思い出エッセイ〔393〕「昔の昭和:ちょっと思い出したこと4」

 昔の、子供の怪我のことと、全然関係ないことですが、「白米の魔力」という小タイトルで書いてみました。

1.子供の怪我
少し前のことですが、テレビで、指に刺さったトゲは血管の中に入って進んで行く、ということが当たっているかいないか、ちょっとしたクイズ形式で聞いていました。
一瞬そうだと思ったのは、子供時代、針が刺さると、体の中を進んで、心臓に達すると聞いたことがあったからです。

トゲは自分で進むことなどないかも知れないと漠然と思い直したら、それが正解で、血管に入ることはないと言って、その理由も説明されていましたが、忘れてしまいました。

トゲ、棘。私は子供の頃、何回、どころか何十回もトゲを母に取ってもらったけど、自分の子供のトゲは一度も取ったことがないことを今更のように思い出しました。

トゲだけでなく、ウチの子は、転んで膝を擦りむいて出血したこともないし、切り傷とか、包帯を巻いたことも思い出せません。
だからと言って、活発でないとか、運動神経が鈍いとか、そういうことはありませんでした。寧ろ運動神経が発達しているから、怪我をしないのかも知れませんが。

一度石のベンチの角に頭をぶつけて、裂傷を負い、数針縫った、大きな怪我があったのですが、そう言えば、この頃子供が目の前で転ぶとか、怪我をしたという場面に行き合わせたこともありません。

私の子供時代には稀にしか起きなかった、交通事故というものがありますから、子供達は道を歩く時は前後左右に注意するよう常に言われていて、歩き方も慎重になっているのかも知れません。道を渡っている時転んだりしたら、交通事故に繋がりかねない世の中ですから。
前に住んでいたマンションには、巨木が何本もある小さな公園のような遊び場があったのですが、子供が砂場で遊んでいるのを殆ど目にしたことがありませんでした。
いつ頃からか、子供達は、家の外で遊ばなくなったように思います。

それにしても自分の子のトゲの手当てをしたことがないのは、何故だろう、生活の変化も関係があるのだろうか・・・
それを考える前に、昔、子供のちょっとした怪我と言うと、どんなものがあったか。
自分の経験では、やはり指にトゲが刺さることと膝や肘を擦りむいたりすることが、一番多かったように思います。

トゲは、殆どが木の細い破片が刺さるので、ピンセットで抜くのですが、深く刺さったり、奥に入ってしまうと、母が縫い物針をマッチで焼いて(消毒し)、それで皮膚をちょっと切って、巧みにトゲを浮かせて、引っ張り出すのですが、ほじくり出すと言う感じになる時もあり、子供には痛いし、少し出血もして、結構な荒療治でした(この方法をお勧めするものではありません)。
それが嫌で、隠していると、膿んだりするので、シブシブ申し出ます。

消毒のために、ヨードチンキかマーキュロクロムをつけるのですが、特にヨーチンは沁みて痛いので、赤チンことマーキュロにして、と頼むこともありました。マーキュロよりヨードチンキの方が効くと思われていて、容赦なくヨーチンを塗られることもありました。
ヨーチンも赤チンも小さなビンに入ったものが家庭で常備されていました。

ヨーチンは橙色がかった茶色で、独特の強い臭いがしました。
風邪で咽喉が痛かったりすると、医師が口をアーンと開けさせて、脱脂綿のようなものにルゴールと呼ばれる、ヨーチンと同じ臭いがするものを咽喉に塗布したものですが、これもヨードチンキが原料だったようです。
病院では手術などに多用されると聞いていて、ある時期まで、病院でも臭いがして、アルコールと共に病院の臭いの一つでした。
刺戟が強過ぎるということだったと思いますが(劇薬でもあるようです)、かなり前から、家庭では使われなくなりました。

赤チンことマーキュロクロムも水銀が入っているという理由から、大分前に市販されなくなったと思うのですが、子供の怪我と言えば、ヨーチン、赤チン、がなくなって、その後の無色の水のような消毒用液体は、何が成分なのかも知らないままに、出番も殆どなく、眠っています。
それにしても、ヨーチンとか赤チンなど、後に販売が差し止められるような治療薬が長く家庭薬として使われていたことになります。

転んで膝小僧を擦りむくことも、私自身、子供時代度々あったことです。
砂利道が殆どで、転びやすかったし、下駄の鼻緒が切れて転ぶこともありました。
尖った石もあるし、転べば、必ず膝や腕の肘を擦りむいて、血が滲む位の怪我はしたものです。

