食の雑記帳18「食べもの事情(4):戦中・戦後の食事」思い出エッセイ〔245〕

 今の食生活からは想像もできない、戦中・戦後の食事情についてまとめてみたい、とは以前から思っていました。しかしいつ、どんな形で‘まとめる’ことができるか、大体まとめることが可能だろうか・・・記憶が残っている中にまとまらない形でも書き留めた方がいいと思って、“思い出すままに”書いてみることにしました。

アメリカでもベトナム戦争を知らない若者が出て来ているとのことです。
ここでの「戦争」とは、第二次大戦中、1941年12月8日、真珠湾攻撃をもって始まった所謂太平洋戦争です。

と、硬い口調はここまでで、気楽に書き流したいと思います。

戦中、戦後の食糧難時代、特に戦後、アメリカの食料放出が始まってから、色々な粉を食べたのですが、一番不味かったのはフスマ、そう書いて、フスマは家畜の餌とは知っていたけど、何の粉だったかしらとnetで調べてみて、まず目に飛び込んで来たのは、「ダイエット」の文字。本当に驚きました。

ダイエットにはフスマをとあり、違うフスマではと思ったのですが、同じものに間違いないようです。
フスマとは、小麦を製粉する際に出る外皮、胚芽、他を指すようですが、キメの細かい粉にしてダイエット食品としたものが300グラム、600円近い値段とあり、唖然。
半分以上が食物繊維で水分を吸いやすいそうで、なるほどダイエットによさそうです。
それでも牛の重要な飼料ということに変わりはないようです。

戦後配給になったフスマは、粗挽きで(或いは処理なしのそのまま?)、ボソボソ、ザラザラして、少々の小麦粉と混ぜてもどうにもならない代物でした。

この粗挽き風さえ、最近では、パンに混ぜて、アーモンド代わりに使うとよいという記事を見ました(net)。
かくして、フスマを、マズイ粉のランク、ナンバー・ワンに挙げたところで、腰砕けとなってしまったわけですが、めげずに、次に不味かったのは、高粱(コウリャン)粉かトウモロコシ粉か、次、ヤシ粉と言って、あの椰子を粉にしたものだと思うのですが、黒っぽい粉で、調理すると、透通って、片栗粉のようなトロミがついて、仄かな甘味があり、非常にマズイというほどのものではありませんでした。

こうしたもの殆どが、アメリカの放出物資だったわけですが、家畜の餌を恵んでくれたということです。

もう少しマシなものに、脱脂粉乳、乾燥卵粉などがありました。
日本自前の小麦粉は今思うと、フスマを除かず製粉したものではと想像していますが、黒っぽくて、味も悪い。
スイトンという戦後食糧難の象徴のような料理?は、元々美味しくない小麦粉にフスマを混ぜたりして、お団子状にして、お汁の中に入れたもので、他には有り合わせの野菜など何でも入れたので、家によって、材料は異なり、それぞれ我が家風スイトンを作っていたわけです。

当時をしのんで、偶に作るスイトンは、ちゃんとした小麦粉に卵を入れたり、スープも好みの味に作りますから、ニョッキ風で、結構美味しいじゃないということになってしまうのですが。

占領軍放出のメリケン粉も配給されるようになったのですが、それが普通の小麦粉と少々違って、調理すると、透明に近い感じになって、多少粘りがある、味もちょっと違った、あれは何だったのだろうと今でも思います。

牛や豚の餌だろうと、とにかく食べる物がないのですから、有難いと思わなければいけないのでしょうけど、当時、アメリカは余剰穀物の処分に困っていたと言われます(net)。

そうした粉あれこれが配給される前、敗戦の年、1945年から46年にかけて、一日数本のサツマイモしかない時もありました。
私は、縁故疎開先から、45年の秋、東京へ帰って来たのですが、その頃、大きなお鍋にお湯をいっぱい沸かして、サツマイモを切ったものを入れて、煮崩れるまで煮て、それを食べると言うか、飲むと言うか・・・

家庭ではそんな状況なのに、駅前などに闇市が建ち始めます。
お砂糖などが手に入るようになったのは、大分後で、当時売っていた甘い物の殆どが、サッカリン、ズルチンと言った人工甘味料を使っていたのですが、家庭でもサッカリンの白い粉を耳かきのようなものですくって使っていたこともありました。

タンきり飴と言って、薄茶色の、粉をまぶした柔らかい飴とか、金太郎飴という、細長い飴で(七五三の千歳飴のような感じ)、どこを切っても金太郎の顔が出て来る飴などはどこでも売られていて、時々買ってもらいました。

