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zoom RSS 思い出エッセイ〔434〕映画雑記帳189「【愛、アムール】感想」

<<   作成日時 : 2013/03/13 18:54   >>

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 【愛、アムール】(ジャン・ルイ・トランティニアン、エマニュエル・リヴァ、イザベル・ユベール、アレクサンドル・タロー、監督:ミヒャエル・ハネケ)。原題はひと言“Amour”。邦題も気が利いていると思います。

文字通りの満席。殆どが中高年の女性でした。
主役の二人、トランティニアン、今年83歳(1930年生まれ)、リヴァに至っては86歳(1927年)、非常に(と言っては、失礼かと思いますが)高齢の、昔懐かしい二人の俳優が、実に自然で適確な演技で、高齢者夫婦の人生終盤の日々を演じます。


冒頭のシーンで、結末が暗示、と言うより明示されます。

音楽家の老夫婦、ジョルジュ(ジャン・ルイ・トランティニアン)とアンヌ(エマニュエル・リヴァ)は、旧いけど、邸宅の趣があるマンション(アパルトマンと言った方がいいのかも知れませんが)に住み、お互いを思いやりながら、穏やかで静かな日を送っている。

アンヌの弟子だったピアニストの演奏会に出かける。
翌日、アンヌが、ジョルジュの呼びかけや問いに応えない。何を言っても無表情である。
ほんの数分のことだが、ジョルジュは只事ではないと感じる。その無反応のことをアンヌは覚えていない、何を言ってるの、そんなことあり得ないと言う。

何かの病気の始まりに違いない、そう思ったジョルジュは医師の診察を受けさせ、不成功率5%と医師自身がた易いと保証する手術を受けさせるが、結果はその5%の失敗で、アンヌは車椅子生活となる。

再び入院させることも考えるが、アンヌは二度と病院に行きたくないと言う。
ジョルジュは自分で介護することを決心する。
介護用のベッドを入れ、車椅子から棒立ちのアンヌを抱えて、ベッドに移し、食事を食べさせ、要求することに何でも応える。

突然の来客。コンサートを聴きに行った、アンヌの教え子、アレクサンドル(アレクサンドル・タロー)である。
二人は一瞬戸惑いの表情さえ見せる。どうして電話をくれない、と言うと、何度電話しても出なかった、とアレクサンドルは言う。

登録していない電話には出ないから、とジョルジュはちょっと申し訳なさそうに言う。
この家には、ごく親しい人、用事がある人しか入れない。外部を遮断しているに等しい。
夫婦がたった一度外出したピアノ・コンサートの主役、若く、美しい、アレクサンドルは、唯一の歓迎すべき闖入者である。この日彼の電話番号は登録されたことでしょう。

アンヌはピアノを弾いてと頼む。
練習が足りないとちょっと躊躇するが、アレクサンドルは弾き始める。
ピアノの音が予想していたよりはるかに大きく朗々と響くのに、少々驚かされたのは、私だけでしょうか。
当然と言えば、当然のことながら、コンサートで弾くのと同じように、弾くということだと思います。
ピアノの演奏まで、外の世界から齎されたものという感じがしました。

アレクサンドル・タローは、俳優ではなく、有名なピアニストということです。

娘のエヴァ(イザベル・ユベール)も駆けつける。
夫とうまくいっていないことを知っているジョルジュは、それとなく様子を聞く。
同じ楽団員の女性と不倫をしていて、彼女が自殺未遂騒ぎを起こした、ちょっとした浮気ではない、結構深刻と言いながら、それでも何とかやっているとエヴァは言う。
両親が仲がいいことに、小さい頃から安心感を持っていたとも言う。

アンヌの知的関心は変わらず、二人の間で交わされる会話も以前と同じ、穏やかだが、次第に身体の衰えが進み、看護婦を一人、暫くしてもう一人雇うが、特に二人目の看護婦は問題があり、ジョルジュが解雇を決めると、捨てゼリフと罵り言葉を返して出て行く。
ジョルジュの負担は増え、身体的にも精神的にも重荷になって行く。
娘のエヴァが、介護が適切でないと文句を言う。それならお前が引き取るか、とジョルジュは初めて声を荒げる。

水を飲もうとしないアンヌに飲まなければ死んでしまう、と必死に飲ませようとする、お前の嫌いな点滴をしなければならないぞ、やっと口に含んだと思ったら、吐き出してしまい、思わず平手打ちをするジョルジュ。

その頃から急速にアンナは変わって行く。オムツもつけるようになる。
無表情になり、会話が成立しなくなる。それどころか、奇声を発するようになる。
うつろな表情で、身動きもせず、意味のない大声を挙げる。
それでもジョルジュは、味を工夫した流動食を口に入れようとするが・・・
介護生活が始まった時には予想だにしなかったエンディングが近づく。


映画が終わって、館内が一瞬静まり返ったように感じられました。
それぞれが、異なる感想や感慨を持たれたのかも知れません。

最近の映画は(などと大きく出るのも躊躇を感じますが)、この映画のように、会話の全てがごく自然に、まるで登場人物の話に加わっているような感覚を持てる、水が流れるように澱みなく、会話やシーンと共に映画の中に入り込める、という作品は非常に少なく、セリフを聞かされる、登場人物の会話や動きは、あくまで映画の中のこと、推量や想像をたくましくしながら、ついて行くという感じのものが多いように思われます。

久しぶりに昔懐かしい映画を見た気分にもなりました。
50余年前に【二十四時間の情事】で岡田英次と共演したエマニュエル・リヴァは、当時、映画も大ヒットしたし、原作が同じく日本でも人気があった、マルグリット・デュラスで、映画自体も女優も原作者も、非常に有名でしたが、私はそれ以後、リヴァの作品を見ていず(【栄光への5000キロ】と言う、石原裕次郎、浅丘ルリ子主演の映画に出演していたようです。思い出せませんが)こういう形での再会は感慨深いものがあります。
特にアンヌの精神状態が悪くなり、生ける屍のようになってからの演技は鬼気迫るものがあります。

ジャン・ルイ・トランティニアンは、結構贔屓の俳優で、かなり見ていると思うのですが、出演映画は、と言うと、【激しい季節】と【フリック・ストーリー】(アラン・ドロンと共演、こんなタイトルだったかしらと思っているのですが)位しか思い出せず、数年前、来日して地方を訪れた時撮影された写真を偶然目にして、ああ、こんなに年をとってしまったのかと思ったのですが、若い頃は、小柄だけど、品のいい、きれいな感じの人でした。

アラン・ドロンとの共演映画では、フランス犯罪史上、最も凶悪な殺人犯と言われた男を演じ、田舎のレストランで、アラン・ドロンの刑事達が、結構行儀悪いマナーで、確かコッコバンなどを食べていて、トランティニアンは、テリーヌをまず前菜にと大きな器からタップリとって、優雅に口に入れていた場面を思い出しました。

さすがトランティニアン、83歳になっても、円熟した完璧な演技を見せてくれました。眼差しとふとした表情に確かにジャン・ルイ・トランティニアンと分かる、年齢を忘れさせる瞬間もありました。入魂の演技と旧い言葉を使いたくなりました。

この映画を直接高齢者問題、介護の問題等と結びつける方もおられるかも知れません。それもありかと思います。
母が変わったと言って、父親の介護の仕方を責める娘は、自身はそんなことを言う資格がない、と言うか、父ジョルジュの気持ちを理解できる人生を歩まなかった、無意識に父親に自分の代わりを演じて欲しいと思っている、結果的に傍観者、サイドからものを言う人でしかあり得なかったということかと思われます。

ジョルジュが、じゃあ、お前が引き取って世話するのかと言うのは、やってみろということではなく、ジョルジュが、廃人のようになってしまったアンヌを前にして、抱いている気持ちは、お前になど分からない、例え、娘が介護したとしても、それは介護というケアを引き継いだに過ぎないと言いたいのではないかと思えました。

昔の話をアンヌに言い聞かせながら、最後にジョルジュが抱いた気持ちとは・・・
唐突にも私は、【カッコーの巣の上で】を思い出しました。
高齢者とひとまとめに言われますが、同じ形に見えても、それぞれ全く異なる存在です。一つとしてひとくくりにできるものはないと言えると思います。

たかが5年か10年の高齢期の在り方によって、人間と人生を語れるものではない、しかし人生の閉じ方位は選べる自由があるといい、この映画はそう告げているようにも私には思われました。  《清水町ハナ》

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