食の雑記帳22「食べもの事情(8)戦中・戦後の甘いもの・おやつ」思い出エッセイ〔285〕

 太平洋戦争後半、それと戦後長く、子供達のおやつ、甘いものやお菓子類は、殆ど手に入らないか、代用食の日々が続きました。今回は子供達が一番欲しがる、甘いもの、おやつがどんな状況だったかを中心に思い出してみたいと思います。それが子供の心身の成長にどのような影響を与えたか、食育と言ったらいいでしょうか、根拠のある説明を得たいところです。

私が子どもの頃、幼稚園までは、おやつを「お10時、お3時」(なんにでも「お」をつけたのです)と呼んで、一日二回、小学校に入ると、三時の一回、決まって、きちんと卓袱台(ちゃぶだい)などに座って食べたものです。

手作りのものについては以前少し書いたことがありますが、ホットケーキ、プリン、スイートポテト、ドーナツ、寒天やゼリーを例えばミカンの缶詰などを入れて、型に入れて固めたもの。焼き林檎(たまに)、白玉粉を平たいお団子状にして茹で小豆をかけたもの、蒸しパン、時々は缶詰のパイナップルなども出ましたね。

正式な?おやつではないのですが、食パンの耳を適当な大きさに切って揚げて、お砂糖をまぶしたものなど好物でした(成人してからは、お砂糖ではなく、お塩の方が好みになりましたが)。
揚げ餅なども大好物でしたが、東京ではお正月以外にお餅を作る習慣がなく、黴が生えかけたお餅を水餅にして、薄く小さく切って揚げたものは、本当に大好きでした。
(当時のおやつのメニューについては、思い出したら、書き足します)
祖母が作ってくれたワッフル(当時はワップルと言っていました)。

市販の缶入りのビスケットなども常備されていて、合間に出されました。
こっそりツマミ食いをすることは絶対のご法度で、見つかればひどく叱られました。
お隣りに住んでいた親戚は裕福で、戦前からGEの冷蔵庫、洗濯機、掃除機、オーブンなどを備えていて、従姉達が当時からクッキーなどを焼いていましたし、私と年の近い従兄のおやつは、丸ごと茹でたジャガイモにバターをたっぷりつけたものなど、我が家では出たことのないメニューもあって、羨ましく思ったものです。

ダイニング・ルームがあって、十数人は座れる大きなダイニング・テーブルがあり、伯父伯母や、従兄姉達の座る場所も決まっていました。
子供の躾は厳しく、丁度おやつの時間に来たから、一緒になどということはありません。

ある時、従兄が踏み台を持ち出して、一番高い天袋にある大きなビスケットの缶を取り出そうとしている現場に行き合わせ、あっと声を挙げると、何も言っていないのに、大慌てで口留めをしたことを今でも思い出します。

ちょっと外へ出れば、何でも売っているということはなく、パン屋さんはあっても、ケーキ屋さんと言うのは、私が当時住んでいた荻窪や高円寺の商店街を思い出しても、あそこと思い当たりません。
新宿の不二家などは当時から有名でした。
ケーキと言えば、シュークリーム。エクレアも私の子どもの頃に既にあったと思います。カステラもごく普通のおやつでした。羊羹もありましたが、おやつに出るというものではなく、お客様のお茶うけ、それから戦地向けの慰問袋には、手に入る間は必ず入れたものです。当時から数ヶ月もち、羊羹と言えば虎屋でした。
子供達は和菓子を頂く機会はあまりありませんでした。

果物は林檎とミカン。夏みかんにはお砂糖を添えて、季節の苺は練乳が美味しくて、一番好きなものでした。バナナは疫痢になると言って、食べさせてもらえない中に、手に入らなくなり、私は生まれてから十数年経って、初めてバナナを食べたことになります。

庭木として、柿、イチジク、時として柘榴などもありましたが、ウチの柿をとって食べたという記憶はありません。梅は梅干に使いました。
林檎は、甘く煮たものもおやつに出ることがありましたが、昔のリンゴはそれほど美味しいものではなく、お腹をこわしたりすると、必ず食べさせられる摺り下ろしたリンゴなどは苦手でした。
梨、桃、葡萄などが季節に、西瓜はひと夏に何回か、井戸で冷やして頂きました。
オレンジは、上等の果物で、八等分の三日月形に切って、所謂かぶりつきで食べて、甘くて美味しいし、おやつに出ると、楽しみな果物でした。

