食の雑記帳21「食べもの事情(7)戦中・戦後の食」思い出エッセイ〔270〕

 前回(〔269〕)、的場浩司さんのスイーツ好きの話から始めたのに、脱線、あらぬ方向へ行ってしまって、「スイーツ」で検索・アクセスして下さった方は何これと思われたことでしょう。最初に的場さんの著書の簡単な紹介を付したいと思います。

『的場スイーツ-本気の113品』(的場浩司著、ワニブックス刊)。超定番のシュークリームから始めて、名称としては、ごく普通のモンブラン、プリン、フルーツケーキなどの紹介なのに(勿論一項目に色々あります)、今やケーキ音痴の私には、へー、これがモンブラン・・・というような、初めて見る、珍しいものばかり。

ドーナツにしか見えないのが、シュークリーム。つまり味は勿論でしょうけど、形態も今迄の(昔の?)常識とは違うんですね。
持ち帰れるパフェ、なんていうのもあります。
イチゴのタルト、ブルーベリーのタルト、などと言うのも、「ホール買いしたい」と但し書きもありますが、粒の揃ったイチゴ、ブルーベリーの数と並べ方の美しさは並みではありません。

「子供に贈りたいスイーツ」の可愛らしさも特筆ものです。
アニマル・チョコレートなどという、ああ、あの時あの人にこれを贈ればよかったと思った素敵なチョコもありました。
最後に各地から選んだ「お土産スイーツ」も付されています。
写真も非常にきれいだし、お子さんとスイーツを作るというパパとしての記事もありますし、indexもついている。非常に丁寧に作られた本という印象です。

長年スイーツ系からは遠ざかっていた私が、的場さんのスイーツを愛する弁を聞いて、ふと回帰の兆しを覚えた、それがこの本によって形を取り出したのを感じました。


三回位書いたかも知れません。敗戦が迫っていた頃〔1944~45年、昭和19~20年)、いつこんなケーキが食べられるだろうと、家庭百科事典のような本の色刷りのケーキの絵に見入っていたことを。
敗戦直後は、もうケーキどころか、普通の食生活が戻るとは考えられない日々が始まりました。食糧難と言う点から見ると、戦中より戦後の方が、特に都市部は遙かに困窮していたと思います。

当時、日本政府は(占領下ですが)、米国に食糧援助を要請したが、最初は断られたと最近読みました。結局放出してもらえることになったのですが、家畜の餌とは言え、援助食糧がなかったら、餓死者がどの位出ていたか。

例えば甘味ということでは、サッカリン、ズルチンなどの人口甘味料が使われるようになったのは、敗戦後割りに早い時期だったと思いますが、そうしたもので、甘いとはっきり感じるほどの甘さを出しても、全く不自然な甘さで、第一こうした人口甘味料は、体によくない、あまり使ってはいけないとは、当時から言われ、使い方には注意していました。

砂糖だけでなく、他の調味料も戦中から配給だったものも多く、戦後も手に入りにくかったのですが、特に砂糖について記憶が鮮明なのは、お菓子大好きの子供時代だったからかも知れませんし、産地の旧植民地、台湾を失い、沖縄の返還も大幅に遅れたという、はっきりした事情も挙げられるかと思います。

今回は、昔の(戦中、私の子供時代)味付けが今と異なり、かなり濃かったことから書いてみたいと思います。
例えば、お握り。左手をくぼませて、お塩(当時は粗塩と呼んでいた粒の粗い塩)をこんもりと盛って、お握りにまぶしました。
お握りは非常に塩辛いものと決まっていました。塩を多く使えば、保ちもいいからです。

お握りの中味は梅干と決まっていて、現在のように塩鮭始め、色々の具を入れるということはありませんでした。
塩鮭は塩鮭で、ほぐしてお握りの中へ入れるなどという発想は当時誰も思いつかなかったと思います。
お握りに海苔を巻くことも少なくとも我が家ではありませんでした。

遠足などには必ずお握りを持って行ったものですが、ご飯が翌日まで余った時、焼き握りなどもよく作りました。
お握りをお醤油を何回かつけて焼き上げます。
炒めご飯と言うのも当時からあって、今のチャーハンとはちょっと違い、仕上げにウスターソースで味付けをするのが特徴でした。

何れも余ったご飯の処理法で、朝のご飯を夕方にという時は蒸し器で蒸すというのが東京のやり方だったと思います。
私が疎開した北陸では、朝一回ご飯を炊き、夜は冷ご飯というのが習慣でした。
蒸し器で蒸すとべチャッとして美味しくないでしょう、と言うのが、親戚の小母の口癖でしたが、我が家では母は東京にいた時のように蒸して温かくしていました。
今でも北陸の親戚は朝一回だけご飯を炊くと言っていました。

調理や解凍ができるだけでなく、丼物の残りでも暖められる、電子レンジは、戦後の調理用家電の最大の発明品ではと私は思うのですが。

海苔は朝御飯に出して、ちょっとお醤油をつけて、ご飯を巻いて食べる位で、大体当時は所謂帖海苔で、一枚の大きな海苔を海苔巻きにしたり、小さく切って使ったりしました。
湿気をとるために、使う前には必ず火で炙りました。

梅干も殆どの家庭が自分の家で作ったと思いますが、これもドサッというほど塩を入れます。出来上がれば、何年も持つ保存食となり、現在のような賞味期限何ヶ月というような薄味のものは少なくとも普通の家庭にはなかったと思います。
紫蘇は、大体家の裏庭などに生えていて、それを摘む手伝いなどをしたものです。

塩鮭と言えば、ものによっては、口が曲がるほど(こんな表現も使いましたね)塩辛く、焼くと、塩分が白く吹き出したものです。
一時流行ったごく甘塩の、お醤油を少しかけて食べると丁度いいような(塩)鮭はありませんでした。

塩を効かせる、多く使うと言うのは、全て、日保ちを考えてのことだと思います。何日ももたせるというのではなく、その日、精々翌日を考えていたと思います。氷冷蔵庫は保存の効くものではありませんでしたし。
生鮭の料理も子供時代食べた記憶はありません。
現在の冷凍庫と言うのも、食べものの保存に画期的に役立つ戦後の新たな機能だと思います。

鱈子(タラコ)は塩漬けの他に生もあって、煮付けにしたりしましたが、ムツの子と呼ばれた、似た形状のものの方がお弁当のお菜などに煮付けたものがよく入っていました。好きなお菜でした。
季節物の秋刀魚の塩焼きなども塩をしっかり振って、タップリの大根おろしにはお醤油をかけました。
我が家は今は秋刀魚一本丸ごと焼きます。その方が立派に見えるし、好物のワタもしっかりとした形で残りますし。
昔は必ず二つ切りにして焼きました。ワタも頂くのは当時も同じです。
「秋刀魚、秋刀魚・・・」子供がワタをくれとせがむと言う佐藤春夫の詩は当時既に知られていたと記憶していますが・・・

鰤(ブリ)の照り焼きなども比較的よく食卓に上ったように思います。
お醤油に漬けた切り身を、焼く時更に何度も漬け汁につけては焼きます。

とにかく塩やお醤油をよく使う。当時はお醤油は一升瓶で買うと決まっていました。
塩は大きめの甕(かめ)に入れていました。
当時も高血圧症に塩分は悪いと言われていたのではと思うのですが・・・
私自身は高血圧という言葉を知りませんでしたが。塩を控えた方がいいということも聞いたことはありません。
塩分の摂取量は倍とか三倍とかいうような量ではないと思います。

保ちをよくするためにお酢もよく使われました。当時のお酢はほんとに酸っぱくて、そのまま飲んだりしたら、むせて、咳き込むようなものでした。お酢を飲むことが健康にいいなどと思う人などいなかったでしょう。
とにかく酸っぱくて、酢の物などは子供は全く苦手でした。

味の素は貴重品扱いで、添付の耳かきのようなスプーンで母が汁物などに入れてくれたことを覚えています。
ダシは殆ど鰹節でとり、鰹節を鰹節削りで作るのは子供のお手伝いの一つでした。
お正月のお雑煮のダシを鶏ガラでとることは当時からの習慣です。

私の母はお中元、お歳暮の類いを、例えば父の上司のお宅に伺って、届けたりということをよくしたのですが、私の小学校(当時国民学校)の担任の先生のお宅にまで行くので、しかも私を連れて行くので、子供心に嫌だったのですが、ある時、先生が、壜に入った物を「おソースでございます」と返して下さったことがあって、その時ばかりは母もちょっと考えたようです。

キューピー・マヨネーズの瓶詰めで、当時手に入りにくくなっていたと言うか、マヨネーズは手作りで時々作っていて、私は初めて瓶詰めを見たのではと思います。
キューピー・マヨネーズのホームページで見てみたところ、製造開始は80年前ということ。私が北陸に疎開した年の担任の先生ですから、先生のお宅でも取って置きの品だったと思われます。

ご近所などから頂き物をした時など、お皿で頂くと、とりあえず家にある適当な品をのせて返し、それがない時は新しい半紙を斜めに折って、新しいマッチなどをのせて、「お移りがございませんで」と挨拶をしてお皿を返したことを覚えているのですが、私が家庭を持ってから知り合った人で、この習慣も、お移りという言葉も知っている人はいませんでした。一部の習慣だったかも知れませんが、その先生のように、ちゃんとした物をその場で返すということは、もうこのようなことはしないようにという意味にもなります。

マヨネーズをソースと言われたことも、初めて聞いた言い方で(マヨネーズはマヨネーズ、ドレッシング・ソースなどというものは使っていなくて、ソースと言えば、ウスターソースのことでしたから)、今でもはっきり記憶しています。

朝御飯は納豆に生卵(これはあまり普通のメニューではなかったかも知れません。伯母の一人に「あんなものよく食べるわね。気持ち悪くない」と言われたことを今でも覚えています)、おみおつけ(味噌汁)、それにほうれん草のおシタシとか、塩鮭、干物などと、大体決まっていました。どれにもお醤油をジャンジャンかけるわけです。塩分を摂り過ぎない方がいいなどとは聞いたことがありませんでした。

