本の雑記帳26「『近衛家 七つの謎』:思い出したことなど1」思い出エッセイ〔311〕

『近衛家 七つの謎-誰も語らなかった昭和史-』(工藤美代子著、PHP研究所刊)。「上海、東京、モスクワ・・・大都会の中枢に仕掛けられた国際的な謀略のわな―昭和史を運命づけた重要事件に新資料を駆使して挑む著者渾身のノンフィクション」「近衛文麿、文隆父子を死に追いやった「昭和史の謎」とは」本の帯の紹介文です。

ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲのことをnetで調べている中に、この本が広告として表れ、買ってみました。中古品のみで、何冊かが‘きれい’、一冊が‘非常にきれい’。100円増しなので、おそらく帯つきと思ったら、その通りでした。
こういう買い方をしたのは初めてです。
(ここでnetの広告についてひと言書きたいところですが、今回は止めておきます)

この本を読む中に、個人的な記憶が甦り、瑣末に拘ると言うと、ちょっと違うかも知れませんが、全体を通しての感想と言うより、著者が書いている一つの‘事実’、‘一行’に捉われてしまったので、「感想」とせず、「思い出したことなど」というタイトルにしてみました。

近衛文麿については既に多くが語られています。雑な言い方ですが、日本の歴史、現代史に大きく関わる人であり、その意味で著者も一つの文麿像を語っていると言えると思います。
それに対して、長男の近衛文隆については、生きた時代、近衛家に生まれたことなど、生まれながらにして背負っている運命が悲劇的な死を招いたとも言えますが、個人史の趣きが強く、彼を取り巻いていた事情、状況、そして彼の人間性について、こうと断定できない推測の部分も多いのではという感想を持ちました。

統一性のない書き方になるかと思いますが、20数年前、関係者から聞いたことなどを思い出してみました。
手元にすぐに参照できる資料もなく、記憶している部分だけ書くことになります。

近衛文隆については、家系的には孫になる近衛忠大氏が、祖父の生涯を辿る、長時間のNHKドキュメンタリー番組があり、大まかなイメージを持つことができました。
近衛文麿には、二男二女があり、長男文隆は兵役についてから、満州で結婚するが、敗戦と共にシベリア抑留となり、帰国を果たせないまま亡くなる。

未亡人は、細川家から養子を迎える。元首相細川護煕氏の弟、忠耀氏である。兄弟の母は近衛文麿の次女なので、血筋的には文隆氏は、忠耀氏の伯父になり、忠大氏の大伯父になるわけです。

この本にはたった一行でも、初めて知って驚くような事実が書いてあります。
書いていいものか迷ったのですが、netには多く出ていて、知る人ぞ知ることのようです。自民党総裁の谷垣禎一氏の祖父は、影佐機関と呼ばれた、中国で汪兆銘工作などに関わった、影佐禎昭大佐(後中将)で、名前の一字をとったとか。

私が20年以上前に全く別のテーマでインタビューをとったH氏(当時少佐)は、影佐大佐の部下と言うと、ちょっと違うのですが、直接に汪兆銘工作に関わり、汪兆銘(私達は子供の頃汪精衛という号で呼んでいました)が南京に行くまで、常に彼の一番身近にいた人です。
私のテーマについて、「知っていることを全て話した」と言われ、その後、これは既に他で話したことだけど、と断って、本書が関わって来る、当時のことを話してくれました。

一種サービスのつもりもあったかも知れませんが、エピソード的なことも交え、私も質問するので、既に話して、資料となっている分とは若干異なっている点もあるかも知れません。
例えば当時の上海ではテロが年に400件以上も発生し、車でもH少佐は常に汪兆銘の右側に座り、護衛をしていたそうですが、交差点で信号で止まる時が一番危険で、手前から速度を調整し、信号の変わり際を突っ切るようにしていた、などという話もありました。

本書で、日本政府の方針としての汪兆銘工作に反対する勢力として、小野田機関のことが記されています。小野田信(まこと)中佐(後中将)が、直接重慶、蒋介石と和平交渉を進めたいと画策していて、そこに父文麿の紹介で、文隆が関わるのですが、小野田機関には、蒋介石の領袖、藍衣社に属している鄭蘋如(てい・ひんにょ、テン・ビンルー)という、日中混血の類い稀な美貌のスパイが、言わば二重スパイとして、出入りしていたそうです。

