思い出エッセイ〔416〕映画雑記帳176「【推理作家ポー 最期の5日間】感想」

 【推理作家ポー 最期の5日間】(ジョン・キューザック、ルーク・エヴァンス、アリス・イヴ、ブレンダン・グリーソン、監督:ジェームズ・マクティーグ)。原題は“The RAVEN”(大鴉)、言うまでもなくポーの有名な詩のタイトルです。内容解説の邦題はやむを得ないのかしらと思いますが・・・

コワイかなあ、コワイにきまってる、「アウトレイジ」にしようか、でもこれも人がボンボン殺されるし、時間も合わない、それに何てったって、エドガー・アラン・ポー、そんな単純な迷い方をして、見てみました。

コワイと言うのは、『アッシャー家の崩壊』のような、ジリジリと底知れない怖さの沼に足をとられていく、そんな風なジンワリとした恐ろしさを思っていたのですが、映画が始まって、残酷極まりない殺人現場や酷い遺体が次々と、全く辟易しました。

何しろ、殺害現場に駆けつけたベテラン?の刑事が遺体を見て、吐く場面があるのですが、観客は、身動きのとれない被害者が恐怖におののく様、誰も助けには来てくれず、こんな場面、見た記憶がない、という残酷な過程をじっくり見せつけられるのですから、たまったものではありません。

途中まで、これを見たことを後悔しました。しかし終盤に近づくにつれて、納得する感じが湧いてきて、最後、意外な結末、そしてもう一つ鮮やかな締めくくりがあって、ポーへの近づき方、理解のし方、こういうのもあり、ではと、この映画を評価する側に廻りました。

エドガー・アラン・ポー像に迫るに、ポー自身を描くと言うより、彼の作品からポーの真の姿を導き出そうとする試みとも言え、本質的な怖さと異なる、直接的な恐ろしさを次々と見せつけることによって、映像的と言うより映画的な効果、成功を意図したとも思えます。


冒頭、二台の馬車が暗い道を大音響を立てて疾走する。驚かされるし、大きな事件の予感を連想させるシーンとしては充分です。ただ【シャーロック・ホームズ】でも同じような場面がありましたね。

19世紀のアメリカ、ボルティモア。画面はあくまで暗く、おどろおどろしい雰囲気。
一軒の家からただならない悲鳴。内側から鍵がかかる音。ドアを破って入ると、母娘が無惨な姿で殺されている。窓も開けられない。密室殺人である。
しかし、駆けつけた、フィールズ警視正(ルーク・エヴァンス)は、窓がバネで開くことをすぐ見破り、エドガー・アラン・ポー(ジョン・キューザック)の小説、『モルグ街の殺人』の出だしに似ていることを指摘する。

一方、ポーは、戸外で瀕死の状態で倒れているところを発見され、間もなく死亡する。
この映画は、ポーに何が起きたか、時間を戻して回想する形式をとっています。

ポーを演じたジョン・キューザックですが、主役の貫禄はあるけど、貫禄のあり過ぎという印象でした。或いは逆に平凡。
わめいたり、暴力を振るったり、理不尽な行動ばかりとる、でもポーという感じからは遠くて、最初馴染めませんでした。
ポート言えば、私が、父が持っていた「世界文学全集」で読んだ大昔も、写真があって、痩せて、病的な鬱々たる表情で、今にも倒れそうな様子で、それは現在に至るまでポーの印象そのものでもあるように思うので、違和感を持ったのかも知れません。

もっとも、この映画では、途中から捜査に協力することになるし、実は案外体力があって、健康な、と言うか真っ当な、と言うか、正確な判断が必要とされる役どころだし、ポー自身、ウェストポイント士官学校に入学した位で(中退のようですけど)、自堕落な面はあっても、体力もあって、逆に病み疲れた姿の方が一時的なものだった可能性もあります。
いずれにしても、ストーリーが進むに従って、ポーらしくないポーもありかなと思うようになったのですが。

少々脱線しました。話を元に戻すと、自分の作品をカットしたと言っては、新聞社の編集長のところに怒鳴り込み、当時人気の絶頂にあったロングフェローを口を極めてこき下ろし、その間に、またポーの作品の筋書き通り、と言うか、殺人方法を真似た、残酷極まりない事件が次々に起きる。

