思い出エッセイ〔316〕「昔の昭和:東京の寒い冬」

 家の中でちょっと寒いと感じるとすぐエアコンの温度を上げる。外へ出てもバスも電車も出先の建物も暖かい。寒い所で働いている方には申しわけないと思いますが、その日の気温を長時間体感することが殆どない。子供の頃冬の寒さは厳しかった。地球温暖化のことも頭に置いて、子供の頃の冬、その寒さに焦点を置いて、思い出したことを書いてみたいと思います。

昭和も10年代後半から、太平洋戦争期、敗戦(1945)、戦後の厳しい時代、と時代や生活は激変するのですが、旧き佳き昭和が色濃く残っていた40年代前半の頃の冬について書いてみたいと思います。私が東京の荻窪から馬橋二丁目(現高円寺南)に越した、幼稚園から小学校(当時国民学校)の数年の間です。

ひと言で言って、家の外も中も東京の冬は今よりずっと寒かった、ということになります。
毎日室温をチェックしていたわけではないのですが、十数年後東京の郊外に住んで、朝起きた時、部屋の温度が零下2℃になっていたことが一度ありました。

馬橋では比較的大きな家に住んでいたのですが、当時の家は南向きに建てられるのが当然のような時代だったと思います。
多くの親戚がいたのですが、南向きでない家はなかったと思います。
お天気がよければ南側の部屋、廊下、廊下に面した部屋には陽がさして、昼間はポカポカ、夜の冷え込みも幾分マシでした。

エアコンに類する、部屋或いは家屋全体を暖める電気器具などは一切ありません。
(学校ではスチーム暖房があった時期もありますから、そうした暖房を入れていたお宅もあるかも知れませんし、石炭ストーブの類いを使っていた家もあるかも知れませんが。暖炉があったお宅は結構ありましたね)

我が家で言えば、暖房に類するものはお茶の間の長火鉢、瀬戸物の丸い火鉢、置炬燵、夜寝る時の湯たんぽ、身体を温める懐炉、そんなものでしょうか。

台所には都市ガスの他に、煮物などをするために練炭火鉢や、七輪に、炭、炭団(たどん)、豆炭などを起こすこともよくありましたが、練炭は火力が強く、暖房にも効果的ですが、ご存知のように毒性が強いので、我が家では料理用に台所で使うだけでした。

タドンは炭の粉を丸めた、お握りのような形をしたものですが、まん丸でずっしり重いものです。
雪が降ると、必ずと言ってよく雪だるまを作り、眉は炭、目にはタドンを使ったものです。
豆炭は、ちょっと調べてみると、同じく木炭の粉を使う場合と、コークス(石炭から得られる粉末)が原料になっているものも多いようです。楕円形で真ん中がコンモリしています。どちらも炭火より長持ちして、置炬燵などに使いましたが、我が家では、母が一酸化炭素中毒と、火事を恐れて、炬燵をあまり使いませんでした。
戦後、食料だけでなく、燃料も不足した頃、練炭は比較的手に入りやすくなって、度々換気をしながら、暖房用に使ったこともあります。

タドンや豆炭なども、練炭ほどでなくても、木炭(炭)より毒性が強いと言われ、しかし木炭より火力が強いことと、長持ちするので、使い方はそれぞれの家の考え方によったと思います。
親戚で一度従姉達が一酸化炭素中毒になって、大騒ぎをしたことがあります。
おかしいと思って部屋を出たところで倒れたとか。とにかく換気には注意していましたね。

行火(アンカ)という、今でも電気アンカが売られているかと思いますが、主に寝る時に足を暖める器具も、昔は電気製品などなく、炭や豆炭などを入れて、暖房に使ったことは知っていますし、我が家にもあったように記憶していますが、自分が使った覚えはありません。

炭は、俵に入っていて、一俵単位で買っていたようですが、買い溜めと言うのか、最初からそういう買い方をしていたのか、子供部屋の窓を開けると軒下に、炭俵が二列に十俵以上積んでありました。
お習字で一度、良上という点を取って(優でないとダメなんですね)、畳んで、炭俵の下に落としたところ、見つかってしまう時が来て、ひどく怒られました。

昭和19年(1944)の夏頃から学童疎開の話が出るのですが、その頃も、燃料については、特に困ったという話を聞いたことがありません。調理用の都市ガスがあったからではないかと思います。
敗戦直後も荻窪の母の実家では都市ガスが使えて、燃料不足に苦労したのは、寧ろ戦後三年経って、関西に越し、薪が主な燃料になってからのことでした。

