時事雑記帳44「この頃ちょっと気になること(8)」思い出エッセイ〔287〕

 NHKスペシャルの再放送で、原爆投下直後日本軍部が軍医団を中心として、綿密な調査を始めた事実を知りました。それと最近の高齢者行方不明事件、まだ何も分かっていないわけですが、親が私の両親の世代、子供が私の世代に近いことが気になりました。

1.「広島原爆投下直後の調査について-NHKスペシャルによる」
原爆投下の日、終戦の日と続く八月、戦争の特集番組が続き、全部見るということもできず、時々目をやるという見方をしています。それでも気分が戦争中モードになってしまうのが不思議です。

深夜12時のニュースが終わった後、手紙を書いていて、音を絞ったTVが意外な事実を告げていました。広島の原爆投下直後から日本軍部の軍医団(大本営の軍医部と言ったように思いますが、はっきり記憶していません)が広島に入り、他の分野の科学者と共に、綿密な調査を始め、(戦後米国主導で始められた調査と共に?)結果は181冊1万頁に及ぶ報告書として、最終的にアメリカに提出され、国立公文書館に極秘資料として秘匿されたという事実、経緯です。

NHKスペシャル、【封印された原爆報告書-被爆者の涙】の再放送です(8月10日0時15分)。メモもとっていませんし、中座もしているので、番組紹介ではありません。
原爆投下という酷い事実が何より優先されるべきなのに、この番組で、まず驚かされたことが、軍部の中枢の言わばエリート軍医団が他の調査員と共に、投下直後の広島に入ってすぐ調査を始めるという素早い判断、それに伴う機動性がほぼ完全に残され、機能していたという事実です。
当時のことを少し思い出してみました。

疎開地の北陸で空襲に遭い(昭和20年7月19日)、被災した市部よりかなり奥の農家に当分置いてもらえることになって、ほっとしていた頃です。
次の空襲のターゲットは隣県のK市ではと言われていたのが、東のT市が空襲されました。
8月2日です。その農家の正面の方向の空が一面に夕焼けのように赤くなりました。
K市ではと母が言ったのに対し、農家の若主人がT市だと言ったことを覚えています。

8月6日、広島原爆投下。新聞には新型爆弾と書かれていました(新聞は配達されていて、うちも別にとっていました)。数日後、新型爆弾は原子爆弾であると書かれましたが、どういう爆弾か分からないので、そのまま新型爆弾と私達は呼んでいました。
その調査団の派遣によっても原子爆弾であることが判明したのでしょうけど、新聞では、どれほどの被害が出て、どのような症状が出るのかということには触れていなかったので、当時はそれほど恐怖感のようなものは持ちませんでした。

当然医師団は治療をしながら、調査をまとめたのでしょうけど、そして調査を始めた当初は、まさか米国に提出しようと思ってまとめるつもりだったわけではなく、今後に備えて、また他の意図もあったのかも知れませんけど、未知の原子爆弾を落とされて、そして無惨な被害を目の当たりにしながら、(一万頁もの)報告書作成に向けて、明確な方向性を持って、医師は言わば症例報告を、他の専門家は、例えば子供達がどのような場所で、どのように死んだか、何人生き残ったか、というようなことを図解入りで報告するなど、被爆直後に短期間に淡々と調査を行ったということに驚きを禁じ得ません。

報告書をアメリカに渡した時期を聞き逃しましたが、終戦後も、医学分野については、東京大学の教授で放射線分野では第一人者と言われたT教授を中心にして、遺体の解剖まで行って、調査は続けられる。
亡くなったある少女の解剖結果が、ガラス容器の紅い試験液らしきものばかりが目立つ、プレパラートで示されて、これが叔母さんと呟く甥御さんの姿に、見る者も茫然とするのです。

