食の雑記帳23「食べもの事情(9)戦中・戦後の甘いもの・おやつ2」思い出エッセイ〔286〕

 戦中・戦後の甘いもの・おやつ事情と題して前編を書きましたが、いよいよ本当に甘いものは何もなくなる時期に入ることになって、おやつの前に食糧難ありき、ではないかとちょっと思いましたが、子供時代の思い出とは切り離せない、おやつ、甘いものが手に入らない具体的な事情、情景、時代背景を書き残すことも多少の意義があるのではないかと思い、後編に当たる一文を記すことにしました。当時の全体的な状況と言ったものの中で捉えてみたいと思います。

食糧難の時代にありながら、ちょっと工夫をした一品を思い出したので書いてみます。
「茶巾しぼり」というお菓子は今でもあるのではと思いますが、もともと小豆の餡などで作るものでしょうけど、戦後の飢えの時代、サツマイモが主食の頃、茹でてマッシュしたサツマイモに、あれば甘味や時として牛乳などを加え、布巾に適量をのせて、キュッと絞り、茶巾の形にしたものを作った記憶があります。

ただ形を変えた、ひと工夫しただけのものですが、それだけでお菓子、おやつと呼べるから不思議です。
縁故疎開地の北陸では、配給のお米では足りないので、闇米を農家に買出しに行っていて、何とか終戦の年の昭和20年(1945)の七月のある日まで、麦飯や大根やサツマイモを入れたご飯が食べられ、サツマイモなどを主食にしたことはなかったように思います。

警戒警報や空襲警報が頻繁に発令され、家の前に作った形ばかりの防空壕に入ったりしたのですが、当地の人々も私達も、本気でこの北国の街が空襲に遭うと思っていた人は殆どいなかったと思います。
当時詳しい空襲情報が報じられたわけではありませんが、京都が無事であり、日本海側の都市は一箇所も空襲を受けていなかったことは分かっていました。
父は外地でしたが、昭和20年に入って、東京から伯母と従姉が疎開して来て、任地にいる伯父が航空関係専門の軍人でしたから、母にも多少の情報が入っていたと思います。

後年、伯母が、母が銭湯でこの戦争は負けると辺りに聞こえる声で言うので、冷や汗をかいたと話したことがありますが、疎開中、父から二三回手紙が来たことがあり、母宛に何か戦局をにおわせるような事実がそれとなく書かれていたのかも知れません。
父には立場があったからか、一番身近な部下の方が何回か父が元気でいるという手紙を下さいました。

同県には歩兵連隊のあるS市があり、隣県のK市の方が北陸の中心的な都市であり、空襲されるとすればそっちが先というような考えがあったと思いますし、何と言っても太平洋側の都市のような緊張感はなかったと思います。
7月12日にT市が空襲され(日本海側初めての空襲地)、緊張はしたものの、要の港町であるということ、規模の小さい空襲であったことなど、とにかくここはまさかという気分がまだ抜けていなかったと思います。
しかし、七月十九日、空を覆うB29、127機に空襲され、街は壊滅します。空襲による壊滅率は日本で1位か2位と言われています。
(空襲については、最初のブログ他数編書いていますので、ご参照頂ければ幸いです)

この空襲後の何ヶ月かの経験は、人生で一番厳しい日々の連続でした。子供心に、敵は内にありと思うこともしばしばでした。
しかし私自身、‘人生で一番輝いていた日々’と捉えることもあります。

あの時、あの人、あの家に助けてもらっていなければ行き倒れていたかも知れないという生涯忘れない感謝の思いと、その後数年思い出す度に屈辱と憎しみの思いに、体がブルブル震え、机を思い切り叩く、一種の発作のような感情に捉われることもある、人間への強い不信感が心の奥深く同居していました。

おやつとは無縁の日々でした。
その年の秋、東京へ帰りました。
一日に数本のサツマイモしかない日々もありました。
庭があれば、全部家庭菜園にして、栽培できる野菜、南瓜も作ったと思うのですが、サツマイモを作った記憶はなく、そうすると、サツマイモの葉や蔓が炒めて食べる副菜だったのに、それは配給されたのか、お店に売っていたのか、今になって思い出せない始末です。

やはりサツマイモを栽培したのかも知れません。根菜ですから、ズルズルと大きなサツマイモが地中から現れたという記憶は薄いのですが、地を覆う葉や茎の形状や色ははっきり思い出せますから。