道に敷物を敷いて、品物を並べていただけの闇市も、次第に本格的な店になって、例えば、荻窪の闇市などは規模が大きくて、その後成功者も生まれています。

つまり、家庭では食べる物がないのに、流通がどうなっていたのか、ある所には何でもあったわけです。
一億総失業と言ったら、大袈裟ですが、私のように旧軍人の一族は、父達は大変な苦労をしたものです。
親しい知人の中には、闇市で屋台を出して、お汁粉を売ったり、今川焼きを焼いたりしていた人もいますが、あんなことまでしていたのよね、などと懐かしむ人もいる一方、当時のことは一切禁句という人もいるので、これだけに留めます。

配給の少々のお米は、玄米か、二分搗きとか三分ヅキ。今では健康にいいと言われるわけですが、当時は、糠臭くて、どこの家庭でも、一升瓶にお米を入れて、棒でガシガシと突いて、少しでも白くしていました。
子供達も駆り出されて、順番にせっせと突くと、下の方に糠が溜まって、お米は次第に白くなっていきます。

子供達も駆り出されると言えば、叔父達のタバコ巻きです。
何故か、タバコの形では手に入らず、タバコ巻器という簡単な道具があって、海苔巻きを作るように、紙を置いて、中味(何と呼ぶのでしょうか)を薄く敷き、端からクルクル巻いて、確か唾をつけて、キュッと押さえて、一本の出来上がり。

最初に誰がやり始めたのか、一升瓶のお米搗きなどは、殆どの家庭でやっていたことではないかと思いますが、他に例えば、パン焼き器などというのもありました。
真ん中にドーナツ状の穴が開いていて、パン生地、と言っても、小麦粉様にフスマなどを入れたもので、イースト菌などは勿論なく、膨らし粉(と言っていました)の代わりに重曹を入れたような気もするのですが、違うかも知れません。
とりあえず、大きなリングのパンが焼けて、それを切り分けるのですが、味は勿論生地の良し悪しにかかっています。

敗戦間近と比べても、戦後の方が食糧事情は悪く、長く続いたように思えるのは、おそらくお米が手に入らなかったこと、東京ではお米の買出し先もなかったことが大きな原因ではないかと私は思うのですが。

敗色が濃くなるにつれて、縁故疎開先の北陸でも食糧事情は悪くなって行くのですが、何と言っても米どころで、買出しに行けば、お米を売ってくれる農家もあったし、お米を闇で買うことは禁止されていたものの、お米の袋を持って堂々と交番の前でも通れば、ひっかかるかも知れませんが、そういう話は聞いたことはありませんでした。
敗戦前後、飛び込みで農家にお米を買いたいと言ったところ、一升拾圓と言われ、母が驚いて、「知らない所だと足元を見られるわね」と言ったのを記憶していますから、闇米は、多分一升5円前後だったのではと思います。

当時、食べものに困っていなかった人がいるだろうかという問いかけを見たことがありますが、お米については、農家は困っていなかったと思います。
お米が一番。全てのものの基準でしたね。

敗戦間際に空襲に遭って、帰京までの数ヶ月置いてもらった農家では、ウチが買出しに行っていた農家よりかなり奥の所為か、お米を売って欲しいという人が来ることはありませんでした。

一度お米や野菜を売って欲しいと言って来た、親娘をすげなく追い返し、暫くして野菜を盗まれたことに気付き、近所の人も一緒になって、駅までの一本道を走って、追いつき、連れ戻して、どんな目に遭わせたか、かなり前書いたこともあり、今は思いだしたくもないことです。

三食、白米、最初の中は一緒に食事をしていましたが、終戦後次第に疎開して来た者だけでなく、空襲被災者、つまり街の者を、学校でも大っぴらに非難、差別する教師も出て来て、その農家でも食事は別になり、それまでは、お餅とかかき餅などを気軽に振舞ってくれていたのが、出してくれなくなって、姉妹の妹が優しくて、こっそり焼いてくれるのを姉娘に怒られるというようなことも起きました。
しかし、そこに置いてもらえたことで生き延びられたわけですから、そんなことは大したことではありません。

農繁期、小学校が休みになり、私も稲刈りを中心とする作業全部を手伝いましたが、その時のお昼ご飯、白米のオムスビの味は忘れられません。
学校も田んぼを持っていて、その作業もやらされるのですが、(その時、街の者の働きぶりがなっていないと叱り飛ばされるのですが、それは別の話として)、大きなオハギが三個、昼食に出されました。

小豆というものを長く口にしたことがなく、塩味でしたが、私にはホントに美味しくて、夢中で食べて、ふと見ると、周囲の生徒は、一つ位しか食べていません。普段家で食べていて、珍しくもないのでしょう。

