思い出エッセイ〔349〕「昔の昭和:夏の過ごし方など」

 節電の夏。しかし六月の中から暑い日続きで、エアコンなしでは熱中症対策は少々厳しいという感じです。

子供の頃どういう風に夏を過ごしていたか、暑さを乗りきっていたか、昔の生活全般も含めて、もう一度思い出すままに書いてみたいと思います(「子供の夏」〔294〕というタイトルで一度取り上げ、重なる点が少し出るかも知れませんが)。

私が個人的に‘昔の昭和’と呼ぶのは、太平洋戦争が始まる一年程前から、戦争末期となる昭和20年(1945年)に入って、東京空襲始め各地の空襲が激しくなる直前までです(それ以前も含まれますが、際立ったことしか記憶がないので、遠い思い出の頃と言うところでしょうか。両親の時代も広い意味で自身の思い出に繋がる時期と考えています)。幼稚園卒園間近から小学生(当時国民学校)の頃です。
敗戦にまっしぐらに突き進むその後の数ヶ月、そして戦後は、昭和と言っても全く別の時代と言っていいと思います。

まずとにかく節電ということなので、味も素っ気もない文になりますが、今ある家庭電化製品が当時一つでもあったか主なものを列記してみます。
エアコン、冷蔵庫、洗濯機、炊飯器、オーブン・トースター類、掃除機、これらは殆どの一般家庭にはなかったと思います(国内でも製造はされていたようですけど)。
ただお隣の伯父の家は、エアコンと炊飯器以外GEの製品で全部持っていましたから、富裕層は輸入品が結構簡単に買えたのかも知れません。

当時伯父は8ミリが趣味で、時々応接間を黒いカーテンで締め切って、映写会を催し、チャップリンの映画とか伯父が撮影した家族の日常(と言ってもごく簡単なものですが)を見せてくれて、楽しみの一つでした。
ずっと年上の従兄が持っていた汽車の模型は確かドイツ製、精巧なもので、あれは電池で動いていたのでしょうか。

私の父も外地赴任が多かったので、ライカのカメラ何台か、レコードのコレクションはちょっとしたものだったようです。結婚が遅く、若い頃一番末席ながら軍縮会議の随員を務めたことがあって、長期のヨーロッパ滞在を経験していて、日本が国力を顕示していた頃でしたから、スイスのレマン湖畔で主席全権と高級アパルトマンに二人で住んでいたそうで、二度あの時代を経験することはなかったと言っていました。
母は大正ならぬ昭和一桁モガで、考えてみると両親は青春と言うか若い人生を謳歌したのに、私は一番の貧乏籤ということになりそうです。
そう言えば当時の蓄音機は電気製品だろうか、などとバカなことを考えてしまうのですが、ビクターから出ていて、電気製品です。

早くも脱線しかけていますが、当時家庭にあった電気製品。
扇風機はありました。それからアイロン、ラジオ。ミシンが電動だったかどうか、髪にウェーブをつける鏝(こて)、一瞬電気と思ったのですが、そうではなく、真っ赤な炭火に突っ込んで熱して使うものでした。
裁ち鋏のような形で、鋏で言えば刃に当たる部分が、毛髪を挟み込むようになっていて、クルクル廻してカールをつけます。

焼け加減?がこの位でいいかどうか新聞紙などを挟んでみると、大抵煙が上がり、焦げ目がついて、ちょっと燃えることもありましたね。少し冷まして、髪を挟んで巻くのですが、髪の毛がジリジリと焼けていやな臭いがするんですね。髪にもよくないのに、あそこまでして、昔の人もお洒落をしたかったんだと思います。子供はお正月とか七五三など特別な日に巻いてもらうのですが、ちょっと動いたら火傷ものでした。

照明が結構多かったと思います。各部屋、廊下、台所、玄関、お風呂場、お手洗い、門燈・・・部屋を出る時必ず消します。廊下やお手洗いは小さいワット数の電球を使い、比較的明るい電球を使ったのはお風呂場でした。暗いと滑って怪我をしたりして、あぶないという考えからではないかと思います。
煌々と明るくするということはなかったと思います。子供の寝室はメインを消すと豆電球がつくようになっていました。
現在のようにちょっと暗いと昼間でも電気をつけるということは全くありませんでした。

