思い出エッセイ

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zoom RSS 本の雑記帳16「『朗読者』感想−映画【愛を読む人】との比較−」思い出エッセイ〔200〕

<<   作成日時 : 2009/08/07 20:39   >>

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 『朗読者』は、ドイツ映画【愛を読む人】の原作です。映画との比較ということに重点を置いて読んでみました。

『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク作、松永美穂訳、新潮文庫)。
映画を観て、原作を読みたくなったということは、初めてだと思います。

映画は優れた作品でしたが、観終わった後、素朴な疑問もあり、15歳の少年と36歳の女性との愛の物語から、場面は暗転して、女性が第二次大戦時、ナチ・ドイツの親衛隊隊員であり、当時の罪を裁かれるという思いも寄らない別の物語が展開することに驚かされ、映画は映画として、原作ではどのように描かれているのか、また映画が原作にどれほど忠実であるか知りたくなりました。

作者、ベルンハルト・シュリンクは、1944年、ドイツ西部生まれ。フンボルト大学法学部教授。本書の他に、『ゼルブの欺瞞』など二三冊のミステリーを出版している。1995年に本書を出版し、世界的なベストセラーとなる。

「訳者あとがき」によると、作者は、旧東ドイツにあるフンボルト大学に最初に招かれた西側の教授ということです。
映画は1958年から始まりますから、1944年生まれの作者はほぼ同じ年頃。大学の法学部を出て、作者は大学教授ですが、映画は弁護士。
自伝的な要素が強いのではと思ってしまいますが、そうではないらしいという記述を読みました。どこで読んだか忘れてしまいましたが。

映画と同じく、主人公の15歳の少年、ミヒャエルは、路上で気分が悪くなり、吐いてしまう。
映画では、猩紅熱でしたが、原作は黄疸とされています。

最初の頁に黄疸を病んでいると書かれていて、ちょっと戸惑いました。黄疸というのは、例えば肝臓を病むと、黄疸が出るというように、私などは病名と言うより一症状と考えるからです。最近はあまり聞かない病名ですが、猩紅熱の方が妥当でしょう。

“建物の壁にもたれ”、吐いていると、“一人の女性がほとんど乱暴といってもいい態度でぼくの面倒を見てくれた”(p8)。
ケイト・ブランシェットは、まさにほとんど乱暴に世話をしていました。

年の暮れの出来事で、翌年の二月末には、治って、女性の所へ花束を持って、お礼に行く。
母親にお小遣いで花を買って行くように言われる。
映画でもお小遣いで買ったか、覚えていませんが、まだ15歳だと子供。日本なら母親も一緒にお礼に行きそうな感じですが、この辺りが自分の経験を書いているのではと思ってしまうのですが。

ドイツでは15歳が子供でないことが、ミヒャエルが一週間後にその女性、36歳のハンナ・シュミッツを再訪し、映画の場面のように、煤だらけになって、お風呂で洗う、その流れで関係を持ち、その後何度も訪れ、ハンナが生涯忘れられない女性となって行く、その一事でも明らかです。

禁煙しようと思っても、止められない喫煙者であり、ハンナが足を上げて、ストッキングをはく様子に魅入られ、ガールフレンドに同じようにすることを求めたりもします。

ハンナは小説では次のように描かれています。
“秀でた額、高い頬骨、薄青色の目、ボリュームたっぷりで、くぼみもなく均等に弧を描いている唇、力強い顎。大きくてつんと澄ました女っぽい顔(p17)。”
市電の車掌をしている。

因みにミヒャエル(映画では英語読みで、マイケル)役の俳優は、オーディションに応募して来た時は、16歳、大胆なラブシーンを臆する様子もなく演じていた時は18歳と、これはケイト・ウインスレットがどこかで語っていたと思います。

小説は、最初から最後まで、このミヒャエルが語る形で進行します。
最初の場面から映画は、小説の描写に非常にと言ってよく忠実に描かれています。

映画がカットしたところもそれと感じさせることはなく、すき間を細やかな描写が埋めていると言ったらいいでしょうか。
映画では、何らかの節目に“Kid!”と呼んでいるように思えたのですが、寧ろ、名前を呼ばず、「坊や」としか呼んでいないようです。

