本の雑記帳21「『重力ピエロ』感想―映画との比較」思い出エッセイ〔261〕

 かなりのネタバレです。映画【重力ピエロ】または同名の原作をこれからご覧になる予定の方は、続きをお読みにならないで下さい(などと書くと、どなたにも読んで頂けなくなるかも知れないので、気になさらない方はお目をお通し頂ければ幸いです)

『重力ピエロ』(伊坂幸太郎作、新潮社刊)。同タイトルの映画の原作です(映画については、拙ログ〔188〕をご参照ください)。
若い人向けの映画はあまり観たことがなかったのですが、この、映画【重力ピエロ】については、よくできた映画と思うと同時に、例えば「重力ピエロ」というタイトルの意味を掴みきれなかった、不思議な雰囲気を持つ、この映画の原作はどんな作品だろうという関心から読んでみました。

映画と比較する、なぞるような感じで読むつもりが、本を開けてみて、異色の小タイトルに驚き、読み始めて、プロットより魅力的な文体、文章、表現に惹かれ、当初の映画との比較、感想というより、読み進めて紹介する形で書いて行きたいと思います。

まず目次の小タイトルです。少し例を挙げてみます。
「ジョーダンバット」。これは、私でも、バスケット・ボールの超有名選手、マイケル・ジョーダンがバスケットを止めて、野球選手になった時のバットではないかと分かります。

「ナチュラル・ボーン・ピカソ」。主人公の弟、春(はる)は天才的な画才があり、小学校の時、大賞に選ばれるが、ピカソは、12、3歳の時素晴らしい正確なデッサンを描いたというエピソードが紹介される。
私が中学、高校の頃は、本物のピカソを見る機会はまだなく、画集などを見たものですが、‘青の時代’の作品を見て、ホッとしたような思いを持ったことを覚えています。

「アレクサンダー・グラハム・ベル」「フェルマー・エすコー・エッシャー」「父の憂鬱とシャガール」「類人猿ディスカッション」・・・とこんな感じです。
ペダンティック、ソフィスティケイティッド、こんな旧い言葉も思い浮かんで、映画とかなり異なる印象を、目次を繰ったところで持つことになります。

“春(はる)が二階から落ちてきた”という不思議な書き出しで、映画でも、ナレーションと共に実際に主人公泉水(いずみ)の弟、春が二階から飛び降りるシーンで始まります。

原作では、最後の締めも同じフレーズで、途中でも春は一回二階から飛び降り、この表現と行動は、作品の象徴的な行動、場面ともなります。

映画では、春を岡田将生、兄、泉水(いずみ)を加瀬亮が演じますが、映画でも春の美しさは際立っていて、地味な泉水とは対照的ですが、原作で春の美しさは、次のように語られます。“春はとても魅力的な外見をしていた。眼は大きく、目の前の物を全て飲み込んでいくような鋭さを持っていた。~美男子というほど貧弱ではなく、寡黙でありながらも敏捷な獣、たとえば豹のような雰囲気があった。品のある豹”
なるほど、美男子は貧弱。大体私の世代も殆ど使わない言葉ですね。一世代前だと上原謙。確かに春には向いていません。田村正和はどうでしょうか。
何しろ女性という女性は、立ち止まって見とれてしまうような美貌ということで、映画をみているから、原作を読んでいても、イメージが湧きました。

岡田将生は、豹という感じではなかったけど、適役でした。ついこの間まで高校低学年という感じだった、三浦春馬などもいいかも知れません。
進行に関係なく、映画にはなかったエピソードを紹介すると、春には、ストーカーっぽい、或いは本格的なストーカーの女の子が何人も現れるのですが、中でも凄い子が、春の留守中、父親と泉水だけの時、春が昆虫好きなので、節足動物研究会の仲間と名乗って、家に上がり込む、全く容貌のサエナイ高校生です。

そのストーカーぶりがスゴイ。しかし春を振り向かせることはできない。そこでそういうストーカーを泉水は夏子と名付ける。夏は春を追いかけるものですからね。
春という変わった名前にした理由は、冬が終わって春が来るから、兄が泉水で、両方ともspringだからと説明されます。
映画より早く、最初の中に、春が、母親がレイプ魔によって犯され、妊娠し、それでも両親は生んで育てると決めた子であることが明かされます。

映画と同じように、春は、父のアメリカ土産のジョーダン・バットを持って(何故かジョーダンが野球に転じる前のものでサインもある)、同期の高校生が襲う相談をしていた女子学生を助けに行く。
女の子が、「春くん、ありがとう」などと言って、“妙な色気を漂わせて”いきなり春の手を握ると、春はいきなりバットのグリップで強く女の子の腹を殴る。

映画では、父を小日向文世、母を鈴木京香が演じましたが、原作では、母は、影が薄いと言うか、泉水によって、“ついでに言えば、母はまだ生きていた”などと軽くあしらわれ、あまり姿を現しません。
それに対して、父は、既に癌の手術を待つ入院中の身でありながら、最後まで二人の息子の相談相手以上、時として厳しい面も見せる魅力ある父親として、終始キー・パーソンの一人として存在感が強調される。

バット事件から十年経って、泉水は遺伝子情報を扱う会社に勤め、春は、悪戯の落書きを消す業者をしていた。
親戚の中でもレイプは死ぬわけでなし、「命があっただけでもよかったじゃないか」という叔父がいて、その発言以後、泉水にとって、その叔父は“存在しないものとなっている“
この短いひと言、私は個人的に感じ入りました。
子供の頃から、目上絶対の序列大家族に育ち、叔父、叔母、従兄など、何歳か上でも、はい、はい、と服従して来て(この年になってもですよ)、横車を押されても我慢。一度など法事の席で、勝手に人数を増やす交渉をされて、献立や料理がグチャグチャになってしまいました、なんて、何を書いているのでしょう。とにかく悪しき風習は改むるに憚る勿れ。

春は性行為にまつわることを嫌い、泉水も女性に対して注文が厳しい。二人ともストイックである。
こんなシーンもあります。
泉水は同僚と飲みに行くが、彼は浮気者で、見知らぬ女性を連れている。
彼女は“下着を見せるためとしか思えない短いスカートを穿き、安っぽい色気をひけらかす(大嫌いなタイプの)女性である。日本の経済不況も、オーストラリアのコアラが火事で死ぬのも、注文した(料理が)なかなか来ないのも、みなこの派手な化粧女のせいだ”と病的に毛嫌いしてみせる。

同僚は、専門用語を使って、その女性を煙に巻くが、突然その女性は立ち上がって、もう帰ると言い、早口で、超専門用語と専門知識をまくしたて、出て行ってしまう、溜飲が下がると言うのは、こんなことを言うんでしょうね。

春は、小学校から天才的な画才があったが、展覧会場で、審査委員に出生にまつわる厭味を言われ、自作の絵を振り回して、委員を殴り、母までが加わり、絵を持ち帰ってしまい、以後絵を描かなくなる。
ここに上記のピカソのことが書かれているのですが、12,3歳のピカソは、「自分は幼い頃からラファエロのように描けた」と威張ったなどというエピソードが紹介されているのですが、この小説は、蘊蓄を傾けると言っては面白くなくなってしまいますが、興味をそそられる、歴史的な事実や引用、エピソードが満杯なのです。作者自身も名言を度々発しています。

泉水も春も父親も、常に厭味にならない程度に、かなり高尚な?議論をたたかわせ、しかもツーカー、読んでいる方もすっかりのせられて、彼らの会話に加わってしまうのです。
興味を惹く下りを全部ご紹介するわけにはいかないので、カットして。
もう一つ、神話、民話に興味を持っていた時期があったので、手前味噌ということで、こんな話を一つ。

桃太郎とか、昔話は、親というものがいない。殆どおじいさんとおばあさんが登場する。かぐや姫などもそうである。桃太郎は実は親殺しの話しである。
親の暴力に耐えかねた桃太郎が親征伐に向かうのだ。
お供の雉はPheasant、猿はMonkey、犬はDog。PMD。つまりFather must die.なのだそうですが・・・?

そして映画でもお馴染みのシーン、仙台がモデルと思われる街でグラフィティ・アートの落書きがあちこちにかかれ、それを消すのが春の仕事だが、その近くで放火事件が連続して起きる。
春は放火犯を捉えようと泉水を誘ったりする。
落書きの中に意味の通らない英単語の羅列が入るようになり、推理小説を始め無類の本好きの父も加わって、その意味不明の英文が、語頭を繋げて行くと、泉水の専門の遺伝子の専門用語に繋がって行くことが分かる。

ある日、スゴイ美人が泉水の前に現れる。ここでまた一つ名言。“美人は怯むことを知らない”この、全盛期のオードリー・ヘッパーン似の美人が正体不明で、思いがけない所にも姿を現す。結構長い間絡んで来ます。最後に正体が分かるのですが、誰だと思われますか。

落書き、放火、何らかの地点を表す印が無数に描かれたような地図のようなものも現れる。
これが次の放火場所の予告ではないかという結論が最後に出るのだが、父親が小説をを読むのに、地図を持って来るように言う場面があります。
何故小説に地図が必要なのかと聞くと、現実に基づいていない小説はダメというようなことを言うのですが、そういうものなんでしょうか。

テレビ番組で小説の通りに道筋を辿る番組などを見たことがありますが、プライベートな話を一つ。
父の知人が、戦後確か戦犯容疑で外地で拘留されている時、『風と共に去りぬ』の差し入れがあって、それを読みながら、アトランタだったか、ジョージア州だったかの精密な地図を作り上げて取り調べ官を驚かせたという話を聞いたことがあるのですが、この小説はそんなに実際の地図に基づいて書かれていたのか、どなたか教えていただけませんか。

折しも泉水は、知り合った葛城という、傍若無人な男のDNAを調べようと動く。

手術を間近に控えた父親は、全ての謎を解き、息子達のために最後の父としての教え、導きを与える。

この小説について、私は作者の話術に嵌ってしまったと言うか、ミステリーとしてプロットを追うより、春と泉水、そして父のツーカーの会話を楽しむ方に気をとられてしまいました。そのため結果的に映画との比較にならず、申し訳ありません。
その意味で、結構夢中に読みました。後半ちょっと饒舌に過ぎる感じがしたことと、あまりに三人の話が合うので、一人のモノローグのような感じを持った時もありました。
映画は、原作を咀嚼して、よくできたものだったと改めて思いました。

問題の「重力ピエロ」の意味は、「地球の重力とピエロ」の章にヒントがあります。
春が三回も「二階から落ちる」ことも象徴的な意味があると思います。
映画では着地の場面がないことも考えに入れられると思います。尤も何かの番組で、岡田将生が、下にマットレスだか布団だか厚く敷いたなんて言っていましたが。
いずれにしても、小説としての面白さは最近で一番でした。  《清水町ハナ》


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