思い出エッセイ〔439〕「昔の昭和:戦後の生活5-1」

 「もう戦後は終わった」とか「もはや戦後ではない」などと、昭和30年代、時として20年代の終わりにも言われることがありましたが、日本にとって(近代)国家として最初で最後の(おそらく)敗戦が、そのように軽く忘れ去ることができるのか、何事も元に戻るということはない、ある意味現在も戦後の続きであると、考えることがあります。

などと、大袈裟に構えてしまったような気がしますが、私のような疎開世代と呼ばれる、戦中、都市の空襲を避けて、東京から地方へ疎開した、小学校(当時国民学校)の四年生から六年生までというごく限られた世代、更に私は、その疎開地で敗戦間際、空襲に遭って、全てを失い、今日住む所にも苦労して、やっと帰った東京は、敗戦直後の混乱状態・・・子ども時代にそういう経験をした、言わば、無意識の中に当時の経験が思考や感覚に浸透してしまっている、被害者意識がそれと認識することなく奥に根づいている、この一握りの世代は、その間に人格も形成されているのではないか、という思いに時折捉われることがあります。

当時の経験や記憶が、自分自身の中で色々な意味でかなり大きな位置を占めている、そのことには気づいていたと思うのですが。
敗戦と言う一本の線を簡単に渡らされ、それまでのことはなかったこと、或いはどう本質的に変わったか、などということは、考えても意味がない、そういう感じだったかなと思います。

忘れがたい、許し難い経験の記憶が沈殿していて、実はその経験と直接関係ないのに、その周囲の人々や状況も巻き込んで、ある種の記憶の閉じ込めをしていたのではないか、そんな風に、ふと気がついたのは、戦争そのものや、その記憶が、表面の形だけについて語られている、記憶が形骸化され始めている、と感じた頃、そんなことに今頃気づきました。

私の人生は言わば戦後の続きの連続である、そんな風に思うこともありますが、だからと言って、自身の歩みはそれなりに続けて来たわけです。
日々の中で突出した、と言うと言い過ぎですが、目立つ、忘れられないことばかりが自分の人生を模って来たわけではなく、ごく普通の毎日、たまたま記憶の淵から浮かび上がって来た一見とるに足らないこと、実はそういうことにも同じような意味がある、そんなことを思い出してみるのも、過去の事実を連鎖的に思い出すきっかけにもなるのではないか、そんな気持ちが湧いて来ました。

戦後の目覚しい変化を、東京で体験することなく、関西の、田舎とは言えないけど、周囲が変わって行くという実感が薄い環境で過ごしたことは、ある意味時流に乗れない、ちょっとした時代遅れの日々を過ごしたと言えるかも知れません。

前回、この時期について書くつもりが、前置き程度で終わってしまったので、昭和24年頃から30年代前半頃(1949~)までの生活を思い出して、分けて書いてみたいと思います。

年表『戦後昭和史』より、当時中高生として印象に残った出来事をごく簡単に列挙してみます。

*昭和24年(1949)
1月・GHQ国旗の掲揚を許可 ・法隆寺金堂が火災  
4月・1ドル360円に固定
5月・GHQ証券取引所再開許可 ・満年齢適用の法律公布(それまでは数え年齢、実施は翌年1月)
7月・国鉄、下山総裁、行方不明、遺体発見(下山事件) ・三鷹駅で無人電車暴走(三鷹事件)
8月・古橋広之進、橋爪四郎、世界記録樹立 ・東北本線で列車転覆事故、3人死亡(松川事件)
11月・湯川秀樹氏ノーベル賞受賞発表 ・ヤミ金融、光クラブ、東大生山崎社長自殺  ・プロ野球セ・パ2リーグに分裂 ・お年玉つき年賀葉書発売

中学二年の二学期の終わり近く、東京から関西に越した私達家族は、当時住宅難解消の一助として建てられた県営住宅の50数倍の籤に当たり、8年余暮らすことになります。
最初の1,2年、代用食が相変わらず幅を利かせていたとは言え、食べ物がない、足りない、お腹が空くと言う体験は殆どしたことがありません。

