思い出エッセイ〔444〕「昔の昭和:戦後の生活5-2」

 ★昭和25年(1950)3月・池田蔵相「中小企業の一部倒産やむなし」と発言(同年12月「貧乏人は麦を食え」と発言-筆者追加) 4月・公職選挙法公布 ・第一回ミス日本に山本富士子 6月・朝鮮戦争始まる 7月・金閣寺、放火のため全焼 ・マッカーサー、警察予備隊創設 10月・GHQ、1万余人の追放解除 11月・「君が代」演奏許可 ・政府、旧軍人3250人の追放解除―年表『戦後昭和史』より抜粋。

続けて上記『年表』より、抜粋します。

★昭和26年(1951)
1月・第一回NHK紅白歌合戦放送
3月・三原山大爆発
4月・マッカーサー、連合軍最高司令官を罷免される。後任はリッジウェイ中将 ・ボストン・マラソンに日本初参加。田中茂樹優勝
7月・朝鮮戦争休戦交渉の影響で、証券・繊維相場大暴落
8月・日本航空発足
9月・サンフランシスコ講和条約開会、8日対日講和条約、日米安全保障条約調印(発効、GHQ廃止は翌27年(1952)4月) ・【羅生門】、ベニス国際映画祭でグランプリ受賞

★昭和27年(1952)
2月・第一次日韓正式会談開始(4/26事実上打切り)
4月・琉球政府発足 ・日航機もく星号大島三原山に墜落 ・鳥取市大火、市の三分の一を焼失 ・対日講和条約、日米安全保障条約発効、GHQ廃止
5月・メーデー、デモ隊と警官隊が乱闘、2人射殺、1230人検挙(血のメーデー)
7月・東京国際空港(羽田)業務開始 ・第15回ヘルシンキ・オリンピックに戦後、日本初参加(75人) ・破壊防止法公布
10月・第25回総選挙 ・第四次吉田内閣成立


年表『戦後昭和史』より、当時高校生としての個人的な関心も考慮に入れて、抜粋してみました。

「貧乏人は麦を食え」、昭和25年(1950)、当時の池田勇人大蔵大臣が言ったと報道され、私はいまだにヒドイ言葉、とはっきり記憶しており、「年表」にはなかったので、追加しました。

しかし考えてみると、この言葉には当時の事情に合わない点があります。
お米は配給制で、それが全く足りないから、色々な粉などの代用食が配給されたので、それ以外にお米を得ようとすれば、闇で買わなければならない、戦争中はそれをやっていたのですが、疎開地は田んぼが近くにあり、時々農家へ買いに行けたので、東京ではそう簡単には手に入りません。関西の中都市でも同じです。

いずれにしても、麦(大麦)も主食で、配給制だったわけですが、お米のように定期的に配給されていなかったのではないかと思います。麦飯も食べましたが、あまり頻繁に食べた記憶がないからです。寧ろ、大根ご飯とかサツマイモご飯などの混ぜ物入りのご飯の方が多かったと思います。

とろろ汁には麦飯と言われるように、不味いというものではありません。
しかし昔は貧乏だから麦飯、と言うイメージがあったし、それが事実でもあったと言えると思います。
まわりくどくなってしまいましたが、お米が配給制でそれも量が少ない時、貧乏人であってもなくても(当時お金持ちがいたら、人に言えないやり方で稼いでいたか、いち早く時流にのった人々と思われますが)、麦も食べなければならない、麦があれば、寧ろ恵まれている、そんな時代に、「貧乏人は麦を食え」とは、これ以上説明しなくても、当時の現状に合わない奇妙な言葉です。

ちょっと調べてみたところ、池田蔵相は、「所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を多く食う、と言うような経済の原則に副ったほうへ持っていきたい」と発言したのを、「当時の新聞が改ざんして報道した」(以上、Wikipediaより)とあり、確かに直接、貧乏人は麦を食べろと言ったのではないらしいことは分かりました。