食事のマナー、当時で言う行儀は厳しく、飲み物は必ずグラスに移して、果物はきちんと切ってお皿にのせて、小さいフォークで食べました。
缶や壜から直接飲むということは絶対になく、畳屋さんが来ると、大きな薬缶から水をラッパ飲みして口に含み、畳にパーッと霧を吹きかけるのを、何となく羨ましい思いで眺めていたものです。
サイダーはよく飲みましたが、ラムネは子供の頃飲んだ記憶がありません。一度飲んでみたいと思っていた憧れの飲み物でしたが。

ラッパ飲み、果物の丸かじりなどに一度やってみたいという好奇心があったように思います。
駄菓子屋へ行くことは、我が家では禁止されていて、自由に買い食いをしている友達が羨ましくて、時々ニッキなどをもらうと、すぐに母に感づかれ、二度としないと本気で思うほど叱られました。

高校だったか、大学だったか、自分で自由に買物ができるようになってから、駄菓子屋へ行き、殆どの品を買って食べてみたので、味は分かりましたが、子供の適切な食生活を考えると、駄菓子屋出入り禁止は正しいことだったかも知れません。
と言って、駄菓子屋に行ったことがないと言うのも、子供としての思い出に欠落があるような感じもします。

おやつの範疇に入らないものに、チョコレート、ドロップを中心にした飴類、キャラメル、グリコなどがありましたが、これは適宜買ってもらえて、食べていたように思います。
或いは、戦後手に入るようになってからのことを多少混同しているかも知れませんが。
金平糖とか有平糖などと言うのもありましたね。
お煎餅もあったのですが、あまり食べた記憶はなく、関西の伯父が、東京に出張の時、お土産の、神戸の瓦煎餅が印象に残っています。

チョコレートは板チョコが主で(洋酒の入ったボンボンは当時からありましたが、子供は勿論食べさせてもらえませんでした)、それもそう簡単に食べられなかったように記憶しています。
一度書いたことですが、ヨーロッパに出張した叔父が私達に靴を送ってくれて、それが見ただけで小さいもので、母が取り出しもせず、しまい込んで、ずっと後になって、中にチョコレートがギッシリ詰まっていたことが分かり、既に黴が生えていて、本当に泣きたい思いをしました。

チョコレートは、子供には本当に美味しいと思う憧れのお菓子で、「食べたい、食べたい、チョコレート、チョコレート、食べたいな」というシンプルな歌があったほどです。

ショートケーキ様のケーキもありましたが、苺はのっていませんでした。苺が季節にしか手に入らなかったからだと思います。

昭和19年(1944)、小学校(当時国民学校)の学童疎開が実施される頃には、食料事情が悪くなり出していて、お米は白米ではなくなり、七分搗きとか五分搗き、或いは麦飯も登場していたかも知れませんが、食糧難という差し迫った実感は子供にはあまりありませんでした。

ただ子供のおやつもさることながら、年上の中学生、旧制高等学校生など食べ盛りの世代は明らかにもっと早い内から、食べたいもの、と言うより食べたい量が充分に食べられなかったのではと思います。
従兄が一緒に住んでいて、実はその家は従兄の母、伯母のものだったのですが、長い間従兄が寄宿していると思い込んでいたほど、母が我が物顔に振舞っていたので、住み込みのお手伝い、当時で言うねえやまで伯母が雇っていたなどとは全く知りませんでした。

後年、おやつ世代を卒業した、この従兄こそいつもお腹を空かせていたと気がついたのですが。
おやつを入れる小さな開き戸の食器棚様の物入れが壁に埋め込まれていたのですが、その扉を開けては、空しく閉める従兄の姿をよく目撃しました。
母が父に、従兄がその棚をよく開けて見ているのがいやだと言うようなことを言いつけていて、父が逆に腹が減るんだ、何か用意してやりなさいと言っていたことを覚えています。

所謂日華事変から帰国した父が、陸軍省勤めとなって、同年昭和16年(1941)12月8日の太平洋戦争勃発後、仏印(フランス領インドシナ)に赴任したのが翌昭和17年の比較的遅い頃だと思いましたが、満二年と経たず、再び外地に赴いたのです。

その僅かな期間が父の思い出が刻みつけられた大事な日々だったわけです。
従兄は大秀才で、いつも勉強していましたが、後年叔父様によく映画に連れて行っていただいたと父のことを懐かしそうに回想しました。

お隣の従姉も、最近、軍人らしくない普通の言葉、態度で接して下さった、優しい素敵な叔父様、叔父様達の中で一番でした、と回想してくれて、ふっと涙が湧くのを覚えたのですが、父が、敗残の兵として、リュック一つで、再び祖国の地を踏むまで、その後六年余を要したのです。

しかし父が家にいた僅か二年足らずが、優しい父の思い出を育むのに充分な日々であり、人生は時の長さで決まるのではなく、思い出の中味、濃密さできまるものと、今では確信しています。

話が逸れてしまいましたが、私のお弁当は工夫して作っても、従兄のお弁当はよくて海苔弁、殆ど日の丸弁当と言われていた梅干一つで、子供心におかしいと思ったものです。
ただ、今考えると、食べ盛りの若い人には、種類の多いお菜より、ジャガイモでもサツマイモでもいいから量が欲しかったのだと思うのですが。

しかし従兄の友人が来ると、母は驚く程のご馳走を作って、もてなしました。
文字通り次々にお料理を作って、私が運ぶのです。
元々家政科を出て、家事、裁縫、料理などをきちんと習っているわけですから、やればできるし、特に裁縫は得意でしたが、見栄が強いと言うか、お客料理には腕を発揮しても、家族にご馳走を作ってくれることは誕生日位で、普段はありふれたと言うか、定番のと言うか、ちょっとひと工夫したものなどは出なかったように思います。
食は質素を旨とする考え方が基本にあったためかも知れません。

日の丸弁当がどうのどころではない大事件が起きます。従兄が大きな病気になったのです。
長い入院を経て帰宅した従兄に、母は預かっている従兄を、申し訳ないことをしたと、人が変わったように特に食事のケアが大事だったので、食事は従兄が一番となり、朝は白米のお粥に卵など、せっせと作るようになりました。

親戚は非常に親しくしていたので、皆集まって、従兄の回復に役立つことを真剣に考え、これ以上はない手助けをしたと、今思っても、そう結論できます。
プライバシーの問題があるので、詳しくは書けませんが、そう簡単には帰宅できなかった伯母も特別の休暇をもらい、看病し、高等学校の同級生の東京帝国大学医学部の教授に往診を頼む伯父があり(罹りつけの開業医は、暫く養生すれば治ると言ったのですが、教授は直ちに入院と言い、当時東京で一番という専門病院に入院することになりました)、入院の時は、入院車が来て、親戚が集まる中を、担架に乗せられた従兄が、血の気のない真っ白な顔で、門から数段ある階段を運ばれて来た時、私は子供ながらに、従兄は再び帰ることができるのだろうかと心が蒼ざめる思いで見送りました。

白米が当時既に手に入らなかったことは、無事退院した従兄に、母が毎朝作る、トローリとした白米のお粥が、羨ましくて、従兄の口元を妹と穴のあくほど見つめていたことでも分かります。
「特の思し召し(おぼしめし)よ」と言って、私達にお匙一杯ずつくれて、それの美味しかったこと、つまり子供には病気の時はお粥と決まっているのに、それが非常に美味しいと思う、白米の魔力であり、その時には既に白米は姿を消していたということになります。
おそらく伯母が調達したものだと思います。

どの位、お粥が作られたか、従兄がすっかり元気になったように見えた頃、母が、もうお粥はいいんじゃないかしらと言い、無口な従兄がはっきり、「いえ、まだお粥の方がいいと思います」と言ったのを覚えています。

母は咽喉元過ぎれば、すぐ熱さを忘れる人で、ねえやが結婚することになり、実家に帰った後、自分で食事を作らなければならなくなって、目だって食卓が質素になって、食べ物が手に入らなくなったのかと思ったのですが、ある時期、頻繁に鰻の蒲焼の出前をとったことがありました。私も今日も鰻と思ったのですが、まだ食事には気を付けた方がいい従兄が、隣りの伯母に直訴をして、伯母から申し入れられたことがあります。

おそらく、また病気になったら、どうするのと言うようなことだったと思いますが、従兄も目覚めたのか、伯母達が気づいたのか、私が自分の家と思い込む理由の一つでもあった、従兄の、玄関の横の書斎一室の住まいが、眺めのいい、特に大事なお客が通された、二階の二部屋が彼の居室となりました。これはもう少し早い時でしたが。

鰻の蒲焼事件は、北陸に縁故疎開をする少し前という記憶があり、昭和19年(1944)のことで、当時とりあえず鰻の蒲焼の出前があったという事実に繋がります。
その頃までは、ないものはなく、不自由なものは不自由でも、手に入るものは手に入った、妙な表現ですが、食べもの不足にも偏りがあったということになるかと思います。

