黒な髭を生やしていましたが、同級生のお父さんです。

私のクラス担任は全部女性の先生で、一年は奥平先生という中年の方。二年は井川先生。眼鏡をかけた冷静な感じの方で、式などにはピシッと袴姿で決めてこられました。
三年と四年の途中まで、橋本先生。若いお母さんという感じの先生。

母がいつもお歳暮などを持って、先生のお宅に私を連れてご挨拶に行くのがイヤだったのですが、橋本先生には、お返しにキューピーのマヨネーズの瓶詰めを頂き、当時既に手に入らなかったように記憶しており、母もさすがに却ってご迷惑だったかしらと帰宅してから、気にしていました。一度書いたことですが。

私がクラスで一番先に縁故疎開することになって、母も学校に挨拶に来た時、橋本先生は私を前に出して、~さんは、副級長もした方です(これについては確実に役不足だったと思っています。できる人が何人もいたクラスですから)、お母様は寒い時暖かいお弁当を持って来られて、と今書いていても恥ずかしくなってくることを言われました。どちらかと言えば、厳しい先生でしたが。

そして、その後で、ある同級生が(名前も顔も覚えていないのですが)、私は来週(二三日中にという感じで)疎開するのよ、と私にきつい調子で言い、今でも覚えています。

私はクラスに挨拶をした時より少し日が経ってから、疎開したことは覚えているのですが、それがいつだったか、はっきり思い出せないままで、北陸に疎開した日、初雪が降ったことを覚えています。しかし、それは一回だけのことで、本格的に雪が降り出したのは、後のことです。

杉六の集団疎開がいつだったのか、1944年の夏と書かれているのを発見して、それでは私の疎開の方がずっと遅くなってしまうと、もう少し調べたら、第一次が夏で、二次は翌年初めという記事を見つけました。
更に杉六の歩み、という年表も見つけました。写真も。

私が在籍した時の校長先生は菅谷先生というお名前のようです。
上記のTユキコさんとお兄さんは転校生でしたが、朝礼の時、お兄さんに、「おう、君がT君か。なるほど秀才らしい顔をしているね」と全校生の前で言われ、お兄さんが大人っぽい微笑と共に受け流していたことを今でも覚えています。

例えば月曜の朝礼の時とか決まっていたと思うのですが、校長先生がモーニング姿に威儀を正して、奉安殿(校庭にある、天皇と皇后の写真と教育勅語を納めてある小さい建造物)に何か収めるのだったか、単に礼拝のような仕草をするのだったか忘れてしまいましたが、全校生徒もシーンとして最敬礼をする、当時独特の儀式も思い出しました。

疎開先の北陸では、薙刀や手旗信号、モールス信号などの授業も加わり、教師も厳しくて、バリバリの軍国主義教育という感じでしたが、戦後戻った東京の小学校では、ちょっとした洗脳思想教育然とした授業の日々で、穏やかで子供らしい小学校教育を受けられたのは、杉六だけで、その自然に流れるごく普通の日々が、寧ろ印象を薄くしていたのかも知れません。

netの頁を繰る中に、杉六出身の、私と年齢が近いらしい方のブログに出会いました。
実はまだごく一部しか読んでいないのですが、オゼキ医院という懐かしい名前を見つけました。我が家とお隣りの親戚で、病気の時往診をお願いしていた開業のお医者さんです。
廃院されたらしいことが書かれています。
ウチに見えていた時既に白髪のお年を召した方でしたから、当時先生のお子さんも私の両親位の年齢のはず、跡を継がれる方がいなかったのでしょう。寂しい情報でした。

荻窪の幼稚園を卒園する直前から、小学校四年生の半ば過ぎまで住んでいた馬橋2丁目(現高円寺南)界隈と在校した杉並第六小学校。
大家族のように親しく付き合っていた親戚と、友達と、小学生らしい日々を過ごした杉六小学校時代の思い出は、はっきり記憶に残っていて、旧い昭和の、佳き伝統や生活、日本の家庭の行事、習慣などを語れる、短いような長いような、戦地で死闘を繰り返す将兵の方々に守られた、貴重な数年の記憶でもあります。

本来もっと早い時期に、前置きのような形で書くべきことを、たまたま杉六についていくつかの記述を見つけたので、遅まきながらちょっと書いてみました。  《清水町ハナ》

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