旅行の場面は、さすがに映像が勝っていると思いました。
大事な切手のコレクションを売ってまで費用を工面し、嘘を言って、親からもらうようなことはしないわけです。

こんな場面が出て来ます。
旅行中、ミヒャエルが、花を買いに出る時、ちょっと出て来る、すぐ戻る、とメモを置いて、帰って来ると、ハンナがひどく怒り、ベルトで思いっきりミヒャエルの顔を殴る。目は腫れ上がり、顔は血だらけになる。
置いて行かれたと思ったらしい。

何が何だか分からない、メモを置いて行ったのにと言い、探すが、メモはない。
これが、映画の中でも一つの大きなキーワードになることに繋がるのですが、一つは所謂ネタバレになることもあって、映画感想の中では触れませんでした。
しかし、映画を観た多くの方が、この事実にちょっとした違和感を感じられたのではないでしょうか。後で触れたいと思います。

朗読をした本の数と時間はハンパではなく、『戦争と平和』は数十時間かけて読んでいる。
「朗読者」という耳慣れないタイトルに親近感を抱き始めます。

ハンナとの仲が変わったわけではないが、ミヒャエルは、他の同年輩の女の子にもちょっと関心を持つ。
それに気づいたかどうか、ハンナは、車掌から運転手に昇格させるという話が出た後(映画では事務職でしたが)、家を出てしまう。
ミヒャエルは役所にまで調べに行くが、ハンブルクに転出したことしか分からない。

大学の法学部に進学したミヒャエルは、法廷でハンナと再会する。
ナチス時代とその関連の裁判を研究している“数少ない”、“ドイツの法曹界ではアウトサイダーであり続けた”教授のゼミをとり、その授業の一環として、裁判の傍聴をした時である。

傍聴の目的の一つは“過去の行為をさかのぼって罰することを禁止すべきかどうか討論する”(p106)ことだった。

大学から車で一時間ほどの町の裁判所でハンナは被告席にいた。43歳になっていた。
第二次大戦中、ジーメンス社に勤務しており、1943年に親衛隊に入ったと供述する。

1944年初頭までアウシュヴィッツ収容所で働いており、44年から45年の冬にかけてクラクフの収容所、更に終戦までに西側のカッセルに移動した事実を認める。

ミヒャエルは一日も欠かさず、公判に通う。
ミヒャエル以外の学生は、一週間に一回しか来なかったが、“来るたびにあらためて、怖ろしい犯罪が彼らの日常に割り込んでくるのを体験させられ”、“絶えず驚愕していた(p120)。”

被告は女性五人で、主要な起訴理由の一つは“収容所での選別に関わっていたこと”であり、もう一つの主要な起訴理由は、教会堂に閉じ込めていた囚人を、空襲の夜、鍵を開けなかったため、二人の母娘を除き、全員を死なせたことである。

この母娘が告発したのだが、娘が証人尋問が終わって、傍聴席に戻ってから、どうしてあのことを忘れていたのだろうと、(裁判長の許可を得て)、話し始めた。
ハンナが、囚人の中から、若くて華奢な女の子をお気に入りとして選び、自分の保護の下に置き、ベッドを与え、いい食事を与えていた。てっきり夜のおもちゃにされるものと思っていたら、そうではなく、本の朗読をさせていたと、一人から聞いた。
(彼女達は)いずれ、死の収容所へ送られるが、その前に少しでもいい思いができることをよかったと思っていた―

裁判官は、ハンナの弁護士に質問はないかと聞いた。
ミヒャエルは、心の中で叫ぶ。
“訊いてやってくれよ。弱くて華奢な女の子はどっちみち建築現場での仕事に耐えられないから選んだのではないか、と。どっちみち次の輸送車でアウシュヴィッツへ送られてしまうのだから、最後の一ヶ月間を少しは楽なものにしてやろうとしたのではなかったか、と。言ってやれよ、ハンナ。最後の一ヶ月を楽にしてやりたかったって。だから華奢で弱い子を選んだって。それ以外には理由はない。あり得ないって。”(p136−pp137)

再び、空襲の夜の事件に戻り、どうして鍵を開けなかったかについて、被告達は理由を述べる。
突然一人の被告がハンナを指し、あの女がやったと言う。
裁判長は、報告書を誰が書いたか(サインの)筆跡鑑定をすると発言する。
ハンナは突然報告書は自分が書いたと発言する。

ミヒャエルは不意に気づく。
ハンナは読むことも書くこともできないんだ、と。
だから、ジーメンスで職長に抜擢される話を受けず、車掌から運転手に昇格する話に、街を出た。ミヒャエルのメモも読めないし、遂には報告書を書いたとまで発言する。

ハンナのために裁判長の所へ行き、この事実を伝えようとミヒャエルは思う。
しかし、ハンナは自分が非識字者であることを隠すために、どれほどの、自分にとっての不利益を甘んじて受け容れて来たか。
ミヒャエルは迷い、哲学者の父に相談もする。

後になって思うと、当時自分はどれほど、知識と経験が乏しかったか、ミヒャエルは思う。
収容所での殺戮の様子を伝えるものがいかに少なかったか。ドキュメントが出ても、長く再版されなかった。

自分が知っていたのは、テレビ・ドラマの「ホロコースト」、「ソフィーの選択」、それと「シンドラーのリスト」位のものだ。

ミヒャエルは、強制収容所を訪ねる。アウシュヴィッツは、ポーランドのヴィザがなかなかとれないので、ヒッチハイクで、近い所へ行く。
車に乗せてくれた人は、行き先を聞くと、一様に黙り込んだり、不機嫌になったり、怒らせて、放り出されたこともある。

強制収容所に行っても、過去の出来事を彷彿とさせたり、想像を働かせることに結びつくものはなかった。

ハンナは無期懲役刑を言い渡された。

時は流れ、ミヒャエルは司法修習の同期だった女性と結婚し、一児をもうけるが、数年後離婚する。

離婚後、ミヒャエルは、(ハンナに読んでやった)『オデュッセイア』を再読する。
ハンナに朗読した本のリストを発見し、『オデュッセイア』の他にチェーホフの短編など数作品を選んで、テープに吹き込み、ハンナに送った。

四年目にハンナから挨拶が届いた。
「坊や、この前のお話は特によかった。ありがとう。ハンナ」と書いてあった。
ハンナは書けるようになった、ミヒャエルは“歓喜に満たされた”。

当時は、ハンナが釈放されるなどとは思っていなかったので、テープを送り続け、ハンナの手紙は次第に内容が充実してきた。自分からは手紙を書かなかった。

ある日、刑務所の女性所長から手紙が来て、ハンナが恩赦で釈放される可能性が高いこと、
出所後の彼女の世話を(できる範囲で)してもらえないか、その前に彼女に会いに来てもらえれば、という内容だった。

ハンナの住居と仕事を探したが、会うことは延ばし延ばしにしていた。
遂に来週、出所と所長から電話がかかって来た。

ベンチに座っていたハンナは、ミヒャエルを見ると、歓喜の表情を浮かべた。
昔、ハンナは、様々ないい匂いをさせていたが、横に座ると、老人臭がした。

自分が結婚をして、離婚し、一人娘は寄宿舎にいるが、卒業したら自分の所に引き取るつもりだなどと話す。

“裁判で話題になったようなことを裁判前に考えたことはなかったの”、自分が本の朗読をしている時も何も感じなかったのかとミヒャエルは尋ねる。
自分に弁明を求めるものがいるとすれば、死者のみとハンナは答える。

迎えに行く日の朝、ハンナは死んだ。首を吊って自殺したのた。
所長はハンナが、ミヒャエルが送ったテープで字を勉強していたと言い、何故彼女に手紙を書かなかったのかと(半ば非難の口調で)尋ねる。
答えることはできなかった。

ハンナは、収監されてから貯めたお金を、空襲を生き延びたユダヤ人の娘に贈って欲しいと遺言していた。
ミヒャエルはお金を届けるためにニューヨークに行く。

娘は、このお金をホロコーストの犠牲者に使ってしまえば、彼女を許したことになる、それはしたくない、何に使ったらいいと思うかと訊いてきた。
読み書きを習いたいと思っている人のために使うことを提案し、彼女も賛成した。

ニューヨークから戻ってから、ユダヤ人の識字連盟にハンナの名前でお金を寄付した。
そしてハンナの墓参りに行った。最初で最後の墓参である。


こうやって、プロットに近いものを書くと、映画が最後まで原作を忠実に描いているという感じを持ちました。
しかし、映画には映像の力があるように、本には本の、全く異なった力があることに気づかされました。

映画で涙が出そうになったのは、ハンナが刑期を終えてミヒャエルと再会し、短い言葉の遣り取りの後、死を決意する場面です。
本箱を置いただけで、それと気づかされます。

本では、法廷で、ハンナが体が弱い子をお気に入りとして優遇していたことが明かされた時、ミヒャエルが、心の中で、弁護士とハンナに、訊いてやってくれよと血が滲み出るような思いを叫ぶところで、思わず落涙しました。

映画との対比という副題で書いてみたのですが、この本は、一部と二部と言ってよく、全く別のストーリーが展開するわけですが、特にハンナが元親衛隊員の戦犯として登場する場面、ホロコーストの事実、歴史について、映画の中では、セリフの中に埋没された形でしか紹介されません。

注意深く聞いていないと、ハンナが、空襲時、囚人を逃さなかったという起訴理由の他に収容所行きの選別に関わっていたというもう一つの起訴理由を聞き逃しがちです。

あまりに簡単に起訴理由を流すのは、ドイツ人は子供の時からナチ・ドイツが犯したホロコーストという大罪について、徹底的に教育されると聞いていて、強調する必要がないからと思い込みました。

しかし、そうでないことは、上記に書いた通り、主人公以外の学生が週一回傍聴して、ホロコーストの事実を突きつけられ、“絶えず驚愕していた”とあることでも分かります。
大学の他の学生から、“強制収容所ゼミの学生”と呼ばれているのにです。

そして主人公さえ、テレビ・ドラマの「ホロコースト」、「シンドラーのリスト」程度の知識と書かれています。一般の日本人と同じような、或いはそれ以下のレベルということになります。
主人公は、収容所を訪れて、自分の知識に現実感を持たせようとするのですが、想像力がついていかない。今更取り返しのつかない母国の大罪に煩悶する。

その有様が本では細やかに描写されています。
しかし、かつての愛人の罪が少しでも軽くなるよう、小さいことでも有利な方向へ、弁護士やハンナが声を挙げて欲しいと心の底から願う。

それでいて、当時の国が犯した、許されることのない犯罪の重みに捉われ、その犯罪に関わった者だけに責を負わせるべきでないと分かっていながら、長い服役の後、再会したハンナに罪悪感はないのかと聞いてしまう。

本では、ハンナの罪状について、僅かな知識しかなくても、悩み、考え、知るための行動をとる過程をつぶさに描くことができる。
映画ではなかなか難しい。マイケル役の若い俳優は、戸惑ったり、激情に駆られたり、苦悩する様も達者に演技していましたが、それでも、ハンナが非識字者であることを裁判官などに告げることを断念する、ハンナのプライドと真意を思う、その心の動きまでを演じきることはできません。

しかし、収容所に行ってみても、如何に想像力を働かせてみても、当時の殺戮の事実を思い描くには至らない。廃墟のような、無機質の、年月の経った収容所の姿の映像が、観る者の前に展開されて、主人公の思いを共有することができる。

一長一短などという安易な言葉を使いたくはありませんが、お互いに補い合える面もあるわけです。

もう一つ、もはやネタバレとは関係ないと思いますが、ハンナが非識字者であること(訳書は、「文盲」という一応差別語とされる言葉で通していますが)、その事実が、何度も大きな行き違いを生み、よりよい生活まで自分から諦め、それを隠し通すために、遂には自分がやってもいないことまで自分の罪にしてしまうことがよく理解できませんでした。

ジーメンスに勤め、親衛隊員となり、看守、それも有能な働き振りを認められるほどなのに、非識字者のままで務まるのか。
それを隠すために、自分が罪を被り、無期懲役刑まで宣告される。犯罪の真相を不透明にしたし、真実の解明もなされなかった。

作者の意図は未だに分かりません。
第一、日本で似たような仕事に就いている人が非識字者であることは、まず考えられないことでしょう。
世間にも、愛人にもどうしても知られたくない秘密なら他にもありそうです。

中途半端なところで、終わりますが、このようなことを書いていてもキリがないので、この辺で一旦止めたいと思います。
観た後で、読んだ後で、次々と新たな感想、解釈、疑問も生まれる作品だと思いました。
DVDが出たら、本を前に置いて、ノートパソコンでDVDを見ながら、あれこれ検証する、そんな新たな楽しみも思いつきました。  《清水町ハナ》

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