雑記「戦後の住居:我が家史(2)」思い出エッセイ〔276〕

 終戦後から現在に至るまで、私がどんな家に住んだかということを記述して、戦後日本の住居の一サンプルを提示してみたいなどと思っていましたが、初回で当時の思い出に感傷的に浸ってしまい、住居の移り変わりの骨格を描くことに失敗してしまいました。そういう形も書きたい風景の一つなのですが、今回はどんな家に住んだか、当時の収入、経済状況等にも簡単に触れて、シンプルな記述を心がけたいと思います。

敗戦の年、1945年(昭和20年)晩秋、私達母子は縁故疎開先の北陸から東京へ帰りました。都心は焼け野原という頃でしたが、空襲を免れた地域も結構あり、荻窪の母方の実家も無事でした。

西荻窪での3~4ヶ月の間借り生活を経て、荻窪の祖母の家で一家族一部屋という感じの共同生活を送りました。
母は十人兄弟で、終戦時既に成人だった、何人かの甥、姪の家庭を入れても、戦災に遭ったのは二家族のみ、ウチと、同じ北陸に疎開した伯母と従姉、人数にすれば僅か五人です。

近い親戚の殆どが杉並区に住んでいましたが、現在も昔の地所に住んでいるのは、一軒、戦後長く親戚が集う場を提供してくれた家で、分譲マンションに姿を変えています。
他は官舎を出たり、家を処分して神奈川県などに移り住んだり、借家から立ち退きを迫られたり、いくつかの理由で杉並区、更に東京を去りました。

私の家は、父の外地からの復員と神戸での再就職に伴って、関西に引っ越しました。
昭和23年の秋だったと思います。
50数倍という倍率の県営住宅に当籤したのです。
それ程の住宅難の時代で、住む家を得たということが奇跡的なことだったのに、母が特にそれまでと大違いの簡易建設?住宅にショックを受け、慣れない関西での生活とも相俟って、不満、不安定を募らせて行ったように思います。

と言って、根がお客好きの人だったので、そんな家にもお客を招き、東京から訪れる親戚をもてなしたり、そういう時は元気になっていました。
最終的に、東京のお嬢さん大学(こんな言い方、今はしないでしょうけど)に進学した妹が、こんな家に住んでいることを知られたくないと言って、座り込みストライキをしたことが効いて、払い下げ目前と言われていたのに、両親は神戸・三ノ宮駅前のマンションのハシリ、ビルの上階の住宅に越したのですが、その、言わば都心生活が母には一時的な薬になったようで、友人を招いたり、あちこちに行ったり、当分楽しく暮らしたようです。

このビルについて、その辺りに詳しいという人が、そんなビルはないと断定的に言って、私もまさか何回も行っているのにと思いながら、少し調べたりもしたのですが、ブログにその事情を書いたところ、近くの方が決定的なコメントを寄せてくださいました(拙ブログ〔19〕)。

財閥系の会社に勤めていた伯父が興した貿易会社が、父の再就職先でしたが、その伯父が私の名義で、かなり大きな家を買ってくれるという話があって、母が乗り気になって、私をその家の前まで連れて行き、顔色を窺ったと言っては言葉が悪いのですが、今になると、そういうことだったと思っています。

色々思ったことは別にして、もしその時その家に住むことを選んでいたら、人生は大きく変わったことは間違いないと思っています。
ここに生涯落ち着いてもいいと思う家に住むことは、ある意味人生の半分以上が決まってしまうことになるのではないかと思います。
東京へ帰ることもできなかったかも知れません。

6畳と4畳半に、ちょっとした広さはあったものの、半分が土間だった台所、お風呂はなし。
北陸で、燃料不足から時々銭湯に行きましたが、銭湯通いの生活はそれが初めてでした。
神戸に隣接する街で、その伯父の家や、隣接する祖父母の家の所まで空襲で焼失しましたが、級友の大半はマトモな?家に住んでいて、その住宅住まいが多少のコンプレックスになったことは否定できません。