とにかくこまめに電気を切る、節約という考え方は徹底していました。
空襲が始まると、灯火管制と言って、外の電燈や余分の電気は切って(電燈をつけるのを一部屋に制限されたかも知れません)、徹底して統制され出した頃は、電球、或いは笠の周りを黒い布で覆い、電球に墨を塗った記憶もあります。

つまり当時電気使用量が問題になるような家電製品はなかったし、節電にも繋がる節約という考え方も生活の基本にあったと言えると思います。
今は器械がやってくれることを人の手でこなしていたわけです。

ご飯は当然お釜で炊きます。都市ガスが入っていたので、薪で炊くほど気をつかいません。戦前と戦後何年か過ごした母の実家にもガスがあったのですが、戦後関西に越して、県営住宅なるものに50何倍の倍率を突破して当たったものの、ガスもなく数年薪炊事生活になって、母の炊くご飯が美味しく炊けたことがなく、ベチャベチャだったり芯があったりだったのは皮肉なことです。

それはともかくお釜で炊いたご飯はよく蒸らしてお櫃に移し、水滴が垂れないように布巾をかけます。この布巾が湯気の水分でビッショリとなるのですが、時折ご飯に布巾の臭いがほんの少々移ることがあって嫌な感じでした。書くもがな、のことですが。
当時は食器洗いの洗剤などはありませんでしたから、布巾は最後によく洗って乾かすのですが、どうしても臭いがつくようになるんですね。

余ったご飯は翌日蒸し器で蒸して朝御飯に出ることもありましたが、ちょっと傷みかけても、ご飯で中毒はしないと言われていて、焼き握りにしたり、ウスターソースで味付けをする当時独特の炒飯にしたりしました。

ご飯についての習慣は地方によって異なるものなのでしょう。私が縁故疎開した北陸では、朝一日分のご飯を炊いて、お昼と夕食は冷ご飯でした。
蒸して温めるとベチャーっとして食べられたものではない、と親戚のおばは言っていましたが、ウチは東京にいた頃と同じように蒸していました。

ずっと後のことですが、東京に用事で出て来た親戚に、天麩羅も揚げて、一生懸命作った鍋焼きうどんを昼食に出したら、これ食べたくない、昨日のご飯があったでしょう、お漬け物で食べると言って、全部ザーッと捨てられてしまったのには驚きました。今でも忘れられません。それほど三食米食に拘っているということでもあるのですが。
冷や飯生活という言葉がある位ですけど。

ご飯の盛り付け方も違い、東京ではサクッと軽い感じに盛り付け、決して山盛りにすることはありませんでした。仏様のご飯みたいと言われていたと思います。

北陸では(異なる習慣もあるかと思いますが)文字通り山盛り。そうでないとケチと思われるという言葉を聞いた覚えがあります。
今は変わっているかも知れませんが。

お米とかご飯についてまだ思い出せることもありますが、この位にして、洗濯は木の盥で洗濯板を使い、洗濯用の、大きな石鹸でゴシゴシ洗います。
井戸端の仕事で冬など一番大変な仕事です。何しろ東京の冬は今よりずっと寒かったので。

私の母は女姉妹の中では一番末で家事など全くせず、我が儘いっぱい育ったと晩年の伯母達に聞きました。お父様に申し訳ないといつも思っている、結婚させられないと思っていたという言葉を聞いたこともあります。

それでも子育ては、非常に躾が厳しく、以前書いたことがあるのですが、我が儘に育った母親は子供に厳しく、厳しい母親に育てられた子供は、我が子に甘くなると結論めいた思いを後年持ったことがあります。
母のようにはしたくないという思いが無意識に子育てに出てしまったという少々の反省の念もあるからです。

言葉遣い、行儀・・・半端でなく厳しく育てられました。口答えなどしようものなら、という感じがありました。
ただ、結婚前に殆ど家事を手伝ったことがなくても、母は専門学校の家政科を出ているので、家事についてはひと通り学んでいるし、裁縫とか編み物、刺繍など手の仕事は得意な人でした。
センスがあると言うか、お料理でもお誕生日などにはあっと驚くご馳走を作ってくれたし、お客好きで、オードブルっぽい感覚のものを華やかに並べるとか、ひと味違うものを作り出す才覚もあったと思います。

父の外地赴任時は実家で暮らし、父が帰国して、伯母の家に住むようになっても、住み込みの、家事見習いと呼ばれた女中さんがいて、実はその人は伯母が雇っていたと知るのは、伯母の葬儀の時でした。私も長い間家が伯母のものとは知らなかったのですが、それ程母は色々な意味で我が物顔に振舞っていたということです。
辛い洗濯はねえやの仕事ということを書こうとして、脱線してしまいました。