食事は質素を旨とするという風で、特に贅沢なメニューは思い出せません。
大体私が物心つく頃にはジワリジワリと食料不足が始まり、贅沢品から姿を消し始めていたのではと思います。
ただ、お客が見えると、次から次へと普段食べたことがないようなご馳走が出されました。それも子供は見るだけで、お相伴どころか、小さな卓袱台などで有り合わせの簡単な食事を与えられ、あっちへ行ってらっしゃい、などと子供部屋に追いやられたりしました。
誕生日などは特別のご馳走を作ってもらいましたが。

いずれにしても、先ずは白米とか肉類とか次第に手に入りにくくなって来る時期を目前にして、非常に美味しかったというものは思い出せません。

昨日は中華、今日はイタリアン、などという私達の世代位から始まった無国籍食事というのは当時はなかったわけです。
精々、オムライスとか、そうそう、おやつにはプリンとかホットケーキ、ドーナツ、偶に自家製のアイスクリームなど結構洋物がありましたね。

ホワイトソースは割りによく作って、私も子供ながらにホワイトルーやブラウンルーの作り方を目で見て覚えました。ところがそのホワイトソースを何に使ったか思い出せないんですね。グラタンは、オーブンがなかったので、作っていないはずです。ホワイトソースで煮込むような料理を作っていたのではと思います。

大分前のことですが、学生が十カ国位の国から来ているクラスで、毎日の食事に外国の料理が出ることがあるか聞いたところ、答えは全員ノーでした。
フランス人が、時々昼食にパスタを作る事くらいはあるけどと言いましたが。
東京位各国のレストランが揃っている所はないと発言した学生がいました。

甘味から書き始めたことなので、お菓子類の話に戻りたいと思いますが、三時のおやつと別に存在したのが、キャラメルとかグリコ、ドロップなどの飴類。チョコレート。家族やお客のお土産というケースが多かったと思いますが、ケーキ類。

ケーキ類については、シュークリームなどが一番多かったと思いますが(エクレアも当時からあったと思います)、実はシュークリームはシュークリームで、ケーキと言うと、とりあえずスポンジ・ケーキの上に生クリームがのっていて、苺はなかったと思いますが、薔薇の形をしたクリームで飾られているような体裁のものを指しました。

ウチは母方が大家族で、従兄妹だけで二十人以上いましたから(今はその連れ合い、子供、孫、数えたことはないし、付き合う範囲も限られていますが)、祖母がまだ子供の孫に焼いてくれたワッフルが、一人二個、ジャムとカスタード・クリームが入っていて、全部祖母の手作りでしたから、祖母は文明開化の風も受けて育ったような雰囲気があったと言えます。色々な意味で、ゴッドマザーでした。

祖父母の実家の二階で焼いてくれて、台所にはガスも入っていましたが、二階にはガス栓はなく、多分火鉢か七輪のようなもので、焼いたのだと思います。
二個焼きだったか四個焼きだったか、きれいに手入れされた焼型で、串のようなもので、クルッと返すと、模様もきれいに焼けていて、クリームとジャムをタップリ入れて、確か年の小さい順から配ってくれたと思います。
お正月だけでなく、何かと言っては親戚が集まり、子供達は祖母のワッフルを楽しみにしていたものでした。

開戦後東京の「中島飛行機」に最初の空襲があって、その時は後で聞いたという感じでしたが、二度目は緊張しました。
母は妹を押入れに入れたりしたのですが、その間に佐久間ドロップを一缶全部食べてしまって、怒られ、呆れられていましたが、当時ドロップなどが缶で求めることができたという証明でもあるわけです。

チョコレートなど原料が輸入品の物は早く手に入りにくくなったのではと思うのですが、子供時代最高に好きな物の一つだったと思います。
当時は今のように色々な種類の形や味があったわけではなく、板チョコがメインだったと思います。
ただリキュールの入ったボンボンと言うのはありました。子供は勿論食べられなかったのですが。

ヨーロッパに長期出張した叔父からある日私達に洒落た靴が送られて来ました。
ところが見ただけで小さいことが分かったのです。手にとることもせず、母は箱ごとしまい込みました。年下の従妹に廻すということも考えられたでしょうけど。
そしてどの位経ってか、一年とか経っていたかも知れません、その箱を取り出して、靴を出してみたら、その中にギッシリ、チョコレートが詰まっていたのです。
勿論板チョコではなく、きれいな銀紙に包まれた、初めて見るチョコです。残念ながら黴が生えていました。その時の口惜しい思いは、靴が見ただけで小さいものと分かった時以上でした。

その頃には、もうチョコレートは殆ど手に入らなくなっていたように記憶していますが、食べられない、上等なチョコレートが、チョコとのお別れと言うのも皮肉なものです。
(ケーキに話を戻したいと思いましたが、長くなったので、この項続く、ということにします)  《清水町ハナ》

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