とにかく子供の頃は、電気製品の暖房は全くなく、夜寝る時は足を暖める湯たんぽを使います。
確かに足は暖まりますが、火傷を恐れて、ネルの布などでくるんであって、それ程暖かいものではありません。
真冬、布団に足を入れる時の冷たさと言ったらありませんでした。
足が湯たんぽに届いても、すぐに暖まるというものではなく、ただ、掛け布団を二枚重ねるとか、寝具で調節していましたから、暖まって来ると、安眠できるのですが。

朝起きた時がまた寒い。
最近、手がかじかむと言う経験をしたことがありませんし、子供など、この言葉を知らないかも知れませんが、冷えた手を温めるためにこするという仕草もあまりしなくなりましたね。
朝顔を洗うのに、お湯を用意してもらうということもありません。勿論蛇口をひねって、お湯が出て来ることなどありません。

手袋をして、毛糸の厚い靴下をはいて、5枚も6枚も着込んで、登校する時、これがまた寒い。霜柱をザクザク踏んで、歩きます。当時東京では舗装道路は今よりずっと少なかったと思います。学校近辺だと、学校前の青梅街道に出る道は舗装してあったと思うのですが。
マスクも風邪予防のためと言うより、寒さよけにしたものですが、ガーゼなどより、黒っぽい、固い厚みのある、菱形のものがよく使われていました。

懐炉を入れて行ったのですが、小さい金属製の容器に、これもおそらく炭の粉を棒状にして、周りを灰色の紙で包んだものにマッチで火をつけて、フーフー吹いて、一番上全体に火が廻るようにしてから(お線香に火をつける要領です)、確か二本容器に入れて、まず通気孔のある金属の薄い蓋をカチッと閉めて、それから容器の蓋をパチッと閉め、布製の懐炉入れに入れて、上の口を紐でギュッと閉めて、お腹のあたりに入れるのですが、これは結構暖かいものでした。

途中で消えるということはまずなく、炭の粉を包んでいる灰色の紙に何か秘密があると思うのですが、表面に何か塗ってあるのか、ツルッとしていて、紙の方が先に燃えてしまうということはありません。独特の臭いがしました。
腹痛を起こした時にも使いました。

学校へ着くと、教室は暖かいんですね。
いつ頃までか、覚えていませんが、スチーム暖房だった時がありました。
お弁当をのせて、お昼温かいご飯が食べられました。
部屋全体が暖まって、それも柔らかい暖かさで、今のエアコンより寧ろ快適だったように思います。

それが石炭ストーブに代わって、当時こづかいさんと呼ばれた、用務員さんが、時間で石炭を入れに来ます。
火掻き棒で火を下から起こして、十能で石炭をつぎ足します。ある時期から先生がその作業をするようになったように思うのですが、疎開先のことかも知れません。

子供は風の子と言われて、休み時間には校庭で走り回って暖かくなる遊びをしたものです。
元気な男の子で、冬でも半ズボンよりもっと短いズボンで短い靴下と言う子もいました。

冬は池の水も凍り、我が家の池は比較的深かったことと、睡蓮が繁茂していて(冬も?)、すっかり凍るということはなく、氷の下で金魚が泳いでいるのが確認できましたが、水の少ない池などは金魚を引き上げないと、下まで凍ってしまう場合もよくあったようです。
金魚ごと凍ってしまっても、すぐ取り出したら、だいじょうぶと聞いていたのですが、ホントかな。

水道管が凍って破裂することもあるので、古い毛布を巻きつけたり、荒縄を巻いたりすることもありました。

洗濯は井戸端で、たらいに井戸水、洗濯板でゴシゴシという時代ですから、一番寒くて冷たい仕事です。
廊下も水拭きで、これは子供も手伝わされましたし、バケツの冷たい水で、何度も雑巾をキュッと絞って、端から端までツツツーっと往復したものです。

今は寒ければすぐ鍋物と考えますが、当時、あまり鍋物を食べた記憶はありません。
牛肉などは早い時期に手に入りにくくなっていて、すき焼きもたまのご馳走だったし、折角牛肉が手に入ったと思ったら、桜肉(馬肉)と分かったり、湯豆腐などは、子供にとって美味しいものではありませんでしたし、鍋物そのものが、殆ど食卓に上ることがなかったように思うのですが。

