思い出エッセイ〔294〕「昔の昭和:子供の夏」

 今朝、初めてエアコンをつけませんでした。何十日も続いた酷暑、必要な時以外外出を控えて、年も年だし、夏の思い出と言えることもありません。子どもの頃の夏を思い出してみました。

昭和と言っても、ずっと昔、昭和10年代の後半、16年(1941年)から19年頃のことです。東京の荻窪から馬橋(現高円寺南)に越して、19年に北陸に縁故疎開するまでの三、四年のことです。

荻窪では、母方の祖父母の家にいて、結婚前の若い叔父達も一緒に暮らしていたので、当時の幼馴染から、(Kさんのお宅は)「大人の方がたくさんいらしたという印象」と言われましたが、ほんとに今思い出してみると、子供は幼稚園に通う私と妹だけ、近くの親戚の大人達も自由に出入りしていましたから、外から見ると、子供はいないも同然の存在だったかも知れません。
私にはその頃も思い出は色々あるのですが、なんと言っても影の薄い存在で、夏の思い出とまとめるほどの、鮮明な日々の記憶はありません。

父が所謂日華事変から無事帰還して、一時一緒に荻窪にいたのですが、丁度馬橋の親戚の家が従兄一人住まいとなり、私達家族が移り住む話が出たのでしょう。
結構大きな家で、庭も今思うと、凝った作りと言うか、設計と言うか、芝生の向こう側、隣家との境辺りに季節の木々がかなりの数植えられていて、睡蓮で覆われた瓢箪型の池、周囲に躑躅(ツツジ)が植えられた築山もあって、家の中で季節の移り変わりを目にすることができました。

お隣が伯父伯母、従兄姉達が住む、更に大きな家で、両家の境は殆どないも同然でしたから、私達子供も自由に行き来していました。
伯父の家は、広い芝生の庭で、木は家の両端、裏に少々あった程度で、よく覚えている木は開け放しの木戸を通ったところにある大きな無花果(イチジク)です。
季節にはたくさん実がなるのですが、お腹に悪いと言って、子供は食べさせてもらえませんでした。

今年の酷暑で、高齢者が家の中で熱中症で亡くなるという報道が度々あり、信じられない思いがしたのですが、新聞などで、「エアコンがない」「あるのにつけなかった」などという見出しがあって、エアコンを寝ている間もつけっ放しにするのが当然のような書き方がされていて、これも意外に思いました。
エアコン嫌いの人も多くいると思いますし、家族の寝室全部に設置するのも、費用も、電気代を考えても大変なことです。

私が子どもの頃エアコンがある個人の家はなかったと言ってもいいかと思います。
伯父の家は裕福で、当時からGEの電気製品がいくつもあったのですが、エアコンはなく、第一そんなものが存在することも知られていなかったと思いますし、広い開放的な家で、一台や二台のエアコンが有効だったとは思えません。

扇風機はありました。それも寝ている時つけっ放しにしていると死ぬこともあるなどと言われていて、特に赤ちゃんなどに長く使用することはなかったと思います。
それから団扇は、うちわ立てというものがあって、家族の分プラスお客などのために何本も用意していました。
夜になると雨戸を閉めてしまいますし、居室の両側には廊下があって、北側にはお風呂場、ねえや(住み込みのお手伝いさん)の部屋、お手洗い、階段、納戸などがあって、直接風が入って来るようなところは殆どありません。

夏は南の雨戸を遅めに閉めて、夜の涼しい風を取り込むようにしていたと思いますし、縁側や庭の縁台などで、花火をしたりしながら、「涼む」という言葉がよく使われていました。

子供達は夏休みですから、夏の過ごし方は家庭によって異なるということになります。
決まっていたことは、お昼寝。一時から三時頃にかけて、枕だけ出して、畳にゴロッとなり、お腹にバスタオル位のタオルをかけます。
習慣なので、決まって一定時間寝てしまいます。
午後の暑い盛りに外で遊ぶことは控えるように言われていて、外出の時は必ず白い帽子をかぶりました。

日射病という言葉が一般的で、学校の朝礼や体育の時間に倒れる子が何人もいましたが、家でも子供が夏にぐったりしたら、すぐに寝かせて、冷たいタオルなどを額にのせ、必要なら氷枕や水枕を使い、毎日用意する麦茶を飲ませ、寝かせて様子を見ます。
かかり付けの医師を呼ぶということは我が家の場合殆どありませんでした。

今夏、亡くなられた高齢者も症状が出た時に、すぐ適切な処置がとられたら、大事に至らないで済んだのではと思います。

麦茶は大きな薬缶で毎日作り、水道水を流し放しにして冷やします。氷の冷蔵庫なので、人数分冷やすこと位はしたかも知れませんが、今の簡単な保冷剤程度の冷え方と言えるでしょうか。凍らす、冷凍保存するという機能はないわけです。
西瓜は井戸水で冷やしました。水道が普及していましたが、井戸も大抵の家にあったのではないかと思います。