私の子供時代は、家の近くや、通学路に車が入って来ることは殆どなかったので、道を走る子も大勢いましたし、道で鬼ごっこや缶蹴りもしました。

膝全体を擦りむくと、さすがにヨーチンは使わず(強い消毒薬という認識はあったのだと思います)赤チンをつけて、包帯を巻いたりしましたが、当時ちょっとした怪我は、空気に触れさせた方がいいという考え方があったようで、トゲを抜いた後、包帯を巻くことは殆どありませんでした。

よその子が転んで、助け起こそうとすると、そのままにして下さい、と声をかけるお母さんもいました。自分で起きる、自立心のため、転んだ位で泣かない、そんな躾のためだったと思います。

学校の帰り道、ジャンケンをして、グーは「グリコ」と三歩進み、チョキは「チヨコレイト」と六歩、パーは「パイナップル」で同じく六歩、それを繰り返しながら、家まで帰ったり、ジャンケンで負けた者が友達のランドセルを持つことをルールにしていたこともあります。
精いっぱい大幅に飛ぶことだけに集中していました。自転車一つ来ませんでした。

小学校一年から木のサックをつけた、刃の短い小刀で鉛筆を削っていました。切り出し小刀、または単に切り出しと呼んでいましたが、今も商品として売られている切り出し小刀は、よく切れる大人用の刃物で、鉛筆削り専用のものではないようですが。
工作の時間は女の子も模型飛行機を作ったり、小さい刃物を使う機会は結構あったのですが、充分注意するように言われていたので、刃物による切り傷は記憶にありません。

お裁縫は、浴衣を縫ったのが小学校六年の時で、運針とか雑巾作りは、学校の正課にあったかどうか、家では低学年から教わっていました。
針で指をちょっと刺して、小さい玉のような血が出ることは時々ありましたが、ちり紙で拭いて、口で吸って終わり、怪我のうちに入りません。

危ないのは針を落として、足などに刺すことで、上に書いたように、針は足の中をどんどん進んで心臓に達するとか、足をいっぱい縫う手術をしなければならないなどと言われていて(事実かどうか分かりませんが)、裁縫箱を使った後は針の数を数えるなど後始末を厳しく言われていました。

釘なども釘箱と呼ばれる引き出しがあった位で、大小様々の釘が常備してありました。
最近、と言うより大分前から、金槌や釘を使うという機会が全くなく、私も釘を打ったり抜いたりすることは子供時代の方が上手だったかも知れません。

釘を踏み抜く、という言葉があった位で、釘が刺さる怪我も注意するようにやかましく言われ、錆びた釘は特に注意と言われました。
荷物が配達されれば、木箱に釘が打ってあるのが殆どで、私も小学校低学年でも、釘の周りを軽く叩いて、少し浮かし、釘抜きで取ることなど慣れたものでした。
大工さんなどが修理に入った時に、釘を何本も口にくわえ、素早く器用に打って行く様など見入ったものです。

縫い針や釘を刺すという怪我は、簡単なものを縫っている時に、他の用事でちょっと立って、縫いかけのものをそのままにしたり、木箱を開ける時に、蓋の下に釘抜きを挟んで、力を入れて、蓋を浮かせる、つまり釘がついたままの状態で、蓋を取ったりする(釘を抜かないで、そのまま横向きに打ち込むこともあります)、釘付き蓋がちょっとの間放置されたりした時などに起きる、言わば不注意の結果起きることが多かったと思います。

毛糸の編み物も、長い編み棒を使って、メリヤス編みやガーター網など簡単な編み方を小学校の低学年から家で習って、手伝ってもらって、セーターなども完成させたこともありますし、鉤針編みのマフラーや手袋も結構好きで編んだものです。
昔は省線(今のJR)や都電の中で編み物をする女性をよく見かけました。
編み針が隣りの赤ちゃんなどに危ないから止めてもらいたいと、新聞に投書が載ったりしたのは、戦後のことだと思いますけど、その隣りの赤ちゃんにお母さんが悠々とオッパイをあげていたりしたのも、昔の昭和の一風景です。

