雑記「戦後の住居:我が家史1」思い出エッセイ〔271〕

 人生も終盤に入ると、比較的大きいテーマで来し方を眺めて、概要をまとめることをしてみたいと思うようになるようです。「食」は何とか書けても、「住」はさすがに大きい、しかも漠然としたテーマなので、‘住居’として、‘我が家史’としてみました。

今迄“戦中・戦後の~”という表現を多く使って来ましたが、二三日前、アクセス・レポートで検索元の頁を見ていたら、“戦中、戦後とあるが、一体いつのことか”という趣旨の文をいくつか見ました。

私の戦中・戦後、その戦争とは、昭和16年(1941年)12月8日に開戦、昭和20年(1945年)8月15日に終戦となった、所謂“太平洋戦争”です。上記の指摘は私のブログに向けられたものではないのですが、今後少なくとも年号を明記したいと思います。

終戦の前年秋、北陸に縁故疎開していた私は、翌年、敗戦の三ヶ月後位だったと思いますが、東京に帰って来ました。
短期間の間借り生活を経て、荻窪の母方の実家に移り住みました。既に何組かの親戚が住んでいて、私達には応接間があてがわれました。
空襲に遭った場所は、まだ焼け野原が広がっていて、食糧難と共に、大変な住宅難でもあり、特に被災した者は、新しい家を建てることなど思いも寄らず、バラックを建てたり、間借り生活をしていた時代です。

普通に大きい家と言うところです。最初の方のブログに間取りを一度書きましたが、もう一度ざっと書いてみます。
石柱が建った門は結構立派で、見こしの松もちょうどいい位置にあり、横に通用門があって、普段の出入りはその小さい扉か勝手口を使います。
大きい門が開けられることもあったのでしょうけど、私が記憶しているのは、祖父の葬儀の時です。

陸軍の将官で、病気退役した祖父は、昭和18年暮れに亡くなり、戦局がまだ逼迫していず、敗戦前の総理大臣の弟大将が葬儀委員長を勤められ、天皇の勅使も見えて、盛大な葬儀でした。

翌年昭和19年中過ぎには、敗色が濃くなって、学童疎開も始まるのですが、その頃まで、この家は、一族の中心、拠りどころのようなものでした。
戦後も暫く、我が家のように疎開地で空襲に遭ったり、官舎を出なければならなくなった親族がこの家に集まり、一家族一部屋という感じで、何とか住む所を得たということです。

通用門を入ると、目の前に中玄関があり、昔の女中部屋に繋がっているのが、この家のちょっと変わった所です。
昔の普通に大きい家には、女中部屋と言うと、あまりいい表現ではないのですが、住み込みのお手伝いさんの部屋が付いているのが普通のことでした。
三畳に押入れというのが一般的で、大体北向きの寒い、薄暗い部屋で、その部屋に外への出入り口、中玄関が付いているのはあまりなかったと思います。

戦後住み込みのお手伝いさんなど縁がなくなってから、子供達は主にこの中玄関から出入りしました。
私達母子にあてがわれた応接間は正玄関の左側にあったので、特別扱いで玄関から出入りしました。
家屋の左端とか右端に洋風の応接間が付いているという造りは当時結構多かったように思います。
応接間はかなり広くて、応接セットや作り付けの書棚などがあり、と言って、普段はお客はお座敷に通され、応接間は、お客がたくさんある時、開放されるという感じだったと思います。

家に向かって一番右側に勝手口があり、そこを入ると台所口があります。
台所の前に井戸があり、洗濯などができるように簡単な屋根の付いた井戸場、洗濯場と呼ぶような場所がありました。

台所は、その後に広まったDK程の広さがあって、ガスもありましたが、何家族も住んでいた頃、火を使う順番はどう決めていたのか、食糧難の時代で、皆で一緒にパンを焼いたり、お米を一升瓶で突いたりしていましたから、自然に分け合っていたのかと思います。

手洗いが家の両端にあり、玄関に近い方はタイル張りで広く、西端のお風呂場の前のトイレはごく普通の作りでした。
当時‘ごふじょ’と呼んでいて、それが御不浄であると知ったのは、大分後になってからです。

中廊下を挟んで、南側にお座敷と次の間があり、北側にお風呂場、台所、お茶の間、中玄関の間、玄関、別建ての応接間があり、二階に上がる階段を挟んで廊下が南側に廻っている左手に離れがあって、そこのベッドに祖父が寝ていました。
祖母の部屋となる筈が、戦中に留守番をしてもらった人が、家族五人と住み着いてしまって、出てくれず、結局祖母は自分の部屋を持てませんでした。