サツマイモはとにかく量が多くとれる品種が優先されて、甘味は殆どない、水っぽくてザクザクというものが殆どで、筋っぽいけど、焼き芋にしたら一番美味しいという金時など殆ど目にすることもなくなりました。

お米も多少は配給されましたが、‘顔が映る雑炊’などという例えが言われたほど、お湯にお米が浮いているというものしか作れず、フスマとかトウモロコシ粉と言った占領軍放出の家畜の餌の粉類が主食の檜舞台に躍り出ることになります(拙ブログ〔245〕)。

ただ昭和21年(1946)になって、荻窪の母の実家に親戚数家族が同居して、集団生活?を始めるようになってから、助け合って暮らし、食糧難の困難な日々を切り抜けて来たという実感があり、苦しかったという思いはあまりありません。

ご近所の有力者のお宅に「近づき難い家」と言わしめた、祖父の代からの軍人一族も負け戦で地に叩きつけられたものの、末は陸軍大臣などと言われた秀才の叔父も家族を養うためにどんな仕事も厭わず、また一人余裕のあった伯父は大家族を助け、子供達は頑張って、結構殆どが世間的な意味で成功し、と、まあこんなつまらない表現は気が引けるのですが、それぞれの生き方や苦労が異なり、従兄弟の代となると、詳しいことを知らないし、書こうとも思わないので、こんな大ざっぱな言い方で逃げたというところです。

テーマのおやつがどこかへ行ってしまいましたが、小学生で、まだお菓子が欲しい頃、甘いものと言うと、割に早くから闇市に売っていた飴とかお菓子があって、時々は買ってもらったのですが、人口甘味料と分かっていて、体にもよくないし、味も独特の癖があり、たくさん食べられるものではありませんでした。

お砂糖が戦中の早い時期に手に入らなくなったことについて、当時日本の統治下にあった台湾が主たる生産地であり、次いで沖縄、奄美だと思いますが、日本はかなり前から制海権を失っていたので、砂糖の輸送どころではなかった状況がありました。
鹿児島、四国各県でも生産されていたことを知ったのですが、同じく船を使うという理由だけでなく、一方的な負け戦の戦況になっていた時に、砂糖はと考えるのもバカらしいことに思えます。

甘いものだけでなく、今思い出せるもので、好物だった栗とかピーナツなども手に入らなくなっていました。茹でた栗を、小さいナイフで上を切り取り、剥いて食べたり、栗ご飯なども大好きでしたが、栗そのもの、それから皮付きを落花生、取り出したものをピーナツと呼ぶと言われている、これも食べ出したらなかなか止まらない、それが、何年とか食べられなかったのです。
私が子供の頃、東京の国分寺に栗取りに行ったものです。落花生は千葉県が産地のはず。
どうして手に入らなくなったのか。ピーナツは油にしてしまったのでしょうか。

台湾の名画【非情都市】にこんな場面がありました。
戦後、日本から独立して、蒋介石政権下になるのですが、苦しい時代が続いていた頃、人々が、「日本の統治下はよかった」「どんな時もちゃんと配給してくれたし」などと言って(正確な記憶ではありませんが)、圧政による、二、ニ八事件を示唆するのです。

因みに侯孝賢監督のお父さんの一生の悲願は、皇居の二重橋が見える場所へ行って、宮城を遥拝することだったと当時読んだ記憶があります。

私が疎開し、空襲により壊滅した北陸のF市は、城のお堀や除雪用の大きな下水道が死体で埋まったそうですが、市のトラックが来て、大きな鉤棒のようなもので、素早く遺体を回収して廻ったと何度か聞きました。

空襲の翌々日、市の外れにあった我が家に向ったのですが、市全体が巨大なオキ(火種のこと)のようになって、熱風がこもったような状態で、特に大きな蔵が焼け落ちた跡は、一歩踏み入ると、ブスブスと火が残っていて、とても近づけたものではありませんでした。

そんな状態でも、市役所は、食事券を配っており、長い行列の末に雑炊のようなものをもらって、とにもかくにも一食を得ました。
被災者はとりあえずの寄宿先の農家を割り当てられて、やっとの思いで辿り着いたところ、泥棒猫を追い出すにももう少しマシなのではという態度で叩き出されるのですが、F市が同じく壊滅に近いのではという行政能力を搾り出して、対応してくれたことには、後年感謝すると共に敗戦ニ十数日前でも日本の政府、行政が最後まで必死の対応をしていたことを認めたいと思います。
統治下の台湾でも同じ努力をしていたと言えるようです。

