時事雑記帳19「Nスペ「封印を解かれた写真が語る」」思い出エッセイ〔132〕

 NHKスペシャル「封印を解かれた写真が語るNAGASAKI」(8月7日夜8時)。“米軍カメラマンの苦悩”、“原爆の真実”などという副題がつけられています。今や象徴的な写真となった、原爆で死んだ弟を背負い、火葬場で順番を待つ少年の姿を撮った、従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏が語るNAGASAKIです。のっけから自分のことで恐縮ですが、私も、この忘れられない写真を追って来ました(〔112〕〔70〕〔16〕)。

私は、最後に、ジョー・オダネル『トランクの中の日本』(小学館刊)に辿り着き、自分なりの結論を得たのですが、テレビの映像や新たな取材、異なる切り口により、現実感や情報的に新しい事実を得、別の角度からの見方も得ました。

番組は、まず、美智子皇后が、この写真について、幼い姿が今も目に残っていると、述べたというトピックスから始まります。

番組をご覧にならなかった方、この写真をご存知ない方に簡単に説明します。
十歳前後の少年が、赤ちゃんをおぶい紐で背負い、直立不動の姿勢で立っています。粗末な衣服で、裸足です。

一瞬、背中の、弟か妹か、赤ちゃんは眠り込んでいるように見えるのですが、「火葬場の順番を待つ少年」という説明に愕然とするのです。長崎の原爆投下の直後、被爆して亡くなった弟を、おぶって、少年は一人で火葬の順番を待っていたのです。

(私の想像ですが)当然付き添うべき両親や身近な肉親は、亡くなられたか、重傷を負われたか、しかし、おぶい紐は、誰か大人が、きっちり締めたのではと思えます。

少年と、似たような世代、空襲の経験を持つ、私は、この写真をしっかりと頭の中にしまい込んでいました。

番組で、少年は、歯をくいしばり、唇には血が滲んでいたと、説明されます。
モノクロの写真では、そこまでは分からないのですが、私は、少年が憎しみなどから、歯を食いしばっていたのではない、緊張と責任感、弟を火の中に投げ込まなければならないという悲しみに耐えていたのだと思います。

ジョー・オダネル氏は、米軍軍曹、撮影班の一員として、敗戦直後の日本に上陸し、長崎で、原爆の破壊力を記録する任務を与えられます。
そのためのカメラの他に、私用のカメラを密かに持ち、30枚の写真を撮った。

上記の写真集では、封印していたトランクを開け、写真の公表に踏み切る、晩年のオダネル氏の協力者として、パートナーの女性の名が挙げられていますが、この番組では、オダネル氏の息子、ホテル勤めをしていた、タイグ・オダネル氏(38歳)が、父の思いを引き継いだと説明されます。

ジョー・オダネル氏は、67歳の時、突然、絶対中を見るなと家族に言っていたトランクを開け、封印していた写真を取り出す。その時は理由を話さなかった。
タイグさんは、父親の肉声のテープも発見します。

そのテープには、真珠湾攻撃に始まる日本への憎しみから、写真班配属を希望したが、原爆の投下を知らされた時は、‘あのクソッタレ日本人をやっつける、プロパガンダかと思っていた’などという言葉で始まる、説明が録音されていた。

オダネル軍曹は、佐世保に上陸し、長崎の爆心地に向かう。
まず、死者、1000人を越したと言われる、三菱製鋼所、300人以上が亡くなった、学校の跡を見て、グラウンド・ゼロと呼ばれた、爆心地に着く。

そこは、灰と瓦礫に覆われ、人が暮らした痕跡はなかった。
‘Atomic Field’という看板だけがあった。米軍が、瓦礫の中に作った飛行場である。

人影などないと思われた、そのアトミック・フィールドに、人が何人か写っているのを、息子のタイグさんは、発見する。

傷ついた赤ちゃんを背負った少年の姿があります。(この少年がかぶっている帽子は、子供用ではなく、軍用、例えば、海軍の整備兵などのもののように見えます。間違っているかも知れませんが)

その後、上記写真集にも収められている、恐らく兄妹三人の姿を撮ったもの。
オダネル氏の肉声で、リンゴを与えたところ、かぶりついて食べたという説明が入ります。一番幼い子は、蝿が真っ黒にとまったリンゴをそのまま食べたという記事が写真集には付されていました。

(最初にアトミック・フィールドに着いた日とは、異なる日と思えますが)着物の晴れ着姿の女の子の写真について、母親の言葉として、この子は、爆音で耳が聞こえなくなったと説明されます。

救護所を訪れると、鼻も耳もなく、肉塊と化したような姿の人から、“Kill me.”と言われる。
目からは涙が溢れている。翌日には、その姿がなかった、とのみ、この番組では、取り上げていますが、写真集では、その人は、私はあなたの敵なのだから、あなたは私を殺せるだろうという意味のことを言い、オダネルは、この人の苦痛がなくなるように祈ったとありました。

背を向けて横になっている少年の背中は、全体が焼けただれ、回復は難しいのではと思わされますが、この方は、生き延び、オダネル氏や、タイグさんと会います。

タイグさんは、当時、オダネル氏と一緒に行動した、少佐(87歳)を訪ねるが、彼は、「撮影対象との接触を避けた。記録班が感傷的になる必要はない」と言い切ります。
おそらく職業軍人でしょう。

オダネル氏が最も多く撮影した建物は、浦上天主堂で、8500人の信者が亡くなった。
そして、火葬場で、弟を背負った、あの少年と会う。
焼場の二人の男が赤ちゃんを火の中に置いた。それを見届け、少年は黙って去って行った。

ジョー・オダネル氏は、長崎で見た光景を思い出すまいとしたが、悪夢に苛まれ続けた。
苦しみから逃れるために、全ての写真をトランクに入れ、43年間封印した。

結婚して、二人の子供にも恵まれ、幸せな生活を築いた。
家族には、このトランクは絶対に触れるなと言った。

帰国後、3年経ってから、大統領のカメラマンに抜擢され、ホワイトハウスで働き始めた。
当時のトルーマン大統領は、原爆は多くのアメリカ人の命を救ったという考え方だったが、ある日、オダネル氏が、「日本に原爆を落としたことをどう思っているか」と尋ねたところ、トルーマンは、「自分のアイディアではない。前の大統領から引き継いだことだ」と顔を真っ赤にして、言った。朝鮮戦争の頃である。
(前の大統領とは、ルーズベルト大統領ですが、終戦の年、1945年の4月に亡くなっており、上記のトルーマンの発言は、原爆投下の決定について、新たな見方を促すものと思えます)

オダネル氏は、原爆症を発症する。
爆心地に送り込んでおきながら、軍は何の情報もくれなかった。

政府に補償を求めるが、却下される。
教会のキリスト像の体一面に、被爆者の写真が貼られているのを見て、それが、啓示となり、自分の写真の公表を決める。

トランクを開けて、写真を並べ始めたオダネル氏の姿に、家族はショックを受ける。
1990年、アメリカで写真展を開こうとするが、断られ、35の出版社に、出版を断られる。

1995年、スミソニアン博物館での展示が一旦決まったが、結局中止となる。
いやがらせが頻繁となり、妻は夫の行動が理解できず、離婚する。

オダネル氏が70歳を過ぎた頃から、日本での公開が始まる。氏は、自分の体験も語り始める。

息子のタイグさんは、当時の通訳と会い、ひどい傷の少年、Tさんが、命を取り留めていたことを知る。

オダネル氏は、焼場に立つ少年を探し続けるが、行方は分からない。
日本各地で写真展を開く度に、尋ねまわったが、10年経っても少年の消息は掴めなかった。

オダネル氏の症状は悪化。85歳で死去。奇しくも、長崎原爆投下の日、8月9日だった。
「アメリカ人の好むと好まざるとに拘わらず、8月6日と、9日は来る」

息子や娘も嫌がらせを受けるが、息子は、父の遺志を継ぐことを決める。
タイグ・オダネル氏は、去年、全米に向けて、写真の公開を始めるが、批判が集まり始める。非難の投書も来る。

しかし、異なる投書も来始める。特に「火葬場の少年」。
イラクの帰還兵。「もしこれが、イラクで写された写真だったら、アメリカは、イラク駐留を考え直すかも知れない」

離婚した妻からも手紙が来る。まだトランクを開けた意味は分からないが、息子の行動は理解すると。

タイグさんは、子供達が遊んでいる姿をよく写す。
「あの日の長崎には、子供達の笑顔がなかった。笑顔の子供達を撮りたい」と言った、父に応えるために、子どもの写真を撮り続ける。

「例え小さな石であっても、波紋は拡がって行く・・・」
ジョー・オダネル氏の言葉である。

こうして、書いてみても、写真集を見た時とは、違う、印象、見方が生まれています。
一つは、写真集は、オダネル氏と協力者の言わば、主語はオダネル氏という感じだったのが、この番組では、オダネル氏は、いくつかの形での取材される側、肉声のテープはあっても、言わば、Heの立場であるということから、異なる印象を持つのでしょう。

簡単な説明つきの写真集よりはるかに多くの情報や、背景が語られることにより、それぞれの写真への感情が具体的になり、一般化、共有化、という、言葉は適切でないかも知れませんが、かなり大きな変化が生まれる場合もある。

写真集の持つ静謐が失われたような気もする。
私だけの、この一枚という思いを持つことができなくなった。
オダネル氏の肉声が、少々単純という感じもする。

一つ、写真集にも共通して言えることなのですが、撮影日時が明らかにされていないことが、残念です。例えば、焼場の少年についても、被爆直後と説明されますが、終戦が8月15日であることを考えれば、被爆から、一週間以上後であることは、確かです。

着物を着た少女は、七五三と説明されていたと思うのですが、当時は、11月15日当日に祝う習慣だったので、更に後日と思われる。

火葬の順番を待つ少年については、オダネル氏が、彼を探したという事実は初めて知りました。当地で、探し出して、二人を会わせようという動きがあったことは読んだことがあります。銅像を建てようという提案もあったと聞きます。
それは違うでしょうと言いたくなります。

あの少年の写真は、例えば、東京大空襲の場面にも置き換えられます。原爆の酷さと同時に、「子供にとっての戦争」を象徴していると、私には思えるのですが。  《清水町ハナ》

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