画鋲を足の裏に刺すこともあります。当時の画鋲は短い針に丸いトップがついていて、痛いけど、大したことのない怪我です。

火傷。沸騰した薬缶を移すことなどは、子供はやらなかったので、大きい火傷は記憶にありませんが、指先が薬缶に触れたりして、赤くなる、時として火ぶくれになる程度の火傷は時々ありました。
今のようにすぐ水で冷やすという手当ては、当時家庭では知られていず、塗り薬か、とりあえず食用油をつけたような記憶もあるのですが、はっきり覚えていません。

塗り薬と言えば、メンソレータムはごく普通の常備薬でした。怪我だけでなく、虫刺されとか霜焼け、それから口に入っても害がないと言われ、唇の内側にできた口内炎などに塗ったこともあり、勿論いい味ではありませんでした。
鼻が詰まった時に鼻の下にちょっと塗ったりしたこともあります。結構刺激が強く、ヒリヒリするのですが、それが効くという錯覚?に繋がった部分もあると思います。

目にゴミや小さな虫が入った時は、こすらないようにとまず言われ、目を暫くつむって、涙で出て来るようにして、そのまま出て来ることもあるし、柔らかい紙で取ってもらったりしました。
耳に虫が入った時は、暗い所に行って、懐中電灯で照らして、出て来るようにします。
夏など電灯の光に虫がたくさん寄って来ますから、時々耳に入ってしまうのです。

咽喉にお魚の小骨が刺さってしまうことも結構ありましたね。
そういう時は、ハンで押したように、ご飯を小さく丸めたものを呑み込むように言われました。
それで殆どとれたと思います。
割りと最近、テレビで、この丸めたご飯を呑み込むことは、効果がない、逆効果の時もある、と言っていたのを聞きました。寧ろ骨が深く刺さってしまうという理由だったように記憶しています。

確かに固い骨だったら、そうだと思いますけど、子供時代に咽喉に引っかかる骨と言うのは、例えば鰯のすり身の中の小骨とか、柔らかい細い骨で、刺さると言うより、引っかかると言う感じなので、ご飯団子丸呑みで、殆ど取れました。
(勿論、丸めたご飯は止めた方がいいと言う専門家の指摘に異を唱えるものではありません)

鯛のような固く太く鋭い骨は、子供には取り除いて出すとか、と言って、骨に気をつけて食べるという習慣を身につけることも大切なので、ご飯団子を呑むということもケースに応じて母が指示をしていたことでした。

延々と料理番をやって来た私は、大人の家族にも、今日は骨が多いから、などと注意していました。

下駄の鼻緒ズレと言う、旧い時代独特の怪我?もありました。
新しい下駄を下ろすと、鼻緒が新しく、かたいので、どうしても鼻緒ズレができやすいので、手で緩めたり、柔らかい布を巻いたりしたこともありました。
足の指の間だけでなく、足の甲の触るところが赤くなって痛むこともありました。

鋏を人に渡す時は勿論、持ったまま移動する時は、必ず刃の方を手で包み込むようにして握ることとか、お風呂で転ぶと大怪我になるから、必ずどこかに掴まって動くことなど、生活の上で気をつけることなども注意されました。

他にもありそうですが、長くなってしまったので、この位にするとして、ウチの子が、トゲを刺すとか膝小僧を擦りむくという、昔はごくありふれた、子供のちょっとした怪我の定番を殆ど経験していないことについて、以前、自分は赤ん坊の頃から団地育ちと言ったことを思い出しました。

出口が一つしかない、庭のない、団地やマンションで暮らして、外で遊ぶ時も、敷地内の整備された遊び場で遊ぶ、道路も東京オリンピックを境に整備され始めて、車道と歩道の区別がはっきりするようになったし、小学校から受験勉強が始まった、ゲームなどの出現、理由は色々考えられるかも知れません。
例えば、加工されていない、生木、材木などに触ることで、トゲが刺さることが多いのかも知れませんが、家の中を見回しても、そういう状態の木が殆ど見当たりません。
荷物なども、昔はなかった段ボール箱などが多く使われていますしね。

去年の大震災以来、急に節約と言われて、あっと言う間に質が落ちたと感じたものに、割箸があります。お弁当についているものなど、簡単に折れてしまって、口の中で折れたら、怪我をするのに、お箸位ちゃんとしたものを作って欲しいと思ったものですが、裂けたお箸などは、トゲと言うより、大きな怪我につながると思います。