中学三年になってから、早い時期に修学旅行に行ったのですが、それが船に乗って、四国行きと、長く旅行らしい旅行もしたことがなかったのに、突然瀬戸内海の美しい島々を巡りながらの四国旅行と言う、当時中学生としては贅沢な旅行で、夢のような気分を味わいましたし、夏には数日のキャンプにも行って、飯盒炊爨も体験しましたから、食糧事情は、いつも美味しいものや食べたいものが食べられるということはなかったけど、明らかに好転していました。敗戦直後は旅行など思いもよらなかったことです。

それでも、ウチで、食事に満足感が持てなかったのは、洋裁、和裁は得意な母が、お料理は不得意と言うと、ちょっと違うかも知れませんが、誕生日など祝い事、来客の時などは張り切って作るのに、基本的に、面倒、美味しいものを作る気が失せていたような気がすることも一因に思えます。

時々、父が、ご飯がちゃんと炊けていたことがない、とこぼしていましたが、私は、おみおつけの鰹節が丁寧にとってなくて、大根にからんでいたり、お味噌がダマになっているのが、いやでした。
野菜嫌いで、ポテトサラダだけは好物なのに、今度作ってあげると言って、そんな簡単なことがなかなか実現しない、そんな感じでした。

考えてみると、母は、父が外地勤務の時は実家に帰り、祖母やねえやもいたし、自分で食事を作ることがあまりなかった、その後は、食糧事情が悪くて、まともな食事が作れなかった、そんなことも関係があるのかも知れませんが。と言って、料理については知識はあるのです。
環境がすっかり変わったことが、影響したようにも思えます。

県営住宅から、少し離れた所に、営団と呼ばれる、もっと古い時期に建てられた、似たようなスタイルの住宅群があり、この二つの住宅グループがかなりの地域を占めていて、店舗はその外れに、二三軒しかなかったので、買物が不自由だったことも理由かも知れません。
市の中心部は、私鉄の電車で二駅のP駅の辺りで、そこまで行けば、市場も復興の歩みを速めていたのですが。
活きた小海老などを自転車で売りに来ていましたし、中心部の市場にはそれなりに品物があったはずで、まあ、やはり料理嫌いだったんでしょうねえ。それが結果として食事情があまり好転しないと言う認識に個人の事情が少々入り込んだのではないかと今になって、思いつきました。

神戸に出るのは、P駅に出て、当時の国鉄に乗り換えて、元に戻る形で、元町や三ノ宮までは、ウチから一時間、もう少しかかったかも知れません。
私鉄も一応神戸行きなのですが、かなり手前が終点でした。

当時は、休日は日曜だけで、土曜は半ドンなどと呼ばれて、一応半日勤務でも、勤め人の帰りは結局夕方近くになり、子供と遊ぶと言う時間はなかったと思います。

父は、日曜は必ずと言ってよく、私を連れ出してくれました。
海が近かったので、水泳や投げ釣りに。
エサのゴカイは、ギザギザしたミミズのような、気持ちの悪いものですが、私はすぐに慣れて、千切って、針につけ、釣り糸を投げて、待つ間もなくひっかかるのが、彩りは美しいけど、味はサッパリのベラで、小さいカレイや石鯛が釣れることもありました。
釣りの魅力にはまって、後年釣りを本格的にやってみたいと何度か考えましたが、結局実現させないままでした。

水泳も引っ越した頃はバタ足しかできなかったのが、ひと通り泳げるようになって、適当に深い所まで連れて行って、注意深く見守るのが父の教え方なのですが、ある日、気がついたら、かなり流されていました。潮の流れが急な所なのです。
父は私に背中に乗るように言って、めずらしく慌てた表情で、平泳ぎで岸に向って結構必死に泳ぎ、私は浦島太郎のように、のんびりしていたのですが、相当危ない場面だったと思います。

父はスポーツ万能で、と言うのも、当時の幼年学校、士官学校の教育方針によるのですが、ゴルフ、テニス、スキーと言った、当時まだやる人が少なかったスポーツから柔剣道まで得意でした。
スイスの山の急斜面を、雪煙を立てて滑り降りる父の写真は、今も脳裏に焼き付けられています。アルバムは空襲で失われてしまったのですが。
社交ダンスには相当自信を持っていて、大きなパーティーで、多くの人が見まもる中ペアで踊ったこともあるとか、私に教えようとするのですが、結局ワルツのステップを覚えただけでした。

