思い出エッセイ〔307〕「昔の昭和:ちょっと思い出したこと1」

 子供の頃のことと言うのは、系統的に思い出すというより、偶然何かを思い出し、他のことを連鎖的に思い出すこともあれば、忘却の深い淵に沈んでいたことがある時突然表面に浮かび上がって来たり、と脈絡なく記憶としての形をとることが多いようです。一つの文にまとめられる程、記憶が形を作ることを待っているより小さいことでも思い出したことを書き留めておくために、‘ちょっと’シリーズをまた作りました。

私の子供時代とは、昭和10年代後半の幼稚園時代から昭和20年代後派半(1940年代から1950年代前半)の高校生時代位までですが、戦争と戦後という激動の時代で、生活も激変しました。

1.遊び
最近不意に、子供の頃のキューピーちゃんの着せ替え遊びのことを思い出しました。
幼い頃、紙の着せ替え人形遊びはありましたけど、戦後間もなく、と言って、二三年は経っていて、小学校六年か中学に入った頃、小さいセルロイドの、手足が動くキューピーにあれこれ服を作って着せるのです。

小学校五、六年生の家庭科の授業で浴衣などを縫わせられましたから、お裁縫の好きな子はキューピーの服を作ることなど、た易い、しかも簡単な楽しみだったと思います。
私は実は裁縫は苦手で、浴衣など途中で縫うのを止めて、どこかに隠しておくと、母に見つかって叱られ、手伝ってもらいながら仕上げたものでしたが、キューピーちゃんの服だけは、教えてもらいながら、作りました。

私の母は専門学校の家政科を出ていて、裁縫は得意で、ずっと年上の従姉など、子供の頃、母に、姉妹できれいなお被布を縫ってもらったなどと思い出を聞いたこともありますし、戦後長い間、家族の縫い物は全部母の手製でした。制服などは指定の洋服店で仕立ててもらうのですが。

男性は帰宅すれば、着物に着替える人が多かったと思いますが、父の冬の丹前なども母が作っていました。
婦人服もよそ行きは仕立ててもらい、普段の服は家で作り、既製服が出回ると言うか、誰もが求めるようになったのは、戦後十年以上経ってからだと思います。既製服イコール安物と考えられていた時期も長く、サイズが合う服が豊富に出回るのは更に後のことです。

キューピーちゃんの着せ替えは、学校にも持って行って見せ合ったりしたと思うのですが、流行が短かったのか、私が転校した所為か、結構好きだったのに、どんなものを着せたか、友達と洋服の交換などをしたか他、はっきりした記憶はありません。

敗戦直後東京に戻って、荻窪の母の実家に身を寄せた時、玩具なども何もない焼け跡時代、外の遊びで一番流行ったのは缶蹴りです。
毎日飽きもせず、鬼の隙を見て、缶を蹴って逃げる。空襲を免れた、比較的大きな家が多い住宅街でしたから、隠れ場所も多く、この単純な遊びには不思議な魅力があって、飽きず毎日繰り返していたものです。

学校では、ゴム跳び、縄跳び、マリつきなど、とにかく簡単な遊具で遊べるものが流行りました。放課後学校からボールを借りて、ドッジボール、バレーボールなどもボールを廻すだけですが、よくしました。

一つ、教室の中で流行った奇妙な遊びと言うか、‘コンコンさん’と言うのがありました。
紙の端にお宮の形をかいて、鉛筆を立てて、目をつぶって、「コンコンさん」と言って、交替で鉛筆を走らせます。届いた所から、同じようにして、早くお宮に着いた方が先という単純な遊びですが、目をつぶって、自分がコンコンさんになった気分で本気で祈っていたことは覚えています。

遊びとは言えないかも知れませんが、一つ思い出したこと。幼い頃、庭の木に蓑虫(ミノムシ)がぶら下がっているのを見つけると、何枚かの折り紙を鋏でごく細かく切って、蓑の中からミノムシを出して、細かい折り紙の中に置いておきます。
うまく行けば、色とりどりの蓑を作り上げるのですが、これは母の世代から教わったことで、自分が成功したことがあるかよく覚えていません。自分の頭の中には極彩色の蓑の姿が思い浮かぶのですが・・・


2.病気の時
今は子供がちょっと具合が悪いとすぐお医者さんに診てもらう、それも大きい病院に行く、行きたいという人が多いのではないかと思いますが、私が子供の頃はまず家庭療法。かかりつけのお医者さんの往診を頼むことは、症状が改善しない時、入院というのは、乱暴に言うと、もしかしたら今の病気で死ぬかも知れないという時でした。