最近子供染みた連想?をしました。
‘テレビのワンシーン’で頭に浮かんだのですが、日本の職人の、伝統的な優れた技を紹介していて、丸太の状態の大きな木を(ヒバだったと思いますが)、何箇所かに楔を打ち込んで、縦に割ると、断面が、木の繊維が縦方向に自然に波打った素晴らしい形の素材となるのですが、それを著名な外国人のデザイナーが個性的な長椅子に仕立てるというシーンを見た時です。

木の匂いが伝わって来そうな、半分に断ち割られた木の筋を見ていたら、あそこを指の腹でスーッと撫でたら、トゲが刺さるかなあ、見た目、スゴク滑らかで、ツルーっとしているから、ささくれ立ったところなんてないのかな、なんて、丁度この小文を書き始めていた頃だったのですが、それにしても我ながらつまらない連想をする、と反省しました。

昔の、子供のちょっとした怪我などと言う、ごく小さなことまで寧ろ懐かしく思う、なんて、精神状態が過敏になっているということで、あまり健全ではないのかも知れませんけど、思い出したことだけちょっと書いてみました。

指がヒリヒリするので、見たら、超のつく久しぶりにササクレができていました。上記で自然に使っているのに、指のササクレは、ちょっと名前が思い出せなかったくらいです。ササクレは怪我とは言えませんが、何が原因なのでしょうか。


2.白米の魔力
食生活で、これだけは贅沢と言うか、拘りを続けたいと思うものに、美味しい白米があります。
少人数なので、一日一回、少量しか炊かない、家族が外食をして来る時はご飯を炊かないし、パスタとか中華ソバ、うどんスキなどの麺類、オープン・サンド、お好み焼きなど、昔の言葉を使えば、代用食の時もあり、週にしたら、四回から五回しか炊かないのに、お米だけはこれと思う美味しいのを買っています。

銘柄で言うと、コシヒカリです。新潟の有名な銘柄が結局一番美味しいと思って来ましたが、北陸のコシヒカリも、新潟産とちょっと違って、サッパリしている感じで、新米が出る時期、親戚が送ってくれるのを楽しみにしています。

お米は、私が子供の頃から、長い間、約40年間(1942年~1981年)、配給制度がとられていました。
子供の頃、ご飯を特に美味しいと思ったことはなく、お菜がないと食べられないし、子供にはフリカケが必需品でした。
白米の存在を知ったのは、戦中、丁度米配給制度が敷かれ出した頃、一緒に暮らしていた親戚が大病をして、毎朝、母がお粥を作り、そのお粥をひと口食べさせてもらって、非常に美味しいのに驚いたのが最初です。

大体病気になれば、お粥はつきもので、美味しいなどと思ったことはないのに、その病人食のお粥は、本当に美味しくて、同じお米とは思えませんでした。
それが白米であることはずっと後になって気がついたことで、親戚の特別の伝手で手に入れていたのだと思います。

配給のお米が何分搗きだったか、調べられませんでしたが、七分とか八分搗き位ではなかったかと思っています。或いは当時は、配給と関係なく、普通の家では、純粋の?白米を食べる習慣がなかったのかも知れません。

戦中、地方に疎開してからは、農家が近いので、所謂闇米を買い出しに行ったのですが、今思うと、その闇米も白米ではなかったと思います。

私が二度目に白米の美味しさを実感したのは、敗戦直前、空襲に遭い、数ヶ月農家に置いてもらって、農作業を手伝った時、田んぼで農家の人達と食べる、白米のお握りの信じられない美味しさでした。朝一日分のご飯を炊く、それも竈(かまど)で炊くので、一層美味しいご飯になるのかも知れません。

いよいよ東京に帰ることになった日、その農家がお握りをいっぱい作ってくれました。
汽車の中で、隣りの席の、復員したばかりなのか、将校服の人に分けてあげたら、美味しいと思う気持ちを抑えているように、ゆっくりと食べていた姿を覚えています。
そのお握りを最後に、ながーく白米とはお別れしました。

特に敗戦直後からお米の配給そのものが滞り、東京では闇米を買う術もなく、サツマイモとか南瓜、雑穀、色々な粉類などを食べたのですが(サツマイモの茎や葉っぱを炒めたものまで食べました。これが案外不味くなかったのですが)、チョッピリ配給されるお米は、玄米かそれに近いもので、一升瓶に入れて、棒で突いて、糠を落として、顔が映るようなお雑炊にして食べたものです。
それからも長い間、美味しい白米とは全く縁のない食生活が続きました。