当時(1950年代半ば)父の月給は、聞いたことはありませんが、多分数千円位から始まって、2万円前後位ではなかったかと思います。
何故かと言うと、私は大学を卒業してすぐ結婚してしまったのですが、当時の夫(技術職)の手取りの月給が3万円で、これなら楽、ウチより多いと母が言ったからです。
(しかし後日譚と言うか、年金がついてなかったことが、今頃分かったんですねえ)

伯父は、数年後癌で亡くなったのですが、恐らく健康に不安を抱いていたのか、父に転職を勧めていて、渉外畑の旧軍人で、語学、特にフランス語が堪能だった父は、仏系の会社に移り、そこで70歳まで勤め上げました。

結婚で一時地方に住みましたが、東京で専門の研究をし直すというのが夫の約束で、東京に戻ることができ、最初は社宅つき、基本給が18,000円で、超勤などを入れても、手取り3万円にはならなかったと思います。
週に1~2日、研究日があり、悪い待遇とは言えなかったと思います。
1950年代後半です。

一年余経って、勤務先を変えました。ステイタスの高い所ということなんですが・・・
これで生活が益々大変になりました。
まず社宅がなくなり、借家に住みました。
この家こそ、関西の県営住宅と五十歩、百歩、もっと条件が悪かったと思います。庭も何もなくて、二間、6畳と4畳半より狭かったような気がします。

玄関はドアの分のタタキしかなく、台所も申し訳程度の狭さ。子供が生まれて一年未満でしたから、お風呂だけはあったのですが、蛇口は付いているけど、元々が井戸で、すぐ水の出が悪くなって、そういう時来る人が決まっていて、家の周りを掘ったりするのですが、ある日パッとシャツを脱いだら、背中一面、クリカラモンモン。震え上がりました。

すぐ目の前を電車が走っていて、家が揺れると、お座りができるようになった子供が、家の揺れに合わせて、体をせっせと揺らすのです。

そして当時から家賃というものは、他の生活費に比べて、非常に高くて、6千円か7千円だったと思います。
月給は下がってしまって、基本給が一万三千円。
家賃を払ったら、暮らせなくて、夫は宿直のアルバイトを始めました。

その当時公団住宅、今で言う団地の建設が始まっていました。その中の一つの募集に応募し、何と当籤しました。
それより以前から低層の団地はありましたが、鉄筋コンクリート、4~5階建ての、しかも大規模な団地としては早い時期に建ったものだと思います(Wikipediaによると、日本住宅公団の設立が1955年。所謂団地の建設は昭和30年代から40年代が最も多い、とありますから)。

入居に際して保証人がいるのですが、頼んでいた親戚にドタキャン(当時はこんな言葉はありませんでしたが)されて、夫の勤務先の部長にお願いしました。
源泉徴収表が必要で、誰でも気の進まないことですが、引き受けて頂いて、こんなことを書くのは申し訳ないのですが、大昔のことですから、ご勘弁頂くとして、夫の年収が20数万円に対して、部長は50数万円でした。もう一度書きますが、年収です。

我が家は何のいいところもなかった、借家に別れを告げるのですが、それは我が家の最後の一軒家住まいとなりました。

2DK(当時こういう言い方はありませんでしたが)で、ダイニング・キッチンと言うのが初めて聞く、新鮮な響きがしました。
洋式の水洗トイレ、自宅の電話もまだ普及していない頃でした。

家賃がいくらだったか覚えていないのですが、借家より安かったのは確かだったと思います。
相変わらずの安月給で、ウチのボーナスが一桁間違っているんじゃないと親戚に言われた位です。
それでも少しずつ収入は上がり、と言うか、超勤とか当直などの諸手当でもっているという感じでした。
高給取りのように誤解されている技術職ですが、多少楽になったのは、上記の役職に就いた頃からです。

私も仕事をして家計を支えるために資格を取りたいと思い、続けたいと思っていた勉強も再開して、日曜日には家族でハイキングに行き、と、当時の公団住宅と言う、何となくすすんだ、新しいムードに家族で乗った感じでした。

