思い出エッセイ〔406〕「昔の昭和:戦中・戦後の生活1家庭のエネルギー事情(1)」

 まさか日本で起きるなど夢想だにしなかった原発事故により、見直さざるを得なくなったエネルギー供給、需給のあり方。直接のヒントにはならないかも知れませんが、私にとっての‘昔の昭和’、子供の頃の、昭和10年代後半から昭和30年頃までを(1941~1955年頃)ひと区切りとして、家庭の光熱事情+水・水道事情を、当時の生活の様子と共に思い出すままに書いてみたいと思います。

東京の荻窪にあった母方の祖父母の家は、何かと言うと、親戚が集まる場でしたが、わが一族が隆盛?の頃は、赤坂が実家の、祖母の親戚もよく訪ねて来て、いつも賑やかな家でした。
祖母の、十人以上いた姉妹の孫達まで一堂に会したことがあり、その時は何百人?という人数が集まって、「こうりょうげん」と呼ばれる広い公園のような所を借り切った(一区画だったかも知れませんが)ことを覚えています。
祖母の姉妹、私の大叔母に当たる人達で、元気だった人には、全員会ったことがあり、訪ねて来る時は、自分の息子や娘達、つまり母の従姉弟達と一緒で、大人ばかりのK家(祖父の姓)の大家族の中で、ほぼたった一人の子供だった(妹は幼かったので)私は、お客が親戚だと、環の中に入ることを許され、一番末席にきちんと座り、返事は「はい」ばかりという存在でした。4,5歳の幼稚園時代です。
「Kさんのお宅は大人の方がたくさんいらっしゃるという印象だった」と、後年連絡がとれた幼馴染の手紙にありました。

「こうりょうげん」には、当時小さな子供だった、私の世代まで集まったのですから、さすがに知らない顔も多かったと言うか、そんな意識も特に持たなかったと思うのですが、子供時代の一大イベントであり、血の繋がりというものが醸し出す、濃密な親近感、一体感の具体的な姿の象徴のように心に残っていて、しかも一種の頂点であり、二度とない特別な時間であることを子供ながらに意識の朧な部分にそれと気づかず留めていたのかも知れません。

この「こうりょうげん」という場所について、後年親戚の誰彼に尋ねてみたのですが、覚えている人がいず、集まったことも忘れていて、もっと早い時期に私より一つ前の世代に聞けばよかったと思っています。

「こうりょうげん」には何度か遊びに行ったことがあって、一番楽しみだったのは、石かセメントのようなもので作った長い滑り台があって、小山の上から、滑り降りることでした。短めのと非常に長いのと二つあり、長い方で降りるのは、滑り台の旅という感じで、私の人生で滑り台と言うと、これを思い出す位、忘れられない存在です。

東京の西、今の京王線の沿線辺りにあったような、記憶があります。「百草園」の近くではなかったかと思ったこともあります。

そして何と、「こうりょうげん」が分かりました。検索でヒットしたのです。勿論今まで何度も検索しましたが、影も現れませんでした。
感激しています。「こうりょうげん」のことは、今までにも二三回触れたことがありますが、今回も、まさかヒットするなど思いもせず、念のためちょっと打ち込んでみたのです。

「鮫陵源(こうりょうげん)とはアメリカ帰りの実業家・鮫島亀之助が建設した遊興施設です。現在の東京都住宅供給公社平山住宅の敷地に昭和6年着工、11年開園、15年全施設開園し、18年閉園しました。魚の養殖池・釣堀・料亭・遊園地があったそうです」(日野市立図書館:日野市についてよくある質問(レファレンス事例集)より)。

「鮫陵源」、まさかこんな字を書くとは。しかも正式開園から閉園まで僅か3年。「こつぜんと現れた」という記述もありました。
食事は料亭でしたのか、覚えていませんが、皆が集まれる屋内の部屋は用意されたと思います。

それにしてもヘンな名前ですね。鮫の陵(みささぎ)の源。鮫は建設者の名前をとったのでしょうけど、陵は天皇家の墓地にしか使わない言葉です。これについてはもう少し調べてみたいと思います。

