時事雑記帳9「NHKスペシャル「学徒兵許されざる帰還」紹介他」思い出エッセイ〔86〕

 戦中の、陸軍特攻隊をテーマとしたNHKスペシャルです(10月21日放送)。‘陸軍特攻隊の悲劇’‘生きていた軍神’‘隠された事実’などという、説明的なサブ・タイトルがついています。ある新聞の番組紹介には、‘あの時代の狂気を語れる人は少なくなった’などとあり、特攻だけでなく、戦争で亡くなった多くの人々を冒涜する表現ではないかと思いました。子供とはいえ、生き残った者も、謂れのない侮辱を受けたような気分になります。

‘狂気’とひと言で、軽く片付けないで、どうして狂気なのか、説明して欲しいものです。
そんなわけで、あまり見たいと思わなかったのですが、やはり、見てしまいました。番組では、狂気という言葉は、一度も出ませんでした。

やはり見てみようと思った理由の一つは、秀作、「TOKKO:特攻」(映画)で、新たに知った事実もあり、私自身、特攻について、考えが変わり出していることです。(自分のブログで恐縮ですが、通し番号〔78〕に目を通していただければ、幸いです)。

証言や、資料を集めることが、非常に困難とは、思いますが、ドキュメントとしては、迫力や説得力に欠ける、二番煎じの観があります。勿論、どんな形でも、証言者が、生還されたことは、何よりです。

映画の「TOKKO:特攻」からも少し引用して、この番組については、簡単に紹介したいと思います。
特攻は、海軍が始めたことですが、戦況がいよいよ逼迫して来て、陸軍の航空隊も特別攻撃隊を編成するように、海軍から要請されたと、この番組で語られます。

内容を紹介する前に、‘生きていた軍神’というサブ・タイトルについて。
‘軍神’とは、特攻で戦死した方、戦死者が全て軍神というわけではありません。厳密な定義はないようですが、日露戦争当時の、広瀬中佐、橘中佐。太平洋戦争では、加藤隼戦闘機隊長、真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇で、戦死した9人の軍人、他、軍神と、言わば定められた方で、その名を冠した神社が存在する場合もあります。
従って、生きていた軍神は、存在しません。万一、軍神とされた人が生きていたら、軍神ではありません。

番組によると、特攻によるパイロットの死者は、4千人。一方、途中で引き返した者も多い。
軍は、生き残りを人目につかない所に集めた。「死んだ者に申しわけないと思わないのか。人間のクズ」などと毎日言われた。

64年前の今日、10月21日は、神宮球場で、出陣学徒の壮行会、雨中の行進が行われた日である。
戦争のことは全く知らない、忘れた、という方も、学徒出陣の雨中の行進の映像は、一度位目にされたことがあるのではないでしょうか。

学生服に学帽、ゲートル姿で、銃を肩に、悲壮な表情で、一糸乱れない歩調で学徒が行進する映像です。誰でも、心を打たれます。
しかし、決して、チャチャを入れるつもりはありませんが、観客席に家族や、女学生がいっぱいつめかけている場面も、一度位は見られていると思います。東條大将が訓示をしている場面が殆どで、皆静まり返っています。

ところが、私は、上記、映画「TOKKO:特攻」(日系二世と、日本で長く暮らしたアメリカ人女性二人の監督、制作。戦時中のフィルムを多用している)で、観客席の(動員された?)女学生や、おそらく家族が、熱狂的に、ハンカチや日の丸の旗を振っているという、それまで一度も目にしたことがない、シーンを見たのです。

学徒達は、悲愴な気分ばかりではなく、おそらく、彼女達の目も意識していて、寧ろ高揚した気分ではなかったかとも思われます。
この一事など、大袈裟に言えば、逆の意味での隠された真実ということになるかと思います。

番組紹介に戻り、海軍の要請を受けて、陸軍は、昭和19年(1944年)12月9日、特攻を始め、航空作戦の専門家、菅原道大中将が責任者となりますが、菅原中将は、特攻作戦は、海軍の真似に過ぎない、しかし、従わざるを得ない、八方ジリ貧であるなどという、手記を残しています。

陸軍は、志願制をとり、訓練を終えた、200人に、菅原中将は、絶対生還できない任務と説明する。最初は、全員が、‘志願せず’に丸をつけたが、一人が、菅原中将がわざわざ足を運んでくれたのだからと、発言し、志願する、に変更する。

希望する、しない、は関係なく、特攻隊は、指名制という、隊員の親族の方の発言もありますが、陸軍は、命令ではなく、志願である、と再び強調され、おそらく、上記のような、本音としては、志願したくないが、志願せざるを得ないという状況があったと、推せられます。

太平洋戦争勃発前から、海軍は、南進を主張していたが、陸軍は、北守(という言葉が適当かどうか分かりませんが、仮想敵国のソ連に対する守りの方が肝要と考えていた)の立場であり、海の上を、重い爆弾を抱えて、飛行することは想定外だった。

高所からの急降下爆撃は、高度の技術を必要とし、45度降下を300キロ行うと、操縦桿が効かなくなる。
要するに、陸軍航空隊は、特攻作戦に必要な訓練を全く行っていなかったということだと思います。

しかも当時アメリカは既に、駆逐艦に最新鋭のレーダーを配備し、それによって、特攻隊の迎撃が容易になっていた。

昭和20年、1945年4月、アメリカ軍兵力84万人、艦船、1,800隻が沖縄上陸作戦を開始する。
菅原中将の軍団にも出撃命令が下る。
1,036人の、陸軍特別攻撃隊が、沖縄戦で戦死した。

自分のことになりますが、私は、戦中、子供で、東京から、地方に縁故疎開をしました。その地で、終戦前一ヶ月を切る日に、B29の空襲を受け、住んでいた街は壊滅的な被害を受け、親しい友も亡くしました。

それから、数ヶ月の、当地の農家での生活は、子供ながらに耐えに耐えるという生活でした。
敗戦となり、旧軍人の家族だからということもあるのでしょう、途端に通っていた小学校で勢力を持っていた、ある教師や、その一帯での有力者の子供達から、いじめというより迫害を受け(数人の被災者の生徒達も同じく)、敵は内にあり、という思いを抱きました。

私達を置いてくださった農家も、次第に態度が変わるのですが、それでも行く先のない私達を置いてくださったことに、今でも心から感謝しています。
このことについては、既にブログでも書いているので、これ以上書きませんが、あの戦争とその後については、私は、長く、被害者意識しか持っていませんでした。
一つだけ、戦争で亡くなった死者に対して、申しわけないという気持ちを抱いていました。

最近、私より年下の従弟が、‘両親の世代が起こした戦争’というのを聞いて、私が抱いていたのは、まさしく、そういう感情だったと思いましたが、(両親より、祖父母、年上の伯父達の世代が開戦に関わっている)開戦を決めた世代は、実は、その前の世代のツケを払わされたに過ぎないと思うようになりました。

死者に対して、申しわけないという気持ちは、特に、特攻隊員という、確実な死地に向かって飛び立たなければならなかった方に対して強く、同時に特攻作戦に対しても何故という疑念を抱いていました。

上述の映画、「TOKKO:特攻」は、アメリカ側の資料を駆使して作られた作品です。
‘TOKKO’というのが、原題と思い込んでいました。
“Wings of Defeat ”が原題であることを、ブログ公開直前に知り、慌てて、()付けで挿入しました。直訳すれば、「敗北の翼」です。

この映画で、特攻作戦が始まった頃は、アメリカの大艦隊が向かって来ているのに、日本側は、優秀なパイロットは戦死し、数多くの飛行機を失い、迎撃編隊も組めない状況にあり、そうした中で、特攻と言う苦衷の作戦が考え出されたことを知りました。

しかも、この作戦を考え出したと言われる、大西海軍中将は、ここまでの作戦をとれば、昭和天皇も、終戦を決められるだろうと考えた、とナレーションが入ります。

「敗北の翼」というタイトルが示す通り、アメリカ側も、日本は敗北の一途を辿っている、これ以外に迎撃の手段がない、捨て身の作戦と承知していたのです。

映画の中で、特攻により、撃沈されたアメリカの駆逐艦の乗組員が、自分達も、負け戦になったら、自爆の道をとるかもしれないと発言していたのが、印象に残りました。

硫黄島は、一日でも長く死守することが、本土への空爆の阻止に繋がり、更に最初に敵の手に落ちる日本領土となることで、広大な地下壕を作り、作戦を練り、アメリカ側が五日で陥落させると豪語したのを、30日余も持ちこたえました。

しかし、持ちこたえるというだけで、運命は決まっています。
一本も草木がなくなるほどの猛爆を受け、沖にはアメリカの大艦隊が待機し、次々に上陸要員を送り込む、それを地下で、機が来るまで耐える、そして、地上戦が始まれば、ただ、玉砕の時まで、屍の山を築くのみ。

制海権は既になく、と言って、本土からの救援が皆無ということがあっていいものか。
Wikipediaにより、千葉から、神風特別攻撃隊第二御盾隊32機が出撃。護衛空母撃沈、主力空母を大破炎上させ、陸軍からも「飛龍」が出撃したと知りました。(Wikipediaは、アメリカ側の資料が多いのではと思われます)

“Wings of Defeat ”から得た、示唆、自分でも少し調べてみて、これまでと違う考え方を持つようになりました。
空軍の責任者であれ、パイロットであれ、パイロット諸とも、愛機を敵艦に突っ込む作戦、行為に、無条件に賛成する者など、一人もいないでしょう。最後になっても、実行したくない作戦だったと思います。
特攻行為により、大被害を与え、すぐに軍艦が沈んだ場合、轟沈と呼ばれました。連合国側から、最も怖れられた作戦です。例え、轟沈に成功しても、パイロットと飛行機を失う作戦をよしとした、関係者がいたでしょうか。

NHKスペシャル、‘陸軍特別攻撃隊’により、初めて知った、沖縄上陸に押し寄せたアメリカ軍の規模。1,800隻という、信じられない大艦隊、84万人もの大兵団。
特攻攻撃以外にどういう手段があったでしょうか。勿論、それも、このような大兵力に対しては、微々たる打撃を与えたに過ぎないかも知れません。日本国の、死に物狂いの誠意、というよりは、特攻隊員による、明白な死を自覚しての、死を賭しての防衛の姿勢とも言えましょうか。しかし、沖縄県民を救うことはできませんでした。

沖縄戦の時には、既に、無条件降伏以外の道は、おそらく残されていなかったと思います。
終戦が半年早ければ、という、映画の中の証言者の勇気ある発言も、頭に残っています。

どなたに、とは申しません。あの時代を‘狂気’と切り捨てる、今の世を享受している方に、上の状況で、どういう作戦が考えられるか、ゲーム上ででも、シミュレートしていただきたいものです。  《清水町ハナ》

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック