本の雑記帳10「『アーロン収容所』再読」思い出エッセイ〔108〕

 会田雄次著『アーロン収容所』中公新書。「イギリスの女兵士は、なぜ日本軍兵士の前で全裸で平然としていられるのか。英軍は、なぜ家畜同様の食物を捕虜に与えて平然としていられるのか。ビルマ英軍収容所に強制労働の日々を送った歴史家の鋭利な筆はたえず読者を驚かせ、微苦笑させつつ、西欧という怪物の正体を暴露してゆく。激しい怒りとユーモアの結合がここにある。この強烈な事実のもつ説得力の前に、私たちの西欧観は再出発を余儀なくされるだろう」(表紙カバーより)

『アーロン収容所-西欧ヒューマニズムの限界-』会田雄次著、中央公論社。1962年11月15日初版、2007年2月28日88刷の、長く読み継がれている名著です。
私は、子供の頃は、何度も読み返す愛読書がありましたが、成人してからは、二回、三回と読み返す本は、必要上以外、非常に少ない。本書は、その数少ない愛読書です。

最初に紹介した、表紙カバーの解説は、おそらく当時書かれたものだと思いますが、40数年経った現在、本書に書かれていることを、英国通、ヨーロッパ通の方がどのように思われるのか、伺ってみたいところです。

勿論、著者がこの体験をした当時は、英国は、まだ旧体制、旧秩序を維持していた大英帝国であり、その後の植民地解放により、内側からも大きく変貌を遂げているはずですが、著者の、「15年を経ても、それほど変わっているようには思えない」-後述-という感想に注目したいと思います。

戦争を知らない、またこの本の内容もあまりピンとこない、という若い方にも読んでいただければと思って、当時の事情など、最小限の解説を入れながら、正確を期するために、本書からの引用をメインに、ご紹介したいと思います。
(「」は、本書からの直接引用。順を追っているので、一部を除き、参照頁は付記しません)

会田雄次氏(1916-1997)は、京都大学教授を務めた西洋史研究者で、第二次大戦中、昭和18年(1943)夏、召集され、京都の歩兵連隊に入隊。同年中にビルマ(現ミャンマー)の最前線に送られ、部隊全滅寸前に終戦となり(1945)、ビルマ・ラングーン(現ヤンゴン)の英軍捕虜収容所に送られ、「約2年間、はげしい強制労働に服せられる」

本書は、ひと言で言って、その時の著者の体験談です。
帰国後、約15年を経て、書かれています。英国に対して、考え方が変わったところもあるが、基本的には変わらないと、初版出版時の「まえがき」にあります。

第二次大戦中、日本が参戦した、所謂、太平洋戦争時、日本の軍隊は、主として、出身地中心で構成されていました。会田氏は、京都出身者の、「安(やす)師団」所属で、初年兵、上等兵です(但し、戦後、兵長まで昇進)。
安師団は、昭和19年には2万近い兵力だったのが、終戦時、3000に満たず、特に歩兵は、300名いた、著者の中隊は、14,5名。全滅に近かった。

戦争が終わったらしいと知って、寧ろほっとした。そうすると、「急に狂ったような激しい郷愁にとらわれ」「涙がどっとあふれてきて、ポタポタと床の上に流れ落ちた」
無条件降伏と聞いて、不安になるが、連隊長代理の訓示では、「さだめし有利な条件で」停戦となったと考えられると聞かされ、日本が無条件降伏をするなどあり得ないという考えを持つ。

実情が分からないまま、日々が過ぎ、ある日、支給品を取りに行くことになる。
途中、橋のない、雨で増水した川の流れは速く、工兵隊が懸命の復旧作業をやっているが、どうにもならず、一本の銅線を頼りに、濁流の中を、一人ずつ、向こう岸に渡ることになる。

著者と親しかった、初年兵の吉村は、うとうとしていたところを急に立ち上がって、「無頓着にザブリと河のなかにふみこんだ」
著者も、工兵隊も、不安を感じる。輸送隊長のI中尉は、何か言いたげな表情をした。
工兵隊は、口々に、気をつけろよ、などと声をかける。

吉村は、十歩ほど進んだ所で、急に動けなくなった。著者たちを「じっと見た目を忘れられない。懸命に救いを求める絶望的な目であった」
全員の顔色が変わり、「しっかりせい」「手をはなすな」「待ってろ」などと声をかけ、工兵隊が二三人、銅線伝いに助けに行くが、思うように進めない。

吉村の手がはなれ、水中に没し、「十数メートル向こうでもんどりうったその足がちらと空中にみえたきりである」

最初に涙を誘われるエピソードです。
責任者のI中尉は、暗い顔で、鉛筆で、報告書を書いている。彼の前に食事はない。吉村が当番兵だったのだ。
著者が食事を勧めると、「ありがとう」と言って、報告書を見せる。「軍隊式の紋切り型だが、すまないという気持ちがあふれているよい文章であった」

この本に記されているエピソードは、忘れず、記憶しているものがいくつもあります。淡々とした筆致なのですが、事実を正確に、著者自身の感情も、思いをこめながらも、客観的に記されているためだと思います。

まず、ラングーン北東方の操車場まで移動を命じられ、ボロボロの姿で歩くが、途中会うビルマ人は、好意的である。「もう一度戦争をやって、あいつら(英国人)を追い出せ」などと言う者もいる。

英軍から、武器を提出せよという命令が出て、「最後を飾るため」、「日本の軍人は武器を命より大事にしていることを見せるため」ピカピカに磨き上げるが、英人の将校は、無造作に束ねさせて、日本兵に海に放り込ませた。

再び、移動。途中英軍に会う度に使役をやらされた。
中継地で、持ち物検査があり、検査役のインド兵の方が、組しやすいとみて、皆そっちの方へ並ぶ。イギリス兵が手招きをしても行かない。
しかし、イギリス兵は、何もとらなかったが、インド兵には、金目のものは全て取られてしまった。

そして、最終目的地、「ビルマ・ラングーン地区アーロン日本降伏軍人収容所」に着く。

そこでの最初の使役は、「食料・衣類の運搬整理、自動車その他工場や物資集積場の雑役というような英印軍を対象としたものと、戦禍に荒れたラングーン市の清掃復興作業、ラングーン民間事業会社の労働など」。

(本書には、著者のスケッチが多く添えられていて、精緻な細密画風で、様子がよく分かります)

イギリス人の収容所長は、どれも「教養も品格もないひどい男ばかりで」、一代目の所長の唯一の趣味は、「ビルマ人の売笑婦を何人も部屋に集め、全裸にして、(ここには書きにくい動作等をさせて)、楽しむことで」、この座に付き合わされた、学徒出身の(真面目な)O少尉は、帰って来て、「乱世だ、乱世だ」と連発していた。

最も激しい屈辱感を持つのは、英軍兵舎の掃除である。
「便所につまった糞を手で掃除させるぐらい朝飯前だった」。
抗議めいたことを言ったある将校は、日本軍はシンガポールでイギリス人捕虜に糞尿のくみとりをやらせたと、一喝されたという。

女兵舎の掃除が一番いやだった。日本人捕虜は、部屋でも便所でもノックの必要はない。どんな姿でいようと、日本人捕虜に取り繕う必要はないのだ。
ある時、部屋に入ったところ、女兵が、全裸で、鏡の前で髪をすいていた。全く動じることもなく、ゆっくりと下着を身につけた。

また彼女らは、足で指図する。持って行かせる荷物を足で蹴り、顎をしゃくる。
腕のいい建具やで、きびきび働くN兵長は、女達のお気に入りだった。
ある日、彼がカンカンに怒って帰って来た。洗濯をしていたら、一人の女兵士が、「目の前でズロースをぬいで、これも洗え」と言う。

「ハダカで来やがって、ポイとほって行きよるのや」
洗ったのか、という問いに「洗ったるもんか。はしつまんで水につけて、そのまま干しといたわ。阿呆があとでタバコくれよった」
(これも有名なエピソードだと思います。ヒドイけど、つい笑ってしまいます)
「彼女たちからすれば、植民地人や有色人種は、あきらかに「人間」ではないのである」
家畜にひとしいのだ。

労役は、市内の復興清掃、波戸場の荷役、食料集積所・被服廠の人足、他で、ビルマ人などから何か施される機会が多い「乞食組」、何の役得もない、疲れるだけの仕事が「くわれ班」などと呼ばれた。

命に係る危険な仕事もある。大きな鉄板を掛け声をかけて、レール上に落とす。
タイミングを間違えると、命を落とす者もいる。
著者も、枕木に頭をぶつけて、気を失う。血だらけになって、皆に介抱され、ジープで収容所の病室へ行く。手術の用意をして、待っていた軍医が、アルコールで体を拭くと、血はとれて、頭のコブとすり傷しかない。

しかし、軍医少尉は、「こういう傷はあとでこわいんです。入室していらっしゃい」と丁寧な言葉で言い、十日以上も、英軍に見破られるまで、留め置いてくれた。
この「この上なくやさしい親切な軍医さん」には、「たまたま手に入ったタバコ一箱を、せめてものお礼としてさし上げた」

故国帰還については、様々な噂が乱れ飛んだ。日本で炭鉱夫が不足しているから、先に帰還させると言われ、申し出た者は、船に乗せられたが、行き先はマレーだった。
この話は事実で、若い日本軍将校が抗議をしたが、答えはいつも同じ。戦中、‘日本軍が英人捕虜に同じことをした’である。
英軍のパンフレットには、日本人捕虜がいうことをきかない時は、帰還を遅らせると言えば、一番よく効く、と書いてある。

こういう仕打ちに対して、日本軍捕虜は、何らかの形で彼らに損をさせることを考える。
徹底していたのは、「菊部隊」で、コールタールのドラム缶は穴を開ける、ミルクも。缶詰はこわす。この部隊は、21年に帰国した。

著者達は、酒ビンを取り落として割ったり、盗み飲みをしたが、イギリス人監督は、割れたビンの、ウイスキーを飲ませてくれたが、しっかりお返しが待っていた。

収容所にビルマ人も泥棒に入って来る。視力や音の聞き分けに優れたグルカ兵(ネパール土民兵、ママ)が見廻りの最中、泥棒を見つけると、即座に自動小銃が火を吹く。何十人ものビルマ人が殺された。

ある日、ビルマ人が死んでいるらしいのを見つけ、報告に行くと、若い軍曹がめんどくさそうについて来て、いきなり、靴で、うつ伏せのビルマ人の顔を、激しく蹴り上げる。首が折れる(実際に折れたのかどうか、分かりません)。
「フィニッシュ(終わった)」とつぶやき、死体を埋めさせた。

「フィニッシュか」著者のつぶやきに、
「~、デッドならつぎに何かしなけりゃならないが、フィニッシュならなんにも残らないやね」小隊長も浮かぬ気に言う。
(生きていたのかも知れないけど、首の骨が折れるほど、頭を蹴り上げたことによって、フィニッシュとなったのかも知れません)

アジア人でも中国人やビルマ人は、屠殺に慣れている。ヨーロッパ人はそれ以上に馴れている。しかし、日本人は、何千年も家畜を飼うという経験をしていないし、勿論屠蓄の経験もない。

つまり、ヨーロッパ人は、屠蓄の精神で、植民地経営のみならず、捕虜も扱って来た、と著者は述べています。
その点で、日本軍は、捕虜の扱いには閉口したとも。
もう一点、著者は触れていませんが、白人の捕虜も同じ扱いを受けたか。

例えば、著者達捕虜に支給された米は、ビルマの下等米で、砕けているし、臭く、砂や小石が混ざり、食べられたものではない。
捕虜になった当初の飢えている時は、これでもよかったが、下痢もするし、小隊長が抗議に行ったところ、カンカンに怒って帰って来た。
英軍の返答は、「~、当ビルマにおいて、家畜飼料として使用し、なんら害なきものである」

そう言えば、戦後すぐ、占領軍から、敗戦国日本人に放出された、フスマ、トウモロコシ粉などは、家畜の飼料でした。

イギリス軍は、殴ったりはしない。しかし、「一見、いかにも合理的な処置の奥底に、この上なく執拗な、極度の軽蔑と、猫がネズミをなぶるような復讐がこめられていたように思う」

著者は、特に豪州兵に対して、一片のシンパシーも持っていないようです。
タバコの火を額で消されたこともある。靴で顔を蹴り上げられた。膝まずかせて、足かけ台の代わりにして、一時間も足を乗せられたこともある。

K班長は、口を開けて、膝まずかせられ、顔に放尿された。その少し前に、故郷で待つ、妻からの手紙を手にしていなかったら、K班長は、死刑覚悟で、その豪州兵を殺していたかも知れない。

その中に、英軍墓地に仮埋葬された死体を掘り起こして、別の墓地に移すという、隠亡作業をさせられた。
そこで、インド兵のような服装をした、奇妙な日本兵達を見た。挨拶しても、声をかけても、答えない。戦時捕虜である。

(戦中、日本軍には、「戦陣訓」というものがあって、‘生きて虜囚の辱めを受ける勿れ’と教えられ、戦中に捕虜となると、それを非常に恥じ、例えば、オーストラリアの「カウラ収容所事件」のように、殺されるために集団脱走を試みたり、戦後何十年経っても、戦友会に出ないという話があります)

ある日、とうとう一人と話せた。歯切れのいい東京弁を話す人だった。重傷を負って、倒れているところを捕虜となったのだという。自分のことはいいが、この話だけはしておきたい、と話し出した。

“イラワジ河の下流の方に収容されていた時、「戦犯部隊」の鉄道隊に会った。泰緬国境でイギリス人捕虜を虐待したり、殺したという。自分達は、飢えに苦しんだ。当地には毛ガニがいる。アメーバー赤痢の巣で、英軍は生食をするな、という命令を出していた。
食べたら危険なことは分かっていても、食べずにはいられない。そして、赤痢になり、血便を出し、血ヘドを吐いて、死んで行った。水を呑みに行って、力尽き、水面に突っ伏して死ぬ。看視のイギリス兵は、みんな、死に絶えるまで、毎日、望遠鏡で観察し、全員が死ぬと、‘日本軍は、衛生観念不足で、英軍の警告にも拘らず、生ガニを捕食し、疫病にかかって、全滅した。まことに遺憾である、と報告したという。何もかも英軍の計画通りだったということである”

中には、著者が敬服した将校もいる。ハーバード出、つまりアメリカにいた所為か、時折気さくに話しかけてくる、稀な将校だったが、日本軍の将校が、この戦争については、申しわけないと謝ったところ、きっとなって、‘君たちは、スレイブ(奴隷)か。国のために、正しいと思って、戦ったのではないか。自分達も同じだ。我々は、日本のサムライと戦ったことを誇りと思っている。そういう情けないことを言ってくれるな’と言ったという。

この本を読んでいる限り、例外中の例外という感じがしますが。

次の頁には、著者をして、「イギリス人をこの地上から消してしまったら、世界中がどんなにすっきりするだろう」と言わしめる、「禿鷹」とあだ名された、軍曹のことが書かれています。

さて、もう少し、急がなければ。
次は、「泥棒の世界」と題された章で、ビルマ人も泥棒をする、そして、日本軍捕虜達も泥棒をする。最初は、技術?が下手で、見つかっていたものが、どんどんレベル・アップして、必要なものを次々に調達する様が、面白おかしく描き出されています。お楽しみに。

次の章、「捕虜の見た英軍」では、英軍の、士官(将校と呼んだ方が適当だと思いますが。特に陸軍の場合。officerという英語を念頭に置いて、この言葉が使われたのではないかと思いますが)と下士官・兵では、ひと目で分かる歴然とした差がある。まず、身長が違う。

下士官や兵には、日本人としては背の高い(175センチ)著者より背の高い者は殆どいない。
それに対して、士官(将校)は、まず堂々たる体躯で圧倒される。話す英語も違う。
士官(将校)と兵が一対一で争えば、兵はたちまちにして、負けてしまう。将校達は、学校で激しい、スポーツの訓練を受けている。

イギリス軍人に、日本で言う「青白きインテリ」という言葉は、通用しない(この言葉は、今や死語であるように思いますが)。
「(士官(将校)と兵は)、同国人とはとうてい思わせないほどの人間類型の相違を見せている」

この後、兵が、いかに簡単な計算が出来ないか、motherというスペルさえ間違える、と、いくつかのエピソードが語られます。

私は、会田氏とは、別の理由で、英国人を快く思っていなかった時期があり、当時は、この本のエピソードを読んで、痛快と思ったのですが、今は、その感情は薄れ、従って、いささか失礼な気もするので、この位で留めておきます。
兵は、責任感は強く、約束は守る、という指摘もエピソードと共になされています。

更に、当時、英国の植民地だった、インドの兵、グルカ兵(ネパール出身)についてのエピソード。

そして、ビルマ人について。
英国の植民地であり、太平洋戦争の激戦地ともなったビルマ。本書では、死にかけている日本兵から、金歯を抜く連中、組織的に泥棒をする連中、つまり著者の言う‘屠蓄’民族としての、受け入れがたい面も紹介されますが、大半は、英国人は「イングリ」と呼んで、遠ざけながら、日本兵には、「マスター」と呼びかけ、親近感を示す様が書かれています。

以前、ちょっと触れたことがあることですが、日本、及び日本軍は、大東亜共栄圏構想に従って、ビルまでも独立運動を支援しました。
アウンサン・スー・チー女史の父、アウンサン将軍(当時の呼び名、オンサン将軍)が独立運動の象徴的な存在でした。日本の敗色が濃くなると、オンサン将軍は、一旦は日本を見限りますが、本心ではなかったとも言われています。

(戦前からの、日本の、ビルマ独立運動支援については、ウエブリブログ、アネモネさんの『東アジア黙示録』中、「南機関とビルマ独立義勇軍・・・「三十人志士」武人の絆」に詳しく書かれています)

戦中の東南アジア、植民地の独立運動支援については、戦況の変化が進展に大きく影響しているように思われます。
東南アジア各地で、日本軍は、青年達の‘義勇軍’を組織、訓練し、彼らが、戦後、旧植民地、旧体制を取り戻すべく、帰って来た、旧宗主国軍との戦闘に大きな力を発揮します。
最も成功した例が、オランダの植民地だった、インドネシアだったと言えます。
日本の独立運動支援、義勇軍組織が、それまでのインドネシアを根底から変えたと指摘する研究もあります。

今回は、本の紹介なので、この位にしておいて、本書で、おそらく義勇軍出身と思える、ビルマ人、モンダイ青年が、著者達、日本軍捕虜を前にして、語ったという言葉を引用したいと思います。彼は、最後まで、日本軍と行動を共にし、M班長の補佐役を務めた。
終戦となり、彼と行動を共にすることができなくなり、「心ばかりの別れの小宴を開き、各自~持ち物から餞別を出し、ここで別れたほうがいいだろうということを話した」

それに対して、モンダイ青年は、たどたどしい日本語とビルマ語を交えて、大意、次のようなことを話した。

「マスター達は負けた。残念だろうが、これも運命なのだ。気を落とすことはない。昔はビルマは強国だった。そこにイングリが来て、ビルマ人をみんな追いはらい、長い間いばっていた。それを日本人がイラワジ河にたたき落してしまった。しかし、その日本を今度はまたイングリが追いはらったのだ。すべては流転する。このイングリもやがては消えるか、イラワジ河に落ちてしまうだろう。ごらんなさい、このシッタン河を。日本軍が勝っても英軍が勝っても、同じように変わらず、ゆっくり渦をまいて流れている。人間のやることはどんなことでも、時と運命によって幻のように消え崩れてしまう。自然は変わらない。イラワジ河はもっともっと大きい。この河はすべての人間の栄枯盛衰をのみつくして永遠に流れてゆくでしょう。ビルマも昔のままの姿で残ります。それが仏陀の知恵なのです。私たちはこの仏陀とともに生きているのです」

会田氏ならずとも、胸をうたれる言葉です。

本書では、当時の日本軍部の一部の腐敗にも触れていますが、思想的に共感できなくても(おそらく大東亜共栄圏構想など)、立派な士官が多くいたとも書かれています。

ある時、若いビルマ人から「あなたたちは楠公精神を忘れてしまいましたね」と鮮やかな日本語で話しかけられ、驚く。
何故、盗みをしたり、ビルマ人からものをもらったりするのか、戦争中の日本軍隊はそんなことをしなかったと‘諌められる’。

彼が仕えた、若い日本軍人は、彼に「日本語を教え、日本精神を説き、東亜の新秩序についての情熱を」彼に教え込んだ。
20年3月、海上からイギリス軍が上陸し、ラングーンが包囲された時、
「立派な方でした。爆弾をもって英軍の戦車に向かってゆかれました。見事な最期でした」

また、著者の隊にいた、学徒動員の将校が、上の言うことをきかなくなっていた兵を前にして、ある程度距離を置き、「兵隊にとけこんで話し合ったらという現在のセンチメンタル・ヒューマニストとか、~がふりかざす解決策」をとらなかったことが賢明であったのではと、著者は述べています。

兵たちが、盗んできたもので、‘豪勢な’食事をし、ウイスキーまで飲んでいても、二人の将校は、小石混じりの米を食べて、超然としていた。

日常の慰安についても、兵のもともとの職業は多種多様で、しかも腕がいいので、演劇、音楽、スポーツ他、と、一流のものが出来上がり、インド人将校などが、妻子同伴で観に来るほどだった。

「望郷という言葉ではなまぬるい。兵隊たちは狂乱したように故国を想っていた」が、昭和22年(1947)5月、他の仲間よりひと足早く、会田雄次兵長は、復員船に乗ることができた。実は、親友であることを隠していた、ある将校が手配してくれたようだ。

当初、この本を、エピソード中心に、軽く紹介するつもりでいました。書き出してみると、そうはいかない。ユーモアや、偽悪風を装って、実に多くの課題が提出されている。
会田氏の考え方に賛成できない部分もありました。

105頁から107頁辺りの、日本の軍人、軍部について論じられていること、‘日本の軍人がまるで英語ができない’という単純な事実は、単に、当時の日本の敵性語排斥という誤った施策から、ドイツ語、フランス語を選択した軍人が多かったからであり、それでも流暢な英語を話す軍人は多くいました。
失礼ながら、西洋史専攻の会田氏の英語も、特に、聞き話すという点では充分でなかったとご自分でも認めておられますが、当時から日本人は、話すのが不得意という伝統?にもよるのではないでしょうか。

また、英国などの、社会のトップである、軍人の地位について、日本では異なると断じていますが、そう思える大きな要因は、太平洋戦争という、最後の戦争に負けたからだと思います。
旧軍は、完全に解体され、嘗ての姿を文で再現することも不可能になった。軍国主義とは関係ない視点から見てのことですが。ひと言で、簡単に論じられることではありません。

今ここで、続けて書こうとは思いませんが、一つだけ、書きたいと思います。
戦犯部隊となった、泰緬鉄道の鉄道隊の悲惨な全滅の真相は、今まで迂闊にも読み過ごしていたようです。
アーロン収容所は、降伏による捕虜の収容所です。戦犯の収容所(刑務所)は、はるかに非人道的な扱いを受けたと聞いています。

身内で、ひと言、タバコのみでなくて、よかったという言葉を聞いたことがあります。それに続く話も一つ伝え聞きました。勝者の敗残捕虜の扱いに国際法などザル法も同然だったのでしょう。
「アーロン収容所」には、読み終えた人には忘れられないフレーズがあります。
「万万が一、ふたたび英国と戦うことがあったら、~」という一節です。毒の効き過ぎるユーモアと捉えるべきでしょう。

自分が生きた時代を、雄弁に、有効に語るものから、多くを得て、客観的に、キャンバスから切り取った、特定の時代を色づけて行きたいと思いながら、感情の芯をえぐられる記述を読むと、抑えがたく感情的になります。

会田氏は、逆に、その感情を、一定の距離を置いて、キャンバスに描き、ここという所に意識的に強い色を重ね、これでどうか、と問いかけているようにも思います。

この名著について、まだ少ししか語っていないように感じます。感情的になってしまった所為かと思います。
折しも、出先で、映画「ビルマの竪琴」の、終わりに近い部分を見ました。遺体が放置されたままの、亡き戦友を供養するため、ビルマの地に残る決意をした僧侶が竪琴を弾く場面に感じ入りました。死去された市川昆氏の監督作品です。

モンダイ青年の、悠久の未来を信じる言葉を、反芻してみたいと思います。  《清水町ハナ》

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  • 会田雄次著「アーロン収容所」

    Excerpt: 本書はビルマで終戦を迎えた著者が、その後約1年9ヶ月、英軍捕虜として強制労働をさせられた記録である。以前紹介した石原吉郎の著作にあるようにソ連で捕虜となった人のすさまじい抑留生活に比べると相対的に楽だ.. Weblog: 亀屋一年堂 racked: 2008-03-30 00:37