長年頭のどこかにちょっとひっかかっていたものがとれた感じですが、このヘンな漢字を知って、何となくすっきりしない思いが残ってしまいました。

前置きが長くなりました。
私の父は海外勤務が多く、母はその都度私達を連れて、荻窪の実家に住み、祖父母や未婚の叔父達と暮らしていました。
私が物心ついた頃には、陸軍の将官だった祖父は三叉神経痛を病んでいて、寝たり起きたりで、ねえやと呼ばれる住み込みの女中さんが一人か二人、多い時には三人いたこともあり、近くに住む、伯父や伯母、従兄弟達がしょっちゅう訪ねて来る、いつも誰かが出入りしているという感じの家でした。
お正月などには、全員が集まり、客間と次の間の襖を取り払って、百人一首の対抗戦をしたり、双六や福笑い・・・二階で麻雀をするグループがあったり、何故か花札が子供達に許されていて、結構ムキになって遊んだものです。

母は、当時で言う出好きで、私達子供を連れて、杉並区に多く住む、親戚を訪ねたり、自分が行きたかったのではないかと思える程、遊園地、映画など、あちこち遊びに出かけました。「こうりょうげん」に何回か行っているのもそのためです。
井の頭公園で、母が漕ぐボートに乗ることもあったし、豊島園で、ウォーターシュートに乗ったり・・・疎開先でも、お祭の時にかかる木下サーカスや動物サーカス、今は滅びてしまった、差別の具現のような見世物。水芸、手品、映画、とあれこれ見に行くと言うか、遊びに行くと言うか、今更のように次々と思い出されます。空襲警報が鳴って、慌てて家へ走って帰ったこともあります。

話を戻すと、荻窪の家は、台所が当時としては広い家で、ガスが調理の主な熱源でした。
東京瓦斯は1885年の創業です。
お風呂は石炭が主、薪も使ったように思うのですが、はっきり記憶していません。

幼稚園に入る前、3歳か4歳の頃、祖父の療養のため借りていた熱海の小さい別荘に半年位住んだこともあり、自分自身にも出たり入ったりの生活だったという感じがあって、当時の生活をじっくり思い出すということもあまりないので、昭和15年の秋頃、軍人だった父が所謂日華事変から帰国して、陸軍省勤務となり、杉並区の馬橋2丁目(現在の高円寺南)に引っ越してからの日々について主に書いてみたいと思います。

親しい親戚のことと言えども、プライバシーに触れることは避けたいので、大きな家に学生のいとこが一人で暮らす状況になったため、私達家族が一緒に住むことになったと簡単に書いておきます。ねえやもいて、ウチで雇っていたと思い込んでいたのですが、伯母が雇っていたと知ったのは、数十年後伯母が亡くなった時です。
秀才のいとこは、学校から帰れば、書斎に籠もって勉強ばかりしていました。

荻窪から馬橋の家までは、今のJR、当時省線と呼んでいた国鉄の、荻窪駅南口の青梅街道、新宿方面にあった郵便局の前から出ていた都電で、「松ノ木」で降りて、歩いて数分の所でした。

荻窪の家は、関東大震災後、建売りの家を買ったと聞いていましたが、馬橋の家は、隣りの親戚の家と共に、注文建築の家だったと聞きました。
二家族の親戚が、形ばかりの垣根で仕切られた、言わば、一つの大きな敷地に、二軒の家を建てて住んでいたというわけです。

光熱事情を書いてみたいと思います。
電球は、100Wは使っていなかったと思います。部屋の大きさに応じて60Wか40Wで、トイレ、廊下などはそれより低いワット数。煌々と電気をつけるという感じはありませんでした。消し忘れは必ず注意されました。

現在のマンションなどは、昼間も電気をつけなければならない玄関とかトイレ、窓のない洗面所、所謂行灯部屋などがありますが、昔は、昼間も電気をつける場所と言うのは殆どなかったと思います。

今は、昼間、雨が降ったりして、部屋の中が暗いと、家でも、学校などでもすぐに電気をつけますが、この習慣は昔はありませんでした。

窓のない部屋はあっても、どこからか明かりが入るようになっていて、それでも暗い部屋については、「ここは明り取りがないから」、という言葉が使われましたが、この明り取りと言う言葉は小さい辞書などにはのっていないようです。
蛍雪と言う言葉は、蛍の光や雪の明るさを明り取りにした故事からきています。

と言って、目に悪い、という言葉もよく使われ、そんな暗い所で本を読んでいると、目に悪いから、こっちで読みなさい、などと言われましたし、勉強机にスタンドは付き物でした。

節約、倹約と言う習慣が生活の基本にあって、大震災以後、急速に力を失った感じの、「もったいない」という言葉は、当時常に口にされ、言葉というより生活の意識のようなものでした。
例えば、紙の一枚も無駄にしない、私信以外の封筒は、切って裏返して、貼り直し、もう一度封筒として使うということもしました。捨てるのは本当に要らないものです。
現在のように、コピーをとり過ぎるとか、裏が使える紙を捨てるなどということは、考えられないことでした。
紙と言えば、ノートとか便箋、画用紙、習字用の半紙など、用途が決まっていて、現在のように、プリント用だのコピーだの、まとまった紙をドサッと買うことはありませんでした。

懐中電灯は、今は一般家庭では防災用と考えられる場合が多いのではないかと思いますが、昔は必需品で、納戸など暗い所での探し物や、夜の庭とか、街灯も少ない時代ですから、夜、急に夜出かける時など携帯することもありました。

台所の、調理の熱源は主にガス。お魚を焼く時などは、七輪に炭をおこして使いました。毎日ではないのですが、煮物などに練炭を使うこともありましたが、当時から一酸化炭素中毒には厳重に注意していて、練炭火鉢という言葉を使いながら、居間などの暖房用に持ち込まれることはなく、台所でも戸を開け放した土間で使われていました。

練炭に限らず、木炭や炭団(たどん)、豆炭、などと呼ばれる炭類は、常に中毒に気をつけて、定期的に窓を開けたりしていました。
ガスはガス中毒ということがありましたから、いずれにしても火の始末は、ガス栓がきちんと締まっているかをメインにして(大元と呼ばれる栓を止めました)、必ず寝る前に点検しました。

今は、ガスは火が消えれば、自動的に止まるようになっているし、臭いもないので、危険性が忘れられがちですが、昔はガス器具自体がごく簡単なもので、ゴム・ホースを取り付けただけの、栓をひねれば出るので、きちんと締まっていなくて、ガス臭いなどと大急ぎで調べるなどということも偶にありましたし、ガス中毒騒ぎや、ガス自殺などということも珍しいことではありませんでした。

このガスという熱源が当時どの程度普及していたのか、戦後関西へ越して、ガスがなく、薪を使う生活となり、不自由な思いをすることになります。

冬の暖房用には、お茶の間の長火鉢と少し離れた所に丸い大火鉢、炬燵を使うこともありましたが、所謂置炬燵で、火の用心の面から敬遠されがちで、全身が暖まるという暖房はありませんでした。
戦中、疎開した北陸には、どの家にも大きな掘り炬燵があって、本当に暖かいものでしたね。ずっと炬燵に入ったままで、食事も、時として寝るのも炬燵です。

学校などにはスチーム暖房があった時期がありましたし、石炭ストーブも暖かいものでしたが。
応接間に暖炉があっても実際に薪を焚いていた家がどの位あったか、当時普通に大きい家には、玄関の横に応接間がある間取りが流行った?ようでしたが、洋風の応接間と言うのは、あまり使われず、お客は畳の客間に通すことが多かったと思います。

お茶の間はとりあえず、火鉢などの暖房があって、食事もするし、それ程寒い思いはしなかったのですが、寝る時の寒さは、本当に厳しかった。湯たんぽなどで、足の先は暖まっても、ちょっと足がずれれば、布団は氷のように冷たく、昼間布団を乾しても、東京の夜の冷気はあっと言う間に全ての熱を奪ってしまいます。

お風呂に入っても、上がると、脱衣場が寒く、すぐ冷えてしまうので、湯ざめ(湯冷め)をしないようにと、お風呂の中で数を数えさせられました。のぼせる寸前位までお湯につかっていると、確かに効果がありました。
お風呂の燃料は石炭で、外にあった焚口は、寒さ避けと火の始末も考えてか、体一つ入る四角いセメントの箱のような形で地面より低い所にありました。

それにしても東京の冬は寒かった。朝、顔を洗う水は手が切れるように冷たく、口をすすぐ水が歯に滲みる。登校する時、霜柱をザクザクと踏んで行きます。毛糸の手袋、靴下は欠かせないものでしたが、霜焼けのできやすい子は、いつも手を赤く膨らませていました。

夏は今ほど暑くなかったと思います。熱中症という言葉は使われず、日射病と言っていましたが、木陰はどこにでもあったし、木造家屋に住んで、涼しくなる工夫を色々と凝らしていましたし。エアコンなど、個人の家にはどこにもない時代です。

昭和16年(1941年)12月8日の開戦から、次第に物資不足になっていき、そして金属、貴金属など、個人の持ち物も供出させられるようになるのですが、それでも昭和19年の夏頃から東京など都会で、学童疎開が始まるまでは、日々の生活に困る、目だって不足するものがあるとは、単なる感じですが、意識しなかったと思います。生活そのものが質素だったから子供はそれと気づかなかったのかも知れません。

かなりの量の買い置きをしていた、その安心感のようなものもあると思います。部屋の窓の下に炭俵が10俵以上も積み重ねてあり、以前書いたような気もしますが、優をとれなかったお習字を、浅はかにも、炭俵の下に落としたところ、上から使っていく中に見つかってしまって、勿論ひどく叱られました。

現在の家電に当たるものは、大型のものは殆どなく、氷冷蔵庫、洗濯は井戸端でタライと洗濯板で、掃除は箒とハタキ、ご飯はお釜で炊き、トースター、ジャー、などの電気製品は我が家には一切なく、電気を使うものと言うと、アイロン位しか思い浮かびません。簡単なものは、鏝(こて)を炭火で熱して使いました。ミシンも足踏み式です。

電気炬燵、あんかなどの暖房製品もなく、ただ扇風機はありました。
ラジオ、レコード・プレイヤーがありました。
洗顔、洗髪関係の電気製品もないので、髪を洗ったら、手早くドライヤーで乾かすということもないわけです。

電気製品に関しては、上記が当時の標準に近いのではと、感じなのですが、思ってみています。
‘我が家には’と書いたのは、お隣の親戚では、事情が違ったからです。
冷蔵庫、洗濯機、オーブン、掃除機と、GEの電気製品が揃っていました。
毎日のように遊びに行くと言うか、本の虫だった私は、おそらく母が、幼稚園時代にはキンダーブック、小学校低学年にはK社の絵本とか童話集、などと常識的に判断して買い揃えた本では全く満足できず、いとこ達の蔵書を毎日のように借りに行っていました。

自由に行き来していて、上に書いたような大きな電気器具は目に入っていたので、印象に残っているのですが、あちこちの部屋に勝手に入ったり、家事の様子をずっと見ていたわけではないので、他にもウチにはない電気製品が色々あったかも知れません。

裕福でもあったし、伯母が積極的に新しいものを取り入れていたとも聞きましたが、その時代他の家庭で見たことはなく、例外だったと言えると思います。

主な大型家電を書き出してみても、現在との電気の消費量の桁の違いが分かると思いますが、その他にも現在家庭で使われている電気製品は多くあり、いつ頃家庭で使われるようになったか、順に取り上げたいと思います。

水事情は、水道があって、井戸のある家が多かったと思うので、無駄に使わない、出しっ放しは夏場、麦茶の薬缶を冷ます時位(西瓜は井戸で冷やしました)。飲料や調理以外は、例えば洗濯、掃除などには井戸水を使う。
一つ思い出しましたが、庭の芝生や木々に水をかける時、水道にホースをつないで、充分に水をかけていました。節約という意識はあっても、水道に関しては、必要な時は使う、あまり使用量に拘らない、そんな感じでした。
トイレは勿論水洗ではなく、手洗いも手水(ちょうず)器と呼ばれる釣り鐘のような形をした、一種の水タンクを吊り下げてあるのが普通で、下の突起を押すと、適量の水が出るようになっていました。

そうそう、夏暑くなると、行水を毎日のようにしました。盥に水を入れて、バチャバチャと遊び半分につかって、海水浴気分は大袈裟ですが、体の熱がとれて、楽しみでもありました。

防空演習を、大人達を中心に結構早い時期からしていたので、どの家も防火用水という大きなゴミ箱のような形のものを外に置き、そこからバケツ・リレーの訓練用の水を使いました。
防空頭巾と言って、頭から肩の辺りまでスッポリ覆い、中に綿が入っていて、首のところで紐でしばるようになっている頭巾を、大人も子供も早い頃から用意をして、訓練の時はそれをかぶって、モンペ姿でした。モンペはその後普段の生活でも普通に着用するようになりました。

昭和19年(1944年)七月九日のサイパン島玉砕により、米軍による日本本土への直接空襲が距離的に可能となり、戦局は一気に逼迫します。
その頃には都市部の学童疎開が決まっており、小学校(当時国民学校)4年生から6年生までで、地方に疎開できる親戚などを持たない者は、学校単位で両親と別れて地方に疎開しました。私は北陸の父方の親戚の所に縁故疎開することになりました。