ねえやの霜焼けで赤く膨れた、更にアカギレもできた痛々しい手を今でも覚えています(皸などいう漢字があるんですね)。

小学生低学年でも家庭の仕事は結構手伝わされると言うか実習しました。
雑巾がけのような単純なことから障子の張替え、料理の手順、大根おろしとか山芋のすり下ろし、鰹節削り、擂り鉢ですりこ木を使うなど単純なことは必ず手伝わされましたし、お正月のお餅切りなど包丁を使う作業もやりました。

掃除はハタキと畳箒と呼ばれる長い柄のついた大きな箒を使うのですが、小さい子供には扱いが無理で、それでも形を覚えたというところでしょうか。
玄関や門の外の水撒き、他にも色々手伝いました。暮れの大掃除の手伝いが子供の手伝いの集大成ということになるかと思います。
思い出したことで、お正月のお雑煮のお餅焼き、それから洗い張りも手伝いました。簡単な絞り染めなど学校の家庭科の授業でやりました。
子供のお手伝いと言うか躾の一つのようなものですが、またいつかまとめてみたいと思います。

暑さに直接関係があるエアコンと冷蔵庫です。
エアコンが我が家に入ったのは1970年頃だったと思います。住宅公団の分譲団地に入居して、二三年後居間と子供部屋に入れました。

子供時代は勿論、それからずーっとエアコンとは無縁の生活でした。
家庭を持って、集合住宅という庭のない密閉性の高い住居に住むようになって、エアコンを入れましたが、居間がメインで書斎や寝室にはないということで、家の中は暑さ知らずということにはなりませんでした。

東京の、今よりずっと寒かった昔の冬について書いたことがありますが、実は最近の夏も昔よりかなり暑いのではと感じています。
子供時代、猛暑という言葉を聞いたことがありません。
と言って暑いことは暑く、暑さ対策と言うか生活習慣は、その夏の暑さがどの程度かは関係なく、いつも同じような形で守られて来たと思います。

暑くなると、学校の朝礼や体育の時間に倒れて、保健室(衛生室と呼んでいたような記憶がありますが)で休む子がいます。
熱中症ではなく日射病と呼んでいました。
特に子供は日中暑い時に外で遊ばない、外出の時は帽子をかぶる、外では日影を歩くようにする、夏休みは毎日昼寝をする、などと言うルールと言うか日課がきまっていました。

今は水分を充分摂るように言われますが、当時は寧ろ水の飲み過ぎが注意されました。
井戸水は勿論水道の水もそのまま飲まないように湯冷ましが用意されていました。学校では飲み水はここでと決まっていて、時々はそれを飲むし、当時水道水は飲み水に適しているとされていましたが、家庭では念には念を入れる、水は一度沸かす、生ものは火を通す、と言ったことが特に夏は原則になっていました。

網戸が当時もあったかも知れませんが、開放部分が多い木造家屋に網戸を入れると言うのは無理なことで、構造的にも難しかったと思います。
夜は一定時間戸や障子を開け放して夜風を入れる。電燈も最小限にして、少しでも熱や暑苦しさを断つ。電気を点けていると虫もたくさん寄ってきましたしね。
夏場だけ障子を開け放しにして、簾をかけたりもしました。
(反対側の)窓を開けて風が通るようにしましょう、という言葉をよく聞きま
した。

お風呂上りには浴衣を着て、縁側で「涼む」という言葉を子供でも使いました。
うちわを持って、線香花火をしたり、井戸で冷やした西瓜が、「おやつ」と同じような意味で使われていた「お食後」に出ることもあるのは夏だけのことです。
「夕涼み」と言うのは案外具体的なイメージが湧かない言葉ですが、「涼む」は夏外出して、「疲れたから、冷たいものでも飲んで、ちょっと涼んで行きましょうか」などと言う風に使いました。

エアコンと言うのは窓などを締め切りにしなければならない、暑さに対して閉鎖的なイメージ、ではなく現実に閉鎖された空間で涼しさを得るわけですが、それに対してエアコンのない頃は、開け放して、開放して、外気を入れて涼しさを取り込もうとしたと言えるかと思います。

