時事雑記帳46「この頃ちょっと気になること(10)」思い出エッセイ〔308〕

 尖閣諸島問題が、ビデオ流出という本筋からやや離れた事件で世論が沸騰している間にロシアは、今の中とばかりに、さり気なくしかし強引に、北方四島問題は存在せずと涼しい顔を決め込む方向に向っているようであります。

1ゾルゲ、そして択捉島のことなど

メドベージェフ大統領は国後島訪問を一旦は取り止めたように見えたものの、突然訪問。ロシアの外務大臣は、北方四島はロシアの領土であると日本のテレビカメラの前で何回も言っていますし、首脳会談で大統領は、「北方領土訪問に対する日本の抗議を突っぱねる一方、菅首相から経済協力で言質を取り付けた。(中略)尖閣諸島問題での対応を見て、「菅政権は強硬な姿勢などとれない」(元政府高官)と踏んだ上での行動だった」(「読売新聞」2010/11/14)。

更にロシアの新聞の論調などには、ロシア政府当局の公然たる日本蔑視をあからさまに示しているものもあるようです。
「ロシアの有力紙コメルサントは15日、メドベージェフ政権が、平和条約締結後に北方領土の色丹島と歯舞群島を日本に引き渡すと明記した「日ソ共同宣言」(1956年)を土台とした交渉を今後は行わないことを決めたと報じた。
大統領の訪日に同行した消息筋の話として伝えたもので、(中略)この消息筋は「日本はロシアが(色丹と歯舞の)2島を返還し、その後、(国後、択捉を加えた)全島を返還するという『アニメ的な』構想を持っていた」と説明した」(「読売新聞2010/11/14」。

こうした一見「尖閣」以上に不利な方向に動いている状況を頭に置いて、もう一つ強い興味を惹かれた記事について少し書いてみたいと思います。
新任の駐日ロシア大使は必ず多磨霊園のゾルゲの墓に詣でるという小さなベタ記事です。
言うまでもなく世紀のスパイ、などと言われた、リヒャルト・ゾルゲです。

新聞の小さい記事を見失ってしまったのですが、Wikipediaの「ゾルゲ」の項目で発見しました。

「旧ソ連の駐日特命全権大使が日本へ赴任した際には、東京の多磨霊園にあるゾルゲの墓参をするのが慣行となっており、ソ連崩壊後もロシア駐日大使がこれを踏襲している」(Wikipedia、「ゾルゲ」)

ゾルゲについては、映画化されたり、協力者の尾崎秀実を悲劇的な存在とする見方も一時流行っていたものの、ゾルゲのスパイとしての実像が案外知られていない、例えば大酒飲みで、女性問題を度々起こしたなどという面がクローズアップされたりして、どれ程筋金入りのスパイであったか、私も初めて知った部分も多く、引き続きWikipediaから簡単に引用したいと思います。

リヒャルト・ゾルゲ(1895~1944)は、第二次大戦に於いての、日本、ドイツの、対ソ連参戦の可能性を、中国、日本での諜報活動により探ったこと等により知られていますが、

“(旧ソ連邦)アゼルバイジャン出身。3歳の時に家族と共にドイツに移住。キール大学、ハンブルク大学などで政治学を学び、最優秀の成績で卒業。博士号取得。1919年ドイツ共産党に入党。1924年ソ連共産党に加入するためモスクワへ行き、軍事諜報部門である労農赤軍諜報本部第4局に配属。
1930年、ドイツの有力新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」の記者になるという隠れ蓑を得る。
日本、英国、フランスなどの租界がある上海でスパイ活動を始める。

半年ほどで現地の指導的立場となり、中華民国全土に情報網を持つに至った。
中華民国、日本の、言語、歴史、文化を学び、アジア問題に精通する。
アグネス・スメドレーと親しくなり、彼女の紹介で朝日新聞記者、尾崎秀実と知合う。
1933年「フランクフルター・ツァイトゥング」紙の東京特派員、ナチス党員として、来日、横浜に住む。
駐日ドイツ特命全権大使、オイゲン・オットの信頼を勝ち取り、私的顧問となった。
オットは駐日大使となってからは、ゾルゲを大使館情報官に任命。
ゾルゲは、ドイツ大使館と彼の諜報網の両方から日本の戦争継続能力、軍事計画などを入手。

支配階級との接触のために、上海時代知り合いとなり、近衛内閣のブレーンの一人だった尾崎秀実を仲間にして、日本政府の情報を入手した。
日本の武器弾薬、航空機、輸送船などの工場設備や、生産量、石油の備蓄量などに関する正確な数字を報告した。

ゾルゲは、ドイツの「ソ連侵攻作戦」の正確な日時をモスクワに報告したが、スターリンはこれを無視し、ソ連は緒戦で大敗し、モスクワまで50キロの地点にまで独軍に迫られた。

ゾルゲは尾崎秀実を介して、日本が、日ソ中立条約を締結しているソ連ではなく、南方に向うという情報を得て、ソ連本国に打電。その結果ソ連は、日本の攻撃に対処するためソ満国境(ソ連・満州国境)に配備していた、冬季装備の充実していた精鋭部隊をヨーロッパ方面に移動。ドイツ軍を押し返すことに成功、1945年5月、独ソ戦に勝利した。

情報は、クーリエと呼ばれる、外交官特権の秘密文書扱いで送られることも多かったが、ゾルゲが仲間に引き入れていた、通信技師クラウゼンが組み立てた無線装置により東京市内の密集住宅地からウラジオストクに送られた。

日本の特高(特別高等警察)は、早い内からこの怪しい無線を捉えていたが、ゾルゲ達の逮捕まで、発信源の特定に至らなかった。

同じくゾルゲが仲間に引き入れていた、アメリカ共産党員、北林トモ、洋画家宮城与徳、などに内偵をかけていた特高は、彼らを皮切りに、1941年10月8日にはゾルゲ、10月14日には尾崎をスパイ容疑で相次いで逮捕した。

ゾルゲを記者だと思い込んでいたオット大使は、外務省にゾルゲ逮捕について正式に抗議。
ドイツの各通信社及び新聞社の特派員による記者団も、全員でゾルゲの即時釈放を求める嘆願書を提出した。

当初は容疑を否定していたゾルゲも、数々の証拠を突きつけられて、スパイであることを認めた。
この事件に関連して、犬養健、西園寺公一、フランス人特派員のロベール・ギランなど数百人が参考人として取調べを受けた。

ゾルゲと尾崎は死刑の判決を受け、日本、ドイツの敗色が濃厚になってきた、1944年11月7日、ソビエト革命記念日に、巣鴨拘置所で処刑された。
ゾルゲは最後に日本語で、「ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」と言ったと言われる。

ゾルゲの自供と処刑にも拘わらず、ソビエト政府は彼がソ連のスパイであることをかたくなに否定し続け、ソ連の諜報史からも彼の名前は消し去られていた。

スターリンの死後、その大粛清などが批判され始めた1964年、ゾルゲに「ソ連邦英雄勲章」が授与され、それ以後、旧ソ連の駐日特命全権大使は、赴任の際、多磨霊園のゾルゲの墓参をするのが慣行となり、ソ連崩壊後もロシア駐日大使はこれを踏襲している”(以上、Wikipedia「ゾルゲ」の項目より抜粋引用)。

なお、同じくWikipediaには、ゾルゲが、真珠湾攻撃が60日以内に行われるという情報をスターリンに送り、スターりンから米国に伝えられたという説があるが、否定要素が多いことが記されています。

まずはリヒャルト・ゾルゲの信じられないほどの筋金入りのスパイぶりに驚かされます。
生まれついてのスパイとも言えます。大叔父がカール・マルクスの秘書だったそうですが。

来日した時は、有力新聞の記者、ナチス党員であり、日本のことに疎いドイツ大使の私的顧問、更には情報官となって、欲しいままに情報を手に入れる。

例えば、旧南ベトナム初代首相ゴー・ディン・ディエムの暗殺に関わった者については諸説ありますが、直接に或いは黒幕として関わったと言われる、タオ大佐は、ベトコンなどと呼ばれた解放戦線のスパイであり、一将校から首相の右腕となっていたと言われます。

関係のない話でしたが、ゾルゲが逮捕されるに至る日取り、それと特に太平洋戦争の始まりである真珠湾攻撃の艦隊、航空機が極秘裏に集結したのが、北方四島の択捉島(エトロフ島)であることも妙に気になります。

気楽に書き流している文だから、飛躍したことも考えてしまうのですが、真珠湾攻撃総隊長、淵田美津雄元海軍大佐(当時中佐)の自叙伝に、当時軍艦、航空機が択捉島のヒトカップ湾(単冠湾)に集結した様子が記されています。
拙ブログ〔234〕「『真珠湾攻撃総隊長淵田美津雄自叙伝』感想」から少々引用しますが、昭和16年11月5日、大海令(大本営海軍部命令)が極秘裏に発せられ、山本五十六連合艦隊司令長官は、南雲機動部隊指揮官に対し、機動部隊は11月22日までに単冠(ヒトカップ)に集合、補給を行うことを命令する。

出動飛行隊が訓練していた南九州の各基地では、撤収の翌日から身代わりの練習航空隊が到着する。昨日まで飛んでいた400機の航空機がいないままでは怪しまれるからである。
機動部隊の艦船も一隻ずつバラバラにおもいおもいの航路を通って、単冠湾に集結した。
単冠湾は、択捉島南岸のほぼ真ん中辺りにある。

艦隊の入泊が始まると同時に択捉島は島外との一切の交通、通信を遮断した。島民の生活は補給船によって保障された。

十一月二十二日、南雲機動部隊指揮官は、機動部隊の全乗員に対して、真珠湾攻撃が目的であることを告げた。十一月二十六日、午前六時、機動部隊は三隻の潜水艦を先頭にして、出撃した。
(そして駐米日本大使館の不手際で宣戦布告が間に合わず、真珠湾攻撃は奇襲となってしまい、後々まで「リメンバー、パールハーバー」と言い続けられる破目になってしまうのですが)

択捉島は北方四島の中で最大の島であり、返還後は日本最大の島となる。
日本固有の領土であり、この島を知り尽くしているからこそ、真珠湾攻撃の出発地に選ばれたという因縁もあるわけです。

そして、このようなことを考えることが意味のあることかどうかは別にして、ゾルゲが真珠湾攻撃を知っていた可能性があるかどうか大ざっぱに考えてみたいと思います。

ゾルゲの諜報網は、得るのが不可能な情報はないと思えるほどあらゆるところに張り巡らされていたように見えます。
近衛文麿のブレーンで、軍部の中枢とも親しかった尾崎秀実を通して、攻撃情報を知り得たはずです。

日本が米国攻撃に出ることは掴んでいたと仮定して、真珠湾攻撃を知り得ないと思える唯一の根拠は、逮捕の日のみのように思えます。
しかしそれも、一つずつ見てみると、知り得る可能性も出てきます。

真珠湾攻撃は昭和16年(1941)12月8日。
リヒャルト・ゾルゲが逮捕されたのは10月8日で、真珠湾の丁度二ヶ月前。
‘60日以内に日本が真珠湾を攻撃する’という報告をスターリンに送り、スターリンがそれをルーズベルト大統領に告げたという説があり、ルーズベルト陰謀説の根拠の一つに挙げられたこともあるそうです。

スターリンは当初ゾルゲの情報を信用しなかったが、緒戦対独戦で大敗してから、信用するようになったとWikiにあり、独ソ戦の始まりは1941年6月で、モスクワ数十キロの地点まで攻め込まれる。
しかしその後はゾルゲの情報を信用するようになって、日本のソ連侵攻はなしと判断し、ソ満国境の対日戦力を対独戦に振り向け、ドイツを押し戻すことに成功。

単に日付だけ考えれば、逮捕直前に真珠湾情報を(得ていたとすれば)伝えることができるわけです。
淵田攻撃総隊長は、源田実参謀から、日米開戦となれば、真珠湾を叩くのが山本五十六連合艦隊司令長官の構想であると9月下旬聞かされています。

それより一ヶ月前の8月下旬、淵田中佐に、空母「赤城」の飛行隊長という、本人にとって一年前に務めたばかりの、予想外の異動命令が発せられる。

この辺りまでが素人が追える日付ですが、既にゾルゲが攻撃情報を掴んでいたら、逮捕までに本国に知らせる時間的余裕が充分あったことになります。
真珠湾攻撃という大きなキーワードを巡って、二ヶ月から三ヶ月という期間に妙にゾルゲ事件に関するいくつかの日取りが歩調を合わせているように思えます。

リヒャルト・ゾルゲはソ連のスパイであり、スターリンも彼の情報を信用するようになっていた時期、ドイツ大使は逮捕に抗議し、同僚は嘆願書を出すほど信頼を集めていたゾルゲが、スパイであることを認めざるを得ないほど完璧に日本側は証拠を集めていた、つまり満を持しての逮捕である、スターリンとソ連を意識して、というのは考え過ぎでしょうか。
事実ゾルゲの逮捕がスターリンとソ連にどれ程の衝撃であったか想像に難くありません。ソ連諜報史からゾルゲの名前が抹消され、スターリンの死後、名誉回復をしたという事実もそれを物語っているように思えます。

もっと穿ったことを言えば、ゾルゲが真珠湾攻撃の情報を掴んだか、今まさに掴むことが分かったタイミングに彼を逮捕した・・・
スターリンに伝えていたと考える方が、想像を逞しくすれば、いくつかのかなりスケールの大きいストーリーに繋がる、なんて考えてしまいますが。

もしゾルゲの情報がなかったら、ソ連はソ満国境の兵力を動かせず、ドイツに負けていたか、いずれにしても大変な苦戦を強いられていた可能性が高い。

今はゾルゲの銅像も建ち、記念切手も発行されているようです。救国の英雄とも言えそうです。
ロシア大使がお墓参りをするのも当然かも知れません。

ロシアは大国であります。国土の広さを比べる気にもなりません。
現に旧ソ連邦時代、某首相は日本の政治家に、日本なんてと言って、黙って地図上の日本を親指で消してみせたそうです。
また某州知事は、日本なんてこうだ、と言って、鉛筆を二つに折って見せたそうです。

しかしそんなチッポケな日本も、強大なソ連にとって、侮り難い存在であった頃もありました。
戦争に敗れ、どうしてもずーっと退いた姿勢をとり続ける以外ない時期が延々と続きました。既に65年が経ちました。退き癖がついてしまっているようにも思えます。

ここは、北方四島を返して欲しいと大声で言い続けても何とかの耳に念仏状態になっているような観もありますし、個人が何か呟いても何の力も生みませんので、世紀のスパイ、ゾルゲ、そして択捉島との思いがけない因縁という、あまり領土問題と関係のないことを想い起こしてみて、問題の提起というより、忘れかけていた事情を、記憶の淵から呼び起こすことのみを試みてみました。  《清水町ハナ》

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