今はデパートでもスーパーでもnetでも、どんなお米でも手に入りますが、食糧事情がすっかりよくなっても、お米だけはお米屋さんを通さないと買えない時期が長かった時のことばかり印象に残っています。

ずっと以前のことですが、一度新潟出身の知人の紹介で、美味しいお米を直接農家から買えた時期があるのですが、それも好きなだけ買えるというわけではなく、送料他結構割高でもあり、いつの間にか買わなくなり、その後も農家から買うことは短期的に何回かあったのですが、時折品質が悪いことがあったり、他の理由で、止めてしまいました。
これももしかして、闇米を買っていたことになるのかどうか、とにかく配給制度がある間は(終わりの方では、有名無実、建前になったのですが)、どこのお店でも買えるということはありませんでしたが、その中にお米屋さんも結構種類を揃えて、御用聞きに来るようになりました。

一度、お米が不作で、タイ米しか手に入らなくなった時があって、そんな時にお米屋さんが、お宅はいつもウチで買ってくれたから、特別日本のお米を廻してあげるなどと言われ、ちょっとイヤな気分になったことがあります。
(タイ米と言えば、以前、ヨーロッパの学生数人と話した時、カレーライスのような、ご飯に水分のあるものをかけるお料理は、絶対タイ米がいい、日本の美味しいと言われるお米ほどスープを全部吸ってしまうから、不味い、合わないと言っていました)

スーパーの店頭に並ぶまでに、ある時期から、お米の取り扱いをする店舗が増えたのではなかったかと思いますが、よく覚えていません。
コシヒカリと書いてあるからと言って、美味しいと決まったわけではなく、それは生産地、お米の等級、つまり品質、それからその年の出来不出来などにも拠るのでしょうけど、同じお店で同じ袋入りのお米を買っても、時によって当たり外れがあります。

お米やご飯のこととなると、いくらでも書けるのですが、この辺で終えて、ちょっとした結論的なことを書きたいと思います。

昨年の暮れ、主の友人だった方が、色々と名産品を送ってくださいました。
「最近評判になっているお米、~」とあり、あえて銘柄や地域は書きませんが、私はそのお米のことを知らず、とにかく頂いてみようと、早速炊いてみました。
その美味しさは、今までずっとこれが一番と思っていたお米とは微妙に異なり、とにかく、ああ、美味しいという言葉が口をついて出ました。

更に驚いたことは、そのお米で作ったお餅も入れてくださっていたのですが、それが、ウチが、これが一番と思っていたお餅より美味しくて、今年のお正月は、そのお餅のお雑煮で過ごし、ウチで用意したお餅は、非常時用に冷凍食品となりました。

netで見てみたところ、そのお米は、既に有名らしく、ズラーッと商品が並んでいました。
自身の固定観念を反省しましたし、お米の美味しさにも種類があるのだとあらためて感じ入りました。長い間の一銘柄信仰を見直そうという気になりました。
ただいくら玄米が栄養面で優れていると言われても、白米を諦める気にはなりませんね。

大きめのお茶碗に軽く一杯が決まった量です。家族は二杯、主は米どころに育ったのに、充分お米が食べられない時期が長かった世代だったので、その所為もあるのかどうか、三杯頂きました。

新米か日が経っているお米かで、微妙に水の量を調整します。
若い頃は、ちょっとでも水気が多いと感じるとイヤでしたが、今は少しでも固めというのが苦手です。

美味しい塩鮭か、例のアサリの佃煮か、贔屓の塩辛があれば、ご飯軽く二杯で、食事は充分と言うか、それ程美味しく炊けたご飯が好きなのですが、塩分や栄養面の前に体重のことを考えても、そういうわけにはいきません。

以前は結構お菜の品数が多かったのですが、今は家族の好みに合わせて、メイン一品に簡単なものを添える形で、このお菜にはもう少しご飯が欲しいところだけど、と思いながら、最後のひと口のご飯でお菜も頂き終えるようにしている自分が時として滑稽に見えます。

最後まで白米のご飯に捉われたまま。それ程食が思うようにならなかった時期が長かった、或いは子供の頃から育ち盛りに、最も食に不自由した、特にお米については、長年、ある意味の束縛を受けていた、とも思うし、日本人はお米との縁を切ることはできないという生きた例だったとも思えます。  
しかし、今どれほど美味しいご飯を食べられても、昔の、田んぼで食べたお握りに勝る味のものはありません。  《清水町ハナ》

【追記】上記、トゲの処置について、少々加筆しました-2012/05/18-

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