米国が知りたかったのは、原子爆弾の効果、影響であり、それは後遺症治療にも役立てることをしない極秘資料として秘匿される。

どうして厖大な報告書を米国に渡したのかという問に、当時の関係者だったと思いますが、ちょっと考えて、731部隊のようなものではないですか、と答えていたのが気になりました。
731部隊は、人体実験を行った結果と引き換えに訴追の免除を得たとされています。
原爆とは全くケースが違うわけです。

単に敗戦後の調査は米国主導の下に行われ、日本側には権限がなかった、併せて戦勝国として、原爆投下直後の日本側による調査の結果も抑えた、そして自国のために利用、秘匿したと考えるのは単純に過ぎるのでしょうか。

この件を少し調べる中に、「新潟市が第三の原爆投下予定地となり、9月11日に新潟県が「原爆疎開命令」を出し、9月14日まで市はほぼ無人状態となった」(Wikipedia)という事実を初めて知りました。

私が以前聞いたことでは、第三の投下予定地は東京、皇居であり、それが終戦決定の決め手となったということでしたが(外地の軍部宛の‘リク(陸)情報’と呼ばれる情報に拠る)、いずれにしても原爆投下が無条件降伏の決定的な決め手となったということです。

人々が生き、生活している大きな都市に原爆を投下し、20万人もの命を一瞬にして奪う、それに対して一片も悔いる気持ちがないということなど、今の時代、全く信じ難いことで、そんな時代、僅かな期間でも生きていたのだという慨嘆に捉われます。


いずれにしても、原爆の惨状と後遺症について65年間語り継がれ、今年やっと米大使の式典への参加が実現した、一方であの大きな戦争の敗戦を一週間余に控えている切迫した状況下でも、新型爆弾投下直後の調査団の派遣という日本側の即座の対応と、戦後も続いた本格的な調査、その厖大な報告書が米国に渡って、内容が明らかにならないまま、65年間が過ぎたという事実のギャップの大きさ、そのことが齎す虚しさを今更感じさせられます。

(なお、「NHKスペシャル」のホームページを見たところ、調査は‘「終戦直後」から2年に渡って行われた’とあり、上記の軍医団を中心とした原爆投下直後の調査の日取りが矛盾することになります。番組では大本営軍医部(名称が間違っているかも知れませんが)の軍装の集団写真とその中のI軍医が中心となって調査が始まったと紹介されたと思いました。
いずれにしても投下直後の被災者の救出、治療他のための人員と、新型爆弾の実体を知るために調査団が入ったことは確実と思え、軍医団に関しては、敗戦後に新たな行動を興したとは考えられず、と言って、私もメモをとっていず、調べもつかなかったので、このまま出したいと思います)


2.「行方不明の高齢者」
降って湧いたように、100歳以上の高齢者が行方不明、或いは既に死亡しているというニュースが出たと思ったら、次々と各自治体から行方不明者の情報が出て、更に増える様相です。100歳以上に限ってもこれだけの人数で、年齢を少し下げたら、数が大幅に増えるのではと危惧されます。高齢者問題の最悪の姿が見え出しているように思われます。

しかも行方不明になったと思われるのが20年、30年前、つまり80代、70代、或いはそれ以前であるケースが多いことも、単に長寿高齢者の問題ではない面もあるように思われます。この問題に関心のない人は少ないと思いますが、私の両親は、生きていたら、母は100歳前ですが、父は結婚が遅かったので、100歳を過ぎています。

私は子供の世代として、特に孫、曾孫の世代の方の多少の参考になればと思い、両親が生きた時代の背景等をごく簡単に記してみたいと思います。
その前に行方不明者の子供さん達の中に、どこへ行ったか分からない、兄弟と一緒にいるはず、○十年前に出て行った、と述べるだけの人がいることに信じられない思いがする一方で、そういう事情も考えられるかもという社会状況もあったとは思うのですが。

