思い出エッセイ〔431〕「昔の昭和;戦後の生活4 [農家での日々]」

 ‘家庭のエネルギー事情’という小テーマで、戦後の生活について書いてきましたが、ここで言わば番外として、敗戦直前から私が体験した、数ヶ月の、農家での生活について書いてみたいと思います。

プライベートな覚え書の性格も持つもので、個人的なことに関わる名称、場所等について、固有名詞は記していません。

日本の敗戦、つまり太平洋戦争の終結、昭和20年(1945)8月15日の一ヶ月弱前、私は縁故疎開地の北陸で空襲に遭いました。その前後の状況、事情については、今迄も書いていますが、今回は、数ヶ月置いてもらった農家の日々について思い出して書いてみます。

私が疎開していた頃の市部は、お城を中心とした、どこへでも歩いて行こうと思えば歩ける、狭い地域でしたが(約33k㎡)、戦後、合併を繰り返し、現在は、約536k㎡と、当時の約17倍、市制発足当時の120倍になっているそうです(「市政の歩み」net、Wikipedia、他より)。
33k㎡の広さの市に、空を覆うB29爆撃機127機が飛来して、無数の焼夷弾を落とし、旧い歴史のある街を壊滅させました。

身一つで空襲の猛火を逃れ、いつも買い出しに行っていた農家に助けを求めたのですが、そこのお宅も親戚、知人が多く避難して来ていて、他に移る所を探さなければなりませんでした。
市役所が一時滞在先として指定した農家では、ふざけたことを言うんじゃないと、文字通り叩き出され、行く先のない私達母子に、見つかるまで一週間でも十日でもいなさい、と言ってくれた、そのお宅のご主人は人生の恩人の一人と思っています。

何日も経たず、そこよりかなり離れた所の、やはり時折買い出しに行っていた、ある農家が間借りを承諾してくれました。
Mさんと言うお宅で(Mさんと言う姓が非常に多く、向う三軒両隣り、と言っても、結構離れていましたが、皆Mさんでした)、当時、耳で聞いたウロ覚えの記憶ですが、田んぼを一町歩と7、8反持つ自作農でした。
田んぼ一反は、普通に見かける田んぼ一つの大きさで、10反で1町、1町は約1ヘクタールです。
家の近くで野菜も栽培しており、それ以外にも畑を持っていたと思います。
馬も持っていたことを大分経って、その馬が病気になった時知りました。
家屋にだけ出入りして、並び立つ建物や小屋の奥の方に廻ってみることはしなかったので、M家の全貌を知らなかったというわけです。

農機具を収納するかなり大きな物置があり、おそらく耕耘機(こううんき)と呼ばれていた農業機械なども見えましたし、当時では、豊かな農家だったのではと思っています。

ご主人夫妻は、老人に見えましたが、末娘の年などを考えれば、見た目よりかなり若かったかも知れません。
30代の長男夫婦と若い姉妹二人の六人家族で、三人の弟が出征していて、大きな写真が掲げてありました。

結核で亡くなった兄弟もいると聞きました。当時、結核は肺病と呼ばれていて、国民病のようなもので、私の父方の一族も何人か結核で亡くなっていますが、その後も十年以上、都市部でも、友人など、結核に侵される人が身近にいました。ストレプトマイシンが使われるようになってから、回復率が大きく向上したと聞いています。

ご主人のMさんは見るからに人のいい感じで、陽気でもあり、時々踊って見せたりすることもあって、私は気がつかなかったのですが、お酒が入ることもあったのかも知れません。奥さんは反対に神経質なピリピリするタイプの人で、実権を握っていると言うか、平たく言って、家で一番強い存在と見えました。お嫁さんが農作業にフルに出るので、家事、特に炊事を現役でこなしていました。農繁期には全員で農作業に出ます。

親孝行を絵に描いたような長男のSさんが、家の実質的な采配を全て取り仕切っていたと思います。
真面目で、じっくり考えて、結論を出すタイプの人でしたが、ある夜、突然大きな声と、ドタバタする音、お嫁さんが大泣きをして、出て来たことがあって、Sさんが、出て行け、と本気で言い続けるのを、両親や姉妹、私の母まで出て行って、なだめたのですが、その原因はお姑さんの悪口を言ったということでした。