二階は、二部屋で、一部屋は伯父が、もう一部屋は四人家族が住み、六畳だったと思いますが、応接間だけは空けておくということにしていたのが、私達が後から入って、不公平と思っていたかも知れません。

庭は終戦後の荒れた印象が強いのですが、池やそれなりの季節の木々もあり、植木屋も入っていたのに、庭としては失格だったと思います。正面だけでなく、横にもかなりの空き地があったのに、放ったらかしでした。

特に何の変哲もない、中流家庭の典型のような家ですが、祖父は持病のため退官して、房総半島の南の別荘地に大きな家を建て、私の母などまだ女学校の頃に大家族を引き連れて移り住み、悠々自適の生活を送っていたそうです。
その辺りに住んでいたことのある、後に親戚になった人は、親から白馬に乗って周辺を闊歩する祖父の姿の話を聞かされて、その孫の一人と結婚する気になったと聞きました。

関東大震災で家が倒壊し、一度建て直したものの、元々祖母が東京の赤坂育ちで、やはり東京に住みたいと言い、裕福な伯父の一人が、この荻窪の家をプレゼントしたそうです。
私の母は、渋谷の猿楽小学校の出身ですが、女学校は千葉で、東京へ戻って家政の専門学校を出ています。

この家の辺りは、大震災後に家を新たに建てた人が多く、何故か将官の軍人が多いとか、私が小学校で一緒だった人も親が軍人の家庭の人が何人かいました。

大きな家と言うと、今迄何度か登場していますが、前のお宅が大邸宅で、何人もの使用人の他にコックさんも雇っているような超のつく裕福なお宅でした。
プライバシーもあるので、あまり詳しいことは控えたいと思いますが、そのお宅の息子さんや娘さんは私が幼稚園、小学校の年頃に、順に結婚されたような年頃の方でしたから、もう高齢になられていると思いますが、どちらかと言えばガッシリとした感じのご両親に似ていない感じでした。

長男は、長身で、眼鏡をキラリと光らせ、私達が挨拶をすると軽く返すようなタイプでしたが、やはり眼鏡をかけた上の娘さんは本当に愛想よくニッコリと挨拶を返し、その妹さんと弟さんは、似たタイプの素敵な人でした。
二人とも微笑んで丁寧に挨拶を返してくれて、細身の弟さんと同じく華奢な妹さんは長い髪を後ろで束ねていて、色白の顔に黒子があるのが魅力的で、割りに腕を振って歩く癖があったように記憶しています。
自然に邸宅に歩いて入って行く姿が決まっているのです。こうして書いている中に、あまりよく思い出せなかった弟さんの顔がはっきり思い出されるから、記憶とは不思議なものですね。
台湾出身のコックさんまで、ああ、どうもという感じで挨拶を返してくれたと思います。
こっちは子供ですし。
あの爽やかに挨拶を返してくれた人達がもうかなりの高齢と考えると、寂しい思いがします。

一つだけ、近くに住んでいた幼馴染が最近言ったこと、あのお宅のスゴイところは石垣の塀よ、ということです。
そうそう、と私。石垣と言って、ゴツゴツしたいかつい感じではなく、滑らかに揃っていたと思うのですが、特徴的なことは、上部に青々とした芝生が植えられていたこと。広い邸宅を囲んでいたのですから、手入れも大変なわけです。
芝生の広い庭が外からは見えないようになっていて、石垣の芝生の上部に更に視界を遮るものがあった筈ですが、それがどういう風になっていたか思い出せません。

大きいお宅なら奥の方に何軒もあったけどね、彼女は言いました。格が違うというような言葉を続けたと思います。
確かに近くにも、当時農家だったお宅が今は延々と塀が続く、中が窺い知れない広い家になっています。

私達が関西に越して数年後、事業がうまく行かなくなったとも聞いたのですが、このお宅は邸を手放し、何区画かに分譲したとか、私が結婚して、再び東京に戻った時、当時の、ある半官・半民の会社の重役に売ったと聞いた、祖父母の家は、見こしの松もそのままに残っていましたが、前のお邸はどこがどうなったのか分からない状態になっていました。

それから更に十数年後、このアパートか、駐車場かどっちかが、或いは両方が「家」があった跡らしいという有様になっていて、それから近くに行ったことはありません。

何区画かに分譲という話で思い出したことが、ここ数年のことですが、小学校時代一緒だった人が電話をかけて来て、ご主人が早く亡くなられて、鎌倉の広大なお屋敷の半分を手放したとか、残った敷地に子供から孫の家まで建てて、後は14区画に分けて分譲したという話をして、主人は早く亡くなったけど、人生の幸せ、得るべきものを全て与えてもらったという話をして、私は溜め息も出ませんでした。