もう少しちゃんと書けば、かかりつけのお医者さんが、これは重い病気、その可能性がある、と診断した時です。
私が子供の時入院したのは、一回。疫痢と診断されて、今も阿佐ヶ谷にあるK病院に入院しました。
小型の寝台車のような車に乗せられて、窓の外を見ると、一年に何回もお休みをとれない伯母までが沈んだ表情で付き添っているので、驚きました。もしかして死ぬのかなあと薄く思いました。当時疫痢は子供の命取りの病気でした。
結果は誤診でした。

子供の病気と言うと、まず風邪や腹痛、下痢ですが、下痢をしたら、必ず母に報告しなければならず、症状によって、一日絶食となることもあります。
ビオフェルミンなどの備え付けの薬を飲んで、ゲンノショウコとか、漢方薬を煮出したものをのまされることもあります。

光熱としてガスがあったのですが、お薬を煮出す時は、夏でも火鉢に炭火をおこし、鉄瓶で長時間煮出します。独特の臭いが立ちのぼってきて、あれを飲むんだなあと憂鬱になったものです。

食中毒ではないかと思ったら、ヒマシ油を飲まされることもあり、恐ろしく不味いもので、しかも強制的に下痢を起こすので、悲劇です。
鰻の味がおかしかったと誰かが言って、飲まされたのが、最初で最後です。
ヒマシ油で思い出すのが、当時学校で肝油をのむように指導され、配られたと思うのですが、最初噛んでしまって、そのひどい味、臭くて、ヌルヌルして!!

今は下痢をしたら、まず水分摂取に気をつけますが、昔はあまり言われませんでした。病人食に水分が多く含まれていたからかも知れません。

下痢に限らず、病気になると出てくる食事。
定番は重湯。今も病院などでは出されるかと思いますが、家庭ではスープとかジュースとか替わるものがあれこれありますよね。
それから三分粥、七分粥、全粥となるわけですが、梅干が体にいいとされていて、必ず出て、これが子供には難物。お握りなどにも入っています。
一つ入れると食べ物がいたまないと言われていて、夏場のお弁当にもご飯の真ん中に鎮座していました。
梅干は殆どが自家製です。梅の季節になると梅干作りは年中行事のようなものでした。
梅ビショと言って、梅肉を甘く味付けしたものは好物でしたが。

病気の時は、ウズラ卵が滋養があるとされて、お粥に二つか三つ落としてもらえるのですが、何故か普通の卵より美味しいように思い、楽しみでした。
今のように賞味期限など分からず、卵の鮮度は、割って、黄身がこんもり丸くて、崩れないかが目安です。
少々形が変わる程度だったら、まあいいでしょう、となります。
お店でも新しい卵を仕入れているのでしょうから、最初から傷んでいるというのは殆どありません。

血が入っている時が結構あり、少々なら取り除いて食べてしまいますが、エッというほどのもあって、それは勿論捨てます。事実かどうか分かりませんが、親鳥が暖めかけたのが原因と当時は聞いていました。
ベトナムの名物料理に、孵化する寸前の、殆どヒヨコというのがありますから、食べてもだいじょうぶなのかも知れませんが。

この頃血の入った卵というのに出会ったことがないのは、養鶏が大規模になっているからでしょうか。
大きさが揃っているからか、黄身が二つある卵と言うのも昔に比べて殆どお目にかかりませんが、そう言えば、昔から、ゆで卵で黄身が二つというのに出会ったことがありません。

今で言う、卵かけご飯は朝食の定番でしたが、伯母に「まあ、そんなの気持ち悪くない」と言われたことがあり、どこの家庭でも、ということではなかったかも知れません。

お粥に話を戻すと、塩味が相当きいているのですが、何と言っても子供には美味しいものではなく、ふりかけが認められることもありました。
普段のご飯でも特に大好きだったのが「コレアンマイ」と呼んでいたものです。
「これはうまい」と言うのが商品名だったようですが、今の「ごはんですよ」などのノリでしょう。
桃屋は創業も旧いようですが、ここの製品だったかは調べがつきませんでした。
見た目も味も錦松梅のようなものでしたが。

雑炊をオジヤと呼んでいて、お粥よりしっかり味がついているので、食べやすかったと思います。
お雑炊は、我が家では結構食卓に上るメニューで、和風の雑炊だけでなく、洋風もコンソメ味で、サフラン味にしたり、具も色々です。
全員何か胃が疲れているというような時は、ごく単純に卵雑炊。偶には蟹雑炊なんていう贅沢なものを作る時もありました。
タラバ蟹を生で使うと、スゴク美味しい、品のいいダシができます。

大分前のことですけど、お雑炊を時々作ると言ったら、え、あんな○○の食べ物なんか食べるのと言われたことがあり、びっくりしました。そういう考えの人もいるんですねえ。
確かに昔は病人食で、夕食がお雑炊なんていうことはありませんでしたけど。

これは今の話ですけど、昔に戻ると、とにかく病気の時は消化のいいもの、滋養があるものということで、半熟卵などは必ず出ましたし、茶碗蒸し、マッシュポテト、それから柔らかく煮た、ほうれん草などの野菜を漉して、スープにしたもの。
アスパラガスの缶詰というのは、かなり昔からあって、あんな美味しいものはないと思っていました。とにかくコンビーフの缶詰と共に、お宝のように特別な時に出されて、長い間一番好きなものの一つでした。

指揮者の故岩城宏之氏が、ずっと以前、新聞のコラムで、缶詰のアスパラガスほど美味しいものはない、汁も飲み干すし、同じ名前だから、アスパラという薬も飲んでいると書いておられて、大いに共感したことを覚えています。

生野菜として、グリーンアスパラガスが出現した頃、日本人は缶詰のあんな白くなってしまったものを食べて、新鮮なグリーンを知らないとか言う人も出て来ましたが、種類が違うと言うか、栽培方法が違うんですよね。
一時中国製でスゴク安い、たくさん入ったアスパラガス瓶詰めが出回って、重宝したのですが、ある時一斉に姿を消してしまって、何か問題があったのでしょうか。

話を戻すと、リンゴを摺りおろしたものは、病気の時必ず出るもので、お砂糖はかかっているのですが、色は変わっているし、苦手でした。
それなら、これも病人食定番の、葛湯の方が美味しいと思いました。
飲めるような薄いものからお匙で食べるような濃さまで、これも甘みがついていて、好きな方でした。
弱火でゆっくり温めて、固まらないよう絶えずかき回すのは子供にも出来るお手伝いでした。

牛乳を配達してもらっていて、外に牛乳箱というのが取り付けられていて、その中に朝早くビンで配達されます。確か空ビンを洗って元に戻したと思いますが。
牛乳を温めたのが一番いいのですが、私は当時から今に至るまで生の牛乳というのを飲めません。
オートミールに温かい牛乳をかけて、お砂糖も入れたりして、他の家族は病気でなくても好きでしたが、私はとにかく苦手でした。

牛乳も一番の滋養食品とされていて、牛乳がよくない場合もあるとは知られていませんでした。沸かして使うことが絶対で、牛乳用の小さい片手鍋もありました。搾乳が今のように衛生的ではなかったからではないかと思います。

ココアなどが入っていれば飲めるのですが、ココアやチョコレートの類いは早い時期に手に入らなくなったと思います。

ホワイトソースは好きで、病気で食欲もないとなると、色々手間をかけたものを作ってもらえました。
最高に美味しいのが自家製のアイスクリームで、お茶の缶などに牛乳や卵などの材料を入れて、散らし寿司用の曲げ物に氷を砕いたものをたくさん入れて、缶を廻し続けなければならないという大変な手間をかけて作ります。

食べるもののことばかり書きましたが、家庭療法のことを少し。
風邪を引くと、咳がひどい時は、吸入と言って、かなり大がかりな器械を使って、薬を蒸気にしたものを、文字通り吸入させられました。

ゴムの涎掛けのようなものをかけて、管を伝って出て来る、薬臭い、熱い蒸気を口を開けて吸い込みます。
家族総動員で手伝い、よく覚えているのが、敗戦後、母の実家に何家族かが間借りしていた時の総動員が一番人手が多かったことです。

胸に湿布をすることもあり、湿布剤として辛子のようなものが塗ってありました。
咳が出るけど、熱もない、登校するという時は、咽喉にガーゼの包帯のようなものを巻いて、学校へ行くこともありましたが、これも湿布剤を塗ってあったと思います。

熱がある時は、水枕、氷枕、氷の氷嚢ということになって、額の冷やしたタオルは頻繁に換えて、母親は結構大変でした。
腹痛には、懐炉。コンニャクを温めてのせるということも結構行われていたようですが、ウチではしたことがありません。熱があれば冷やす、腹痛は温めると決まっていた観がありますが、当時から盲腸の場合は温めたら、化膿してしまうので、厳禁ということは知られていました。

すぐ病院へ連れて行って、風邪薬や抗生物質をのんで終わりという現在と違って、症状が軽い中から手当てをして、病人食を作って、昔の母親は子供が病気になるとかかりきりという感じでしたね。
子供の病気のケア一つでも、昔は手作りの温もり、家族だけでなく親戚も駆けつけて、甲斐甲斐しく手伝う、家族や身近な者の愛情や暖かさが病む子供にじかに伝わってきました。

病気は医師が治す前に、家庭療法という家族の愛情がこもった治療があったように思います。
戦局が悪化して、時代も生活も急速に変わり、私には、子供時代の僅か数年の遠い懐かしい思い出です。  《清水町ハナ》

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