思い出エッセイ〔381〕映画雑記帳152「【木漏れ日の家で】感想」

 【木漏れ日の家で】(ダヌタ・シャフラルスカ主演、監督:ドロタ・ケンジェジャフスカ)。この映画が、守備範囲の?映画館で見られると知って、凍りついた雪を注意深く踏みしめながら、見に行きました。

ポーランド映画です。主役のアニュエラを演じるダヌタ・シャフラルスカは、この映画を撮影した時91歳。1915年2月生まれだそうですから、間もなく97歳です。


冒頭、アニュエラは、診察を受けるために、きちんと身なりを整えて、病院へ行き、女医に挨拶をすると、いきなり「脱いで、横になって」と言われる。
信じられない気持ちで、聞き返すと、女医は何をグズグズしているんだと言わんばかりに同じ言葉を繰り返す。アニュエラは何やら捨て台詞を言って、帰ってしまう。

人を人とも思わない、憎ったらしい態度は、顔つきやガッシリした体格にも充満している感じで、誰でも御免蒙りたいタイプですが、それは長い間に蓄積されたもの、と感じとる、この場面はアニュエラの人柄や性格を最初に象徴的に紹介していると言えます。
アニュエラは、温厚な優しいおばあさんではないのです。

この映画には何故か、この女医のように、肥って、見るからに魅力のない登場人物が何人か登場しますが、皆有名な俳優であるようです。演技が上手ということなのでしょう。

ワルシャワ郊外の、自身が生まれ育った、鬱蒼と木々の生い茂る、古い大きな屋敷に住む、アニュエラ。長い間同居人もいたが、しぶしぶ出て行った。やっと自分の思い通りに暮らせる。何とかしてその屋敷を残したいと思っているが、ワルシャワで家族と住む息子にはその気持ちはない。それどころか、その家を処分したいと思っている。

他にもこの家を買い取ろうとする者がいるが、アニュエラは全く話にのらない。
一心同体のような愛犬のフィラ、ことフィラデルフィアと暮らし、離れたお隣さんの様子を双眼鏡で眺めたりしている。
一軒は、家を買い取りたいと言って来た、金持ちの愛人の家らしい。もう一軒は若い夫婦が子供達を集めて、吹奏楽器などを教えている。雑音でしかない、下手な練習に悩まされるが、自分の若い頃も思い出して、悪い感情は持っていない。

最近もの忘れもする。ただ、この映画の、別の部屋へ行って、あら、何をしにここへ来たのかしら、というシーンは、年をとっていなくても、時折は誰でも経験することだと思いますけどね。
まあ、いずれにしても、そんなことが二三回あり、眩暈がしたり、体調もあまり思わしくない。

孫娘が来た時に、この家に住む気がないか、もう一度尋ねるが、にべもなく、全然住みたくない、こんな家燃やしちゃえばいいのに、とケロッと言う。
昔の古い玩具が出て来て、これ、あげましょうと言うと、そんなの要らない、それならおばあちゃんの指輪をちょうだいと言う。

この孫娘がまた見た目、お世辞にも可愛いとは言えない。
でも子供なのに、アニュエラが浴びせる言葉は容赦がない。
「そんなに肥っていると、男に見向きもされないわよ。(結婚もできない」」というようなことを言ったと思うのですが、お祖母さんの言葉としては大人気ない。それとこういう言葉を投げつけたことにより、孫を見限ってしまっていると感じました。
子供は成長の過程で変わるのに、と思ったり、孫なんて、精々小学校二三年までよ、と言った知人の言葉を思い出したりしました。

その前に庭のブランコに乗っている時、孫娘は、悪童からデブがブランコにのってるなどと囃されて、傷ついている。
泣き出す、孫娘。好物の胡桃があるのを見つけて、食べ出す。飼い犬のフィラの好物でもあるらしく、バリバリと歯で噛み砕いては食べ散らした残りである。

横道に逸れますが、クルミは、最近はミックス・ナッツなどに入っていて、お馴染みかも知れませんが、固い殻付きのものを胡桃割りで割って食べるという習慣は殆どなくなっているように見えます。
私が初めて胡桃の原形を見たのは、子供の時縁故疎開をした北陸で敗戦間近空襲に遭い、ある農家に置いてもらえるようになった時、お隣(と言っても結構離れているのですが)の私より二三歳上の子と親しくなったのですが、ある日いい所に連れて行ってあげると言われて、林のような所だったか、一本の木に生っている梅の実を大きくしたような果実をいっぱい取って、それが胡桃と初めて知った時です。