大柄なお嫁さんは、私達のことをよく思っていなかったのか、自分から話しかけることはないと言うより無視するような態度で、他の家族とも談笑する姿を見たことがありませんでした。
黙っているけど、性格はかなりきついと見え、今思っても、何を考えているか分からないという感じでした。
結婚して10年近くになるのに、家にも人にも馴染んでいなかった、或いは子供がいないことを苦にしていたのではないかと、今では分かるのですが、農作業に家事と、一番きつい仕事は全部背負っていたように思います。

家に入ると、広い土間があり、続いて今で言えば、お茶の間、居間、他兼用のかなり広い板の間があって、大きな囲炉裏を中心にした、家の中での仕事、食事、家族の団欒の場になっていて、隅に炊事用の竈(かまど)と洗い場がある台所と勝手口がありました。
部屋はその奥に四部屋か五部屋あって、襖や障子などではなく、重い木の引き戸で仕切られていました。
部屋には畳がなく、筵(むしろ)と言っても、普通の大ざっぱに作ったものではなく、細かく編んだ、畳替わりと言ってもいいものでしたが、最初の中は、馴染めませんでした。
農作業着のまま家に出入りすることや農閑期の家の中での仕事などを考えると、畳は適していないからかも知れません。

南向きの部屋はないのですが、どの部屋も直接外に出られる出入り口があったのではないかと思います。
ウチが借りた部屋も、隅に出口があって、前に庭と言うより、ちょっとした空き地ですが、庭にも畑にもできる広さの、ホッとできる空間がありました。

最後まで馴染めなかったのは、トイレとお風呂でした。
土間に大きな竈があり、昼間はいつも火がついていて、お風呂もそれで沸かすようになっていたのかも知れませんが、お風呂は土間にお風呂桶があるだけで、その隣りに大きな甕が置いてあって、それが簡易トイレ。外に形だけの小屋のトイレがあり、土間のはさすがに使えず、外に出るのですが、ごく粗末な紙と、乾し草が置いてあり、それで始末をするということで、夜は電気もないので、我慢ということになります。

後で考えると、農作業は泥だらけになり、終わった後は体を洗うので、お風呂は形だけでいい、特に私達が置いてもらうようになった時期は夏だったので、お湯にゆっくり浸かる必要もない。トイレは、当時は、都会でも汲み取り式で、下肥と呼ばれて、肥料として用いられ、人の目に触れないように素早く処理される現在とは、感覚も捉え方も異なったのだと思います。

他の部屋の中を見る機会もなかったのですが、時々家の横に廻って、小さい出入り口に腰掛けて、一番下の娘、N子さんと話し込みました。
彼女は当時の数え方で17歳、私とは年が違うのですが、同い年のような感覚で対してくれました。目鼻が大きい大柄なつくりのお父さん似で、色が白い人でした。
後に、N子さんが、あまり外に出ないこと、農繁期以外は農作業も出ない時が多かったように思う、病弱であったことに思い当たるのですが。

お姉さんは、20歳位、今で言う小顔の、お母さんそっくり、性格もきついところがよく似ていて、と言って、意地悪と言うことはなく、まあ、十歳も年下の私は子供にしか見えなかったのでしょう、事実子供だし、友達感覚で接することはありませんでした。

食事は、囲炉裏端で、毎日はんで押したように、ご飯と味噌汁、煮た沢庵で、味噌汁の中に大豆を平たくつぶしたものがたくさん入っていました。
白米のご飯を遠慮せずに食べられることが何よりのご馳走でした。
沢庵をそのままお漬け物としても頂くのですが、煮ると言うのが、それまで見たことのない調理法で、独特の食感がありました。
お味噌汁の具は、大豆を小さい石臼でひと粒ずつ潰し、結構手間がかかるのですが、簡単な仕事なので、よく手伝いました。

戦争中から都市部では食料難が始まっていて、お菜どころか主食にも事欠くようになっていた頃ですから、この質素な食事も寧ろ恵まれていたと言うべきなのですが、家庭向きの野菜、胡瓜、茄子、トマト、南瓜、さつま芋、他色々栽培しているのに、そういうものが食卓に上ったことはなく、家では商品には手をつけないということだったのだろうと後で思ってみたことです。

