思い出エッセイ〔411〕「昔の昭和:戦後の生活2家庭のエネルギー事情など(2)」

 昭和20年(1945年)8月15日。日本敗戦の日です。我が家にとっては、それより一ヶ月弱前の7月19日、米軍の空襲により、疎開先の北陸の街が壊滅した日が、事実上全てに敗れた日であると言えます。それからの、農家に置いてもらった何ヶ月かは、家庭のエネルギー事情を語れる日々ではありません。

同年の秋、東京へ帰れることになり、それからの、言わば、敗戦直後の家庭のエネルギー事情(と言えるかどうか)を、当時の生活の様子と絡めながら書いてみたいと思います。

最初から寄り道と言うか、後戻りをすることになりますが、空襲の時、敵は先に油を撒くと言われていて、田んぼの水まで燃え上がります。
敵機が去るまで、小川に首まで浸かっていたので、全身泥だらけのびしょ濡れ、夏なのにガタガタ震えが止まらない、その情けない姿に思わず笑い出し、一時ちょっと混乱した母も笑ったので、子供心によかったと思ったことを今でも覚えています。

広大な田んぼの外れにある、いつもお米の買出しに行っていた農家に辿り着いて、迎え入れてもらったまでは覚えているのですが、それから眠り込んで、目を覚ました時、優しかった、年上のいとこが、私の顔を覗き込んで、「疲れたんやねえ、かわいそうに」と言ったのを聞いて、一瞬夢だったと思った、その時が、全て零になった始まり、その時までの生活が二度と戻らない思い出となった時だったと、今では思っています。

同年の秋、東京の荻窪にあった、母の実家に帰りました。
随分久しぶりに思えましたが、東京を離れてから、一年少々しか経っていませんでした。
中央本線で帰京したので、都心の焼け跡を見ることなく、荻窪は、駅周辺が空襲に遭ったと聞いていましたが、既に闇市が隙間なく建っていて、祖母の家までの道筋もそのまま残っていました。

「荻窪は、東京で最初に(正確には二回目)空襲を受けた、武蔵野市(当時町)の中島飛行機の荻窪製作所があったため敵の一番の空襲目標になっていた―荻窪署ホームページより( )内筆者―」ということです。

祖父母の家と隣り合っていたテニスコートも、前のお邸も、生垣で向かい合っていたお宅も、変わりなく、ただ、幼馴染がいた、反対側のお隣とその前のお宅は住人が変わっていました。

懐かしい祖父母の家も、見た目は変わっていなかったのですが、住人は変わっていました。
私が疎開した、前年19年中頃までは、何かと言っては、多くの親類が集う場だったのですが、サイパン陥落後、東京は、11月14日に本格的な空襲を受けて以降、100回以上空襲され、荻窪の家もカラに近い状態で、年輩の男性に留守番を頼んでいたのですが、その人が戦後家族も連れて来て、居座ってしまい、そこに疎開先から戻った祖母を始め、官舎から出ることになった親戚などが住んでいました。

母はそのまま実家に住みたかったのですが、祖母や伯母が西荻窪で二階を貸してくれるというお宅を、伝手で決めていました。
陸軍中将の未亡人とお嬢さん二人住いの、風格のある、と言ったら妙な言い方かも知れませんが、荻窪の家が、それまでと異なる、雑多な印象の家となっていたのに対し、佇まいも家の中も庭も、端整、塵一つない、隅々まで磨き上げられている風の二階家のお宅でした。

厳しい感じの年輩の夫人を、母は最初から苦手としていました。
確かに小さいことをすぐ注意されて、あ、階段を上がって来る、またお小言、という感じでした。
結婚前のお嬢さんは、感じのいい優しい人で、私は彼女にピアノとお琴を習い、何ヶ月も経たず、その家を出ることになった後もお稽古に通っていました。

この時期が、お米が僅かしか配給されず、何本かのサツマイモを大きなお鍋で煮たスープ状のものを食べたことも何度もある、食料事情が一番苦しい時期だったと思います。
と言って、西荻窪駅前には露店の闇市が建ち並んでおり、例えば金太郎飴とか名前を忘れてしまいましたが、きな粉をまぶした茶色の柔らかい飴など、サッカリン、ズルチン等の人工甘味料を使ったお菓子などは、早い時期から売られており、何でもよければ、お腹に入れるものは、闇市で売っていたのですが。