当時の現状を無視して、蔵相が学んでいた頃の経済学の、分かりやすい例えを引用したようですが、それにしても、如何にも無神経な言葉です。報道の「改竄」とまでは言えないと思いますし、結局、貧乏人は麦を食え、と言う方向性を出していることになります。

お米はその後もエンエンと配給制度が維持され、闇米と呼ばれることはなくなっても、長年、配給外のお米を買っていたことになります。

『年表・戦後昭和史』には、ごく簡単な「食の年表」が付されているのですが、明治キャラメルが昭和24年(1949)に発売再開(25円)、とあります。
お米もさることながら、お砂糖はお米よりもっと縁遠い存在となっていました。
終戦までは、台湾が植民地だったことから、90%以上が台湾産だったそうですが、それがなくなってしまったため、何年も本物のお砂糖の味からは遠ざかっていました。
(因みに現在は、タイとオーストラリアから40%ずつ、南アフリカから10%輸入しているそうです)

北陸に疎開した、終戦の前年から翌年にかけて、ブッカキ飴と言う、黒砂糖で作った、茶色い大きな飴の塊を家に売りに来る人がいて、それをノミと金槌で砕いて、口に入れるのですが、それも三回位買って、来なくなりました。浜焼き鯖と言う当地の名物も一緒に持って来ていました。
日本は、早い時期に制海権を失いましたから、軍艦を動かせない、ましてお砂糖などを輸送することはもっと早い内からできなくなっていたのでしょう。

黒砂糖とは言え、お砂糖を形で見たのは、それが最後で、終戦となり、闇市で売っている甘いものは、飴も和菓子も、また屋台のお汁粉などの甘味は、全部、サッカリン、ズルチンなどの人口甘味料で、子供にもお砂糖と違うと分かる味です、薬くさいと言うか。
自宅にもサッカリンがあって、耳かきのような形のもので、白い粉を少量すくって使ったのですが、体によくないと当時から言われていて、慎重に少量使いました。
少々は配給があったのかも知れませんが、お砂糖を現物で見たのは、ブッカキ飴から何年も後、思い出せないほどです。

疎開するまでは、曲がりなりにも三時のおやつがあったのが、まだおやつが欲しい年頃に、不規則にちょっとおやつっぽいものが食べられる、そんな感じでした。

昔も子供のおやつの定番だった、ホットケーキとドーナツが、食料難時代には作るのが不可能だったわけです。
まず小麦粉がないから、問題にならない。牛乳、バター、お砂糖、(卵)メープルシロップ、そして油がない。特にドーナツのように揚げるための多くの油は、例え油があってもそういう使い方はできなかった。粉砂糖、などということは頭になかったと思います。

関西に越してから、食糧事情も徐々によくなり、子供のお菓子も復活し始めたのですが、キャラメル類は、比較的早く食べられるようになった、そんな漠然とした記憶があり、年表で見れば、なるほどと納得します。
森永ミルクキャラメルは翌年昭和25年(1950)に販売再開(20円)されています。

キャラメルやグリコは、小さい頃は、一箱与えられることはなく、二粒とか三粒位、おやつにつけてもらえました。買い食いは許されていませんでした。
お金と言うものを持たせてもらえなかったのです。お年玉なども品物でした。
私が漸くお小遣いという形で少し支給?されるようになったのは、何と高校の頃です。
大学の学費が月に700円で、積立金などがある、高校の方が高かったので、お小遣いは、多くもなく少なくもない、と言う額で、200円か300円というところでしょうか。
このお小遣いをもらい出してから、私は、月に一回だけ、奇妙な使い方をするようになりました。

ごくぼんやりとした、記憶、と言うより、感じのようなものですが、キャラメルの販売が再開された頃から(と言って、原料にも制限があって、どこにでも出回るほど製造されるようになったのは、後のことだと思いますが)、他のちょっとしたお菓子も急に出回るようになったのではと思います。

集団住宅の外れにある、数軒のお店の中に、お菓子屋さん、それも昔で言う駄菓子、と言って、子供だけを対象にした、他のちょっとしたオモチャなども売っている、所謂駄菓子屋さんではなく、キャラメルとかそれに類した、子供向けの(当時はそれが大人向けの甘いものでもあったのですが)お菓子だけを売っているお店が出現したのですが、そういうものが急に出回り始めたからではと今になって思っています。

私の奇妙な行動とは、そこへ行って、お菓子のまとめ買いと言う、それ迄は考えられないことを、お小遣いを手にした時の行事のように始めたことです。
30代後半位の愛想のいい女性が一人でお店に出ていて、何回か行くと、私の定期的な、変わった買物ぶりに気づいたらしく、「おねえちゃん、これ、この間入ったんですけど、お勧めですよ」などと、話しかけたり、オマケをつけてくれたりしました。

一番食べたいと思っていたチョコレートは、そのお店で買った覚えはないのですが、(1950年代に製造再開、1951年あるメーカーが再開などとnetにありますが、カカオと言う輸入原料を使うお菓子ですから、地方に出回るのは遅れたのではないかと思います)、キャラメルには、凝って、一番好きなのが、クリームキャラメルで、特に深紅に雪の結晶のような模様の入っているデザインが非常に気に入っていました。
雪印が出しているのではと漠然と思っていたのですが、明治製菓と分かりました。赤い地に白い模様は合っていましたが、雪の結晶のデザインではありませんでした。

今考えると、高校生がキャラメル、と言うのもヘンな取り合わせですが、現に手に入らなかったし、小さい頃の、一箱持って食べてみたいという無意識の願いも、やっと実現したということかも知れません。その他にも数種類のお菓子を買ったのですが、何を買ったか、今は思い出せません。
とにかく一回では食べきれない量を買い、自分専用の大きなデスクの上に置いて、本を読んだり、勉強したりしながら、ゆっくりと一つずつ食べて行くのです。

母にお菓子のまとめ買いをするとも言わず、このことについては妥協できない、みたいな風で、背を向けて、数年間以上の空白を黙々と取り戻す。母は何も言いませんでした。

食べ物のことを書いている中に、中学生から高校生になってしまいましたが、敗戦の結果、教育制度も大きく変わりました。
GHQのやることも相当手っ取り早くて(日本の識者も加わったのですが)、戦後、僅か一年半で、学制改革と呼ばれる、新教育制度を発足させました。

それまでは、小学校を卒業すると、進学は、男女に分かれて、中学校、女学校、それぞれ5年、成績が優秀だと4年で修了して、旧制高等学校へ進み(3年)、卒業後東京帝国大学を頂点とする官立大学に進学するのが、砕けた言葉で言うと、典型的なエリートコースでしたが、その他に、教師を目指す師範コース、女性は大学、と言うよりその前段階の旧制高校進学を認められていなかったので、進学と言っても、女学校卒で終わる人が多かったのではと思われます(今数字を持ち合わせませんが)。
専門学校へ進学する者もいる、私立大学に入学する者は、私立大学予科、他へ、また農漁業や、早く就職したい者は、小学校に高等科と言うコースが設けられていた、等、簡単な説明ですが、教育制度が様々に分かれていたのを、まずシンプルにしたと言うのが、外から見ても分かりやすい新教育制度でした。

終戦までは、形骸化していたとも言えると思いますが、士、農、工、商という身分制度が残っていて、どういう教育を受けるか、身分によって、決まる面があったのではないか、これは私の推測です。

私の母など、身分制度が廃止されても、よく父に商家の出と言っていて、父は、元は武家と、家系図を書いて、私に説明したりしましたが、父方の祖父は警察署長を歴任した人、その兄弟に有名なお寺の高僧だった人もいる、祖母は東京の学者の家の出、と、子供の私も知っていて、どうして母が、商家、商家と、事あるごとに言うのか、イヤな感じを持ちました。

大元の家は確かに商家だけど、お城に出入りしていた豪商で、その家が元は武家だった、その証拠に旧家老の家と婚姻が整っている、などと、父は怒ることもなく、と言って、母に言ってもムダと思っているのか、私にだけ逸話などをよく話してくれました。
疎開した、北陸の家が本家筋だったのですが、大きな蔵には、鎧兜、刀剣などの武具が多くあり、昔武家だったことは確かと思われます。
粗末な県営住宅に住んで、士だ、商だと言っても何の意味があるのだろう、とその時にも思ったのに、こうして武家だったことは確かと、事実とは言え、取り立てて書いているのですから、おかしなことです。

横道に逸れてしまいましたが、逸れついでに、ちょっと思い出した、昔から東京帝国大学に入るより難しいと言われた、陸軍の幹部養成学校である、陸軍幼年学校について少々書き足します。
私の母方は、祖父の代からの軍人一族で、私が生まれるずっと前に殉職した伯父一人が海軍でしたが、他は陸軍で、十人兄妹のところに結婚相手も軍人、その親もと言うことで、敗戦により一族が没落し、負ければ賊軍で、何と言われようと、関係のない私の世代まで我慢しなければならない時期が結構続きました。
特に敗戦後の映画などに出て来る軍人は、粗野で頭が悪そうに描かれるケースが多かったように思うのですが、中でも忘れられないのは、「聞け、わだつみの声」に出て来る将校です。あんな軍人はいないと思います。

ずっと以前、海兵(海軍兵学校)出身の、脚本家H氏が、海兵は、東大に入るより20倍も難しかったと週刊誌のエッセイに書いておられたのを記憶しています。20倍はあまりに極端ですが、海兵は、中学を卒業して受験するのに対し、陸軍幼年学校は、中学一年の終わりに受験するので、両者を単純に比較することはできません。
幼年学校と東大の比較も不自然ということになりますが、幼年学校を卒業すれば、その上の陸軍士官学校は無試験なので、こういう比較の仕方もされるのでしょう。
士官学校は、中学卒業時に受験できますが、幼年学校を経ているのが本流とされる空気のようなものがあったそうです。

皇族、華族など、当時の特権階級の特別枠があったと言われ、一般から合格するのは、至難だったことは確かだと思います。
関係者から、分かりやすい基準を聞いたことがありますが、小学校ではトップ、その県で一番の中学校で10番以内でないと、受けてもムダと言うことでした。その方は、軍人として、出世をされましたが、幼年学校は、落ちた、と思ったら、補欠になっていたことを官報で知り、結局合格となった、と言うことでした。

私の父は、父親が警察畑で、転勤が多かったため、兄と共に、小学校高学年の時、北陸の本家に預けられ、そこから、別の親戚に父だけ移り、中学一年修了時、幼年学校を受けて、合格したのですが、その時、本家の当主が、父の荷物を持ち、汽車に乗って、乗り換え駅まで送って来てくれたことを、信じられなかったことのように語っていました。

貧しい家の出でも受験することができ、入学の日ともなれば、村長さん以下村人が送りに来てくれる、と言う風景はよく知られていたことです。

父は、一応秀才だったということになりますが、子供もそういう血を受け継ぐとは限らないんですねえ。
幼年学校卒業時に肋膜炎を病んで、父は、一年休学して、士官学校に入学したのですが、その時、贅沢なことは一切しない父親が、須磨に、ポンと療養のための別荘を一軒借りてくれたことも意外だったと話していました。
この休学がたたって、士官学校の成績はあまりよくなかったとか、しかし、父の夢は、ヨーロッパなど海外に出て、外交畑で活躍することで(優秀な軍人は作戦畑に行くと言われています)、そのために語学は、特に真剣に学んでいたとか、そして自身の夢を叶えた半生だった、いい人生だったと思っている、と今現在の苦衷は、まるで関係ないように語ったことがあります。

軍人は、実は秀才が多かったからと言って、過去の状況や事態の認識が今更変わるわけではなく、あれこれ言うつもりはないし、第一そんなことを言う立場に全くありません。
開戦に至るのは、私の父の世代より前の世代が関わったことであり、佐官級だった、父やおじ達は、軍人の務めとして、当然従軍した、それだけのことです。
今になっても、誰もが、何でも軍部が、軍部が、と軽く口にすることに違和感を抱きます。一種の責任逃れ、押し付けを意図しているわけでもなく、分からないことは何でも軍部にしておけばいいという感じです。

日本軍部は、最大最高の官僚機構であったと言う言葉を聞いたこともありますが、軍が無理矢理こうこうした、とかそれに類することが安易に口にされていると思います。
日本軍部は、戦勝国によって、完膚なきまでに解体され、瓦解した、資料も残っていない。責任が生じることを、全て軍部に負わせると言うのは、無責任な一種の風潮のようにも思えます。

元に戻ります。
新制中学制度は、昭和22年(1947)に発足し、私はバリバリの新制中学出身ですが、東京では、校舎を建てる余裕がなく、関西に越す、1948年末近い時点でも、旧制女学校に間借りをしていました。そこの女学生からは結構冷たい目で見られると言うと、言い過ぎ・・・いずれにしても無視されていたと言う感じでした。

P市の中学は、ちゃんと校舎がありましたが、禿山と言うより、禿丘に建てられたような感じで、校内には木が一本もなく、赤茶けた校庭の先は、比較的なだらかな、潅木の生えた、低い山と言うか丘の斜面でした。
この校舎は、文字通り、丘を削って、平らにして、校舎を建てたのではと今になって思っています。当時の関係者のご苦労が伝わって来ます。

神戸を起点とする、西方の一帯は、海があり、街の後方に六甲山を中心とする、比較的低い山脈が連なる形になっていて、街全体が、山に向って、傾斜を成している地形で、P市まで来ると、山と言うより丘で、丘の多くが開発されており、まだ残っている丘を、戦後更に開発したのではと思えます。
わが県営住宅の後方には、その残骸、と言うか、或いは始まりであったかも知れませんが、丘を分断して作ったような道や、その際に不自然な形のまま残された、いくつかに切られた丘の残り、と言った姿の小さな禿山風の塊がいくつもありました。その向こうは、ひと気がなく、行ったことがないのですが。

私が進学した、新制高校は、中学の向い側、目の前にありました。しかし、中学生には、遠い、手の届かない存在でした。
高い生垣がずっと続き、校門から中は、道が続いているだけは、分かるけど、窺い知れないという感じでした。
旧制中学で、昔は知られている学校でもありました。

一度書きましたが、関係の実業家が立派な図書館を寄付したことでも知られていました。
今になってあらためて思うのですが、中学の、埃っぽい赤土の校庭では憩う場所もありませんでしたが、戦災を免れた、その新制高校は、前庭が広い芝生で、昼食後は、いつもそこに座って、クラスが分かれた、中学時代の友達と話し込んだりしたものです。

入学試験がありましたが、殆ど入学できたように聞いています。
校舎は立派でも、高校の中は、相当の、混乱、と言うと、違って、ミックス状態とでも言ったらいいでしょうか。

まず私達新制中学から来た新入生は、市内の三つの主な中学から来て、それが校風が違うと言うか、ひと目でどこの中学出身か分かるような、それぞれの特色があり、馴染むまでに結構時間を要した、基本的に最後まで同じ中学の者が固まっているようなところがありました。

上級生の二年と三年は、元々男子校の旧制中学校と、女子校の旧制女学校の在校生が、住んでいる地域によって分けられたとも聞きましたが、男子と女子を一緒にして、二つに分けて、それぞれ、新制高校となった、旧制中学と旧制女学校を通学先としたということです。

意に反して、中学に行くはずが女学校に、その逆もあったと言うわけです。
そして学制改革で、新制高校の二年、三年になり、新入生には、自分達のような難しい試験に受かったわけでもない、ゴチャ混ぜの一年生が大挙して入学して来たことになります。

私達にとって、上級生は、非常に大人びて見える感じがありました。
戦中、小学校(当時国民学校)4年生から6年生までが、集団(縁故)疎開の対象で、上級生は5年、6年だったことになりますが、小学生でも上級生は、それなりの責任と義務を負わされていたからでしょうか。

設備等が整っていることについては、例えば理科関係は、先生の研究室も実験教室も本格的で、理科の先生が担任になると、教室が一番奥の遠方になりました。
理科の先生方は、殆ど研究室に籠っておられるという感じでした。