生活の中で暑さのためにダメージを受ける、主として食品の冷蔵保存のための冷蔵庫の存在は家電製品の中で最も重要と言えるかと思います。
当時も氷の冷蔵庫はあって、氷屋さんがリヤカーで配達して来て、家の前でシャキシャキと切って、氷を上からガッチリ挟む独特の道具で勝手口に持って来る、夏の風物詩の一つでしたが、氷冷蔵庫の機能は限られたものでした。
配達と言うと、当時はスーパーとかまとまった商店街というものがありませんでしたから、お肉、お魚、八百屋などそれぞれ御用聞きが注文取りに来て、配達して来ました。

御用聞きの挨拶、「こんにちは」が「こんちはー」「チワース」と聞こえる、と言うより現にそう言っていたのですが、今や「こんにちは」は世界的に通用する挨拶になりました。いい、悪いということではなく、昔は普通に交わされる挨拶言葉ではありませんでした。

お豆腐などは毎日小さなラッパ?を吹いて、売りに来ました。
お味噌汁(「おみおつけ」と呼んでいました)に頻繁に使いましたが、冷奴が子供のお菜に出たことはありません。
今は完全包装されているので、何の躊躇いもなく冷奴で頂きますが、当時お豆腐は衛生的に扱われているとは言い難く、製造元は安心ですが、小売りのお店などでは、水を入れたバケツ様の容器に入れて、時として西日がカンカン当たる所に置いてあったり、たまに蝿が浮いていたりして、火を通さずに使うことはありませんでした。

私の若い頃も、衛生的に扱われるようにはなっていましたが、相変わらず水に漬けたものを求めるスタイルで、火を通さず使うことには躊躇いがあり、我が家では片栗粉でトロミをつけた熱湯にサッと通して、冷蔵庫で冷やして食卓に出していましたが、口当たりが滑らかで好評でした。

売りに来ると言えば、夏場特に金魚なども売りに来ました。「金魚ー、金魚えー」と声をかけながら、自転車で引っ張ったリヤカーで、金魚鉢や容器に入れた金魚を売るのですが、後になって、金魚などを売り歩いて、生計が立つほど買う人がいたのだろうかと不思議に思ったのですが、当時中流家庭の普通に大きい家の庭には池があるのが当たり前、と言うか、流行と言うか、ウチもお隣の親戚も母の実家の庭にも池があって、金魚が泳ぎ、必ずと言ってよく睡蓮が表面を覆っていました。

当然金魚を足したり、餌や藻なども調達していたわけですが、金魚を買って、池に放す場面など子供が見たい風景なのに、おそらく子供達が学校へ行っている時に買っていたのか、見たことはありません。
季節には風鈴なども売りに来ました。
雑貨を乗せた屋台のような流し売りが来たことも記憶がありますが、どんなものを売っていたか忘れてしまいました。

戦後はアイスキャンデー売りなども来ました。
季節ものを売りに来ると、ちょっと外に出て、何か買うというのが、生活の中の習慣、同じ所にわざわざ売りに来る人への気遣いのようなものもあったのかも知れません。
太いお箸状のものに、水飴をクルクルと巻きつけたものも売りに来たという微かな記憶があるのですが、買い食いに属することは許されず、しかし食べた記憶はあり、祖母が孫達に大きな壜から一本ずつ巻いて配ってくれたような朧な場面も記憶の底にあります。
水飴は本当に大好きで、後年金沢に行った時、製造元へ行ってみたりしました。

昔の夏の食事情を、もう少し思い出すままに、書いてみたいと思います。
思いついたことから書くと、ビールはあまり冷やし過ぎてはいけない、10℃位などと言われていたのはいつ頃までだったでしょうか。
今はとにかく冷えていなければ、こんなぬるいの、飲めるかという人が殆どではないかと思いますが。

キリキリに、或いはキンキンに冷えた、と言うのはどこの方言か、結構冷たさの感じを表しているように思えます。
私も最近まで冷たいもの好きで、水一杯でも角の立った氷が多めに入っていると気分がよくなりました。
一時シャーベット状のビールが好きだった時期があります。
フィリピンで誘拐された若王子さんが好きだったと読んだ記憶があります(こういうどうでもいいこと?を覚えている、突然思い出すのが私の悪い癖と言うか傾向と言うか・・・)。