当時庭掃除の落ち葉など燃えるゴミは焚き火をして燃やし、さつま芋がまだこれしかない食べ物ではなかった頃、焚き火に入れて、焼き芋にしたりしましたが、それと焚き火は暖かくて、何となく楽しみにしていたものでした。

お風呂は石炭で、外焚きと言っても、焚き口が、地面より下のコンクリートで囲まれた、風などが直接当たらないようになっていて、時々火加減を見て、追い焚きをする程度で、それほど大変な仕事ではなかったと思います。
湯冷めをしないように、50とか100とか数えさせられて、上がっても結構長く体はポカポカ暖まったままでした。夏は早めに冬は寝る前にお風呂に入りました。

炭火一つ起こすにしても、順番があり、消し炭と言って、火が盛りを過ぎて、火力が弱くなり、灰がつき始める頃のを取り出して、水にジュッとつけて、火を消し、乾したものを作り、それが紙や木切れですぐ火がつくので、それを種火として火を起こし、炭を継ぎ足して行きます。
炭が赤くなって来たら、適当に炭を立てかけるようにして、空気が入るよう、火力が強くなるようにします。
火の盛りを保つように炭を継ぎ足します。
そういうことは子供でも注意する習慣をつけるために、お風呂の石炭の燃え具合も、同じく石炭を下から起こして火力を強めたり、そろそろ次の分を入れる頃などということを教わったものです。

人数分の湯たんぽに熱いお湯を用意して、一つ一つに入れるのも結構大変なことで、特に栓をきっちり閉めることなどは、湯たんぽ火傷も時々起きることなので、注意されます。
火や熱湯など、危ないからと遠ざけるだけでは真に危なさが分からないので、易しいことから学んで行くということだったと思います。

昭和19年(1944)の晩秋、北陸に縁故疎開をして、特にその年の冬は、40年ぶりと言ったか、大雪で、屋根から降ろした雪が一階の屋根の庇まで来て、庭も同じく雪でいっぱいになってしまって、昼間も電気をつけるような冬を体験しました。

どこの家にも大きな掘り炬燵があり、その炬燵の上で食事もし、寝る時もそのまま寝てしまうということもしばしばで、とにかく東京の置炬燵とは段違いに暖かい。
学校までの通学路はきちんと雪掻きをして確保してあり、初めて見る大雪に驚いたものの、寒さはそれほど印象に残っていません。

今でも寒さと言うと、子供の頃の東京の、霜柱ザクザク、かじかむ手、朝、顔を洗う時の身を切るような冷たい水、井戸端で洗濯をするねえやのアカギレ(皸という漢字があるんですね)、夜寝る時の布団の氷のような冷たさ、折角作った雪だるまがどんどん融けて行く様、凍った池の下の方で泳ぐ金魚の影・・・次々にその冷たーい、ひんやりとした感触の象徴のような、寒さ、冷たさが甦るのです。

寒くなるということは、お正月も近い、陳腐ですが、冬来たりなば春遠からじという思いとも繋がるわけです。

クリスマスを祝うという習慣はなかったのですが、二三回、枕元にプレゼントが置いてあったことがあり、それは馬橋の家に住んでいた時で、外地から帰って、内地勤務となった父の発案だったに違いないと、今気がつきました。
その父も1942年には再び外地に赴き、再会できたのは1948年です。

以前書いたものをざっと見返してみたら、既に書いたことも結構ありますが、昔の東京の寒さを中心にして、少しでも暖かくするための手間と工夫が、「暖」というスイッチに切り換えるだけで済む現代よりも、日常生活に彩りと豊かさを生み出していたようにも感じるということを書いてみました。  《清水町ハナ》

この記事へのコメント

ぼやっきー
2011年01月07日 00:52
はじめまして。

グーグルで「戦中 団子屋」で検索したら、「食の雑記帳22「食べもの事情(8)戦中・戦後の甘いもの・おやつ」思い出エッセイ」にたどり着きました。

質問があります。戦中、団子屋というのはいつくらいまで営業していたのでしょう。昭和16年からお米は配給制になっているみたいなので、17年くらいが限界でしょうか。

なぜこんな質問をするかといいますと、いま小説に挑戦しておりまして、昭和3年生まれの浅草の団子屋の倅が主人公で、戦中のことをどう書いたらいいか悩んでいるからです。僕は42年生まれです。

吉原が近いので吉原に団子を納品していたとすれば、国威発揚で優遇されるでしょうから、19年くらいまででも不自然ではないのかなとも思いますし。でも19年に団子屋がやれるわけねーじゃねーかともいわれそうですし。どうなんでしょう。いつくらいまで団子をつくっていたとして不自然じゃないでしょうか。