その時、問題の教師は、「痩せとんのに、焼け出されモンは(その教師は被災生徒をいつもそう呼んでいました)よう喰うのう」と言い放ちました。

この教師に対する恨みは、十年近く経っても悔し涙が滲むほどで、教師にだけはなるまいと思っていたのですが・・・

横道に逸れましたが、敗戦の年とその次の年、特に食料事情が一番厳しかったと思えるのは、配給されるお米が非常に少なかったことと、上にも書いたように、闇米が手に入らなかったからではないかと推測しています。
偶々、netで、1945年は冷害だったという一文を読み、それで思い出したのが、帰京する時、長野に二三日寄ったのですが、確かその辺りで、晩生の稲が水に浸かっている光景を汽車の窓から見た記憶があり、冷害の上に台風被害もあったのではと今更思ってみています。

今から20数年位前だったか、お米が凶作の年があり、古米や古々米、更にはタイ米しか手に入らない年がありました。
飽食の時代になってからですら、そういう状況になるのですから、1945年が不作の年だったら、ただでさえの食糧難にどれ程の影響が出たか、いずれにしても、米不足はその後長く続き、ご飯と言えば、白米、更にはブランド米しか食べないなどということになったのはいつ頃からでしょうか。

TVドラマの「おしん」の大根飯などは、私達にもお馴染みで、大根の他に、サツマイモ、カボチャ、他に思いつくものは、ご飯の量を増やすために入れました。

ただある所にはあって、近所の豪邸のご主人のお誕生日パーティーで歌を歌いなさいと言われ(当時児童合唱団に属していて、教会の日曜学校でも歌っていました)そのままフルコースの食事にもよばれたのですが、オペラ歌手だったという神父さんが朗々と「女心の歌」を歌い、故人になられた、著名なバイオリニストが、若かりし頃、痩身で、長髪を頭を振って上げるのが癖のようで、ピアニストの妹さんの伴奏で何曲か演奏しました。

それきりそんな豪華な誕生パーティーに招かれたことはありませんが、桁の違うお金持だったために今まで気楽に二三回書かせて頂きましたが、最近親戚が、そのお宅の息子さんの消息を語り、気をつけて書かなければとあらためて思ったことです。
当時かなり高い声が割りにきれいに出て、もう故人になられたと思いますが、ダルフィオール神父様という、声楽家だったという方が、褒めてくださいました。

関西に越すとお話しすると、一度遊びにいらっしゃいと、神父さん達が共同生活をしている、ドンボスコという所に招かれ、写真も頂きましたが、生涯で忘れられない方の一人です。

また話が逸れましたが、当時主食代わりになったのが、サツマイモとカボチャ。
サツマイモは茎や葉っぱまで、炒めたりして食べました。
このサツマイモが、収穫量が多い種類を作るので、どんどん不味くなって行き、大根のようにザクザクで、甘味も少ないものが配給されました。
「金時」などという、甘くてホクホクする黄金色の美味しい種類は殆ど手に入らなくなり(筋が多かったですけどね)、「臺白」系が多くなって、サツマイモと言えば、白っぽい色というのが普通になりました。

つい最近まで、サツマイモとカボチャ、この二つは、我が家の食卓に上ることはなく、自分から食べることはありませんでした。
一度書いたように思いますが、カボチャのお蔭で生き延びられたという詩を読んだことがあって、そういう考え方もできると、少し方向転換をしましたが、この二つは、おなかにズッシリ響くというか、だから代用食の代表になったのでしょうけど、どっちみち敬遠気味で、でもカボチャのスープなどは頂くようになりました。

庭でも何でも、空き地があれば、家庭菜園を作って、胡瓜、トマト、茄子などを栽培していたものです。

中学二年の終わりに、関西に越して、飢えるというようなことはなくても、食料事情が悪いことは続いていました。
三年の時、クラス全体がダレタ雰囲気になって、先生が「君達、今朝何を食べた。コウリャンかトウモロコシ粉か・・・」と、当時配給になっていた粉類の名前を全部挙げられ、まだそういう粉類を食べていたという事実の根拠?にしているのですが、まだ何種類か思い出せていないように思います。

長くなりましたので、この辺で一旦ペンを?置きます。  《清水町ハナ》

この記事へのコメント

(。・ω・。)
2015年01月23日 19:06
1945年12月8日じゃないですよw
真珠湾攻撃あたりです←
2015年01月23日 22:05
ご指摘ありがとうございました。1945年は敗戦の年で開戦の1941年と共に私にとっては忘れることがあり得ない年なのに、このような書き間違いをするとは・・・すぐに書き直します。

この記事へのトラックバック

  • パンの配給

    Excerpt: ◎パンの配給公告 (東京都、昭和21年)  ※注:「米差引量 1ヶにつき100g(=パン3.. Weblog: ぴゅあ☆ぴゅあ1949 racked: 2012-02-14 18:17