ここへきて、フィールズも、犯人はポーの作品を模倣して殺人事件を起こしていると断定し、ポーに捜査協力を要請する。
ポーは、名家の令嬢、エミリー(アリス・イヴ)を愛していて、エミリーも彼と結婚したいと思っているが、父親(ブレンダン・グリーソン)が頭から反対している。
エミリーは、自分の誕生日に開かれる仮面舞踏会で皆の前で求婚すれば、父親も承諾せざるを得ないだろうと言う。

しかし、当日、髑髏の仮面をつけて馬で乗り込んだ男が会場を荒らした最中にエミリーは何者かに連れ去られてしまう。
犯人からは、ポーに、新聞に作品を書き続けろと言う脅迫状が来る。その出来によってエミリーの運命は決まると言う。

必死にエミリーの捜索をする間も、ポーの作品を模した残酷な殺人事件が起きる。
遂にはポーの仇役でもあるが、支持者でもある編集長(ケヴィン・マクナリー)まで殺される。
観客には、棺の中に閉じ込められ、呼吸もできなくなっているエミリーが刻々と死に近づく姿が見せつけられる。
退屈することは絶対ありませんね。

終盤は急にトーンが異なった感じがしました。引き込まれるし、説得力もある。
犯人も分かって、更に話は結構続くのですが、その場面や下りで感じた、力、説得力、納得感、急に映画全体が引き締まった感じがしたのは、何故だろうと思っています。
死を賭して、エミリーを救おうとしたポーの姿に、彼の死生観と言うと、ちょっと違いますが、これで生を終えてもいいと言う、自身の人生、終わり方はこういうものだと自分にも観ている者にも納得させる(ここ、もうちょっと迫真の演技が見たかった)。
死の間際、ポーは、あるひと言を発し、それがもう一つの鮮やかなエンディングに繋がると言う映画的にも非常に効果的な結末となっています。
ポーの人生だけでなく、全作品を締めくくったと言えるかも知れません。


中学生の頃読んだポーの作品で、一番怖いと思ったのは、『渦』です(今は邦訳ではこのタイトルは使われていないようですが)。次に『アッシャー家の崩壊』で、『早過ぎた埋葬』と併読して、死者は見るも怖ろしい微笑を浮かべていた、という下り(正確な文ではありません)が忘れられなくて、微笑を浮かべて死んだ、などという記事などを見ると、それだけで怖くなり、笑って死ぬなどということは絶対してはいけないなどと、ずっと思っていました。

学生時代ポーの詩の講義も聴きましたが、講師のあまりにナルシシスティックな態度についていけず、ポーの詩に深入りすることもありませんでした。

今も内容のポイントを覚えている小説は、数編位ですが、真のミステリーを初めて読んだのはエドガー・アラン・ポーからであるという思いは変わっていず(それまでに江戸川乱歩他、結構読んでいましたが、ご存知の通り、乱歩の名はポーから取ったものですし)、それだけにこの映画にも勝手な思い入れや期待もしたのですが、最初チョロチョロ、中パッパ、最後の炊き上がりはまあまあ結構などと、茶化した感想を書かないと納まりがつかない位、この映画を見ている最中の私の感情的評価は揺れ動きました。

更に、書いている中に感想も変わってくるのですが、ここへ来て、この映画はポーの作品を通してポーを描く、真の姿に迫ると言うより、邦題の通り、ポーの最期の五日間の謎を、虚実入り混ぜて解明しようとするスタイルでエンターテインメント作品に仕上げたと言う方が当たっているのではないかという気がしてきました。
あまり魅力のないタイトルだけど、正確なのです。

血を見るのもイヤと言う方にはお勧めではありません。怖いシーン大好きな方、さすがにこれはという場面がいくつか用意されています。
ポーのミステリー・ファンには、有名作品の、禍々しい殺しのシーンの忠実な再現が見られます。

まあ、いずれにしても、ポー関連でも、二度と同じような映画は作れない、と言ったら言い過ぎかも知れませんが、このようなスタイルのポー浸り、ポーだらけの作品を見るのも一興、そして終盤の引き締め方と言うか、まとまり方と言うか、きっちり終止符を打って、見事、フィールズ警視正役のルーク・エヴァンスも、メリハリのきいた、際立った好演で、やはりポー・ファンは(絶対)見ておくべき作品である、と最初の頃と少々考え方が変わってきました。
クドクド書いてしまいましたが。

そのついでにもうひと言、これを書いても差し支えないと思うのですが、犯人は熱狂的なポー・ファンであること、なるほどそれなら、あれもこれもあり、と一気に分かる、それがストーリーを最期に引き締める一番の要素になったと言えるかも知れないと今気づきました。  《清水町ハナ》

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