しかし戦後おそらく一度もそういうスポーツをやらなかったし、敗戦まで数え切れない程海外生活を送ったのに、一度も海外旅行にも行きませんでした。一般の人は簡単に海外旅行に行けない状況が結構長く続きましたが、おそらく行く機会があっても、行かなかったでしょう。

ある時期まで私の読書のアドバイザーだったし、映画もほんとによく連れて行ってくれました。
関西に越して最初に見た映画は、ディアナ・ダービンの【オーケストラの少女】で、この映画を封切り時に見たこと、共演のストコフスキーをヨーロッパで聴いた思い出などを話してくれたものです。

時に神戸まで映画を見に行き、食事もするのが楽しみでした。と言って、外食は、さすがに、暫くは、限られたメニューしかなかったのですが。
母が食にほぼ無頓着であるのに対して、父は美食家、と言うより、とにかく美味しいもの好きで(と言って敗戦後の抑留生活などで、ひどい食生活も経験しているはずですが、それよりはるか前のヨーロッパ生活などに原点があるようです)、名前も知らなかったグレープ・フルーツをどこかで買って来て、昔は朝は欠かさなかった、ブランデーがあるといいんだけど、とそれからも度々買って来ました。
お酒は全く飲まない人ですが、グレープフルーツのブランデーなど、ルールは守るというところがありました。

二三回、書いたことがありますが、神戸の喫茶店のカキ氷が評判だから、と連れて行ってもらったのですが、戦後最初に食べた一番美味しいものと言ってもいいかも知れません。まだ子供で、そういう子供向きのものが特に美味しく感じたということもありますが。

まず抹茶がかかっていて、小豆餡にすぐ辿り着き、アイスクリーム、(白玉)、求肥(ぎゅうひ)、他にも何か入っていたように思いますが、京都「都路里」のカキ氷の前身、或いは原点と言う感じです。

本のことに話を移すと、疎開先に持って行かなかった文学全集が残っていて、例えば「戯曲全集」などは、ソフォクレス、エウリピデス、アイスキュロスから始まるものでしたが、活字であれば、片端から読みました。
私の本好きを知って、当時新たに出版され始めていたヘルマン・ヘッセを、先生が順に貸して下さいました。

戦後すぐは、出版物と言えば、センカ紙と呼ばれる、非常に質の悪い再生紙が主に使われていたのが、そのヘッセの訳本は、パラフィンで覆われた、滑らかな、きれいな色の表紙の、美しい装丁で、カバーをかけて、丁寧に扱い、お返しすると、次の本を持って来てくださるのです。
最初が『郷愁』(「ペーター・カメンチント」)で、ヘッセには当時、結構入れ込みました。

出版事情も、ムラと言うと、適切でない言い方ですが、私が雑誌の『ひまわり』を毎月とり出したのは、昭和23年の終わりか、24年に入ってすぐで(創刊は昭和22年)、その時既に中原淳一の魅力的な表紙と、冒頭にルノアール、ドガなどを中心とする、きれい系の名画がカラーで掲載されていたので、一方で、粗末な紙の本、他方で美しい本を目指した出版物も出ていたというわけです。食事情も、日々の食事に困る者が殆どの一方、戦後食べものに困ったことがない人達もいた、戦前と変わらない食事をしていた、そういうルートがあった人達、生産者も入るかも知れません。

市の図書室が、海の傍にあって、そこは、旧い文学全集には入っていず、学校図書館でもすぐには入れない種類の図書が揃っていて、よく通いました。
例えば、ロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』とかマルタン・デュガールの『チボー家の人々』、ハンス・カロッサの作品集などです。

カロッサにはヘッセ以上に夢中になりました。主人公の医師が何故、蜂に刺されて死に至るなどと言う死に方なのだろう、と何日も気になりました。もっとカッコイイ死に方をするべきだなどと考えたのです。
『幼年時代』の精密な描写にも入り込みました。

後にヘッセとカロッサがナチの協力者だったという記事を読んで、ガッカリしましたが、今回ちょっと調べたところ、ヘッセはナチから逃れるため戦中スイスに住んだとあり、カロッサは、(単に)ナチに対して積極的に反対の声を挙げなかったとありました。何十年も経ってホッとしました。