昭和19年の晩秋、北陸に疎開してからは、それまでと様子が違って来ます。
お米については、配給米では足りず、一応禁止されていた所謂闇米を、農家に買出しに行ったので、それほど困らなかったのです。
米どころであり、疎開した所は市部でも、広大な田園地帯がすぐ近くから広がっていて、馴染みとなった農家に定期的に買出しに行っていたからです。

しかしおやつ事情は大きく変わりました。東京で作っていたプリンとかドーナツとか手作りのおやつは、多分母は一度も作らなかったと思います。
ドーナツなどを揚げる油が殆ど手に入らなかったと思いますし、東京では配達してもらっていた牛乳も家に置いてあるのを見たことはありません。
ガスがなく、竈(カマド)や炭火、練炭だったことも調理法に制限が加えられたことになります。

その代わりにお正月だけでなく、旧正月や他の機会にお餅を搗く習慣があり、その際、ナマコ餅と呼ばれる半円の山型のお餅を作って、薄切りにして乾燥させ、保存食として、それを焼いておやつにするのです。
ヨモギやお豆(大豆だけでなく、黒豆なども)などを入れた変わり餅があり、なかなか美味しいものです。揚げれば、もっと美味しかったと思いますが、とにかく油は一番重要な軍需物資ですから、当時揚げたものは見たことがなく、揚げる習慣があったかどうかも分かりません。
因みにお正月のお雑煮は丸餅です。

疎開した年は、当地は数十年ぶりの大雪で、屋根から下ろした雪が二階を越える高さとなり、昼間も電気をつけ、外出がままならない冬でしたから、母が作った食事で特にこれと思い出せるものはありません。

当地は父方の父祖の地であり、世話になった親戚は江戸時代、豪商と呼ばれた旧家で(早い時期に江戸に分かれた家は増上寺の高僧となったと言われています。父は小石川の東京の戸籍を大事にしていました)、明治維新で家屋敷の大半を失ったものの、先祖は武家と言われ、蔵には鎧、刀などの武具を始め、骨董の類いが多くありました。
最近、当地に同じく古くから住む方が、資産家でしたねと言われましたが、空襲と地震で土地以外の全てを失っています。

戦中でも例えば誕生日など、蔵から一人前の御膳を出して、古い塗物の食器にお赤飯と御頭つきなど、恐らく昔から決まっている献立のお料理が出て、私達もかしこまって御膳を前にしたものです。
お魚を魚屋で煮たり焼いたり調理して配達してもらう習慣があり、今も浜焼き鯖などを売っているのは、その習慣の延長ではないかと思います。
私は長年サバなどにアレルギー症があって、蕁麻疹が出ていたのが、年をとって体質も変わったのか、特にこの浜焼きは頂けるようになり、家族が好きだったので、これを扱っている遠方のデパートまで買いに行ったものです。

戦中の暮らしに戻ると、闇商品を売りに来る人がいて、ウチにも定期的にやって来て、ブッカキ飴と呼ばれる、飴の大きな塊を売りに来ました。
薄い焦げ茶色の、両手で持っても重いもので、黒砂糖が使われていたと思うのですが、今でも思い出せる味は、他の甘味も入っていて、隣県が水飴で有名なので、その系統もあったのではと思っています。

文字通り、金槌と鑿でブッカキ、かけらにして頂き、一度買うとかなりもちました。
その時一緒にお魚の加工品を買うのですが、これがはっきり思い出せず、と言うか、子供向きの味ではなく、今思うと、サバの加工品、ヘシコ漬けと呼ばれるものではなかったかと思います。

疎開時代のおやつと言うと、かき餅とこのブッカキ飴で、お三時のおやつと言う習慣は消滅しました。

私が縁故疎開地で、毎日の食事は何とか調達できていたのに、集団疎開をした幼馴染は、米どころに疎開したにも拘わらず、食事情はひどく、道端の草を食べたり、トンボを捕まえて、胴体の中味を食べたこともあると聞きました。自宅から送って来た枕の中に炒った大豆が入っていて、教師にひどく怒られた上に取り上げられたままというような事件も度々起きたと聞きました。

北陸は、まさかここまで空襲など、というノンビリとした雰囲気でしたが、砂糖も全く手に入らなくなり、神社のお祭などのアイスキャンデーも色つきのただの氷でした。
ブッカキ飴売りもいつの間にか来なくなりました。

一回で終わらせるつもりが、横道に逸れたりして、また「この項続く」ということになりましたが、甘いもの、おやつを中心にした、終戦直前から戦後の食生活について、次回で終わらせたいと思います。  《清水町ハナ》

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