殻付きの胡桃は周りの青い果実を取り去ったものと初めて知ったわけです。
置いてもらっている農家にそのお土産を渡すと、喜んでくれて、まわりの青い部分を取り除いて、クルミは必ず割れ目を入れてから焼くように、栗よりきついというようなことを言われました。

金槌などで叩いて、割れ目をつけ、それから竈に放り込むのです。ポンと割れて、出来上がり。複雑な迷路に入っているような実を取り出して、食べてみて、こんなに美味しいものがあるかと思いました。
そう言えば、栗がはぜる、などという言葉も死語になりつつあるように思いますが、クルミを直接火に入れたら、それこそ爆発して、当たり所によっては、怪我をする場合もあるようです。もっとも、はぜる、と言うのも爆ぜると書くようですが。
以前クルミを道路に置いて、車に轢かせて中身を食べる、賢いカラスのCMが話題になりましたが、あれは人間が殻付きクルミを置いていたということになります。

映画に戻ると、祖母にきつい厭味を言われて、泣き出した孫娘も、好物のクルミを見て、たちまちご機嫌を直し、何と、両手でバーンとクルミを割るのです。
何という怪力。あまりヘンなことを言っていると、こういうことになるということか、この演出は何を言っているのかしらと思いました。
もしかすると、賢いフィラが、ご主人様が食べやすいように、割れ目を入れていたのかも知れませんが。

しかしクルミは、100グラム663kカロリーと非常な高カロリーです。これは今気づいたことですが、アニュエラの復讐では・・・まさかとは思いますが。

こうしてアニュエラは、最も身近な息子と家族に対しても気持ちが切れてしまう。ただ気が合わなかった息子の嫁が、家を母親に黙って売るという夫に反対する、その一事で、少し気持ちが変わり、孫が欲しがった指輪を彼女にプレゼントすることを決める。

最後にアニュエラが決断したことは、子供達に楽器を教えている夫婦が、練習場を失うかもしれないと知って、子供達の練習場として一階を寄付して、自分は二階に住むということだった。
正式な書類を作り、家の修理費に、宝石類も全部差し出す。

一階は子供達のはしゃぐ声や、楽器を練習する音で、生き返ったように賑やかになる。
二階でフィラと静かに暮らすアニュエラは・・・


最近、見終わった途端に映画の細かいシーンを忘れてしまうことが多いのに、この映画は、見終わった後で、次々とシーンが浮かびます。
実を言うと、見ている時は、あまりにゆっくり時が流れ、少々クセのあるアニュエラの日々の過ごし方に、すぐには共感できなくて、いささか五感が弛緩したような状態になることもありました。

映画が始まって暫くすると、割と近くから、規則的な?鼾が聞こえ、もう少し経って、横の方からスヤスヤと安らかな寝息が聞こえました。
お二人とも暫くしてお目覚めになったようです。
映画が退屈なのではなく、映画自体が眠りを誘う穏やかさ、安らかさを持っていたのではないかと思います。アニュエラ自身は結構気難しい、闘争心さえ持っていると言っていい性格を持ち、自身の思いを貫く強さも持っているのですが。

映画が終わった途端に、今迄にはなかったことですが、この映画について考え出すのです。一つ一つのシーンを思い出し、あそこは実はこういう意味だったのかなどと気がつき、隠された隠喩などを探し始めます。
何気ないシーン、不良少年が窓から入ろうとし、自分はドストエフスキーと名乗りシベリアから来たなどと言う。シベリアとはバラックのことで、家の中の様子を見に来たなどと言って、実は盗みに入ったと正直に言う。お金を貸してくれというが、アニュエラが断ると、あっさり諦め、ブランコに乗ってもいいかと聞く。

この少年が窓の所に現れた瞬間、真の生の息吹を感じる。アニュエラも同じ空気を感じたはずで、少々のお金をあげればよかったかしらと悔やむ。
私は帰宅してから、東日本大震災の時、ロシアのメドベージェフ大統領が提案した救援事項に、被災者のシベリア移住と言うのがあったことを思い出しました。当時本気で怒りました。何を言ってるのか、申し出全部蹴飛ばしたらいいと、ウチで話したりもしました。
シベリアは今は開発が進んでいるようですが、やはり今でもこういう例えに使われているわけです。私の世代でなくても、多くの日本人が思い出すことはシベリア抑留ですが。