突然で大変申し訳ないのですが、ぜひ教えてください。
2011年01月07日 04:04
ぼやっきー様、上記のコメントは「食の雑記帳22「食べ物事情(8)~」〔285〕」について頂いたものだと思いますが、こちらにお返事を書かせて頂きます。まず〔285〕で書いている白玉団子などのおやつは殆ど全部手作りで、団子屋さんなどで買ったことは一度もなく、また家の近くに団子屋さんもありませんでした。串刺しのお団子は旧くからあったと思われますが、東京では下町の食べ物だったと言えると思います。確かにお米は配給制になって次第に食糧事情は悪くなりますが、本当に特に東京のような都会の食糧事情が餓死者も出るほど逼迫したのは寧ろ戦後です。昭和19年は私が地方に疎開した年ですが、既にかなり前から白米は手に入らず、五分搗きとか七部搗きのお米が配給され、疎開後つまり昭和20年にはお米が配給分では足りず農家に闇米を買出しに行きました。ところで団子屋と言うと業務用と言うことで、そちらの方の配給はどういう事情だったか分かりませんが、お団子の材料は上新粉(うるち米、つまり普通のお米の粉、白玉粉はもち米の粉)でおそらく所謂くず米のようなものが使われたのではと推測すると、昭和19年頃にはまだあったのでは、団子屋として営業するのは難しくても他の物お菓子などと一緒に売っていたのではという感じを持ちますが、あくまで推測で老舗の団子屋さんに聞かれたらいかがでしょう。17年はだいじょうぶではと思いますが。浅草なら吉原に納入したかと思いますが、「国威発揚」と関係あるとは思えませんが。お役にたてなくて申し訳ありませんが、いい小説が書けるといいですね。
ぼやっきー
2011年01月07日 22:47
「映画雑記帳62「真夏のオリオン」感想」思い出エッセイ〔190〕」の中に「戦争映画を観ているという感じはありませんでした。ある意味一つのお伽噺です」との言葉がありますが、戦争を体験したことがない人間が戦中を書く場合、こういう批評が一番恐いですね。

僕も映画をよく見るので書くと、ブルース・ウィリス主演の「アルマゲドン」のあと、「アルマゲドン2008」(原題:COMET IMPACT/FUTURESHOCK)という作品が出たのですが、ウィリス主演の「アルマゲドン」より人類のパニックをリアルに描けていて非常に好感がもてました。「真夏のオリオン」にしてもそうですが、「泣ける」映画というのはどこかお決まりの型にはまっていくので、事実を捻じ曲げてしまったり、臭い台詞が出てきたり、先が読めてしまったりして、リアリティを欠き、見ているひとをバカにしたような作品になってしまうものです。気をつけなければいけない点ですが、しかしここが悩みどころでして、作り手は手を抜いているわけではなく、「泣ける」映画がいいという視点と「リアル」な映画がいいという視点で評価がわかれるのでしょう。非常に難しいです。

今回は丁寧なご回答をいただきまして、まことにありがとうございました。助かりました。ちょくちょく訪問させてもらいます。

追伸 清水町さんの映画評を読ませてもらいました。とくに西川美和監督の「ディア・ドクター」、「ゆれる」を女性がどう見ているのか前から気になっていたので、興味深く読みました。大筋で好意的な批評になっていますが、やはりリアリティの部分は突っ込まれていますね。ちなみに僕は西川美和はあまり好きではありません。
2011年01月08日 04:02
ぼやっきー様、一年半前の映画感想にコメントを頂いてドキッ!!寄る年波の所為かあまり印象に残らない映画は内容を忘れてしまうので。戦争映画はリアリティ重視でなければいけないとか、泣ける映画はダメだとか、考えるものではありませんが、この映画については、特に沖縄が最も悲惨な戦局にある時期なのに、この甘さとつい考えてしまったのだと思います。確かに「作り手は手を抜いているわけではない」と思いますし、更に年月が経てば、あの戦争について様々な視点から捉えたお伽噺以上の映画が出現するかも知れません。西川監督の作品は二作品しか見ていませんので、今後の作品に期待しています。私は映画評ではなく映画感想、雑記帳と題していますので、映画のことだけでなくその日の日記っぽいことや脱線したことなども書く雑然とした文で、お気に召すかどうか分かりませんが・・・urlを頂ければ幸いです。)

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