勿論食費込みの家賃は渡していたのですが、好意で置いてもらっているという思いが、私にもはっきり自覚としてあり、とにかくできることは手伝わなければといつも考えていました。
お世話になって間もない頃、そろそろ囲炉裏の火を起こす頃なのに、誰もいないので、見よう見まねで、藁に火をつけて、火を起こしたら、奥さんにひどく怒られ、この家を燃やす気かとまで言われ、さすがに泣き出したことがありました。

私達がMさんのお宅にお世話になって、十日程して、夜、東の方の空が真っ赤になり、またどこかが空襲されたのです。
長男のSさんは、金沢ではないかと言いましたが、それよりずっと遠方の、富山大空襲でした。
今調べてみると、8月1日から2日にかけての空襲で、死者2,737人、人口当たりの死者は地方都市最多、壊滅率も99.5%と、私達の市の被害を上回ったことを知りました。しかも空襲の二ヶ月前に港を封鎖するために数回にわたって300個の機雷を投下したとあり、8月1日の大空襲までに数回以上空襲されています(Wikipedia)。
終戦を前に、敵にとっても不必要な空襲を執拗に繰り返したと言うことだと思います。

数日後の8月6日、広島に原子爆弾投下。続いて長崎。最初は新型爆弾と呼ばれていました。数日中に原子爆弾と言う聞いたことのない名称が報じられましたが、私達はその後もかなり長い間、新型爆弾と呼んでいました。

そして、8月15日、終戦。重大放送があると、時間を指定されて、皆家の前に出て、拡声放送を聴きました。
私は、‘耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び’などは聞き取れましたが、全体の意味は分からず、Sさんは、天皇陛下がもっと頑張れと言われたのだと言いましたが、母が、負けたんですよ、とやっぱりというような、負けて当たり前と言う感じで言ったので、驚きました。

母はこの戦争は負けると、空襲前、市部にいた頃も、他の人がいる前で言って、ヒヤヒヤしたことがあると親戚から後に聞いたことがありますが、疎開中に外地の父から二回手紙が来て、その中に何らかの情報が書いてあったのかも知れません。

敗戦後も田舎の生活は一見何の変化もなく過ぎて行きました。
空襲は、学校の夏休みの前日だったのですが、生徒の殆どが農家の当地では、農繁期は一定の期間休みとなり、替わりに普通は休みの期間に授業があると言う変則的な登校日が決められていました。

田植えを手伝った記憶があるのですが、田植えの期間は過ぎているはずで、田んぼに入って、草取りなどを手伝ったことを勘違いして記憶したのかも知れません。
水のある田んぼは結構深くて、作業着のモンペの裾から泥水が直接入らないように、膝下と踝のあたりを藁何本かで結えるのですが、その上まで泥水につかることがしばしばでした。

田んぼでは、必ずと言ってよく、蛭(ひる)が足に付き、引っ張ってもとれない程しっかり吸い付いていることもあり、取ってもらうと、憎らしいほど血を吸っていて、それを、バシッと潰します。ミミズを何倍も大きくしたようなもので、それが血を吸って、パンパンになるのですから、最初は見るのも気持ち悪かったのが、慣れて、このニックキ奴となるから不思議です。
もっとも蛭の強力な吸血性を利用して、悪い血とか蛇に咬まれた時に血を吸わせるという効用もあって、当時もそういう使い方をしていたのを見た記憶もあるのですが、はっきり思い出せません。

底無し田と言うのがあると、N子さんに聞いたことがあって、私が見たいと言ったのか、彼女が連れて行ってあげると言ったのか、その田んぼに入ると、ずるずると体が沈んで、子供の背が立たない、時折事故があるということでしたが、ある時行ってみたことがあります。
道筋などは覚えていないのですが、平地より高い所にあって、普通の田んぼのような四角い形ではなく、狭く不規則な形でした。
お嫁さんが一人で、非常に大きなカンジキを履いて作業をしていて、絶対入ったらあかんよ、と私に鋭い声で注意をしました。そのひと言が、お嫁さんから私に声をかけた、最初で最後かも知れません。
いずれにしても、そういう危険な田んぼの仕事もお嫁さんが一人でしていた、と今では思うのですが。

蝗(いなご)取りをしたこともあります。
稲が実って来ると、イナゴが発生し、その駆除を兼ね、食用にもするのですが、針に太い木綿糸を長くつけて、稲田に入って、取っては、首の辺りを刺して、糸に通して行くのです。昆虫好きで、虫を殺すことなど出来なかったのに変われば変わるものです。次々とイナゴを取り、あっという間に数珠繋ぎが出来上がり、佃煮のように煮たり、焼いてお醤油をつけたり、私も食べてみて、結構美味しいと思いましたが、さすがにたくさんは食べられませんでした。

農作業のハイライトは、何と言っても稲の収穫です。
学校もお休みになり、田から田へ、次々と稲を刈り取り、乾した稲を脱穀します。
鎌はよく切れるので、不注意に使うと足に大怪我をすることがあり、勢いよく切ることをせず、手元で止めるようにして切るように教わり、刈ったものは、二三本の茎でぐるっと縛り、くるくるっと捻った先を押し込んで稲束にします。

刈った稲を稲架(と言ったと思いますが)で乾して、それから脱穀します。
脱穀機は、ペダルを足で踏んで、稲の穂から籾をとるための器械で、表面に小さい金具がいっぱいついたドラム缶のような形をした器械をかなりのスピードで廻して、稲束を押し付けながら脱穀するのですが、器械に引きずり込まれたら、大怪我をする、指が飛ぶこともある、と最初はさせてもらえませんでした。
気をつけるからやらせて欲しいと言って、まず体を後ろへ反らせるような姿勢をしっかり保つ、稲束ごと引き込まれることがあるから、しっかり持って、先を平たくする感じで押し付けて、籾を取る、万一引きずり込まれそうになったら、すぐ手を放す、そう教わって、やってみました。
片足は、オルガンのペダルを踏むように、一定の速度で器械を廻しながら、一本足で体を支えて、強い力に負けないように脱穀するので、やさしい作業ではありませんでしたが、コツは覚えて、適当に順番に入れてもらいました。

小学校低学年でもそれなりに、高学年になったら、一人前に農作業をこなし、そのための休校ですから、とにかく作業はどれでも手伝いたいと思っていました。
「役に立つ子や」お母さんが褒めてくれました。
田んぼで頂くお握りは今でも生涯で最高に美味しかったものの一つと思っています。

それにしても、自分が田んぼで脱穀機を使っているなど、一年前、夢にも思わなかった生活、と言うより運命となったわけです。

お隣と言っても、かなり離れているのですが、そこのお宅はご主人も息子さんも長身で今で言うイケメン、20代半ばの娘さんは、子供心に美人と思う、笑顔を絶やさない、感じのいい人で、母も、あんなに器量がいいのに、どうしてまだお嫁に行かないのかしら、などと言っていましたが、一番下の14、5歳の女の子は、体が大きく、私よりずっと年上に見えましたが、結構親しくしていました。
何故か名前を覚えていないのですが、例えばサッちゃんという呼び方をしていて、誘いに行かなくても、両家のすぐ傍を流れている小川の洗い場に行くと、赤ちゃんのお守りなどしながら、サッちゃんがいて、そこで座って話したり、時には栗とか胡桃取りなどに連れて行ってもらいました。

その村では、小学校を出ると、高等小学校に1年か2年行き、中学校、女学校に行くのは、決まっていたわけではないでしょうけど、庄屋とか地主クラスの家の子で、或いは勉強がよくできると、行かせるということだったかも知れません。
お隣の息子さんは、16歳か17歳と聞いたのですが、当時の国鉄(正確には、国鉄と略称される国営鉄道の前の、省線などと呼ばれた、国の鉄道)に勤めていて、背も高いし、大人の雰囲気で(と言って、二三回見かけたことがあるだけで、話をしたこともないのですが)、休みの日など窓の所で煙草を吸っていて、美人のお姉さんが美味しいか、などと聞いている場面も見かけました。
この二軒では、家の雰囲気が全く違っているという感じでした。

母は、付き合い好きと言うか、こんな人とも親しくしていたのかと思うことがある人でしたが、ある日ずっと離れた家で、ミシンをかけていて、そこの女の子に洋服を作ってあげていると聞いて、驚いたことがあります。