とにかく冷たいものはあくまで冷たくと言うのが個人的好みでした。
ワイン愛好家に聞かれたら顰蹙ものですが、実は赤ワインも冷えたものが好きです。

そして昔のことを思い出してみると、子供時代、冷たーく冷えたものと言うのはまずなかったと言えると思います。

当時の我が家ではお酒を飲む人がいませんでしたから、それと女性がお酒を飲むなんてとんでもないという時代でしたから、冷えたビールなんて見たこともありませんでした。

お茶は食事中は飲まないと言うのがルールでしたし、食事が終っても、子供にお茶が出るということはなかったように思います。お茶漬けも大人だけに許されたことです。
とにかく食事中のルールはやかましく、今と違っておしゃべりは厳禁、ご飯はかき込んではダメ、お代わりの時はひと口残して、終る時は米粒を一粒も残さない。

お茶と言うとお客様に出すというイメージですが、それは家とか人によってで、お茶好きの伯父がいて、いつもお茶を前にしている、お茶がないと、伯母の名前を呼んで、おーい、お茶という感じでした。

夏のお客には冷やしたお茶をガラスの茶器で出したりしていたのを覚えていますが、それも氷の冷蔵庫でちょっと冷やしたものではなかったかと思います。
氷の冷蔵庫と言うのは、大きいものではなく、氷屋さんが配達して来る氷を一貫匁(約3.75キロ)とか二貫匁とか買って、上の段に入れて、下に冷やしたり保存するものなどを入れます。

寒天、葛粉、ゼリーなどを固める時にも使われたと思いますし、中が狭いので思ったより冷えたのではと思いますが、今の冷蔵庫とは比べものにならないこじんまりしたものです。
西瓜などは既に書いたように井戸で冷やしました。トマトや桃とか梨などの果物は水道水をチョロチョロ出して、冷たくしました。現在は熱いお湯も出るけど、同じ蛇口でどうしても何となく生ぬるい‘冷水’しか出ないように思うのですが、昔の水道水は夏冬を問わず、冷たいと決まっていて、特に流しっ放しにして冷やせば、ある程度冷えたものです。

当時トマト嫌いの子供が多く、私もかなり苦手だったのですが、今と比べて明らかに美味しいものではなく、少し前に知らない青果店で買ったトマトがおそろしく不味く、これこれ、昔の味と思いましたが、青いのを収穫して赤くなるのを待ってお店に出す、グチャットして、食べられたものではなく、今こんなものを売ったら、お客が来なくなってしまうのではという代物です。野菜に関して全体的に昔より味もずっとよくなっていると思います。

夏は必ず毎日麦茶を作りました。大きな薬缶で煮出して、水を流しっ放しにして冷やしますが、お湯を冷やすということに関しては、非常に冷たくなると言うわけではなく、熱くないというだけのことです。でも少々生ぬるくても、夏が来たんだなあと季節の変わり目を実感するというわけです。
今のように缶ジュースなどありませんし、思い出すのはサイダー位でしょうか。ラムネもありましたが、何故か飲ませてもらえなくて、後年いい年になってあのビー玉を落とす感覚を楽しみました。

たまのアイスクリームのお土産は誰が買って来たものだったか、ドライアイスの白煙が立って、貴重品扱いでしたが、こんな美味しいものがあるだろうかという程好きなものでしたが、時々デパートの食堂で食べたり、手間をかけて家で作ることもたまにありました。
茶筒に牛乳、卵、砂糖、バニラなどの材料を入れて、散らし寿司などを作る時使う料理用桶にブッカキ氷をたくさん入れて、長時間廻す、手間のかかるものです。病気になると時として作ってもらえました。

アイスクリームと言うとすぐに思い出すのは、汽車で売りに来るアイスクリームです。小さい紙の容器に入っていて、薄い小さい木ベラで固いのを少しずつ掬って食べている中に段々柔らかくなり食べやすくなります。
汽車に乗れば必ず買ってもらえました。
もう一つサンドイッチ。ごく薄い乾いたパンに薄いハムが挟んであるだけですが、独特の風味がありました。辛子ではなく何か一つ香辛料が塗ってあったと思うのですが、この味が懐かしいのと、戦後も結構長く同じサンドイッチを売っていたので、忘れられない味の一つです。

夏、とにかく気をつけたのは食中毒で、特にウチは母が神経質だったと思うのですが、子供の時 握り寿司、お刺身の類を食べた覚えがありません。
最近年上の従姉に聞いたことですが、お隣の親戚では昔から決まったお寿司屋さんで時々出前をとっていたとか。
ねえやが急にやめることになって、その時私は結婚すると聞いたのですが、これも従姉の話では伯母の意向で別の場所で働いてもらうことになったとか(戦時中女中禁止令が出たとも聞いています)、それですぐ影響が出たのが食事で、鰻ばかりが続いたことがあって、ちょっとクレーム騒ぎがあったこともありました。