そこに7~8年住んだ頃、同じ住宅公団が近くに、分譲団地を建てるという案内が来て、家庭のことには殆ど口を出さない夫がこれを買おうと言い出しました。
2DKから、当時賃貸にはなかった3LDKタイプまで、一番安いのは200万円台で、高いのは300万円台半ば、360何万円かだったと思います。当時としては大変なお金でした。
頭金が100万円で、20年ローンです。

ウチの貯金をかき集めてみると、95万円、満期が二ヶ月先のを解約すれば足りるのですが、当時は利息が高かったので、それはできない。
生まれて初めて、5万円の借金を、二ヵ月後に返すと言って頼んでみましたが、見事に断られました。誰にとは書けませんが。

後で親戚から、右から左に貸してあげたのにとか、今どき100万円の貯金がないなんて、おかしいとも言われましたが、結局何とかなったのです。
これが1960年代後半、70年近くです。ご近所でいつの間にか評判になって、何回か厭味を言われました。
そんなよく思い切ったことをしますね、とか、ウチは石橋を叩いて渡る主義だから、とか、あれこれ。ウチもお金がないことが知れ渡っていたんですねえ・・・

分譲団地も3LDKもハシリに近い頃だったと思います。
当時は、箱に必要な機能をつけただけという感じの建物でしたから、LDKが一番広く使えたのがこの住宅でした。

お向かいが、営業成績で収入額が大きく違うという会社勤めのお宅で、きれいな若い奥さんが「10万円月収があれば、楽ですよね」と言ったのを覚えており、ウチはそれに近い額だったと思います。

しかしローンは重荷で、いくつかの資格をとって、通訳案内業とか翻訳、自宅で英語を教える仕事を始めたのですが、この塾?は結構盛況で、生徒が休まない、止めない、とうとうウチの事情で人数を減らしたりもしました。

ところが、後に家族の言うところでは、学校でお前の所の塾、儲かってんだろう、とか結構厭味を言われたとか。気のきつい性格だったので、やっつけたとか言ってましたが、こんな話も聞かされました。
単なる例ですが、“It is a pen,”という文に変えるという問題で、“It’s a pen.”と答えた生徒がいて、先生に直されると、○○塾で教わったと言ったとか。
相当言われたよ、と聞いて、当時はそんなことをオクビにも出さなかったのに、イヤな思いをさせたんだとずっと後になって、気がつく始末です。

そこが終の棲家位に思っていたのですが、何年位経った頃だったか、突然マンションなど不動産の価格が上がり始めたのです。1970年代で、バブル期はまだ10年近く先の頃です。
300数十万円の価格が600万円台で売れるという話が出始めました。

お向かいは、既に別の人に代わっていたのですが、さっさと売って、引っ越されました。
一軒家に買い換える方が続出して、ウチはマンション暮らしと決めていたので、特に考えなかったのですが、割りに短い期間で1,500万円まで上がった時に、何らかの形でこの大きな値上がりを利用した方がいいのではと考え、夫の勤務先のすぐ近くに適当なマンションが建つことが分かり、そこを申し込みました。10階建てと、高いビルですが、70㎡の3LDKが一番広い部屋と言う点は、分譲団地と変わりませんでした。

これも抽選で、希望した南向きの部屋は外れ、第二希望の部屋が当たり、北向きながら角部屋で、中央線が走っているのが窓から見え、昔の地主の屋敷跡で、天然記念物の大樹が十数本も茂る、緑の多い敷地で、23区に隣接するM市内、駅から3分の立地でした。1980年に近い頃です。
団地ではなく、マンション住まいとなりました。価格は2,200万円、やはり20年のローンで、利息は現在の貸金より高い8%台でした。但し預金の利息も高くて、信託や郵便局の定額預金が十年で倍近くになった頃です。

年にして200万円近いローン返済額となりましたが、私もフルに近く働き出していて、何とか返済出来る額となったのです。
僅か20余年前、年収が20数万円だったのに。
何年後位だったか、利息が下がり始め、取引銀行に頼まれて、借り換えをしたのですが、5%台だったように記憶しています。