東京へ帰ることが決まった時、当時は汽車の切符が非常に取りにくかったのですが、お隣の鉄道員さんに頼んでいたのには、いつの間にと意外でした。
彼が中央駅に勤めていたことにも驚きましたが、私達が駅に着くと、すぐ出て来て、切符を渡してくれたものの、帽子をあみだにかぶって、無言で、全く気が進まないことを、おそらくお父さんにでも言われたのでしょう、当時の二等車、今のグリーンを用意してくれていました。

勤勉そのもののSさんと、都会的な雰囲気のあるお隣では、今考えてもあまり相性はよくなく、と言って、勿論喧嘩などしないのですが、時折パパッと火花が散るのを感じました。
ある日サッちゃんと小川の洗い場で話していると、非常に大きな鯉が目の前を泳いで行きました。
すぐにお隣のご主人が少し先の方で、両岸の草の生えた辺りを浚い始めました。
暫く見ていても鯉は捕まらず、帰って、Sさんに鯉のことを話すと、それはこっちに来ていると、お隣と大分離れている、しかも上流の方になる、自宅の裏の流れを浚い始めました。
30分、もっと経って、お隣が諦めても、Sさんは粘り強く、流れから岸に向って、豆などをちょっと乾したりする時に使う、竹製の大きなちり取りのような形をした用具で万遍なく浚い続けました。

見ているのも飽きたのですが、帰るのも悪いと思って、眺めていると、何と鯉は掴まったのです。食用の鯉では見たことのない大きさで、どこからか小川に紛れ込んだのでしょう。
Sさんは控え目な歓喜の声を挙げ、ウチでも大騒ぎになりました。
お隣に見事な枝豆の束を持って行きました。どういう時にどういう挨拶をし、どんなものを手土産にするか、地域独特の例を見たような気分になりましたが、こんな立派な枝豆も育てているのだとも思いました。

夜の食事に煮た鯉が出されましたが、皆無言でした。美味しくなかったのです。油で揚げればもう少し美味しくなったかも知れません。努力の賜物の味は口に合うとは限らないわけです。それにしても、この鯉が、ここで食べた唯一のお魚です。

サッちゃんが、胡桃が取れる所に連れて行ってあげると言って、結構歩いて、少し高い所の雑木林に行きました。
その時、初めて胡桃は梅の実のような青い果肉で覆われていて、その中に茶色の固い実があることを知りました。正確には、それまでたまにしか見たことがない、胡桃を、その後見る機会があると、これは果肉をとった姿と思ったということで、カラスが胡桃をくわえて道の真ん中に置き、車に轢かせて割るコマーシャルは、ある意味人為的と思ったりしました。

結構な量の胡桃を、持ち帰ると、いつも火を絶やさない、土間の竈で焼きなさい、火に入れる前に、金槌でヒビを入れてから、そのまま入れると爆発して怪我をすると注意されました。
この時の胡桃の美味しさが忘れられず、後年、胡桃割りなどを買って、胡桃を常備した時もありました。

Mさんの家では、一見何事もなく、毎日が過ぎて行ったのですが、ある時期から、私は、占領軍に殺されるという噂もあった東京に帰りたいという思いが強くなり、母に口に出して言ったこともありました。

学校は、分校と呼ばれていましたが、一学年一クラス20人余で、小さい学校と言う感じはありませんでした。私のクラスには数人の空襲被災者がいて、全校ではその数倍の人数がいたことになります。

最初の中、問題もなく、机が隣り合ったNさんとは特に親しくなって、家へ遊びに行ったこともあり、もう一人、Mさんとも親しくなりました。
名前を忘れてしまったのですが、クラスのリーダー格で、子供ながらに大人になっても美人になるに決まっている顔立ちのXさんも、私を自分の家に誘って(大地主とか大きな家でしたが)、最初の中はチヤホヤしてくれました。

敗戦となって、クラスでは特に変化がなかったと言うか、上述したように、農繁期が休みとなって、夏休みに臨時授業の期間もある、変則的な登校日だったのですが、ある日突然と言う感じで、一人の教師が、「お前ら、焼け出されもん」と言って、「お前ら、街のもんは、農家がせっせと働いている時に、浴衣なんか着て、チャラチャラしよって、空襲に遭ったんも罰じゃ、日本が負けたんは、お前らの所為じゃ」と罵声を浴びせたのです。