現在100歳を越えている方は(110歳まで)、1900年代一桁の生まれのはずですが、元号で言うと、明治生まれです。大正、昭和の初期に青春、若い時代を過ごし、男性は一度は兵役に就いた方が多いと思われます。
身分制度はなくなっても、貧富の差、他、家庭環境は人によって隔たりがあった時代ですが、昭和16年(1945)に始まった太平洋戦争の敗戦によって、社会が大きく変わり、仕切り直しのスタートになったはずです。

私の父は職業軍人でしたから、一貫して軍人の道を歩んで来たのが、負け戦で大きなマイナスの再スタートになりました。父は運よくまあまあの再出発でしたが、そうはいかなかった人達の子供、つまり当時まだ幼いか、いずれにしても学生の子供達に戦後の最低生活と生活苦がもろにかかって来た場合も多いと思います。
どっちにしても、敗戦国となったのですから、子供の世代は、今と違って、子供の時から苦労している人が多いわけです。

私は早く結婚したのですが、よく覚えていることに、当時丁度格家族という考え方が広まり、定着し始めた時期ということがあります。
遊びたい盛り?の母に、これからは、子供の世話にならないし、その代わりに子供や孫の世話もしないからと宣言され、東京と関西に離れてもいたのですが、事実特に孫の顔を見たがらなかったし、私が倒れようが、入院しようが、殆ど手伝いに来てくれるということはありませんでした。

私は既に両親を見送っていますし、個人的なことを書いても仕方がないので、父が定年退職をして、東京の方に引き揚げて来た時母が既に病んでいたという事実だけ書いておきたいと思います。

太平洋戦争中、小学生(当時国民学校)だった子供達は、都市空襲を逃れるために地方に集団疎開、或いは縁故疎開をしたのですが、特に辛い思い出もない幸せな方もいたかも知れませんが、食料難、疎開先での人間関係に悩み、それが長くトラウマになっている人も多いと思います。
疎開地で空襲に遭い、厳しい日々を送ったというケースもあります。

軍国少年少女などと言いますが、当時の子供達に強いられたことはまずは忍耐です。食べる物がなくても周囲にいじめられても、親にも言わず、我慢、我慢の日々です。
私見になるかも知れませんが、当時は長子相続の時代、一歳上でも年上が親を助けて弟妹を世話し、弱音を吐かない。それに対して弟妹はかなり楽で、親と兄姉に頼り、家族の問題を特に自分の問題として意識していない。

つまり、親の世代と子供の世代、兄姉と弟妹の間には、かなり大きなギャップが生まれたまま戦後の生活が始まり、高度経済成長の時代などと言われる時代の到来で、次第に戦争のことも忘れられて行く中で、この世代間のギャップだけは埋まらないままだったように、私には思えます。勿論家族によって、個人によって異なる事情です。
具体的な例も挙げられますが、今は簡単に指摘するだけに留めたいと思います。

兵役に就いて負け戦を漸く生き残った夫と、それほど苦労をしなかった妻との間にもある種のギャップが存在する場合もあると思います。

戦後の農地改革で急に土地持ちになったり、立地のいい小さな土地が地価高騰でつつましく暮らして来た両親の家が急に魅力的な財産となったり、そうした状況で、シガラミが殆どない弟妹が率先して動いたり、老いた両親の傍にいる者が必ずしも親を大事にしたわけではない。

1980年代後半をピークとする所謂バブルの時代、地上げなどで殺伐とした世相は、やがて地下鉄サリンなどの犯罪のピークにも繋がって行く。
親がある日出て行った、などと簡単に口にできるような時代、或いは時期ではなかったと私には思われるのですが。

自治体の面談だけで解決できる問題ではないように思われます。生きていれば127歳という日本最高齢の人と面談していないというケースはどうかと思われますが、少なくとも親の行方が分からないまま放置していることについては、関係者に徹底的に問い質すべきことに思われます。

まだニュースで出た段階なので、簡単に疑義を書きましたが、個人的に若干の疑問を抱いていることもあり、この問題の行方は注視したいと思っています。  《清水町ハナ》

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