文字通り一部屋だけの図書室で、入ると、大きな窓から海の青だけが見えて、両側の書架に本が並んでいるのですが、数百冊レベルだったと思います。それでも読みたい本ばかりという感じでした。
老人二三人が貸出し事務をやっていて、一人の方は今でもよく覚えています。

私が借りた本の、出版年を調べてみると、戦後の出版年が1951年と言うのもあり、中学生で借りたと思っていたら、高校になってからのよう、と思ってみたり、戦前の翻訳本だったのかも知れない、その場合、図書室がどのように本を揃えたか、も問題になって来るのですが。

現在は、とちょっとしらべてみると、思った通り、立派な図書館の写真が出て来て、最初に見た時は、偶然私の母校の図書室について、情報があったのですが、次には見当たらないと言う、一日で記事が変わるのかしらと思いましたが、私が生徒だった頃は、図書室もなかったし、とにかく空き地に教室の数だけの木造校舎を建てただけという感じでした。
東京の中学は、旧制女学校に間借りしていましたから、それよりずっとマシだったということになりますが。

図書館のホームページ情報に、今の子供が、目の前にある厖大な本を前にして、如何に本を読まないかという数字が出ていて、それがすぐに関心のあり方に繋がるものではないと思いますが、食べ物でも、読書でも、満たされない状態で手に入った、好きな食べ物、読みたかった本、が齎す喜びは味わえないわけです。果たして自分の方が恵まれなかったのか、とちょっと考えて、あるべきものがないという状態がいいはずがないとすぐ考え直しましたが。

転校生なので、一歩退いた感じで、同級生と対していたというところですが、普通に友人付き合いをしていたと思います。
営団住宅に何人か親しくなった友達がいましたが、特に思い出深いのは、スポーツが得意で、容貌も魅力的な友人で、はっきりものを言うので、時々ケンカもしたのですが、その友人のことを思い出して、すぐに頭に浮かんだことがあります。

私はかなり遅まきながら、丁度自転車に乗れるようになったところだったのですが、彼女はそれを知って、何度か自分の自転車を練習用に貸してくれて、ある日、今日は~を走ってみようと、車がかなり多い、神戸まで続いている国道を、彼女を後ろに乗せて走ることを提案したのです。

私は乗ったままでしかスタートを切れず、少し走ったところで、彼女が後部席に飛び乗るのですが、何と言っても、横に車が走っている大通りを、超新米が、私鉄で二駅ある距離を走るわけです。彼女の度胸のよさと言うか、思いきりのよさとして印象に残っています。
(当時二人乗りは違反などではなく、ごく普通のことでした)

結構スイスイ走れたので、私も調子に乗って、自分なりのかなりのスピードを出して走り抜き、そのこと自体、やったと言う思い出として記憶しているわけですが、やはり相当目立つことと映ったようです。

翌日学校で、一人の先生に呼び止められ、「君ら、アブナイことしよるなあ。昨日、~大通りを自転車で走りよっただろ。君が~を後ろに乗せて。アブナイと思って、ずっと見とった~」などと言われてしまいました。
あまり生徒に話しかけない、と言うか、距離を置くタイプの先生ですが、今考えると、なかなかカッコよくて(などと言う言葉は当時使われていなかったし、先生方に対してそういう意識も全く持たなかったのですが)、と言って何となく厳しい感じがあるので、(スミマセン、失礼なことを言って)、そんな風に声をかけられること自体、意外で、叱られているのに、若干いい気分にもなりました。

この先生にはもう一度、不甲斐ないことでお世話になりました。
跳び箱が流行っていて、放課後も、校庭に持ち出して(学校側が体操用具を使えるように配慮していたのかも知れません。バレーのネットなども使用が許可されていました)、何人かで跳んでいて、先生が付き添うことになっていたのか、覚えていませんが、その先生が傍におられました。
私は結構高いのが跳べ、次もと軽く跳んだら、どういう風になったのか、空中で姿勢が崩れて、マットに落ち、一瞬意識がとんだような、状態になりました。

先生は飛んで来て、私に前かがみに座るように言い、呼吸がし難いんだねと確かめて、背中を軽く叩き続けてくださいました。文字通り息がつまってしまったのです。
少しは楽になったかと声をかけ、背中が逆に反ったから、こういう状態になったと説明をして、心配しないでももうすぐ直ると言われた通り、回復しました。
私はお礼とお詫びを言って、先生は立ち去られたのですが、その時、確かに聞こえました。
「ビックリしたあ、心臓が止まるかと思った」と呟かれたのが。