第一声は、ポカンとして聞いていたと言うか、第一、浴衣を着てチャラチャラなどしていないし、できるはずもない、ずっと前から、特にお米は配給も少なくなって、闇米を農家に買い出しに行って、凌いでいる位で、寧ろ農家は、食べ物の心配もなく、地域的に空襲もされない、街の人間よりずっと恵まれているのに、何故私達の所為で日本が負けたなどと・・・当時それほど具体的に思ったわけではありませんが、何を言われているのだろうという思いを、今解説すれば、そういうことになるかも知れません。

ただ教師が突然激しい言葉で特定の一部の生徒をなじり始めたということは、茫然とする事実でした。

校長ではなく、クラスの担任でもないのに、その教師は学校で一番勢力を持っているという感じでした。
Mさんの家に置いてもらうようになって間もなく、私の学校編入のことで、わざわざ訪ねて来たことがあって、私の父が一年次終了後幼年学校へ進学した中学が、自分の母校と言って、父のことに関心を持ったりして、愛想よく母と話していたのに、ある日豹変したと言う感じでした。

一人や二人が対象になったわけではなく、今迄に触れたこともあり、今回はこの教師について詳しく書くつもりはありません。
とにかく、その日から、空襲後、市部からこの学校に来た生徒を、その教師は焼け出され者と呼ぶようになり、どうしても東京に帰りたいとはっきり思うようになったのは、学校も田畑を持っていて、収穫時は生徒も手伝わされるのですが、私達「焼け出され者」はその教師によって一つのグループとされ、作業が終わった後、非力を責め立てられたことです。
かなり遠い所で歩くだけで疲れ果て、必死に作業をしたのですが、農家の生徒とは仕事ぶりにかなりの差が出て、帰りの重い荷物を、見かねた大八車の人が載せてくれたのですが、それも使えないことに加算されたと思えます。
もっともこの日、農家が本業の生徒も仕事ぶりがよくないと怒られたのですが。

この教師がこういう態度でも、他の先生方はごく普通で、一番助かったのは、一度美人のボスが手のひらを返して、取り巻きと一緒の時罵声を浴びせましたが、それだけで、クラスの生徒は、特に反応することもなく、淡々としていたことです。

一人誰とも距離をとっている女の子がいて、その子は男子生徒から苛められ、時として蹴飛ばされたりすることもありました。
彼女が、男子から地蔵前に呼び出されたと女の子達が深刻な顔で話していて、何を意味するのか分からないまま、その頃から彼女が休み出したのか、はっきり覚えていないのですが、数日後、彼女が赤ちゃんをおぶって、大きな荷物を持った家族とMさんの家の裏の一本道を、本当に活き活きした表情と軽い足取りで歩いて行くのを見かけました。
鉄道の駅に続く道で、おそらく帰る所に帰ることになったのでしょう。
話をしたこともないので、声もかけませんでしたが、よかったという気持ちに羨ましさも加わりました。

本気で自分達はいつ帰れるのだろうと言うか、このままこうしてはいられないと思いました。
その頃には、誰と言うことなく、何がと具体的にも言えないのですが、微妙に空気が変わっていたと思います。
その教師が、焼け出され者などと、公然と教師によるいじめを始めたのには、何らかのそれに沿う事情があったのでは、例えば地域の意向とか、生徒の四分の一程の「焼け出され者」を抱えた学校の事情など、と考えたりもするようになったのは、ずっと後に当時を思い出してのことです。

Mさんの家で、はっとするようなことや嫌味を言われたことはなかったのですが、ある日、N子さんが、かき餅を焼いてあげると、家の横の狭い出入り口で,七輪で焼き出した時、お姉さんが入って来て、あ、そんなことをして、という意味のことを言って、睨んだので、初めて私はそれまでと異なる、はっきりした空気、事情に気がついたのですが、N子さんは、気にせんと、食べたらええんよ、と言って、何枚か焼いてくれたので、遠慮がちに食べました。そして、私達はもうこの家を出た方がいいのだと直接的な思いを持ちました。

食事はごく質素でも、食間のおやつのようなものは、後で考えると、果物類とかトウモロコシ、お餅やかき餅類など色々あり、それぞれ勝手に食べていいという感じで、私達にも勧めてくれていたのが、いつ頃からか、カット?されることが多くなっていました。