小野寺中佐は、蒋介石との接触を急ぐあまり、彼女が紹介した、藍衣社のトップ、戴笠(たいりゅう)を本物と思い込み、交渉を続ける。
小野寺は、蒋介石との和平交渉の成果を挙げて、文隆を通じて、近衛文麿に通し、更に文麿から天皇に上奏してもらおうと考えていた。

一方文隆は鄭蘋如とすぐ関係を持つ。溺れると言った方がいい。この点は本書にも、著者の想像ということになるのかも知れませんが、鄭蘋如の方から仕掛けるという形で、細やかに記されています。

間もなく文隆と鄭蘋如の関係は、日本の中央にも知られることとなり、著者は『木戸幸一日記』に、「~累を父君に及ぼす虞れ(おそれ)あり~」「文隆君は小野寺中佐の手先となれる~と共に重慶工作に深入りしつつあり」と、文隆の情事が近衛文麿の命取りになるかも知れないことと、小野寺機関の重慶工作そのものが中央には否定されていることを紹介しています(p.255)。

それなのに、文隆が鄭蘋如を利用して、蒋介石と直接交渉をすることを目論んでいた、という推測を活かしたままなのは、納得できません。
アメリカ留学の帰りの船中で、船客だけでなく、乗組員も含む誰もが文隆の行動に眉をひそめたと、父親から叱責の手紙を受けているとも書かれています。

勿論それがいいとか悪いとかではなく、特務の経験もなければ、鄭蘋如の最初の誘いにのって、深い関係になり、何者か分かって、驚くが、この上は重慶まで一緒に行くしかないといういい訳を思いついたのか、常に連れ立ち、日本側の内輪の催しにまで連れて来るような振る舞いが蒋介石との直接交渉に結びつく可能性は全くないと言っていいのではないでしょうか。当時、華族の中でもトップの近衛家の御曹司には、できないことなどないという思いがあるのかも知れませんが。

上記に書いた、NHKのドキュメンタリーの中でも、友人に宛てた手紙で、自分が特務機関で仕事をしていることを、手紙では書けないが、会ったら話す、と愉快気に書いていることが紹介されていたと記憶しています。

それまでどんなことも実現可能だった、御曹司は、爆弾を抱えてしまっても、いつかそれをあらぬ方向に投げ返せると思っていたように見えます。

鄭蘋如は、藍衣社側から、日本、汪兆銘側に寝返った、これも自分と関係のある人間を暗殺しようとして失敗し、処刑される。
その場に立ち会うべき人間が尻込みをして、結局H少佐が立ち会う。

小野寺中佐は、一人重慶工作を進めたがために、そして鄭蘋如に紹介された偽戴笠と偽の和平工作の交渉を進めたがために、しかし穏便に事を済ませるためか、それより以前から決まっていたことか、聞いていませんが、陸大の教官に転出することになり、上海を去り、埠頭にH少佐だけが見送ったと聞きました。

本書で小野寺夫人が、才気煥発な人で、バルト三国の駐在武官を務めていた頃、暗号解読などを手伝ったこと、それを著書にも書いていることが紹介されています。
小野寺中佐は、夫人に鄭蘋如事件のことは話さなかったらしく、夫人は著書の中で(『バルト海のほとり』だったと思いますが)、上海から帰国したご主人が、何も話さず、心ここにない様子で(原文を覚えていませんので、こういう感じの言葉ということ)あったことが何故か分からなかったという意味のことを書いています。

美貌の二重スパイに機関長も文隆氏も引っかかったという、重罪に問われかねない事件で、その後文隆氏が一兵卒として、入隊したことについて、軍部の差し金などと言われた時期もありましたが、文麿氏の措置と聞きました。本書も似たような事情が書かれています。

いずれにしても天性明るい方なのでしょう、過去のことは忘れたかの如く、優秀な軍人ぶりで、中尉にまで昇進し、満州で結婚式を挙げて、短い結婚生活を過ごして、敗戦となり、シベリアに抑留される。

日本の民主化、平たく言って、赤化工作とスパイ行為という条件を呑めば帰国させるという要求をはねつけ、ずっと健康に過ごして来たが、昭和31年10月、病に侵され、亡くなる。毒殺の疑いもあることが本書で紹介されています。

近衛文隆氏について、本書でもう一つヤマとなっていることは、収容所から送られて来る文隆氏の手紙に、ある時期から、「夢顔さんによろしく」という言葉が書かれるようになり、親族にも親しい友人にも、誰のことを指しているのか、分からないということです。

作家の西木正明氏が、題名も『夢顔さんによろしく』という小説を書き、これは肝心要のオチを明かしてしまうことになるのですが、西木氏の結論には、親族も本書の著者の工藤美代子氏も全く賛成できないということなので、書いてもいいと思うのですが、夢顔はムガンであり、アゼルバイジャン、ムガン高原の出身とされる、ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲのことではないかという結論が示されています。

これを読んだ時、私も、ゾルゲはとうに処刑されているのに、頼むも頼まないもないのではと思いましたし、と言って、西園寺公一氏がこの答えを出したことになっており、西木氏は西園寺氏に取材したのではと思われ、根拠があるのではとも思ったのですが。或いはそういう発言があったことを聞いたとか。

西園寺公一は、近衛文麿のブレーンに尾崎秀実が入っていて、諜報活動を行っているとも知らず、ゾルゲ、尾崎の逮捕と共に逮捕取調べを受け、執行猶予つきの有罪となっている。
爵位継承権を放棄、父親から廃嫡されている。
それほど深く関わっていたということになると思います。

話は飛びますが、第三次近衛内閣が総辞職したのは、1941年10月18日。12月8日の真珠湾攻撃まで二ヶ月を切った時です。
不勉強で戦争がらみの辞職と思っていましたが、ゾルゲ、尾崎の逮捕の数日後です。
尾崎を自らのブレーンとして、極秘情報も引き出され放題で、それも太平洋戦争に直接関わる重要情報。

非常に単純な疑問ですが、致命的な情報を足元からスパイに掬われていながら、その後も政局、戦局に関わり続けたことに何故と思います。

周囲にも世間にも、近衛、ゾルゲ事件という声がその後聞こえていたようには見えません。
一方文隆氏は、本書によると、アメリカ留学時代に尾崎秀実と会っているそうです。

ソ連側が、近衛家が変わらず、尾崎(ゾルゲ)にシンパシーを持っていると誤解していたら、スターリンも亡くなって、ゾルゲが正式に名誉回復して、救国の英雄と祭り上げられる迄はまだ先のことですが、少なくとも再評価がなされ始めているとして、ゾルゲ自身ではなくても、その関係筋にコンタクトすれば、というアドバイスがあったかも知れない、そんな仮説も考えてみました。

でもこれは単なる思い付きに過ぎません。もう少し考えてみたいと思います。
著者は高松宮説を主張していますが、はっきりした根拠があるように見え、それでいて、著者の想像という言葉も入っていて、読者には説得力に欠けるきらいがあります。
最初に「夢顔さん」が出て来る手紙は、日ソ会談もそろそろ始まるようだから、帰国も近いと思う、歓迎準備をとあり、「ソレニハ夢顔サント相談スルノガヨカロウ」と続きます。
この人達によろしく、という中の、岸、牛場、西園寺の公チャンは、近衛ブレーンのメンバーです。

皇族とも縁続きの近衛家と言っても、高松宮に対して雑な言葉遣いであるようにも思えますし、宮は十歳も年上です。当時、天皇と宮家、特に天皇の兄弟宮に対して、使う言葉とも思えません。
まあ、実際考えてみても、近衛家の身内の事情など分からないと思うし、正解が出ることでもないように思われます。

あっちこっちと、思い出すことが飛び、それがまた別のことに繋がり、風呂敷を拡げっ放しになってしまいました。「この項続く」ということにさせて頂きます。  《清水町ハナ》

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