おやつも寒天やゼリーなど冷やっとするものが出ましたし、偶に鉋(かんな)で氷をかき(大工用ではなく、氷掻き専用だったと思うのですが、はっきり記憶していません)、カキ氷が出ることもありましたが、配達される氷自体、衛生的と思われていなかったし、冷たいものでお腹をこわすことの方が心配されていたので、暑さを凌ぐために冷たいものを子供に、という考えは大人にはなかったように思います。

氷水と言うと、思い出すことがあります。
ウォーキングをしていた頃、夏場結構日射病にかかりやすいので、すぐに退避?できるコースにしていたのですが、ある時、玉川上水沿いを歩いていて、街中の方へ曲がる予定を、前方を見ると、木々が鬱蒼と茂って、いかにも涼しそうだし、この辺の地図は知り抜いているし、と思って、昼尚暗い方向へ歩き出しました。
今はたくさんの人が歩いたり、ジョギングをしている道ですが、正午に近い時間だった所為か、人通りはなく、誰か歩いて来ると、却って怖くなり、この道は止めたと思っている中に、途中でこの辺で、街の方へ出ないと、と思って、適当に曲がりました。
(今思うと、玉川上水については、西の方は見当がつくのですが、東の端に近い方は地図が頭に入っていなかったのです)

そうしたら、住宅街に入ってしまって、33度、4度になっていると思われる暑さの中、方向を見失い、誰か来ないか待っても、シーンと静まり返ったまま、人も車も気配もありません。熱射病もかなり進んでいるという感じで、とにかく住宅街を抜ければ、誰かに会うだろうと思って、ゆっくり歩き出しました。
やっとお店を見つけ、私鉄の一番近い駅がすぐと聞いて、漸く辿り着きました。
駅のホームは、駅員もいなくて、しかし幸い小さい屋根のあるベンチがあり、そこで何本もの電車をやり過ごして、30分以上休みました。殆ど意識朦朧状態でした。

何本目かの電車にやっと乗って、街に着いてから、近くの喫茶店で氷水を注文しました。
その少し前から熱射病になりかけた時は、氷水が効くことを発見していたのです。
てき面に効果がありました。涼しいお店に入るということもいいのでしょうが、冷たーい氷水で体温が下がるように思うのです。専門家の意見を聞いたわけではありませんが、友人で実行して、その通りという人もいます。
今は、また流行って来て、色々なメニューを用意しているお店も多いようですが、当時はカキ氷を出すお店は非常に少なかったのです。

すっかり横道に逸れてしまいましたが、再び数十年前に遡って、当時の夏の過ごし方を、思い出すままにランダムに書いてみたいと思います。

玄関廻りなどに打ち水、芝生にもホースで水を撒く。
涼しくはなりませんが、夏になると風鈴を出したり、窓や障子などを開け放して、簾をかけたり、夏の風物というものもありました。
朝顔も種から蒔いて、窓の下などに竹の棒に絡ませたり、紐を張ったりして、育てました。
観察日記が一回は宿題になりますものね。

夏らしいことと言うと、七夕の行事、お盆に茄子や胡瓜に割り箸を挿して、馬などに見立て、迎え火を焚いたこともありました。
東京は新盆で七月でしたが、今は高円寺の阿波踊りや阿佐ヶ谷の七夕など旧盆も多いようですね。

お風呂上りに浴衣を着て、夕涼みの散歩、夏祭りの露店めぐり。
それから何と言っても、花火が楽しみでした。
花火だけはマッチをつけることが許されていて、線香花火と、名前を忘れてしまいましたが、線香花火よりちょっと大きくて、華やかなもの、よく気をつけてと言われて、ネズミ花火と簡単な打ち上げ花火、この四種類でした。

線香花火と言うと、すぐ寺田寅彦の随筆を思い出します。
教科書にあったように記憶していますが、便利な世の中になったもので、今、原文を読むことができました。
思っていたより大袈裟な表現のようにもちょっと感じましたが、科学者の書いたものであり、それ程線香花火は素晴らしいものということなのでしょう。

私は、プチプチプチと赤い珠(熔融塊、寺田寅彦)がゆっくり大きくなって行って、シュシュシュっと松葉が出て、最後のポトンまでが好きです。

浴衣で思い出しましたが、その夏初めて浴衣を着る時は大抵下駄も新しいものを下ろしてもらいました。当時子供の履物として下駄はごく一般的なものでした。
登校時はシンプルなスタイルの運動靴を履いて行き、学校で白い上履きにはき替え、下駄で登校することはありません。

大体母が買って来るのですが、私も一緒に行く時は何と言っても、鼻緒が選ぶポイントです。
履く前に鼻緒を緩めて、履きやすくするのですが、どうしても新しいものは鼻緒ズレができます。

それから厄介なことは、鼻緒が切れてしまうことです。切れるまでに大体もうそろそろダメという状態になっているのですが、もう一回位はと思うと、必ず切れて、近い処なら、切れたまま、一歩ずつブラーンと下駄を持ち上げては歩くのですが、歩きがまだ少しあると、ブラーンもみっともないし、危ないのですが、そういう時、和紙などがあればコヨリを作って少しはもっても、まず裏の留めがすぐきかなくなります。

時代劇で時々出て来る、カッコいい武士が手拭など割いてすげ替えてあげる場面がありますが、武士がそういうことをするかどうか、疑問ですが、私が子どもの頃、下駄の鼻緒が切れて困っているところにおばさんが通りかかれば、必ず何か声をかけてくれたものです。

手拭やハンカチの類いを歯で割いて、手早く応急処置をしてくれました。また簡易すげ替え用というか、紙のようなものが巻いてあって、すっと穴を通せるものもあったように記憶しています。

昆虫取りと言うと、女の子も実は結構好きだったのではないかと思いますが、季節のトンボや蝶々、時としてカブト虫やクワガタ、カミキリムシなどが庭の木にやって来るし、蝉などは何種類もいました。鳴いている時、そっと近づいて捕まえることも結構成功しました。
特に虫取りに出かけることはなかったし、近くにそんな場所もなかったのですが、補虫網などは持っていました。
トンボもシオカラ、ムギワラ、ヤンマ・・・
漆黒のビロードのような羽の優雅な姿をしたのは、オハグロトンボと言いましたっけ。季節には赤トンボ。

言われているように、トンボが目を廻すのかどうか分かりませんが、止まっているところを指をクルクル廻しながら、捕まえる、これも割りに成功したものでした。
トンボの胴に糸をつけて、家の中でちょっと飛ばしてから、放してやる程度で、子供の宿題で標本作りを手伝った以外は昆虫を殺すことはできなかったので、標本集めは性に合わなかったと思います。

秋が近くなれば、庭のそこここで鈴虫やマツムシなどが鳴いているのに、篭に入ったスズムシを買って来て、胡瓜などをやって、暫く家の中で鳴声を楽しむのも風物詩の一つだったと思います。

今は姿を見なくなった蠅や蚊も結構いて、蝿叩きは必需品でしたし、遅く帰る人の夕食には蝿帳というネットの小さいテントのようなものをかぶせました。
(後から思い出したことですが、蝿帳は、上記のような折り畳み式のものと、小さい食器棚のような形で、風通しのいい金網状のもので作られていたものの二種類あったと思います)

蠅を叩く時は、ポンと弾くように叩くのがコツです。
蚊の出る季節になると、蚊帳を吊ります。
防虫剤の臭いがする、濃い緑色の蚊帳を部屋の四方に金具をかけて吊って、入る時は、手で周囲をパタパタと払って素早く中に入ります。
朝起きたら、蚊帳の四隅を合わせながら畳むのは、子供の、ちょっとした大仕事のお手伝いでした。
蚊取り線香も焚きました。

海水浴は、江ノ島か千葉の幕張辺りに行き、ひと夏に二回か三回行きましたが、遠くて出かかけるだけで一仕事でした。
海岸の近くに住んでいる親戚の家に泊りがけで行くこともありました。
昭和19年(1944)には、戦況も逼迫して来て、その秋には北陸に縁故疎開するので、旅行どころではなかったのですが、伯母達に一回位行ったらと勧められてということだったように思いますが、鴨川に行って、三泊位しました。

もしかして18年かも知れないのですが、こんなちょっとした記憶が残っています。
鴨川の駅で待っていた私に一人の女性が「お嬢ちゃま」と声をかけ、清水町のお宅でお世話になっていた~でございます、というようなことを言ったのです。
戻って来た母が~さんと言って、実家で住み込みのお手伝いをやっていた~さん、覚えていない?と私に言いました。
長く三叉神経痛を病んでいた祖父は前年の昭和18年に亡くなりましたが、その看病、若い叔父達の世話もあって、一番多い時は三人のねえやがいました。その中の一人だと言うのです。

私は三人の中で、大柄の屈託ない人をよく覚えていて、あとの二人はよく覚えていなかったのです。
祖父は前年の18年の暮れに亡くなり、その~さんは、それを機に故郷の鴨川に帰ったということですから、私達が鴨川へ行ったのは、昭和19年の夏ということで間違いないようです。

実は北陸へ疎開した翌年、夏、つまり終戦の前の月、結構遠方にある海水浴場へ当地の親戚と行きました。空襲の二週間とか三週間前のことです。
負け戦が決定的となって、毎日のように警戒警報、空襲警報が発令されていても、庶民はそれまでの生活や生活習慣をできる範囲で維持していたのではないかと思います。

昭和20年の三月十日、東京大空襲で10万人が亡くなりましたが、前日まで下町らしい雰囲気の中で、上野の桜の咲き具合がどうだとか話しておられたのではないでしょうか。

私が疎開した北陸の地は七月十九日の空襲で壊滅し、八月六日には広島に原爆投下、続いて長崎。終戦の八月十五日当日や前日に空襲された地もあると聞きます。

昔の昭和の夏の思い出は、人が人を空襲して、炎と共に消え去ったのです。  《清水町ハナ》

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