遊びに来てね、そう言って、彼女は言いました。何日か前だったら、源氏蛍を放したんだけど・・・
美人で優秀な人でしたが、本来最初から母校となったかも知れない近くの小学校で、私は六年生の一年間しか在籍せず、彼女とはかなり仲がよかったのですが、中学で有名私立に進学した彼女は、私の記憶は朧らしく、そういう場合、別に自尊心などではなく、特にきっかけがなければ付き合いを再開しないことにしています。
その時の彼女の電話は選挙がらみでしたし。

完膚なきまでに戦いに敗れても、その後に勝ち組と負け組みが生じたということです。
軍人一族だった我が親族は、これ以上の負け組みはないでしょう。
戦うことは軍人の使命であり、負けると分かっている戦も戦い抜くしかないのですが。

前のお邸は一見最強の勝ち組に見えました。
ウチのお隣は、旧財閥系の会社に勤めていた方でしたが、私が幼稚園の頃に全焼の火事を出し、その後家を建てられたものの、ご主人が、乗っていた船が爆撃されて、亡くなられ、戦後すぐに家を手放されました。

横の道を隔てて、大きなお宅がありましたが、そこは三代続く警察官僚のお宅とか、お付き合いはなかったのですが、若い三代目の方が奥様と小さい子供さんの三人で時々散歩をしていて、ご挨拶をすると、丁寧に挨拶を返してくださいました。
色が白くて、品がよくて、警察畑とは見えない方でしたが、そのお宅が2万円で売りに出されていると聞きました。
旧官僚も一旦は負け組みとなった場合が多いのかも知れません。
息を吹き返して、政治家などに転身した人も多いことは周知の事実です。

このテーマでは、当時のお金、生活費なども取り上げて行こうと思っているのですが、戦後間もなく500円封鎖という制度が始まりました。
預金が封鎖されて、一家族、人数にも拠ったか、詳しくは書きませんが、とにかくひと月500円で暮らせという時代の、家を売った2万円、という軽い対比で指摘するに留めたいと思います。
生活費500円という中で、2万円払う人はどういう手続きでそういう額を用立てたのか、関心のあるところですが、とりあえず売る人と買う人の落差という辺りにポイントを置くのみにします。

お邸のお隣はこじんまりとしたお宅でしたが、そこのお嬢さんとは特に幼稚園時代よく遊びました。
お父さんはパイロットだったとか、海軍さんとウチでは皆言っていたのですが、陸軍と割りに最近、そのお嬢さんと年賀状など交換して分かりました。
「凄く頭がよかったんですよ」でも戦死された、とは、小学校の同窓会で会った、実家と南側の生垣で隣り合っていた先輩の言葉です。

その先輩のお宅こそ、最強の勝ち組と言えるかも知れません。
これもあまり詳しいことは書きませんが、ウチの近くにあった倶楽部制の、ある施設も、その周囲の広い土地も、全部そのお宅の所有地だったからです。

生垣で隣り合っていても、玄関の方角が違うので、特にその先輩については、私とよく遊んでいた妹さんにお兄さんがいるということしか知りませんでした。
誘われて同窓会に出てみたものの、私の‘家’も前の邸宅も、近くに住んでいるけど、知らないと何人もの人が言い、同級生か一年か二年上の人達で、当時から近くに住んでいるのなら、知らない方がおかしいと思うのですが、火事も知らない、そんなお邸も知らないと、特に一人が妙に強硬に言うので、会の開催についてちょっとしたゴタゴタがあったと聞いていて、私もウンザリし出して、知らないなら、何で隣りで知らない、知らないと言うのだろう、小学生にテンプラもないだろうにと内心思って、Qさんのお宅と生垣で隣り合っていたんですけどと独り言のように言うと、Q?さっきから隣りにいますよ、と。

ああ、○○さん、とQさんは大きな声で祖父の姓を言いました。
それから堰を切ったように、Qさんは話し始めるのですが、突端に、「陸軍の軍人ばかり、将官でさあ、近寄り難い家だったんだよ」と本当にそういう感じを与えていたのだと納得したような調子で言いました。

凄い秀才のおじさんがいたでしょう、でも面白いおじさんもいましたよね、Qさんは、そんな風に言いました。
パイロットのお嬢さんも、祖父の家は、「大人の方がたくさんいらっしゃるという感じだった」と年賀状に書き、続いて、「素敵な軍人さんがいらした」と書いてありました。
Qさんの言う、一番若い‘凄い秀才の叔父’のことだろうけど、もしかして、所謂‘シナ事変’から帰還して、短い間その家にいたことがある、父も名乗りを挙げたかも知れないと冗談半分にブログに書いたことがあります。