いつ頃灯火管制―つまり空襲の際、家々の灯りが漏れて、敵の目標とならないよう、できるだけ灯りを消し、一箇所の灯りをつける場合も周りを黒い布で覆ったり、電球に墨などを塗って光度を落とす―が始まったかはっきり覚えていないのですが、この頃には実施されていた、或いは義務ではなく、演習のような感じで、各家庭で行っていたということだったかも知れません。と言うのは、確かにそうした記憶があり、疎開先の北陸では、その冬、数十年来と言う大雪で、屋根から降ろした雪が一階の庇の高さにまで積り、昼も電灯をつけていたし、その上北陸の家は、おそらく雪に備えて、窓などには細かい格子があり、昼尚暗いという感じで、電球を覆う必要もない程灯りが外に漏れにくい構造だったということ、また防空壕などを作っていましたが、現実に、敗戦の一ヶ月弱前に壊滅的な空襲を受けるとは誰も思っていなかったからです。防空演習もやっていたかと思いますが、記憶になく、空襲に対して、東京のような緊迫感は殆どありませんでした。

子供にとっては、疎開ということは、文字通り降って湧いたような話で、一見まだ穏やかな日常から、実は運命が大きく変わると言ってもいい程の日々が待っているなどとは思ってもいなかったのです。

引越しの日は急に決まり、と言って、級友の多くは親と離れて遠隔地へ行くことも知っているので、それほどの緊張感も持たず、自分に出来る手伝いなどしていて、荷物の車が出て、ガランとした部屋に、いつも一緒に寝ているクマちゃんがいないことに気づきます。

慌てて、母に聞くと、運送屋にあげてしまったと言う信じられない返事。
まさか、目の前が真っ暗になりました。
私は泣くことが殆どない子でしたが、この時は泣き始めて、次第に大声になり、今から運送屋に行って、返してもらって来てくださいと、泣きながら頼みました。
母に口ごたえをするとか、反抗するとか、許されなかったし、そんな言い方をしたことは一度もないのですが、日通を当時は丸通と呼んでいて、通っていた学校の傍に店舗があることも知っていたので、丸通へ行って返してもらってきてくれと言う意味のことを言い続けました。

私の激しい反応に驚いたのか、母は「一度あげたもの、返してもらうことなんかできないでしょう」と多少困ったように言いました。

そのクマは、母のいとこの、ヨーロッパ土産のテディ・ベアで、私と毎晩寝ている中に少しくたびれていたので、母はそのことを忘れていたのかも知れません。そういう記念のものを無造作に全くの他人にあげてしまう、どういう理由でか、可愛いと言われたのか、ウチにも子供がいると言われたのか、その場でパッと相手が気に入る行動をとるところがあると、後年思ったのですが、結局、クマちゃんは帰ってきませんでした。

北陸に疎開して八ヶ月余の、明日から夏休みという日の夜、空を覆うB29の猛爆を受けて、街一つが天を焦がして、燃え上がり壊滅する様を、必死に逃れながら、この目で見て、住む所を求めて彷徨う運命が待っているとも知らず、その後数え切れずクマちゃんのことを思い出し、一人涙を滲ませました。

こういう思い出を、オリンピックを見ながら書いているわけです。
バレーの準決勝となでしこの決勝戦。チャンネルを度々切り換えながら、見ている中に、最近3回ブラジルにストレート勝ちをして、勝つ可能性の方が高いと聞いていたのに、バレーは、選手の方には悪いけど、全然相手にならない程実力の差があり、どんどん点差が開いて行く。見ていられなくなって、なでしこ一本にしました。
(この後女子バレー・チームは三位決定戦で韓国にストレート勝ちをして銅メダルを獲得しました)

始まってすぐ点を取られて、追う展開。1点差を激しくアメリカ側のゴールに迫って、休むことなく、攻め続ける姿に感動しました。
私はほんとのスポーツ好きというわけではなく、オリンピックなどの国際的レベルになると、俄か愛国的ファンになるタイプです。

なでしこを知ったのも、最近のことで、組み合わせを有利にするために無気力試合をやったことには、がっかりしましたが、対アメリカ戦の、1点を取り返すための飽くなき攻め。なでしこの戦いぶりは、素晴らしかった。最後の瞬間まで攻めました。

惜しいところでゴールを逃したりすると、真夜中、一人で声を挙げて残念がったりする、ほんとに心から応援していて、一方で、普段と違う高揚した精神状態が、不思議に思い出に生気を与える、記憶の彼方にあったことが、ふと思い出されたりする。しかも思い出したことに、直近のことのように、感情まで湧いてくる。
妙なものだと思います。

エネルギー事情がテーマなのに、こんなことで〆るのもどうかと思いますが、クマのことを思い出して、今頃思いがけなく涙が滲み、あのクマちゃんが無事に私の手にあったら、辛い時期、心強い相棒になったのではとチラと思ったことを、この章の終わりとします。〔この項続く〕  《清水町ハナ》

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