テーマと全く関係ないことですが、そして一度書いたことですが、海外からの引揚者、特に370万人と言われる復員将兵が、立錐の余地もない復員船で整然と帰国した際の精神的な支柱となった、昭和天皇の次のような短い詔勅が発せられたことを最近知りました。

「兵を解くにあたり、一糸乱れざる統制の下、整斉迅速なる復員を実施し、以て皇軍有終の美を齎すは、朕の深く庶幾する所なり」(『敗戦国日本の記録(上巻)』半藤一利編著、アーカイブス出版刊、 拙ブログ〔94〕)。
昭和天皇が敗戦を決する重大な役割を果たし、将兵の復員に至るまで詔勅が発せられ、実際に整然と帰国した事実にこれが当時の日本人の姿だったと、ふと懐かしささえ覚えます。

三時のおやつのプリン、ホットケーキ・・・
お行儀よくきちんと座って、ホットケーキの上にのった四角いバターを万遍なく塗り、メープル・シロップを少しずつかけて、子供用のナイフとフォークで切って頂く、その味も光景そのものも、二度と戻らない、遙か遠くへ消え去ったのです。当時の懐かしき日々の思い出と共に。

昭和23年の父の復員、神戸での就職により、関西へ越すことになり、そこで始まった生活が当然のことながら、それまでと全く異なり、特に母の意に副うものではなかったので、子供のおやつどころか、食事も育ち盛りの子供に向いたものなどという考えも失い、野菜嫌いの私が唯一好きだった、ポテト・サラダも、ジャガイモを切るのも面倒で、たまにしか作ってくれなくなりました。

お客が見えると、あっと驚く気の効いた美味しいものを作るのですが。
考えてみると、長い食糧難が続き、料理どころではなかったわけで、その前は実家にいたり、ねえやがいたり、母が家族に美味しいものを作り続けるという機会がなかったわけで、実は料理嫌いと言うか、料理を作るのが面倒という母の性格と言うか、本来の姿に気づかないでいたわけです。

と言って、我が家は一家庭としては、陋屋に住んでも、きっちりと形を整え、一種の武装が特に母により維持されていたと思います。
周囲とかけ離れた言葉遣いを崩すことを許されず、私も鈍感だったのですが、二三年も経って、私の言葉遣いが学校中で有名だという話を先生から聞かされることになります。

娘の制服は着た切り雀でも、母は学校の役員会で見せるためだけに、帯に素晴らしい刺繍を施し、いつの間に揃えたのか新しい着物を鮮やかに着こなして、出かけて行きました。
こんな風な見方を当時からしていたわけではありません。
この話題は今取り上げるべきではないのに、つい一歩踏み込んでしまいました。
おやつについては、なし崩しになり、母も食事に手間をかけない分、あれこれ言わなくなりました。

昭和20年代後半になって、漸く食糧難という状況は改善の方向に向い出し、美食家の伯父の家に行けば、私のためだけに、割烹料理のちょっとしたコースが出されました。
当時からお刺身は白身しか食べられず、伯父は、伯母がうっかり鮪を出したりすると、怒って、取り替えさせ、私は慌てふためいて、ダイジョウブです、頂きますから、などとあれこれ弁解したものです。

父は、三年近く、旧財閥系会社勤務だった、この伯父が興した貿易会社に勤めたのですが、当時から伯父は、穴子なら神戸のAとか、名店のものを取り寄せ、料亭通いもしていたので、高級な食材も料理も、ある所には早い頃からあったのだと思います。

netの複数の情報によると、バナナの台湾からの輸入が再開されたのは、昭和20年代後半(1950年代)のようで、それがすぐに手に入ったとは思えず、何故かいつのことか覚えていないのですが、とにかく私が生まれて初めてバナナを口にしたのは、高校生、もしかして大学生の時という驚くべき事実が分かります。

こんなに美味しいものだったのかと思ったことは覚えていますが、いつしかバナナから心が離れ、殆ど買わなくなりました。
バナナのジュースとかパフェにのっている薄切りのバナナは頂くのですが、長くバナナは買うことがないまま、最近ダイエットにいいと聞いて、ちょっと買ってみても、一本食べきるのがやっとで、すぐ傷むし、結局バナナはあまり好きではないということは変わりません。

子供時代、甘いものが殆ど食べられなかった反動のようなことがありました。
我が家では、子供の頃、お金のお小遣いというものをもらえず、お年玉なども品物でもらいました。
高校に入って、お金を持っていないと困ることがあるからと、少しもらったような気もしますが、当時の高校の校則は結構厳しく、映画は友達と行ってもいいのですが、喫茶店には立ち入り禁止でした。

アイスキャンデー位だいじょうぶや、と友達が買って来て、後ろめたい気分で食べたことがあり、そのことを考えると、私が月に一回か二回、お菓子の大量買いをしたのは、大学に入ってからのことだったのだろうか、そんな幼稚な行為をするだろうかと考えてみてもはっきり思い出せないのですが、まあ、そんな頃に短期間ですが、今思い返しても、妙な行動でした。

神戸の大学まで片道一時間半以上かかり、やかましい母もさすがにうるさいことをあまり言わなくなりました。月に決まった額のお小遣いをもらい、家庭教師のアルバイトなどもしていましたから、自分の自由になるお金を割りに持っていました。
友達と喫茶店に行こうが、講義をサボって映画に行こうが、母にはチェックの仕様がないわけです。

仲のいい友達と、月に一回位、休日に映画へ行って、お昼の食事をしてということもしていましたから、やはり高校生の頃かも知れません。お菓子の大量買い食いのことです。
銭湯の傍に駄菓子屋を大きくしたようなお店があり、そこでまとめ買いをして、本を読んだり、勉強をしながら、次々と食べるのです。
昔買えなかった駄菓子もひと通り買って、食べてみました。

どんなお菓子があったか、殆ど覚えていないのですが、そのお店の女性店主は、私が定期的に買いに来ることに気がついたらしく、「オネーチャン、これ新しく入荷したんやけど、おいいしいよ」などと勧めて、必ずちょっとしたおまけを付けてくれました。
キャラメルは一箱必ず買って、雪印の赤い地に白い雪の結晶が散りばめられたデザインの箱のがお気に入りでした。その妙な習慣は一年位で終わりました。
戦中、戦後長く甘いものを食べられなかったことを思い出すと、いつもこの奇妙な買い食いを一緒に思い出します。

父が美味しいものが好きで、休日には映画に連れ出し、神戸でこれが評判というものを食べさせてくれるのですが、母の料理嫌いはその後もずっと続き、父が定年後東京近辺に住むようになってから、私が休日に調理したものを持って行くのが常でした。
シチューやおでんを煮て持って行くと、温めると言って、母は必ずと言ってよく焦げつかせてしまい、本当に料理嫌いなのだと再認識するわけです。
茄子のお漬け物一つに、父は、こんな色のいい茄子、一生食べられないと思っていたと本気で喜び、もっと色々食べてもらいたかったと思ったものです。

最後に病院に入院した時は、最も好きなエビ・カニを毎日食べたいと父らしくないちょっとした我が儘を言い、一回か二回手に入らなかったことはあっても、特にエビを、それこそボイルしてソースを用意しただけのものが一番食べたいと言うので、毎日用意しました。
色々事情があって、息子が、母に批判的になっていましたが、父には、何度か新宿へ伊勢海老など買いに行って、父はそのことを殊更喜んでいました。

また脱線したので、関西時代に話を戻すと、母がおやつと言って、特に作ったりしてくれなくなって、父が時々買って来てくれるものに、例えば、ヒロタのマロン・グラッセなどがありました。海外生活が長く、特に昭和一桁の時代に軍縮会議のデリゲーションの一番末席の随員として滞在した、ジュネーブ、パリを懐かしんでいましたから、そうした思い出に繋がるものには、特に情報に敏感だったのだと思います。

当時日本でグレープフルーツを食べていた人は非常に少なかったのではと思うのですが、どこで買うのか、グラニュー糖まで手に入れて来て、これでブランデーがあればなどと言いながら、食べ方を教えてくれたのですが、私は結婚してから、長く続けたパンの朝食に結構長い間、グレープフルーツを欠かしたことはありませんでした。

ブログに書くのは三回目位ではないかと思いますが、高砂屋という神戸の喫茶店に美味しいカキ氷が出たそうだからと、映画の帰りに連れて行ってくれたのが、私にとってある種の伝説として記憶に残ったと言ってもいい一品です。