こういう感じで、逐一とまではいきませんが、他の映画なら、忘れてしまうはずのことを次々と思い出すのです。

それを全部書くわけにはいきませんが、一つ特筆したいと思っていること、それは飼い犬のフィラです。
映画でも、最初から、フィラは常にアニュエラの傍にいて、頻繁に大写しになります。
上に一心同体と書きましたが、分身とも言え、アニュエラはフィラなくしては生活が成り立たないと言ってもいい。

フィラの分身ぶりは、普通の犬の映画を超えるものなのに、飼い犬としての位置づけに留まっているのは、フィラ自身が最も身近な存在と感じ、遇していながら、あくまで飼い犬、ご主人様というスタンスを崩さないからだと思います。

実は生活能力については、アニュエラを上回っていることも多くあります。
大の男も逃げ出すほど、番犬としての役目もバッチリこなす。
広い家なので、電話が鳴っても受話器の所に行き着くまでに切れてしまう。
フィラが走る。アニュエラを追い越し、階段を駆け下り、切れる寸前受話器を外す。

ごく最近、電話が鳴ると、受話器を外す猫の動画をテレビで見ました。
この猫は受話器を外せば音が止まることを知っているというような解説があったと思いますが、比べることはできないのに、すぐに思い出してしまいました。

アニュエラの感情の動きをフィラも感じ取って、同じ表情をする。怒った顔、悲しんでいる顔、困った顔・・・その表情が目にも宿っているのが、大写しになります。

犬は飼い主と同じ気持ちになると言うのは、本当だと思います。
我が家のタロは、結構ヤンチャな犬でしたが、私が長患いした時、どんな風に助けてくれたかは、既に書きました(拙ブログ〔2〕他)。
私が寝ている時、寝床の下の方に控え、目を覚ますと、枕元にやって来て、だいじょうぶ?というように覗き込みます。
家族が生命も危ぶまれる危険な任務に就いた時、留守宅は非常に心配したのですが、タロも心配して、このままでは長くないのではという状態になってしまいました。獣医大学病院に行って、何とかあと二ヶ月近く生きて欲しいと思っている、もっと直接的に生かして欲しいと言うと、言下に「無理です」と言われてしまいました。

今でも、どういう根拠でそう言ったのかと、その時の若い獣医師のことを思い出すことがあります。タロはそれから二年近く生きました。

アニュエラがカップの紅茶を飲めない理由を忘れてしまったのですが(このことは最後の場面のキーともなっています)、仕方がない、リキュールを飲みましょう、と言って、グラスでゆっくり飲み始めます。フィラの表情を見ていると、これはリキュールを飲みたいと思っていると見えるのですが、じっと待っている。アニュエラは結構何杯も飲んで、フィラには目もくれません。かなりの時間が経つ。

フィラはリキュールは飲まないのだと思い始めた時、アニュエラは飲むのを止めて、少し残っているかいないか、のグラスをフィラに与える。スゴイ勢いでグラスの中を舐めまわすフィラ。もう少しやればいいのにと思うのですが、おそらくそれ以上やったら、酔っ払ってしまうのでしょう。

フィラはバタードーストが好きらしい。犬の餌に見向きもしない。仕方がないわね、これが欲しいのね、と言って、トーストをやる。ペロリと食べてしまう。犬を飼っているお宅にはお馴染みの光景です。

こう書いていくと、アニュエラは日常のことは勿論、殆どのことをフィラに話し、フィラもそれに応えている。
主演女優の飼い犬かも知れないと思ったりもしましたが、そうだとすると、寧ろ抑制が効かないところが出て来るのではないか。どうやって、アニュエラとフィラの関係を映画として成り立たせたのだろう、そう思ってしまいます。フィラだけをもう一度見たい位です。
特に泣いてしまうのは、フィラの最後の演技です。
実はアニュエラは、最後まで自分に寄り添う者はフィラだけと思っていたのかも知れません。

今の日本の雰囲気と違って、家族に対する思いが裏切られる、家族への気持ちが決定的に離れ、家族に報いることもしない、そういう流れのストーリーでありながら、そして、ポーランドと言う、国家としても、難しい局面に何度となく立たされた、遠いヨーロッパの国の映画で、文化や考え方の違いも随所で感じます。
しかし、実に印象深い映画でした。
映画を見始めて、退屈に思われる方もいらっしゃるかも知れません。でも見終わった時からこの映画を最初から辿り始める、そんな映画です。  《清水町ハナ》

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