西荻窪の駅の辺りは、昼間も粗末な服装の人々が多く歩いていて、私はたまたま掏りが男性のコートの内ポケットから財布を掏り取るのを目撃し、どうしようかと迷っている中、男性は全く気づかず歩み去ってしまいました。
スリは、法被姿に鳥打帽という目立つ姿で、掏った後、さっとその場から離れて、その後闇市などをブラブラ眺めていて、小学生の子供の、手に負えることではなかったと思いますが、今でもちょっとした後悔の念で思い出すことがあります。

殺伐とした雰囲気でしたね。
山花秀雄氏が演説をしている姿を時々見かけました。
昔、乞食などと呼ばれていた、物乞いをする人の姿もありました。
白衣の傷痍軍人の募金もその頃既に始まっていました。
都心へ行くと、公園などに、今で言うホームレスや、戦災孤児と呼ばれる、空襲で親を失った孤児達がたむろしていて、ものをねだったりして、遠足のお弁当を分けてあげたこともありました。

年明けの二月の終わり頃だったと思いますが、母はそのお宅を出て、荻窪に帰ることを決めて、実家の応接間が私達にあてがわれることになりました。
その頃には、祖母と、外地から戻っていない伯父の家族が、一階の三室に住み、ウチと同じく北陸で空襲に遭った親戚一家、叔父達が二階のそれぞれ一室に住み、他の叔父達や親戚も頻繁に訪れる、そして居座りの家族五人が、祖母の部屋となるはずだった、一番いい離れの部屋を占領し、言わば、一軒の家がアパート状態になったということです。

と言って、大ざっぱな区分のようなもので、特に私達子供は、どこの部屋でも自由に出入りしていました。ウチの応接間は、玄関の横の独立した部屋で、ドアもあるので、却って皆何となく遠慮して、部屋の前で声をかけたり、用事を告げたりという感じがありました。

住宅事情が非常に厳しい時代で、居座りの家族も、他に行く所がなかったのかも知れませんが、お離れと呼ばれていた部屋は、長く病んでいた祖父が、昭和18年の12月に亡くなるまでベッドで療養していた特別の部屋で、そこを占領されて、祖母も自分の部屋がなく、何回か明け渡すように申し入れても、何の反応も見せず、たまにすれ違っても、挨拶もせず、ということで、他の親戚からも強く言われていたことでした。
いつも食べ物で争っている声が聞こえ、量りで計って食事を分けている姿が見えたりして、私達子供も、退き気味でしたから、出て行ってもらうことは殆ど期待できなかったわけです。

この頃と言うか、時代と言うか、私には、忘れがたい、不思議な感じさえするほど、それまでにない一種の活気がある日々でした。
配給になるお米が玄米とか二分づき、三分づきで、一升瓶に入れてせっせと棒で突いて糠を落としたり、後述するパン焼き器でパンがうまく焼けるか、皆で食い入るように見守ったり、叔父達の煙草を簡易煙草巻き器でせっせと巻いたり、子供も大人と一緒になって、できることは何でも手伝った日々でした。
敗戦を境に、一族の運命は天と地ほど変わったのですが。

私の一存で書くことができないことも多く、ごく大まかに書くと、外地で苛酷な体験を強いられたおじ、幸い内地で無事でも、末は元帥か大臣かと軽口で言われたおじもゼロ以下からのやり直しとなり、私の父も戦後外地で約三年抑留されました。

しかし何組かの親戚が、実家に集まって、一部屋暮らしをしながら、近くの親戚の助けも得て、それぞれが家族を養う、と言うか、当時は食べさせるために文字通り何でもして、家族も子供も協力して、困難な日々を生き抜くために頑張ったバイタリティを本当に懐かしく思い出します。

エネルギー事情を書かなければなりませんが、荻窪の家には幸いガスが通っていました。おそらく東京の多くの所で、復旧していなかったと思いますが。
ガスを順番に使うということではなく、と言って、食事は一緒ということでもなく、一回でまとめてできること、共同でできることは、協力してという感じだったと思います。どっちみち、スイトンなんて、大鍋いっぱいのお湯を沸かせば、具も僅かしかないし、簡単なものです。

それから電熱器がありました。
簡単な器具に渦巻状のニクロム線がグルグルと通してあるだけのもので、お湯を沸かしたり、ちょっとした調理ができるものですが(今もあると思いますが。もっとちゃんとしたのが)、使用電気容量が大きいので、すぐヒューズが飛んでしまいます。

当時は今のようにアンペアを消費者から指定できることなどはあり得ず、どの位の許容があったのか分からないのですが、停電もあったし、容量オーバーで、ヒューズが飛んで、停電することも度々でした。
ヒューズが切れると、あらかじめ用意してある、替えのヒューズをつけます。
電源を切ることを忘れず、子供でもできることでした。

グニャグニャと柔らかい、ちょっと太めの金属なのですが、金属の種類が何なのか書いてなく、ヒューズを辞書で調べてみたら、fuse、つまり融けるという意味であることを初めて知りました。一定以上の電流が流れたら、融けて電流を断つというもののようで、その性質の金属であれば何でもいいということでもないでしょうけど。
許容量より大きい電気を通せるようなヒューズをつけられるという話を聞いた覚えもありますが、ボンヤリ記憶しているという程度です。

敗戦直後の電気製品として、パン焼き機がありました。
中国の火鍋に似ている、と言っても、火鍋には色々種類があるようですが、真ん中に丸い穴が開いて、ドーナツのような形をしたもので、パン?の材料を入れて焼く、誰が発明したのか、どこで売っていたのか、あの当時、似たような食糧事情を経験した方は覚えていらっしゃると思います。

結構見た目がよく出来上がるのですが、何しろ材料が、少々の小麦粉にその時によって、フスマとか、トウモロコシ粉とか、高粱(コウリャン)粉とか、当時配給になった代用食の粉がメインなので、味は美味しくはありません。
手間がかかるだけで、それならスイトンにした方が簡単、ということだったと思いますが、度々は、パン焼き機は使われませんでした。

既に上で触れましたが、食事は一応各家族別に作って、しかしとにかく分け合って、ということで、庭には家庭菜園を作って、南瓜とかサツマイモ、それから胡瓜、トマト、茄子と言った簡単に作れる野菜を作っていました。
サツマイモは茎や葉っぱも炒めて食べました。
金時が一番美味しい種類だったと思いますが、収穫量の多い種類が作られて、臺白という種類が優先されました。白っぽい、甘味が薄い、ザクザクで、本当に美味しくなかったのですが、今のタイハクは美味しいという記事を読んだ記憶があり、それとは別ものと記して置きたいと思います。

食用油なども時折は配給になったか、配給されても少量、或いは例えば鯨油とか(魚油も配給になったような微かな記憶があるのですが、あんな臭いもの、いくら食料難と言っても・・・疑問符ということにしておきます)、それまで使ったことのないものしか配給されず、一度、油と蓮根が誰かのお土産か手に入って、揚げ物が振舞われたことがあり、ハスの揚げ物はこんなに美味しいものかと思ったことがあります。

以前は付き合いのなかった、義理の姻戚の人達も訪ねて来て、お土産は食べ物が一番と、暗黙の中に?思われていました。新鮮な苺が皆にタップリ行渡るほどのお土産という時があって、子供達が(大人も)湧いたこともあります。

(以下は後から書いていますが、上記のそれまで付き合いのない姻戚とは、おばの一人の実家の人達で、有力者の一族とでも言ったらいいのか、荻窪からはかなり遠く、当時の交通事情を考えると、来ること自体大変だったのですが、その人達がおばにお土産を持って来て、苺もそうですが、私達はおこぼれに預かったこともあると、言うことと、気づきました。

偶然関係者の親戚から電話があって、当時の思い出を聞いたのですが、サンドイッチを作って、中に食紅でピンク色にした、サツマイモの餡を入れて、知人のお店に出したところ、すごく売れて、作っても作っても、間に合わなかったと意外なことを聞きました。
サンドイッチって、パンはどうしたの、と聞くと、フライパンで焼いたのよ、それを今のピザみたいに三角形に切ったのよ、パンは何で作ったの、メリケン粉よ(決まってるじゃない)、そのメリケン粉は、とまでは聞きませんでした。
おばがフライパンでパンを焼いているところなど、一度も見たことがないし、勿論当のピンク・サンドイッチなど全然知りません、聞いたこともありません、当然一度もお相伴に預かったこともありません。私達が学校に行っている時に作っていたのかなあ。
時期がずれた話かも知れないし、私達は関西に越したので、それから後のことかも知れませんが、いずれにしても、ピンクのサンドイッチと言い、それを商品にしてしまうところと言い、タフだったんですねえ、もしかしたら、おばの実家の協力も得て、組織的に?やっていたのかも知れない、一つの家の中のことでも、事実は自分の見聞きしたことだけではないと思い知らされました。そう言えば、一時猫を飼っていた・・・)

話を元に戻すと、トイレは家の両端に二箇所あったのですが、お風呂は勿論一つで、家族単位で順番に入るのですが、毎日たてることはできず、銭湯にも行きました。
お風呂の燃料が薪だったか、石炭があったか、覚えていません。
水事情については、井戸もあったので、特に困ったという記憶はありません。

父より早く日本に復員した方も何人かいて、父の近況を知らせに来て下さるのですが、中に荻窪の家の割りに近くに住む、通訳の方が、実家が農作をしているということだったか、何回も見えて、その度にお米が手土産で本当に助かりました。
ところが母はその有難い方をあまりよく思っていず、いつも玄関の上がりがまちに座り込んで話し込む姿を何故と思っていたのですが、折角早く日本に帰れたのに、奥さんの悪口ばかり、後で知ったことですが、外地に残して来た愛人の所に帰りたいと、そればかり言う所為だったようです。

以前父から送られて来た写真で、子供心にスゴイ美人と思った、現地の女性の顔を今でも思い出せますが、彼女が現地妻だったと後年聞きました。
通訳さんは、大きな戦争が始まる大分前に、現地に行ってしまい、その後無事だったかどうか、父から消息を聞いたようにも思うのですが、思い出せません。

西荻窪の小学校には学年末の三月末まで在籍して、荻窪の小学校に転校手続きをしたのですが、その間、年長のいとこが、自転車で毎朝、相当な距離を西荻の学校まで送ってくれました。
何しろ寒い時期で、私の、ピンクのネルで母が作った、頭からスッポリかぶる頭巾のような帽子を被って自転車を漕ぐ様子は、さすがに変で、道行く人が振り返る程でしたが、寒い寒いと言いながら、毎朝欠かさず定時に来てくれました。

当時の国鉄(現JR)は(省線と呼んでいましたが)、電車や汽車の様子は、これだけで一文書ける程で、木造車両もあり、ドアがなくて、木の板を斜めに打ち付けてある所もあり、まるで馬小屋でした。
とにかく今のラッシュアワーを遙かに?上回る混み様で、屋根に上る人もいて、トンネルで事故になったという報道もありました。
荻窪時代、大きく報道された、定員超オーバーに拠る大事故を今でも覚えています。

*昭和21年(1946年)6月4日、中央線、大久保駅-東中野駅間で、満員の乗客の圧力によりドアが外れ、乗客3名が外に投げ出され、神田川に転落して死亡。
*昭和22年(1947)八高線東飯能駅-高麗川駅間で超満員の乗客(屋根の上に乗客を乗せざるを得ない状況-ママ)で、カーブを曲がり切れず、後部4両が脱線。56メートル下の畑に転落。木造車体が大破。184名が死亡、495名が負傷。
・八高線は、昭和20年(1945)敗戦直後にも、正面衝突事故を起こし、客車が多摩川に転落。少なくとも死者105名、負傷者67名、という大事故を起こしています。
(以上、事故についてはWikipedia。それにしても調べてみて、国鉄も私鉄も大事故が多いことにあらためて驚かされました)

とにかく小学生の女の子一人で、特に朝の通勤時電車に乗ることは不可能な時代でした。

荻窪の小学校は、馬橋(現高円寺南)に引っ越さなかったら、一年生から入学しているはずの学校でした。開校数年の新しい学校でしたが、まるで私達の一生に合わせるように、数年前廃校となり、近くの小学校に統合されました。

食糧難は続いていたのに、西荻の時程大変だったという思いがないのは、祖母をはじめ、多くの親戚と暮らせるようになったためかと思いますし、小学校が超のつく、進んだ?教育で、毎日政治討論に明け暮れるような授業だったことが、逆に元気となったのかも知れません。