フワッとしたカキ氷に、上から抹茶がかかっていて、少し食べて行くと、甘い茹で小豆、そして何とアイスクリーム、更にギューヒ(求肥)まで出て来るのです。
アイスクリームも長い間恋い焦がれた一品でした。まだ食糧難ではなかった頃もアイスクリームを売っている所は殆どなく、食堂で注文するか、そう言えば、汽車に乗ると、紙のカップに入ったものを売りに来ましたね。家で作ることもできましたが、相当な手間がかかりました。

カキ氷と言えば、戦前からの夏の風物詩のような食べものと言うか飲み物に近いもので、苺味と言って、色だけ赤いシロップがかかっているものと決まっていたのですが、その定番を大きく破って、食べ進む中に何か出て来るというサプライズを演出し、それもチャチなものではなくて、当時一品としても、口にできるまで長い日がかかったものを、カキ氷というごく庶民的なものに埋め込むという発想と共に、戦後は終わった(いささか大袈裟ですが)と感じさせる、象徴的なスグレモノだったと言えます。

私にとって、家庭人としての父の存在が如何に大きかったか、今までも時々書いて来ましたが、大学を卒業すると同時に結婚した私は、外地から復員して、僅か8年一緒に過ごしたに過ぎないのですが、軍人としては、異例の華やかな経歴の記憶もしまい込み、嘗て君臨と言うと言い過ぎですが、対等以上の関係で渉外の交渉をしたフランス人が牛耳る会社で黙々と勤め上げ、私の多感な時代、持てる全てを教え、それも押し付けなどは全くなく、柔軟に穏やかに、まずよき父親として接してくれた父には、今でももう少し父のために何かできなかったかと悔いることも多い日々です。

後年結局長く病むことになった母を抱え、更に別事も加わって、家庭というものが父にどんな形でも安らぎを齎したことがあったかという日々に耐え、生涯を終えた父のことを思って、落涙することもあり、そうすると、父の声が聞こえて来るような気がするのです。
お前は私が何よりも先ず自立した人間だったことを知っているだろう。苦労したと言ってもそれは私にとって単なる対応すべき状況に過ぎない、人生の最後まで私は自分なりに自由な精神を持って生きて来たのだと。

私の所で最後まで過ごしてもらおうと引き取って、検査入院で異常が見つかり、三ヶ月の入院後、亡くなったのですが、一月一日には、私が作ったおせちを少し口にし、二日には禁食と言って、口から食事をするのを禁じられたのですが、紅色の寒天の羊羹を、おせち位食べさせてくれてもいいじゃないか、もう死ぬんだから、と父らしくない直接的な言葉を言ったのですが、美味しいもの好きが父の欠点と言うか弱みでもあり、しかしそのために私は美味しいものを食べたり、作ったりすることにかなりの関心を持つことになるのですが、紅い柔らかい羊羹を少し口に入れたところ、父はどっと吐血をしました。それきり食べたいと言わなくなり、三日には、手間をかけるけど、友人、知人からの年賀状に長年お世話になったお礼を書いて欲しいと言いました。
間もなく意識がなくなるのですが、一瞬微かに意識を取り戻し、訪れた人に挨拶の仕草を送り、波が引くように亡くなりました。

おやつの話が全く違う方向に行ってしまいましたが、家庭を持って、人並みに子供には手作りのおやつを作り、家族の食事をいい加減にしたことはなかったと思いますが、我が家には一つ、変わった傾向があります。
甘い味を控えるということです。家族の好みでもあると思うのですが、お砂糖は来客用の飲み物の分位しか用意がなく、多少の甘みが必要な時は、味醂とか甘みのある食材を使うとかして、砂糖を入れるということは殆どありません。

昔は甘いお汁粉などを作ったこともありますが、今は全くつくらないし、外で食することもありません。
最初から甘みのある飲料、食べものなどは別ですが。それも甘みの薄いものを選ぶ傾向です。食のウエイトは、間食ではなく、ほぼ完全に食事に置いた来し方だと思っています。

戦中、戦後の子供時代、あれ程焦がれるような思いで食べることを夢見ていたバナナとかチョコレート、ケーキなどのお菓子類、とにかく甘いものが手に入るようになって、いやと言うほど食べた時期もあるのですが、殆ど口にしなくなってしまいました。

最近になって、こんな美味しそうなケーキなどを口にしないで世を去るのも如何なものかという思いが少し湧いて来てはいるのですが、これをあそこまでわざわざ買いに行くのもなどと思ってみたり、いずれにしても、子供時代の飢えの経験は、その影響がこれと掴み難く、身に入り込み、食生活の中味まで左右してしまったように感じています。  《清水町ハナ》

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