特に夏場はお弁当のお菜も気を遣いました。ご飯には必ず真ん中に梅干を入れ、お菜も濃い味付けのものでした。私が好きなお菜はムツの子(鱈子と殆ど同じような感じのものです)の甘辛い煮つけ、今は全く食べなくなってしまったナマリ節の生姜煮も好きでした。
給食も始まっていたと思うのですが、学童疎開なども始まる騒然とした状況になって行く時期で、お弁当を持って行ったことも確かです。そのお菜に苦労するほどは食糧事情は逼迫していませんでした。
お米の配給はおそらく七分搗き米で、白米は手に入りにくくなり、大病をした従兄に毎朝白米のお粥が用意されるのですが、お匙一杯分を「特の思し召しよ」などと言って、ご下賜賜るのが何とも言えない美味しさだったことをよく覚えています。

長くなってしまって、まだ思い出せることはあるのですが、また何れということにして、夏は暑いと決まっているのだから、まずそれが当たり前と考えて、その上で夏特に気をつけることに留意する、季節のものを配して、暑い季節をやり過ごす、時として楽しむという考え方、生活の規律があったように思います。

体を冷やす、冷たいものを飲食するということにはさほど重点が置かれず、寧ろお腹を冷やしたり、寝冷えなどに注意した、生ものなどの飲食による中毒を防ぐために特に徹底的に飲食物を管理したということの方が印象に残っています。

一つ最後に今とさほど環境、状況が変わらないのに、昔よりずっと無神経と言うと言い過ぎかも知れませんが、関心が薄いように思われることにお弁当があります。

昔は夏場のお弁当や遠足に持って行くものには相当神経をつかいました。
何時間もお弁当箱に入れておくということは今も変わらない条件で、冷房が効いている所に置けない場合も多いと思います。
前の日の残りをそのまま入れると言うのは論外で、お菜は味付けを濃く、とにかく中毒を起こしやすいものは避けたものです。

これは私の子供時代より私自身、子供のお弁当作りが、中学三年間を除いて、幼稚園から高校まで給食がなかったので、特に夏場は気をつけたことです。
ハム一枚でも火を通さずに入れたことはありませんでした。

これを書いていたら、テレビで、何かが具の入っていないお握りみたいという発言があり、昔はお握りに入れるのは梅干と決まっていて、塩もドッサリつけたことを思い出しました。
手で握るので案外中毒を起こしやすいものだったのです。
今は多彩な具が入っていても、器械が作り、消費期限も明記してあるので、だいじょうぶなのでしょうけど、死者も出る中毒事件が出るにつけ、昔と比べて、冷蔵、低い室温というだけで、特にお弁当などの飲食物の管理が甘くなっている部分があるのではと感じています。

丁度電気の請求書が来て、見たら、ご参考までにと比較してある、去年の同じ月より少し多い。えーっ、まさか! こんなに意識して節電しているのに。
数年前と比べてくれれば、半額近くになっているはずです。

何故だろう。去年より今年の方が猛暑日が早く始まったこと。他には・・・
とにかくテレビをつけている時間が長いこと。そろそろ余震も治まって来たみたいだから、テレビも消しておこうかと思うと、この頃またあちこちで強い地震が発生して不安である。震度3なんて普通になってしまって、新聞にも出ない。

それからパソコンを使う時間も半端ではない。
おそらくエアコンはそれ程容量を使っていないと思います。設定温度を上げて、こまめに消しているし。

他に電気のコンセントをつけているものを、見てみました。既に挙げたものを除くと、電子レンジ、オーブン・トースター、ジャー、水洗トイレ、お風呂の操作も電気です。電話、プリンター、ゲーム機。その都度電源を入れて使うものも非常に多い。洗面所だけで、歯ブラシ、髭剃り、ドライヤー。
IH調理器のようにかなり長時間大きい容量を使うものもあります。

昔はこうだったと思い出してみても、既に生活の中に完全に組み込まれている電気器具ばかりです。夏の過ごし方のみに重点を置いても節電に有効な答えは出ない、という何となく落ち着かない結論になりそうです。
いずれにしても次の使用量は前年より少ないことに自信があります。  《清水町ハナ》

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