男性の先生が殆どで、女性は、家庭科の他には、古文と数学の先生が一人ずつだけだったと思います。
中学の先生が、親しみやすく、いつでもせんせーと言って、何でも話せたのに、高校の先生は、そうはいきませんでした。
まず雑談ということが全くと言ってなく、きっちり授業をされました。
学生がきちんと勉強することも要求され、大学受験を控えているので、英語などは、能力別のクラスに分けられ、今の模試に当たる試験も頻繁にあり、結果が貼り出されました。

一方、その高校は、ずっと受け継がれていることだったのか、色々な行事で、学生達を楽しませてくれました。
一年生の時の弁論大会が、そうした行事の最初だったと思います。
クラスから代表が三人出て1チームとなり、学年に関係なく、あるテーマについて、討論をし、勝ち抜きだったのですが、一年生はクラスの委員長と副委員長二人が弁士となり、講堂の壇上で、相手チームとたたかいました。

新一年の男子の委員長と男女一人ずつの副委員長は、選挙でなく、先生が選ばれたのですが、何故か私が副委員長に指名されました。
小学校時代は、日教組発祥の学校と言われた学校で、討論には自信もあったのですが、P市の中学に入ってからは、転校生だったし、目だった形で発言することもなかったので、私は勿論、意外に思った人も多かったかも知れません。

委員長が、経験があるのか、弁のたつ子?で、彼一人が、雄弁を振るって、次々に勝ちあがり、三年生も含めた中で、一年生で唯一決勝に勝ち残りました。
基調スピーチについては、多少三人で話し合い、私の案を少々取り入れることになって、じゃあ、これで基調やって、と言われ、真っ青になって、できないと断りました。
結局委員長一人が、基調スピーチに始まって、論陣を張り、あとの二人は、とうとう最後までひと言も声を挙げず、ひな壇の置物に徹していました。

聴いている学生達も熱心で、要所で拍手も起こり、印象に残ったスピーチ大会でした。
最後の相手は二年生で、キャプテンが大会随一の説得力を持つ雄弁家で、「あなたねえ、そんな風に思っているなら、ほんとに問題ですよ」と、言うような諭し口調で、相手を引き込み、勝てない、と委員長も言っていたものの、一度は、彼を絶句させ、ほんとに素晴らしい奮闘ぶりでしたが、残念ながら、負けて4位となりました。

外部から人を招くこともあって、奥田良三氏の独唱会もありました。彼の伴奏をするピアニストの独奏で、アンコールが起き、奥田氏が、さすがP市の学生さんともなると、芸術の理解者ですねえ、と真顔で言われたことを覚えています。

学生の演劇部のドラマ上演や、外部にも知られていた、ブラスバンド部の演奏会、落語や声楽など、一芸を持つ学生の発表会などもあり、どれも本格的に準備され、とりおこなわれたという印象を持っていますが、私が、一番思い出深いのは、映画鑑賞です。
映画館を借り切って、全校学生が参加するのですが、当時華やかに登場した、ジェラール・フィリップの新作もあれば、フランソワーズ・ロゼーの「外人部隊」、ルイ・ジューベ、マリー・ベルの「舞踏会の手帖」、コリンヌ・リュシェールの「格子なき牢獄」など、過去の名作もあり、自身の映画鑑賞の歴史?を語る時、この高校の映画会は、忘れることのできない、一種の出発点です。
高校の映画鑑賞会と父、それが、私を本格的な?映画好きに導いてくれたと思っています。

企画は、映画好きで知られた、理科の先生で、私は教わったことがないのですが、先生のあだ名を書くと、当時の関係者は誰でもああ、あの先生と思い出す方です。
その先生の熱意にも頭が下がりますが、学校側の寛容な判断があったからこそとも思っています。

結局、簡単な年表に殆ど触れないまま、紙数が尽きて、次回へということになってしまいましたが、こんな調子で、思い出した順という感じで続けさせていただきたいと思います。(この項続く)  《清水町ハナ》

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