思い出エッセイ〔347〕「昔の昭和:災害のことなど」

 災害に思い出という言葉は似つかわしくありませんが、生々しい記録ではなく遠い昔の記憶を生活の中から少し掘り起こしてみたいと思います。

私の母は子供の時、関東大震災に遭い被災しています。
母は十人兄弟で、両親つまり私の祖父母が、孫の世代までまとめて面倒をみる人達だったので、私もいつも親戚が身近にいる子供時代を過ごしました。
私の従兄妹が二十人以上いましたから、六親等まで数えると、数十人という言い方ではおさまらない人数です。

祖父は陸軍の将官でしたが、神経痛を病み(この頃引退したと聞いたような気もしますが、病状は初期で、まだ現役だったのではと思います)、気候温暖で海も近い房総の地に移り住みました。私が生まれるずっと以前大正時代のことです。
千葉館山市のある地域なのですが、更に地域を限定する固有名詞を挙げるのは控えたいと思うので、‘内房’という言い方を使いたいと思います。
館山は内房ではありませんが、1930年代に、‘内房’と呼んでいる町と館山町が合併したもので、‘内房’は内房線のすぐ近く、内側にあるので、この呼び方にしました。

母は東京の猿楽小学校出身で、内房の女学校を出て、東京の専門学校を卒業しています。
数年の内房暮らしということが分かりますが、よほど思い出深い楽しい記憶ばかりの日々だったようで、伯母達や私より十歳以上年上の従兄姉達は、内房時代と呼んで、昔思い出話をよく聞かされました。一族郎党集まった写真もありました。

私が二三歳の頃から幼稚園時代、その頃は東京の荻窪に移り住んでいた祖父母の家で暮らすようになったのは、父が外地に赴任、それから所謂日華事変に従軍したからですが、その頃には祖父は既にほぼ終日ベッドに寝ているほど病が進行していました。
内房時代は病んでいてもまだ元気だったらしく、白馬に乗って(散歩する)姿が有名だったなどという話を最近聞きました。

この初めて聞く事実は、祖父が馬で通勤していたことを意味すると思います。引退して、白馬を飼う余裕はないと思われるからです。
軍人が所属地に馬で通勤することは特に地方では普通のことで、私の父も若い頃連隊勤務の時は馬で通い、馬の世話をしたり、通勤時付き添う係の兵隊さんがいて、父が亡くなった年にも年賀状を頂いていました。

内房時代のことで、十回以上どころか数十回も聞かされたことは、関東大震災が起きた瞬間のことです。
皆庭に避難して、気がついたら、孫のIちゃんがいない、大変と家の中に引き返そうとした者もいたかも知れません。
その時Iちゃんが縁側に出て来て、皆が大声で「Iちゃん、飛び降りて」と叫んだそうです。

四歳と聞きましたが、当時は年齢は数えだったので、三歳だったと思います。
Iちゃんは縁側から飛び降り、走って来て(誰かが抱きかかえて連れて来たのかも知れませんが)その瞬間、家が「ウワーッと倒れて来た」と言うのは母の表現です。

Iちゃんは一番年上の従兄で、当時生まれていたただ一人の孫ということになります。
縁側には普通庭に下りる踏み石があり、おそらくそれがない場所だったのでしょう、その年齢では飛べない高さだったらしく、あそこから飛び降りたのだから、Iちゃんはほんとにえらかったという感じで、繰り返し聞かされた話です。
この「えらい」という言葉を昔はこういうニュアンスでよく使いました。

関東大震災は1913年(大正12年)9月1日に起きました。死者約10万人の大災害です。
東京についてのみ被害が語られることが多いのは、多くの家屋の焼失によって、死者の数が非常に多いこと(7万人余)に拠るようですが、家屋などの被害は全壊が神奈川県が約6万3千5百戸と東京の約2万4千4百戸をはるかに上回っています。千葉も約1万3千7百戸で当時の戸数と比べないと正確なことは言えないのですが、地震の時の火事の被害の大きさが分かるというものです。
そしてこれを調べている中に、‘内房’と書いている、まさにその地が千葉で最も大きな被害を受け、二つの銀行の建物が辛うじて残った以外は全ての家屋が全壊という記述を見つけました(Wikipedia)。