あまり話したことのない、私より十歳以上年上の従姉が、鮮明に昔のことを覚えているので、時々電話で話すようになりました。このことをちょっと話したら、それはあなたのお父様です、ときっぱり言いました。
でも叔父様の方がほんとに秀麗っていう感じでしたよね、と私。
いえ、あなたのお父様、叔父様です、再び従姉は断言調で言いました。お宅の叔父様はお背も高かったし、そうつけ加えました。

この従姉の家の隣りに、私達一家が住んでいた時期があって、従姉には私の父の方が馴染みがあったのかも知れません。
あなたのお父様は、いつも私達に普通の調子で、優しく話して下さった、以前この従姉はそう話したことがあります。他の叔父様は軍人っていう感じだったけど、叔父様は違いましたよ。

私も父について、そういう印象をはっきり持っていたので、従姉にそう言われて、嬉しく感じました。
誰にも淡々と普通の調子で話す、それは父の特徴でした。
ほんとに素敵な叔父様でしたね・・・父にあらためて聞かせたいと思いました。

昭和23年のある日、伯母がけたたましい声で、「大変、大変、○○さんが帰っていらっしゃったわよ」と家中に響く声で叫びました。
○○は私の姓です。伯母は、母達の一番上の義姉にあたり、義理の兄弟を姓で呼ぶのが癖でした。

続けて伯母は、「まあ、こんな所から、お玄関にお廻りになってくださいな」と大きな声で言って、玄関を開けに行きました。
私が中玄関に走って行くと、狭い上がり框(がまち、かまち)に父が座っていて、土間に大きなリュックが置いてありました。
当時の仏印、フランス領インドシナから父が無事復員した瞬間です。

父が私の顔をちょっと不思議そうな表情でじっと見つめたのをその後もずっと忘れませんでした。
私はまるでパニックのような状態で、「お父様が帰っていらっしゃった」と繰り返して、小躍りするように跳ね回っていたと、後で誰かから聞きました。

伯母は「○○ちゃん、何してるの。早くお母様を呼んでいらっしゃい」と言ったり、二階に知らせに行ったり、お座敷を整えたり、興奮して走りまわっていました。
私は家を飛び出し、母がどこへ出かけたのか分からないのですが、とりあえずここは通って来るという道に走り出ました。

向こうの方に母が誰かと話しながら、のんびり歩いて来るのが見えました。
私が血相変えて走って来るのに母が気がつきました。
「大変、大変、お父様が帰っていらっしゃった・・・」
母はお連れの人に挨拶をして、小走りに走って家に駆け込みました。

その頃には父はお座敷に案内されて、お茶など出されていました。
母は正座して、頭を下げて、「お帰り遊ばせ」と挨拶をし、父はウムと言うように軽く返事をしました。

その傍で、伯母は、「まあ、そんな、何をしてるの。帰っていらしたのに」と呆れたような声を出しました。
と言って、抱き合うわけにもいかず、昔と同じようにというのが妥当なのでしょうけど、何人もいる伯母の中で、いつも自分の思った通りを言い、子供達からも煙たがられていた、この伯母の率直さを後年ふと懐かしく思うこともありました。

この伯母の夫、私の一番上の伯父は、当時復員どころか、東南アジアで責任のある地位にいたため、戦犯となり、今回は詳しいことは書きませんが、その後も大変な苦難の年月を過ごしました。

父は、私達の疎開先、北陸に向かい、まだ殆ど焼け跡のままの地に立ち、親戚が残していた立て札を見て、ずっと奥地の親戚の家で私達が帰京したことを知ったと言います。

二ヶ月とか三ヶ月、東京にいて、父は知人などを頼って就職先を探していましたが、やがて、旧財閥系の会社でかなりな地位にいた父の兄が神戸で興した貿易会社に勤めることを決めて、まずは単身関西に向かいました。

間もなく私達も関西に越すことになります。
晩年の父に、復員して来た時どうして黙って私のことを見ていたのか聞いてみたことがあります。ちょっと黙ってから、父は言いました。
「もっと美人になっていると思ったんだよ。小さい頃は目が大きくて、ほんとに可愛かったんだ」
(この項続く)  《清水町ハナ》


【追記】上記の文で、「仏印」「フランス領インドシナ」という名称を使っていますが、これは当時の連合国側の認識で、筆者は、ベトナム、カンボジア、ラオス、のインドシナ三国は、昭和20年3月10日の日本の「明号作戦」により、日付の違いはありますが、独立したという事実を認める立場に立っています。

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