本の雑記帳12「『さよなら渓谷』感想」思い出エッセイ〔130〕

 吉田修一『さよなら渓谷』新潮社。“傑作『悪人』の著者が再び放つ問題作!”、本書のキャッチ・コピーです。私は、この不思議なタイトルに惹かれました。‘渓谷’という言葉の持つ、明るさもあるのに、奥行きが深いイメージと、‘さよなら’という軽い言葉。なかなかのタイトルです。本の表紙には、本当に、渓谷の写真が使われていました。光が射し込んでいるけど、樹々は裏表紙まで奥深く続いています。そしてなかなかの本でした。

実は、本命の本が別にありました。あまりに長たらしいタイトルに嫌な感じがして、この本も注文したのです。
そして、メインは、読みにくいこと甚だしく、遂にネをあげて、中断。この本に目を通し始めました。
軽い、通俗的な語り口、少し前に起きた幼児殺し事件をモデルにしているようでもあり、緊張感なく、失敗だったかなと思いました。

それでもテレーっと読み進む中に、この本の読みやすさが、著者の並々ならない筆力と達意の文章に拠ると気づきました。
真夜中に読み始めて、夜が明けるまで、一気に読んでしまいました。

著者、吉田修一氏が、芥川賞作家であると、途中で知りました。
『悪人』という本の評判は、朧に記憶している程度です。
前にも一度書いたように思いますが、芥川賞というのが、絶対の重みを持っていた時代は過ぎたように思います。いい作品というか、売れる作品を書き続けなければ、忘れられて行く、或いは、ペンで食べて行くことはできない、それほど、読者は、好みが変わりやすく、時代もあらぬ方向に変化して行きます。

素人が言うべきことではないようなことは置いておいて、この本の紹介です。
推理小説ではないのですが、プロットを全部書いてしまっては、秘しておいた方がいい、お楽しみを取り出してしまうようなものです。著者の言いたいこと、と言うか、この本の核心は、ひねりの効いたストーリーだけにあるのではないのですが。

そこで、帯に書かれている惹句などを、リミットと考えてみたいと思います。
“どこまでも不幸になるために、私たちは一緒にいなくちゃいけない。”
“人の心に潜む「業」を描き切る。『悪人』を凌ぐ最新長編。”
“幸せになったら、きっと壊れてしまう。”

もう一つ、長めのがあるのですが、これは、広告向けの、大仰なプロットという感じの文なので、一部を書きます。
“前略~(ある事件が)、どこにでもいそうな若夫婦が抱えるとてつもない秘密を暴き出す。取材に訪れた記者が探り当てた、15年前の‘ある事件’。~後略”

‘その日の早朝、立花里美は隣家の尾崎宅を訪問した。夫の俊介はまだ眠っており、応対に出たのはパジャマ姿の妻、かなこだった。’

この小説の書き出しです。
里美は、着払いの荷物を受け取って、代金を払っておいて欲しいと、隣家に頼みに来たのです。

そして、すぐに、里美の家の前に、報道陣の車が張り付いている、異常な状景が明かされます。
里美が主人公であると、読者は思いますが、そうではありません。
里美に動きがあると、記者達も動く。

市営の、古い木造住宅が30軒ほどあって、周囲は林で囲まれている、プロパンが使われている。少し離れた所には、都民が訪れる、桂川渓谷があり・・・という描写で、東京都ではあるが、郊外というより、奥地と分かる。

里美の隣家では、尾崎俊介が、妻かなこが用意した朝食をとって、野球チームの臨時コーチをするために、外へ出ると、記者達が、「任意で事情聴取」と叫んでいる。

里美の四歳になる息子が先月行方不明となり、二週間前に、桂川渓谷で遺体が発見されたのだ。

母親の里美は、厚化粧でテレビ・カメラの前に立ち、浮かれたような様子で対応する。

少し前に起きた、母親による我が子、友達の幼児殺人事件を彷彿とさせます。
作者は、意図的に、この、日本全国を揺るがした事件を、イメージも経緯もはっきりしているが故に、この作品の中に埋め込んだようでもあります。

(「そこの、~新聞!!来るなって言っただろ。今すぐ出てけ」などと、金切り声で、強気の態度をとっていた様子は、今でも覚えています。
何故か、多くのマスコミは、この女性容疑者のことを、姓で呼ばず、S容疑者と名前で呼び続けました。私など、この人の姓が何だったか、今や思い出せない始末です)

里美は警察に連れて行かれます。
一つの場面がクリアされたように、俊介とかなこは、家に入ります。

記者達や野次馬も去って行きます。
記者の、渡辺一彦も帰り支度をしていたが、運転手の須田が、俊介に声をかけている。知り合いらしい。

須田は戻って来て、俊介が大学時代の友達、野球部の、と告げる。
帰宅しても、妻の詩織とうまくいっていない、渡辺は、また外へ出て、カメラマンの大久保と会う。

須田が、尾崎俊介が、同じ大学にいた時、集団レイプ事件を起こしたと、言っていたという思いがけないことを、大久保から聞く。

社へ帰って、渡辺は、入社二年の部下、小林杏奈から、和東大学野球部の集団レイプ事件の資料を集めてもらう。
公判記録には、関係者の詳しい証言ものっていて、尾崎らは執行猶予つきの有罪となったことが分かる

一見、のんびりした尾崎俊介の家。
しかし、俊介は、警察に呼ばれ、里美と関係があったのではないかと聞かれていた。俊介は強く否定する。
警察の態度は丁寧だったが、帰り際、若い刑事が、耳元で、過去の事件のことを囁いて、俊介を罵る。

俊介が警察に呼ばれたことを他社に出し抜かれたと言って、渡辺はデスクから怒られる。
すぐに尾崎の家へ行くが、留守だった。

グラウンドで、子供達の野球を見ている尾崎を見つける。
運転手の須田が大学時代の友達だと言っていたと話しかけるが、尾崎はのってこない。
里美との関係を聞き、更に、過去の事件も持ち出す。
尾崎は、無視するような態度で、去って行く。

尾崎は、かなこに、警察やマスコミに里美との仲を疑われたと、話す。
家の中は、散らかり放題。かなこが俊介に掃除をさせない。本当の生活らしくなって行くことを拒んでいるかのようである。

渡辺は、ラグビー部だった頃のコネで、和東大学で、尾崎の過去を調べる。
尾崎は、大学を中退し、証券会社に入って、通信制の大学を卒業していた。
順調に昇進し、上司の妹と婚約しながら、突然姿を消したという。

社へ戻ると、小林が、事件の被害者、水谷夏美のことを調べていた。
高校を転校して、大学を出て、大手の会社に勤めたが、二年で辞めている。
社内恋愛をしていたが、相手の両親に過去を調べられて、破局した。

その後、会社の取引先の男と結婚したが、何回も怪我で入院している。
そして、自殺未遂を繰り返した末に失踪している。

渡辺は、再び、尾崎の所へ行き、夏美の不幸なその後を突きつける。
尾崎は無視する態度をとる。渡辺は執拗に夏美のことを話題にする。
尾崎は、強く、もう来るなと言う。

パトカーが現れる。渡辺は咄嗟に身を隠す。
中から刑事が出て来て、尾崎の妻、かなこが、尾崎と里美の関係を話したと告げる。
尾崎はそのまま、パトカーに乗せられる。

渡辺は、かなこを待ち伏せ、里美と尾崎の関係を警察にしゃべったのか、と聞く。信じられないという言い方をすると、かなこは、本当だ、(何が悪い)と、きっとなって答える。

俊介は取調べを受けていたが、黙秘を続けていた。
里美と関係を持ち、俊介が子どもを邪魔扱いしたために、里美が思い余って、我が子を殺したと警察はみている。

尾崎の、殺人教唆説が突如浮かび上がり、再びマスコミが集まっている。
かなこが、実は籍を入れていなくて、住民票もないことが分かる。

渡辺は、尾崎の過去の事件の、共犯者のその後について、興信所に調査を依頼していた。
若くして薬物中毒で死んだ者がいるが、父親の後を継いで、建設会社の重役になっている者もいる。
運転手になっている須田は、派遣会社から来ていたが、渡辺の社の仕事を降りてしまっていた。

尾崎が吐いた、と記者仲間に伝わる。

尾崎俊介は、留置所で、あの事件を起こした後、偶然、被害者の夏美と再会した時のことを思い出していた。映画館の中だった。終わってから、後をつけた。追いついて、謝りたいと言ったが、悪いと思っているのなら、死んでよ、と言われる。

勤め先の証券会社では、得意客に執行猶予中の身であることを笑い話にされ、自分を拾ってくれた先輩に相談すると、激しく叱責される。社内にも事件のことは伝わり、露骨にからかわれることもあったが、仕事は順調だった。
夏美と会ったのは、そんな頃だった。

渡辺の社:小林が、里美が、育児放棄をしているのも同然だったという情報を得て来る。
更に、夏美の元旦那の話を聞き、夏美が、立川のデパートで、子供達に囲まれている男と一緒のところを見かけたという話を引き出したという。

渡辺は、血の気が引く思いがした。夏美の写真を見る。「嘘だろ」と呟く。
渡辺と小林は、夏美の家に向かう。
 
留置所の尾崎俊介:偶然出会った、藤本から、夏美が夫の暴力のため、入院を繰り返していると聞く。
病院に行くが、庭にいた夏美は、俊介を見て、けたたましく笑う。その後、会ってくれない。何回も見舞いに行く。

渡辺は、夏美の話をテープに取っている。事件後、家庭でも、学校でも、勤め先でも、そして、結婚生活でも、事件が影を落とした。(夏美の述懐は続く)。

俊介の回想:婚約者とレストランで食事している時、夏美が、近くの公衆電話から電話をかけて来て、お金を貸してくれと言った。(初めての、夏美からのコンタクトである)

それから、夏美と一緒に行動するようになり、今の所に夏美は落ち着く気になった。

尾崎俊介が釈放されたと、小林から連絡が入る。かなこが、自分の証言は嘘だったと言ったという。更に里美も自分の証言は事実ではないと言っているという。

俊介は、自宅に帰り、「ただいま」と挨拶する。暫くして、かなこは、「おかえり」と言う。炒飯でも作るか聞く。
そして・・・

軽い気持ちで読み出して、ああ、面白かった、よく出来ていると満足して、それで終わりと、個人的な行動とは言え、ブログに感想を書こうとすると、観方が微妙に、ある時はかなり変わって来ることは、今までも経験していることです。

この本もそういう感じを持ちました。
細かいことでは、警察の動きというか、容疑者と関係があるという聞き込みがあったからと言って、すぐ事情聴取をしたり、留置所と思える所に留め置いたりできるか、というようなこと。私も詳しくないので、あれこれ言えないのですが。
例えば、俊介が隣家の女性と関係を持ち、まではあり得るにしても、子どもが邪魔だと言われて、母親が殺してしまった、それが、殺人教唆というような点も、余りに雑です。

そして、常識的な思いや感覚が頭をもたげて来るのです。男性の視点からのみ書かれている作品、という新たな感想を持ちました。
レイプという犯罪は、ほぼ完全に意図的なものであり、尾崎俊介の、「業」とか「贖罪」に繋げにくいように思われる。こう書いてしまうと、この本が成り立たなくなってしまうかもしれませんが、犯罪は、選択のある、始まりの一つと考えればいい。

また、現実はどうであれ、女性の側が、常に、その後も、その影響から抜け出せないというステレオタイプもいかがなものか。
寧ろ、被害者が加害者を愛してしまう、或いはその逆というよくあるパターンに持って行った方が潔い。小説だから、何でもありという考え方があるでしょうけど。

雑誌記者の渡辺について、スナックをやっていた、未亡人の母親が、同じ目に遭ったらしいという回想が何回か出て来る。俊介という人間の解釈に、渡辺の思いがどの程度かぶさっているのか、この点も、作者ははっきりさせた方がいいように思う。

それぞれの人間は、よく描かれているんですけどね。ただ、容貌とか、体格とか、どういう人か思い浮かべることに必要なことは、殆ど書かれていませんが。

この位にしておきます。よく書けているという感想は変わりません。  《清水町ハナ》

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    Excerpt: どこまでも不幸になるためだけに、私たちは一緒にいなくちゃいけない……。 きっかけは隣家で起こった幼児殺人事件だった。その偶然が、どこにでもいそうな若夫婦が抱えるとてつもない秘密を暴き出す。取材に訪れ.. Weblog: とんとん・にっき racked: 2008-08-04 12:56