その前に、お米は当時は勿論、その後も長く配給制度で、例えばMさんのお宅で一緒に白米のご飯を三度三度食べていたことも、問題だったかも知れません。

今頃になって、私達、空襲被災者は、特にお世話になった農家にとって、一時的な避難民だったのだから、もう少し早くとりあえず他へ移るべきだったのではないか、ということと同時に、何故今迄気づかなかったのかと不思議にさえ思う理由を一つ思い出しました。
それは、出征していた弟さん三人が帰って来るのに、部屋を空けなければいけないということです。私の父も三年も抑留されて、突然帰って来たように、いつ復員するか、全く知らされず、どこが戦地か(それは内地の家族に分かることではありませんが)、事情によって、復員する時期も大きく異なりました。

三人の兄弟について何の連絡もないので、不安を口にする家族もいたのですが、Sさんは、その都度、何故そんなことを言うのだ、~くん、と三人の名前を順に君付けで呼んで、絶対帰って来ると、写真を見上げながら、自分に言い聞かせるように言っていました。

ある日、母は、数日内に東京に帰ると言いました。
Mさんのお宅では、一日分のお握りと、お米や当面必要なものをリュックいっぱい用意してくれて、それをSさんが背負い、その上に荷物ものせて、かなりの距離を歩かなければならない、鉄道の駅まで送ってくれました。
友達のNさんやMさん、他の親しかった人に別れも告げず、突然の旅立ちでした。

途中で、伯母が疎開していた下諏訪に二三日立ち寄ったのですが、その途中、汽車の中で、初めて占領軍のアメリカ軍人に出会いました。
二等車は案外空いていて、当時は座席指定などなかったので、乗客はバラバラに座っていたのですが、車掌がやって来て、全員一方につめて欲しいと言い、何事かと思っていたら、アメリカの将校が乗って来たので、驚きました。二人、非常に大きな荷物を横に置いて、窮屈そうにしていたのですが、車掌が何か言っても通じず、近くに座っていた男性が、立って通訳し、荷物を隣りの椅子に置くことを勧めていたと分かりました。二人は大笑いして、言われた通り荷物を移したので、私達の緊張も解けました。
身振り手振りで、大袈裟に言えば、語学の直説法で簡単に伝えられることですが。

その翌日か二三日後に松本で、今度はいざこざ、交番の近くで、眼鏡をかけた酷薄な顔つきの占領軍の将校が、一人の日本人の自転車を激しく揺さぶりながら、大声でどなりつけており、私達はその現場に行き合わせてしまったのですが、その中に、アメリカ人は交番に入って、電話を大声でかけ始め、中々話がつかない模様。一人の男性が自転車の男性に近づいて来て、今の中に逃げたらどうですか、と話しかけ、自転車の男性は、「いや、僕は日本人ですから、逃げません」とキッパリ答えていたことをずっと覚えています。

どういう事件だったのか、後になっても、全く見当がつかず、ぶつかったなどと言うことではなく、もしかして、当時日本人は自転車に乗ることを禁じられていたのではないかと思ったことさえあります。

私達がMさんの家を去ったのが、10月の末だったか、11月に入っていたか、覚えていないのですが、下諏訪が非常に寒かったこと、汽車で通訳をかって出た男性と、松本の自転車の男性、逃げることを勧めた男性が、いずれも厚い冬のコートに冬用のソフト帽をかぶっていたことを記憶しており、11月、それも半ば前後ではないかとほぼ結論づけているのですが、汽車の途中で、水に浸かった稲田を見て、この辺で台風による水害があったらしいと思ったのですが、それはおそらく東京に近い処だったと思うのですが、11月中頃まで稲刈りをしない地域があるだろうかと、この矛盾を今でも時折思い出すことがあります。

下諏訪には、祖母も、伯母と一緒に疎開していたのが、入れ違いに東京に戻っていて、伯母一人がいたのですが、その時、東京に大きな家が何の被害も受けず残っていて、伯父や従兄もいるのに、伯母が東京に戻っていないことを何故だろうと思いました。まだ東京に戻らない方がいいと伯父達が考えていたのではと無意識に感じたのかも知れません。
伯母が小声で厳しい口調で母にずっと話していたことも気になりました。

