読書雑記「『砲台島』のことなど」思い出エッセイ〔146〕

 ‘本の雑記帳’とするはずでしたが、上記の本を客観的に紹介する気になれず、と言って、書きたいことはある、そんな中途半端な気分のまま‘雑記’とすることにしました。

少し前の新聞のスクラップを繰っていて、読んでみたいと思う本に行き当たりました。
三咲光郎氏という作家の『砲台島』というミステリーです。

戦争中の和歌山県が舞台で、瀬名弘之という18歳の少年巡査が主人公、語り手です。
まず、作者の筆力、巧みな文章、力量に感心しました。

私的なことですが、私は、和歌山県に行ったことがありません。
家族が車好きで、長距離ドライブを趣味としていたので、そのお付き合いで、本州は、和歌山県以外、全ての県に、とりあえず足を踏み入れています。

行ったことのない和歌山県の海沿いの街が、情景が目に浮かぶように、描写されています。
日本の各地を空襲する敵爆撃機は、和歌山県を通過して行ったということを、今更のように、そうだったのかとこの本で知りました。

私が疎開していた、北陸の街を完膚なきまでに爆撃したB29、127機は、紀伊水道を通って来たのですね。
当時のラジオは、「情報、情報、情報」と三度言って、警戒警報や空襲警報を伝えたのですが、琵琶湖上空が、敵機の位置の南端でした。
「偵察機、3機が琵琶湖上空を南下」と言えば、ああ、帰って行くのだと安心したものです。

巡査というと、戦時中、最も威張っていた人種でしたから、主人公が少年とは言え、巡査で、こんなに豊かな感受性を持っていることに、まず、ちょっとした違和感を持ちましたが、砲台島という軍施設で起きた重大事件がテーマですから、憲兵に同行できる立場の人間として、適当な設定なのでしょう。

砲台島から流れ着いた三人の焼死体というのが、事件の始まりです。
グラマンの機銃掃射に当たって死にたいと思ったりする、感受性の強い、少年巡査、弘之が、悩んだり、迷ったりしながら、捜査に協力する姿の細やかな描写は、筋だけ追いがちなミステリーというより純文学の趣さえあります。

しかし、読み進みながら、チョコチョコと気になることが出てきます。
敗戦時、私は小学生でしたが、とにもかくにも空襲も経験し、戦時中のことは記憶しています。
そういう人間がここは事実と違うなどということは、小姑のつまらない意地悪のようだし、感想を書く時は、抑えてと思っていたのですが、何故か振り払いがたく気になりました。

弘之の従兄は、一歳上で、応召されるのですが、弘之は、餞別というのか、おそらく二人にとって、思い出深い本、「新古今和歌集」の文庫本を渡します。
従兄は、特攻攻撃で戦死し、文庫本は、弘之の手元に戻ってきますが、それを繰ってみると、和歌に、従兄が英訳をつけているというので、これにかなり驚きます。

二人の中学校の時の担任の先生の影響を受けているというのですが、これが女性の教師です。ここでもえっと思ってしまうのですが、この二人は旧制中学校の出身で、果たして、男子生徒ばかりの中学校に女性教師がいただろうか、保健室には女性がいただろうと思いますが。

戦後、すぐに新制中学ができて、それまでの旧制中学校、女学校は、新制高校となって、男女共学となり、女性教師も当たり前のこととなりますが、この主人公のように、戦争末期に旧制中学を卒業している場合、とりあえず、担任の女性教師を仄かに慕うという設定は、旧い世代には不自然に思えます。

そして、この女性教師は、シェイクスピアやイェイツの詩を教えてくれたともあります。
もともと英語専攻だったのが、敵性語となって、国語の教師をしているともありますから、英語は合間に教えたのかも知れません。

しかし、戦地で、新古今和歌集を英訳できるほどの英語力を中学校で身につけられるか、軍需工場などに動員されているはずですし。
まあ、作者が自身を主人公達に重ねたと思ってみるのですが・・・

最初はそれほど拘っていなかったのですが、物語が終盤に向かうにつれ、再び気になり始めました。

またこの作品には憲兵がやたら(数にすれば大したことはないのですが)登場するというか、え、この人も憲兵?という感じでした。

まず、弘之の叔父、戦死した従兄のお父さんが、何と憲兵少佐です。
あの当時、狭い地域で、叔父さんが憲兵少佐の巡査は、警察でも軍でも一目置かれるか、引いて対応されるか、どちらかだと思われるのですが、本作では殆ど関係ない感じです。

弘之は殺人事件の捜査に来た憲兵中尉と行動を共にしますが、途中から登場する、上記の女教師の弟も憲兵少尉、それも志願兵ということで、プロットを進めて行く上で、都合がいいとは言え、これはないのではと思います。

女教師は、シェイクスピア劇を原語で上演したということで、特高の取調べを受けたことがあるとあります。
戦時中にシェイクスピアを原語で上演というと、現代英語ではないし、どこで、どういう人が観客かとも思ってしまうのですが、身内に特高の取調べを受けた人がいるということでは、憲兵になるのは無理ではと思うのですが。

こうしたことを、あげつらうというつもりはないのですが、結末に関わってくることなので、いくつか例を挙げています。

終盤に近いところで、弘之が住んでいた街が空襲に遭います。弘之は出先から戻ってみると、街はなくなっていて、実家も焼失してしまって、母親の姿が見えません。あちこち探し回り、遺体が集まっている所も探します。
この辺、空襲と、被災した街の様子、死者・・・作者が描き出す地獄図は、まさに私が経験した実際の有様を彷彿させる、圧倒的な描写です。

私は、かなり厚いこの本を、ひっかかるところが気になりながらも、一気に結末に近いところまで読みました。

そして、物語が終わりに近づいて、相当ドロドロした状況や場面、人間関係も結構あって、これでもかと言う感じもするのですが、最後に示される結末は、私にとって、受け容れがたいものでした。それはないでしょうという感じです。

ミステリーの結末など、千差万別。どんな終わり方でも、よくできてる、とか、つまらない、これは無理がある、など色々、ひと言で言って、何でもあり、でしょうけど、この作品の結末を、私は受け容れられない、どういう結末かわからないのに、そう言われてもと思われるでしょうけど、書くわけにもいきません。

また、一読して、どこが悪いのと言う方もいると思います。たかがミステリーの結末でとも言われるでしょう。

無粋なことをもう少し書けば、戦中の中学校の教師は、戦場に教え子を送り出しています。それを考えたら、自分の信念や私怨の恨みを晴らすということなど二の次となるはずです。

生と死が隣り合わせの時代に、シェイクスピアの素人芝居がそんなに大事かと、言い捨てたい気分にもなります。
動機がこの程度のことで、こんな大それた、という当時を知る者の通俗的な実感もあります。

この小説がエンターテインメントであることを忘れているわけではないのに、また根っからの愛国者というわけでもないのに、いつの間にか、ムキになっていました。

そんな固く考えなくても、(ただ、かなり突飛な結末であるという観はあるのですが)、あの時代を体験していない人の、ミステリーの結末と、また思い直しかけて、(それから)結末に関わる主要人物が、「広島へ行った」という記述を見て、私はこの小説の動機と結末を受け容れることを断念しました。

若い人達がどう感じるかも聞いてみたいところですが、あの戦争を知っている人達、特に私のような疎開世代の方はどう思われるでしょうか。  《清水町ハナ》


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