この中学では、担任だった、当時既に中年になっておられたM先生には、私が結婚して東京へ帰ってもお付き合い頂き、他にも何人かお世話になったと感謝している先生がおられますが、昔のことを思い出していて、普段思い出すことがないのに、こういう風に突然活き活きとした記憶として浮かび上がることもあるようです。

先生がちょっとでも私のことを覚えておられるとしたら、無茶をやる子(一見おとなしそうで)、それだけだと思います。
まだ壮年というお年で亡くなられたと聞きました。

この霧の彼方にあったエピソードを書いていて、ふと別の、遙かな記憶がうっすらと甦りかけました。
P市には、ずっと以前から、私の父方の祖父母と叔母の住む家、同じ敷地の中に伯父の家があり、子供の頃東京から何回か訪れたことがあって、本当に懐かしい街だったのですが、敗戦直前、空襲で丁度その辺りまで焼失して、そのために伯父と叔母の運命が大きく変わったとも言え、場所としてははっきり記憶しているのに、遠い存在になってしまった地として、複雑な思いを持っていて、本来なら抱くはずの、懐かしい父祖の地に帰るという気持ちを持てなかったと言うわだかまりがありました。

道一つ隔てて海、と言う場所で、正確には記憶していないのですが、図書室からP市の中心の方向に少し歩いた所になると思うのですが、図書室に何十回、もっと行っているのに、祖父母の家の辺りに行ってみたことは一度もありませんでした。

友達がここと教えてくれた、偶然通りかかった、その先生のお宅は、祖父母の家とかなり近く、同じ並びにあったのでは、と別の記憶の糸が分かれて、気がついた、と言うより、先生のお宅の前を通った時、この辺りは、という思いがよぎった・・・そんな茫漠たる感覚のようなものが一瞬浮かんだ、それが連鎖的に深い淵から年月を飛び越えて、記憶を呼び起こした、思い出と言うより記憶が浮かび上がるキッカケは不思議なものとしか言い様がありません。

東京から越すことになったことを、一種の運の悪さと捉えていた時期もあったのですが、もし越していなかったら、あの時代、伯父と叔母に再会する機会はなかったのでは、これは今気がついたことです。私はこの伯父と叔母を心から愛していたし、伯父も叔母も、本当に慈しむという感じで私に接してくれました。

祖父母の家の所まで焼失したという事実のみが記憶として焼き付けられていた所為か、同市の空襲被害について調べたことがありませんでしたが、今調べてみたところ、同市には川崎航空機工場があり、主にそこをターゲットに4回に渡って、激しい空襲を受けたことを知りました。

「第一回が敗戦の年、昭和20年の1月で、勤労学徒を含む263人が死亡。
第二回が6月、同じく川崎航空機を標的としたが、工場の被害は少なく公園に避難した269人を含む644名の死者。
第三回、同じく6月、現在の陸上競技場の辺りに500キロ爆弾投下、死者184名。
第四回、7月7日焼夷弾により市街地は焦土と化し、死者367人」(asahi-net より抜粋引用)。

祖母は昭和18年の12月に亡くなり、祖父は昭和20年の2月に亡くなって、私の母が疎開地から葬儀に出たので、それ以後の空襲に逢ったことになりますが、場所的には第三回の現陸上競技場付近が、祖父母の家に最も近いと思えます。

中心街は空襲を受けていると思っていましたが、祖父母の家の周囲と思われる所は、昔の家が残っていて、また高台にある、同市の住宅地も被害を受けていないので、空襲のことを個人的なレベルでしか捉えていなかった、たまたま運悪く丁度伯父、叔母の家の所まで空襲に巻き込まれた、そのことが二人の運命にまで繋がった、そういう思いで、記憶を無意識に固めてしまっていたわけです。伯父も叔母も、祖父母が空襲を知らないで亡くなったことをある種の運のよさと思っていたかも知れないのに。

途中で記憶の底に沈んでいたことを思い出したのをキッカケに、横道に入ってしまったので、ここで一旦の区切りとし、続きを次回に廻したいと思います。(この項続く)  《清水町ハナ》

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