それと、学校給食が始まったことも、気分的に余裕が生じたことに繋がったと思います。
netでは1946年12月に都市の小学校で始まったという記事がありますが、もう少し早かったような気がします。根拠が示せないので、気がするとしか書けないのですが。
給食の手伝いにお母さん達の有志が駆り出され、私の母も出て、それ以後役員のような感じで、学校によく顔を出すようになったという事情もあります。

あまり美味しくないコッペパンと独特の臭いがする脱脂粉乳しか思い出せないのですが。
疎開前の東京でも学校給食があった時期があり、ちょっと美味しいものとして、野菜パンを記憶しています。
ごく細い、何の野菜か分からないものがパンの中に結構入っていて、ちょっと甘くて、美味しいと感じ、今でも懐かしく思い出します。

敗戦後一年二年でも、闇で流通していたり、占領軍の伝手を通じて、食料や燃料、贅沢品までも手に入れられる人もいたでしょう。
わが大家族は、そういうことは慣れたものというタイプはいなかったので(これには小さな疑問符をつけた方がよさそうですが)、敗戦後のモノ不足、食料難はタップリ味わいました。

ただ荻窪の闇市は、西荻窪よりずっと大規模で、組織的と言うとヘンですが、色々豊富に?ありました。
特にSと言うお菓子屋は、人口甘味料の和菓子を色々売っていて、大繁盛していました。
二種類のお菓子が大売れで、その一つが餡子に鮮やかな緑色の細かい飾りを一面につけたもので、ウチも時々買っていました。
その後支店を多く持って、大規模な菓子店になったのに、いつの頃からか、名前を見なくなりました。
後に大企業になったお店も何軒かあり、荻窪闇市出身などと、決して悪い意味ではなく、言われていましたが。

父の知人が今川焼きのお店を出していて、時々買いに行きましたが、そこのは甘みが全くなく、そう言っては申し訳ないのですが、美味しいと思ったことはありません。
人工甘味料も簡単には手に入らなかったのでしょう。

通訳さんのお土産のお米があると、ご飯を普通に炊いて、闇市でさつま揚げを買って、さつま揚げ丼をつくるのですが、このさつま揚げが、一体どんなお魚を使っていたのか(お魚ではなかったかも知れませんが)、当時は充分おいしかったのですが、今だったら、買って食べようという代物ではなく、結構長い間、さつま揚げアレルギーで、敬遠していて、文字通りここ何年か、美味しいさつま揚げに拘っています。

どこそこの、と言うものではなく、普通に買えるもので、好きなのが、ウチでチビさつま、と呼んでいる、袋入りのひと口サイズのさつま揚げです。イカとかタコとかエビ、ゴボウなどが薄いさつま揚げで覆われている、一番小さいのは2センチ位のものです。
つまりさつま揚げを食べているのか、タコが目当てなのか分からないという微妙な取り合わせのさつま揚げで、美味しさと言うのは、何にかかっているのだろうと考えさせられてしまいます。少々大袈裟な書き方だし、脱線もしましたが。

敗戦前年までの、特に馬橋での生活、すべて規則正しく、年中行事も必ず行い、お正月のお雑煮とお節に始まり、行事ごとの、或いは季節の決まりの食事もきちんと作り、節約とか倹約、もったいない、食事は残さない、ご飯の最後はお茶碗にお米ひと粒も残してはいけない、消し忘れ厳禁・・・そう言った躾、習慣、基本的な生活の仕方と言ったものが、敗戦を境に崩れてしまったことになります。
食事を残そうにも、節約しようにも、モノがないのですから。

一旦は、と付け加えて置いた方がいいかも知れません。生活が落ち着くに従って、昔から守って来た行事、慣習なども復活させるわけですが、しかしそれは以前と同じではありません。形の部分が大きくなったと言えるかも知れません。

例えば、もったいない、と言うのは、ただモノが余っているからだけでなく、モノ、特に食べもの、日常のモノに愛着を持っているからこそ有効な、或いは思いつく、言葉、表現、習慣かなと思います。
まあ、その後次第に、或いは急速に、生活が豊かになって、この当時には夢にも思わなかった生活の大きな変化が訪れるわけですが。

ないない尽くしの時代で、エネルギー事情という程のことも書けませんでした。どうしても話が食糧事情に行ってしまいます。(この項続く)  《清水町ハナ》

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