この当時、年収500万円以上が高額所得者とされていて、駅などの公共的な場所に名前が貼り出されました。
一度何か臨時収入があって、名前が出て、恥ずかしい思いをしたことがあります。

都心には既に億ションと呼ばれる、1億円を超えるマンションも出現していて、数千万円のマンションはザラ、しかし500万円の年収で高額所得者と、不動産の価格と収入に大きな開きが出始めたのもこの頃だと思います。高額所得者が2千万円以上となるのにいくらもかからなかったと思いますが。

それまでの団地では、畳の部屋が中心でしたが、このマンションは畳は一室。椅子生活の始まりです。

前の分譲団地は、欠陥と言ってもいいかと思うのですが、上下の音が異常に響きました。
上階は、老人の一人暮らしで、土日になると、家族が見えることが足音で分かりました。
トイレの水洗の音も丸聞こえ。
階下のお宅から、一度だけ、椅子を引く音も、どこからどこまで歩いたかも分かると言われ、音には気を遣いっ放しの毎日でしたし、もう一つ、湿気対策がなされていなくて、北側の部屋の押入れの壁などにすぐ黴が発生しました。

新しいマンションは、そうした点はありませんでした。尤も階下は電気室でしたが、上階の音が聞こえて来るということは全くと言ってよく、なく、防湿対策も問題がありませんでした。

このマンションで暮らした20年は、我が家の壮年期とも言うべき時期で、よく働いたし、普通の家族によくありがちな、例えば両親の介護の問題なども降りかかって来た、困難の多い時期でもありました。

1980年代半ば頃に始まった、バブル景気により、我が家も一時一億円の値が囁かれた程、特に不動産は狂乱価格となりました。(あの時一億円で売っておけば・・・でも住む所がなかったし)
一億円とまではいかなくても、相当の高値で中古物件として買われた方も何人か聞きました。

働いている時は、南向きの部屋がなくても気にならないのですが、メインの職場を退く時期になると、特に夫が南向きの家に住みたいと言い出しました。
それが現在の終の棲家となるのですが、この後は、現在の生活に繋がって来るので、簡単に書くに留めたいと思います。

バブルは終わったという時期だったのですが、まだ不動産は高値が続いていたようです。
住居に不満はないのですが、現在は買値の半分といかなくても、三分の二を切るまでに値が下がっています。

90㎡前後の広さの部屋に住むのが夢だったのですが、買った当時は全く手の出る値ではなく、70㎡の広さが我が家に与えられたサイズとなりました。
下のお宅が、その憧れのタイプだったのですが、買って下さいよ、などと言われたのが冗談と思っていたら、最近手離されて、他へ移られました。我が家の買値より安い価格で売られたそうです。

高級マンションではとうの昔に実現していることでしょうけど、オートロックを始めとして、いくつかの新しい機能が加わりました。
温水シャワー・トイレ、スイッチ一つで操作できるお風呂、必要な設備の揃ったユニット・キッチン、他にもありますが、何とちゃんとした洗面台がお風呂場の横に付いて、ドアがあると言うのが初めてのことです。

お風呂は本当に気に入って、一日二回入ったこともありました。
前の住まいでは、周囲に高い建物を建てられてしまって、喪われていた空が、ここでは全面、空。どこを向いても。雷の日などは怖い程壮観です。富士山も見えるし。
お約束の日当たりはバッチリ。東南に拘って来ましたけど、西南で、西日の問題はあっても、沈む夕陽を眺めるのも本当にいい気分です。明日は上がって来ますからね。

一軒家志向を全く持たなかった我が家の集団住宅引越し体験ともいうものです。
感情的に流れないように気をつけていたら、羅列的な記事になってしまいました。
特に団地クラスの集団住宅の移り変わりと、物価・収入と不動産価格のバランスの違い辺りをポイントに簡単に書いてみたつもりです。
何れ別の切り口で書く機会もあるかと思いますが、このタイトルはこれで終わりとさせていただきます。  《清水町ハナ》

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