大きな家の離れを借りていたのですが、そこの家の私と同じ位の年の娘さんと親しく話したりして、長く彼女の顔も覚えていたし、朝、友達が誘いに来て、外から大きな声で呼ぶのが、独特の抑揚があって、今でも覚えています。例えば、花子さん、だと「はなこ」と少し上がり調子で言って、「さーん」を極端に下げるのです。
諏訪湖へ行って、近くに温泉とあったので、入ってみたら、公衆浴場のような所だったのですが、お風呂にゆっくり入るのは、何ヶ月ぶりかのことでした。

松本も、どうしてそこにいたのか、乗り換えとかではないことは、はっきりしていて、旅の途中だったら、いざこざを眺めている筈もないし、しかも夜だった、と言って下諏訪からわざわざ松本に行く・・・とにかく伯母の所には一日二日ではなく、数日滞在したのではないか、その間に、もともと外出好きの母が、伯母と顔を突き合わせているのも煙たいし、あちこち出かけたのかも知れない・・・今思いついたこともあります。

東京に帰った途端に、少々の不安は霧散して、もう何の心配もない、心が解き放たれた気分になりました。ずっと親しんで来た地が持つ魔力のようなものだと思います。
厳しい食料難でも、何もかもナイナイ尽くしでも、仲のいい親戚に再び囲まれて、私が一人で頑張る必要もなく、自分のことを主に考えて生きて行く日々を取り戻しました。
申し訳ないけど、疎開地のことも忘れました。

しかし三年後、関西へ越すことになって、親しい親戚もなく、疎開とまた異なる、見知らぬ地で、暮すようになり、急にまた疎開時代のことが思い出されるようになりました。一つは、私ももの考える年頃になったからかも知れません。
例の教師のことが再びトラウマのような形になって、時折激しい感情が沸き起こり、自分でも持て余したほどです。
母は、Mさんの所や、空襲直後お世話になったお宅にずっと年賀状を出していて、先方からも来ていました。

誰から聞くのか、Mさんの家族からは、聞けるはずのないことも知っていました。年賀状を交わしていたのは、Mさんだけではなかったのかも知れません。
N子さんが亡くなったと知って、衝撃を受けました。当時から結核を病んでいたと母は話しました。
色々なことをごく具体的に話してくれる人でしたが、当地では、火葬は露天で、親族の手で行われるということを、急に話し始め、それが非常に詳しい描写で、半分怖いと思いながら、自分に語るような調子だったことを今更のように思い出したりしました。

弟三人も戦死の公報が来たと言います。
一度に四人の弟妹を失ったSさんは、病んで、暫く療養したそうです。
唯一明るい知らせは、お姉さんが結婚する時、大きな家を建ててもらったということです。おそらく戦後の農地改革がM家に有利な結果を齎したのでしょう。
もしかすると、Mさん姓が受け継がれたかも知れません。
Mさんの家族と、一緒に過ごした日々には、言葉では表せない、独特の懐かしさを抱いています。

私達が、空襲の夜、自宅を出てまず辿り着いた、広大な田圃地帯が、全て住宅地となっていることは、かなり前に知っていました。
少し前、M家があった地域は、新聞社や映画館、大型店などの大きなビルが建ち並び、嘗ての中心地よりはるかに賑やかな地域となっていると、当地の知人から聞き、信じられない気分でしたが、実際に地図を見てみたのは、最近のことです。
あの地域が農地以外に変わることはあり得ないと思い込んでいました。

人生を振り返ると、非常に多くのことを忘れていて、特に思い出そうとしない、また思い出したくないままに、それこそ忘却の彼方に沈んでしまうと思うのですが、ほんの短い期間のことでも、自身の人生と言われて、忘れることのできないことは、詳しいことまで思い出そうとしたら、まず自分で思い出すべく周辺の出来事や事情を思い出して、連想を呼び醒まそうとしたり、人に聞いたり、調べたりして、更に確かな事実を浮かび上がらせようとします。

お読み頂いている方には申し訳ないほど退屈な、このプライベートな一文は、上のようなことを試みて、今迄より少し細かい事実が得られたものです。まとまった文を書こうという意識を持たず、踏み込んだことは避けて、事実をチェックするというスタイルで書いてみました。

最後の最後に気がついたことがあります。Mさんの家で過ごした何ヶ月かは、米どころの、一番美味しいお米を、竈で大きなお釜で炊いたご飯、人生で最も美味しいお米を毎日頂いた唯一の日々であるということです。  《清水町ハナ》

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