震災直後の様子を聞いて置くべきでした。
怪我をした者が一人もいなかったことは分かっていますが。
直系の親戚だけでなく、祖母が東京赤坂の生まれで、兄妹が十人以上いて、その私の大叔母にあたる人達(男子は一人)が子沢山の人が多く、全ての人と親しく付き合っていましたから、いざという時、飛んで来てくれたはずですが、東京に住んでいましたから、どういう状態だったか、お互いに助け合ったことは確かだと思います。

母は内房の女学校の一年生のはずで東京から越して、何ヶ月も経たない中に被災したことになります。
家が全壊したということ以外に、震災の時の詳しい状況についての話をその後も誰からも聞いたことはなく、東京に戻ったという事実に飛んでしまうのですが、震災の時には生まれていなかった従兄姉達が内房の思い出話をしたり、写真に当時全く珍しい洋装で洒落た帽子まで斜めにかぶった母の姿、義理の伯母が赤ちゃんを抱いている‘内房’の写真を見て、特に不思議に思わなかったのは、私が関東大震災が起きた年を意識することがなかったからかもしれません。

割りに最近、震災後すぐ同じ場所に家を建て替えたことを聞きました。
震災を経験した伯父や伯母、縁側から飛び降りた従兄も亡くなり、叔父の回忌に従兄が内房で若い叔父のお供で雀撃ちに行った時の思い出を話した時、建て替えの話をしたのです。もう一人の従姉も同じことを話してくれました。

昔子供は半人前以下と言うか、大人達の話に加わることはなく、口を挟むなどということもありませんでした。私は従兄弟の中でも特に大人達に囲まれた子供時代を過ごしていて、聞き役に徹していたので、昔のことを比較的よく覚えているわけです。

大人達が後に震災の記憶をあまり語ることがないこと、震災後家を建て替えてまで内房の生活に拘った一族が、昭和一桁の半ばに東京に戻るのは、ある大事件が起きたからだと思います。

伯父の一人が海軍の技術将校で、自身が発明した、軽い素材の飛行機で(これは聞いたことで、間違いがあるかも知れませんが)東京湾でデモンストレーション飛行を行うことになり、それこそ親族揃って、海岸に見に行ったそうです。大震災から二年余後、昭和の初めのことです。
横須賀を飛び立った飛行機のパイロットが予定にない急上昇をして急降下し、そのまま海中に突っ込んでしまったそうです。

伯父は椅子に座ったままの姿で亡くなっていたと聞きました。
号外が出たと聞いています。
あの時のことを思うと、母はそう言って、ああ、思い出したくないとちょっと取り乱したような様子を見せたことがあります。
どれ程皆が悲嘆に暮れたか、目の前に見えるような気がします。遺族は勿論祖父母も大きな衝撃を受けたと思います。
慣れ親しんだ地を去る決心に繋がったのではと推測しています。最近従姉に聞いたところでは、祖母がずっと東京で育ったから、やはり帰りたくなったと聞いているということで、それもあると思いますが。

ただ従兄の雀撃ちの話などは、この事件より数年後のことで、或いは別荘のような形で内房の家を残したのかも知れません。

今も多磨墓地に、当時の海軍大臣が墓碑銘を書き、入り口に石材の飛行機が置かれたお墓があります。

荻窪に家を買ったのは、一番上の伯父と聞いていますが、そこが昭和の我が一族の基地となるわけです。
幼馴染が、Kさんのお宅は大人の方がたくさんいらっしゃるという印象だったと言いましたが、本当に出入り自由、いつでも親戚が子供達を連れて、やって来ましたし、未婚の叔父達もいて、あらぬ時間に一人でお昼ご飯を食べたり、祖父の世話もあって、多い時はねえやと呼ばれる住み込みの女中さんが三人いた時もありました。

地震には皆敏感で、とにかく揺れたら外へ出る、が鉄則でした。
一度かなり大きな地震があった時、二階にいた三歳か四歳の私を叔父が抱えて階段を駆け下り、外に出して、何故かまた二階に戻りました。消し忘れた煙草でもあったのかも知れません。

次に大きな揺れが来て、目の前に叔父がいるので、あれと思ったら、二階から飛び降りたと言います。屋根伝いに樋にでもつかまって下りればそれほど衝撃がないかも知れませんが、それ程地震を皆怖れていました。

さすがにこの頃のことは細かいことを覚えていませんが、今から比べると家事の殆どが手仕事で、井戸もあるし、懐中電灯や蝋燭は常に備えがあり、大家族ですから、食材も相当量の買い置きがあったはずで、更に漬物、梅干、ジャムといった保存食もあれこれ常備していましたから、非常持ち出しというような用意はしていなかったと思います。
戦争中になってからのことだったかも知れませんが、防火用水用の大きめのコンクリートの(確か)容器が塀の外に置いてありました。
祖母が陣頭指揮をとっていて、誰もがはい、はい、と言うことを聞いていました。

ここでも大事件が起きました。隣家の火事です。
突然出火し、応接間が隣家と軒を接するというほどでもないのですが、窓から見たら、生垣の上の方がパチパチ音を立てているので驚きました。
当時の家は、外には塀を建てて、隣家との境は生垣、それもかなり密な厚みのある植え込みという場合が多かったと思います。

お隣のお宅は、ご主人が私の父方の伯父の勤務先と同じ財閥系の会社勤めで、私より二歳と三歳年上の姉弟は遊び仲間でしたし、こんなことを書くのは申し訳ないのですが、やはり私にも一族にも大事件だったので、書き留めておきたいと思います。

祖父が当時はまだ歩くことができて、前のお邸の敷地内に避難しましたが、おそらく上がってくださいと言われたのも断って、着物姿のまま端然と立っていました。

近くと言ってもバス停で言えば、二停留所位の距離はあった、伯母の家へ私が裸足で知らせに来たと後年言われましたが、私にはそういう記憶はありませんでした。
砂利道なので、裸足はきついのではということがありますし、それをするなら母ではという気もします。

ただ消防車などのことを覚えていず、お邸は大きな門を閉じましたから、消火の様子も見えなかったのです。
平常時のことを結構覚えているのに比べると、記憶が飛んでいる部分があるという認識はあります。

会社を早退されたらしいご主人が焼け跡の前で茫然と立っておられる姿が印象に残っています。ご家族はどちらかに避難されたようです。
ご挨拶をすると、丁寧に返して下さる、優しい感じの方でしたが、戦時中、客船が敵の攻撃を受けて沈んで、亡くなられたと聞きました。

女中さんの寝煙草が布団の中に落ちて、押入れにしまった後で出火したと聞きましたが、最近親戚が、松の木の松脂に子供が面白半分に火をつけたら燃え広がったという初めて聞く出火原因を話し、どっちなのか、今でも分かりません。
そのお宅はすぐに新しく家を建てられたのですが、ご主人が亡くなられて、それが理由か、越して行かれました。

このお宅とは関係ないことですけど、当時は今で言うエリート・ビジネスマンはボーナスが例えば3千円位出て、大きな家が買えたそうです。

父が中国から帰国して、陸軍省勤務となり、暫くこの荻窪の家にいましたが、間もなく従兄が一人で住んでいる馬橋二丁目(現高円寺南)の家に住まないかという話が出たのだと思いますが、そこに越すことになります。

私が幼稚園卒園間近という頃で、太平洋戦争開戦(1941)まで一年を切った頃でしたが、父と一緒に暮らせたのは二年足らずなのに、数年、それ以上にも思える、懐かしく思い出深い日々で、さすがに子供が戦争の行方について心配することもなく、父もすぐ帰って来ると信じていて、今思うと子供時代の中でも掌中の玉のように大事に抱いていたい数年の日々です。

本当に優しい父で、以前書いたような記憶がありますが、従姉が父について言ってくれた言葉をここに書いておきたいと思います。
「私達に(他の軍人の叔父様達と違って)普通の言葉で普通の態度で接してくださった、本当に優しい叔父様でした」

次第に物資が窮乏してきて、防空演習なども行われるようになって、1944年の夏には学童疎開も始まります。
荻窪の祖父母の家で大人達に囲まれた日々も大人の世界の輪の外でかしこまっている、しかし親戚の子供達もたくさん出入りして、それなりに子供の世界を作っていた独特の環境でしたが、馬橋の数年は自分一人の世界も形成し始めた子供時代でした。

北陸に縁故疎開をして、ゆったりと流れる時間もありましたが、戦局が急速に悪化して、終戦の直前に空襲に遭い、戦争と言う人間が作り出した大きな災害は戦後も長く後遺症が残ったと言えます。  《清水町ハナ》

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック