時事雑記帳4「NHK「硫黄島玉砕戦-生還者61年目の証言」について」思い出エッセイ〔72〕

 最近、硫黄島の名称が、‘いおうじま’から、当時の‘いおうとう’に戻されました。長年、‘フジヤマ’のような落ち着かない響きでした(もっとも海軍は当時も、イオウジマと呼称していたそうですが)。NHKで、8月5日と8月14日に、硫黄島戦から生還された方の証言が再放送されました。一年前に初回が放送されたということです。できるだけ詳しく紹介することによって、自分自身の忘れてはならない記録ともしたいと思います。

最初にWikipedia、他より、硫黄島の位置、地形、他について、引用します。
硫黄島は、日本の本州から、約1,200キロメートル南に位置し、東京とグアム島の中間にあります。
長径が8キロ未満。幅は、北部で4キロ、南部で800メートル、面積僅か約21平方キロメートルです。南部に、すり鉢のような形をした、標高169メートルの摺鉢山があります。活火山島で、地熱が高く、硫黄の臭いが立ち込め、島名もその自然環境に由来しています。
戦闘が始まるまでは、約1,000人の住民が住んでいました。

以下、硫黄島戦に至る状況については、既に知られているので、引用は省略します。
1945年2月半ば、日本の敗色は濃く、硫黄島は、アメリカ軍の直接攻撃を受ける最初の日本領土となり、敵の手に渡れば、本土攻撃の絶好の中継地点を与えることにもなり、死守、また、一日でも長く持ちこたえることが、至上命令となります。

そのため、早くから、前年の夏頃から、この小さな島を全島要塞化すべく、鉱山技師の設計により、地下に総延長18キロメートルに及ぶ地下陣地が作られました。司令部壕から戦車待機壕、野戦病院に至るまで、必要な各陣地は全て設置され、それぞれが、完成度の高いものだったと言われます。

1945年2月、アメリカ軍が約62,000人の大兵力をもって、硫黄島の攻撃を始めてからの数日とその後については、クリント・イーストウッド監督の映画、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」を少し参考にします。

当初、アメリカ側は、5日間でこの島を落とせると豪語、というより、確信していました。
米軍は、三日間、この小さな島に、飛行機により、草も木も一本もなくなったと言われるほどの猛爆を加え(800トンの爆弾を落としたと言われる-Wikipedia)、生き残っている者もいないと思って、海兵隊が上陸し、暫くは、何の反撃もなく、悠々としているところに、ほぼ、第一次上陸要員が上陸し終わった時、地下壕陣地の外側の塹壕等(摺鉢山近くのトーチカは、鉄筋コンクリート製で、壁の厚さは1.2メートルあったと言われる-Wikipedia)から、猛然たる攻撃が加えられます。態勢を整え直す余裕もなく、多くの海兵隊員が死傷します。

最初に迎撃した日本軍が、アメリカ側の反攻により、全滅したと思った、アメリカ側は、その時点で、硫黄島を占領したと信じ込み、例の星条旗を掲げる、有名なシーンを作り出します。この真相については、「父親たちの星条旗」に詳しく描かれています。

アメリカ国民にも、硫黄島が数日で陥落したと報道されますが、実は、真の戦闘は、日本軍が地下壕陣地から反撃を開始した、その後一ヶ月に渡って続き、司令官、栗林忠道大将の‘玉砕’後も、生き残った数千人の兵によって、更に長く続きます。

以下から、NHKスペシャル「硫黄島玉砕戦-生還者61年目の証言」の紹介を主に、記述します。
NHK番組の分については、記述の前に、*印と終わりに>印を入れます。尚、既知の事実については、地の文扱いとします。

(証言者は、日本側、アメリカ側、数人おられますが、日米何れかのみを記し、お名前他は書きません)

番組は、上述の、アメリカで、星条旗を掲げる数人の兵士の巨大な銅像の前で、毎年夏、海兵隊の栄光を讃えるパレードが行われる、その映像から始まります。

この番組が初めて放映されたのは、去年、2006年の夏ということですから、これを見ていたら、イーストウッド監督の、硫黄島二部作も、全く違った目で観ただろうと思うのですが、この点については、こう触れるだけにしておきます。

日本軍兵力は、約21,000、生還者は約千人と言われます。

*元日本軍兵士の証言:3、40代の中年兵や、16,7歳の少年兵が多く、銃の撃ち方を知らない者もいた。2月16日に始まった米軍による三昼夜に渡る猛爆は、地形も変わるほどだったが、地下壕で耐えた。体の震えが止まらない者もいた。2月19日、米軍が上陸、進撃して来た。猛攻を加えたところ、大混乱に陥った>。

*米軍兵士の証言:日本軍は、夜になると、‘万歳攻撃’を仕掛けて来るのが通例なのに、それがない。至るところ海兵隊員の死体だらけ。あっちの壕、こっちの壕、どこから撃って来るか分からない。
投降を呼びかけても、応じる者はいない。一人、壕から出て、投降しようとした兵士がいたが、壕から、髭をきれいに剃り、明らかに将校と思える軍人が出て来て、その兵士の肩辺りを撃った。(衝撃を受けた)>

・上記の、投降しようとした兵士を上官らしき将校が撃ったという証言については、日本側の元兵士の証言で、少し違う事実が明らかになっています。

*捕虜になった日本兵が、日本軍の壕に戻って来て、チョコレートなどを見せ、こういう風に向こうは待遇がいいから、投降した方がいいと勧誘に来たが、誰も応じず、帰って行くところを上官が(肩の辺りを)撃った。
後で、その辺を探したが、その兵の遺体はなかったから、無事に向こう側に帰ったと思う>

*米兵証言:地下陣地に対する米軍の凄惨な攻撃はエスカレートし、火炎放射器での燻り出しを狙うことに始まり、最後には、海水に多量のガソリンを加え、地下壕の入り口を塞いでから、陣地の上に穴を開け、流し入れて、火をつけた>

・硫黄島指揮官、栗林忠道中将は、3月16日、大本営に訣別電報を送り、17日(大将に昇進)、全軍に対し、「・・・余は常に諸子の先頭にあり」と結んだ、総攻撃決行の最後の指令を出す-Wikipedia

しかし、当初から、栗林司令官の方針は、死ぬな、最後の一兵となるまで、戦え、であり(アメリカに留学し、アメリカ的な考え方も身につけていた中将の真意は、生き延びよ、ではなかったかと、私には思えるのですが)、‘玉砕’後も、既に述べたように、数千人が生き残り、凄惨なゲリラ戦へと突入して行く。

番組のナレーションで、栗林中将の大本営への訣別電報には、「徒手空拳で(如何ともし難い)」とあったのを、大本営は‘徒手空拳’という言葉を削除して、国民に発表したとありましたが、こういう場合、そのまま発表することは、平時の今、想像しても、あり得ないことに思えます。
栗林中将もその通り国民に発表することなど考えておられなかったのではないでしょうか。

(自分のブログで恐縮ですが、ナンバー〔14〕「硫黄島からの手紙」の最後に、栗林中将が最も伝えたいと思っておられたと考えられる下りを紹介していますので、ご参照ください)
こういう番組のナレーションは、誰の考え方に基づいているのでしょうか。

*元日本兵:壕から出ようとしても、死体の山である。それを弾除けにして、戦う。米軍の戦車が死体を轢く。死んでも、もう一度死ぬんだと思った。

*重傷を負った部下が、殺してくれと頼む。一緒に死のうと手榴弾を投げたら、彼は死んで、ぽっかりと穴が開いた。死んだ部下に助けられたようなものだ。

地下で、仲間同士の衝突も起きる。水をめぐって、殺し合いまで起きた>

・5月17日、最後の掃討の結果、日本兵63人が拘束されたが、全員、栄養失調で、意識混濁の状態。地下の惨状には、米兵も言葉を失った。

*米兵の言葉:戦争には勝者も敗者もない。(これより前の発言として)国を思う気持ちは同じだ>

日本側の証言者は、一様に、死んで行った仲間のことだけを考えて今日まで生きた、昨日、今日のことは忘れても、当時を忘れることはない、と号泣された方もいらっしゃいます。
私如きに、申し上げられる言葉はありませんが、生きて帰られ、祖国の繁栄を見届けられていることを一番喜んでおられるのは、その戦友の方達ではないでしょうか。

「硫黄島は見捨てられた」という発言もありましたが、同年の1月に、日本は、当時のフランス領インドシナのサイゴン港に碇泊していた多くの艦船の大半を、米軍の攻撃で失い、更に、レイテ沖海戦の壊滅的な敗北で、島嶼の日本軍を、例えそれが可能でも、撤退させる船舶を持ちませんでした。

一つ、Wikipediaから書きます。
2月21日、千葉県香取基地から、32機の神風特別攻撃隊第二御盾隊が出撃。八丈島基地で燃料を補給。硫黄島近海のアメリカ艦隊に突入し、護衛空母「ビスマーク・シー」撃沈。正規空母「サラトガ」大破炎上。その後も、陸軍「飛龍」他が、上陸部隊、艦船への夜間攻撃を数回実施。この様子は、硫黄島守備隊にも目撃されたとあります。

番組を見終わって、ただただ涙が流れました。
硫黄島には、尚、一万柱の遺骨が眠っていると言われます。
硫黄島だけではなく、戦闘のあった各地で、ここまで日本軍将兵を戦わせた、気概、精神は何に拠るのでしょうか。
一には、はからずも、上記、米軍元兵士の証言にある「国(と日本民族)を思う気持ち」からと思われます。また、この戦争が間違っていると少々でも感じとったら、できることではないと思います。
しかし、今回は、「硫黄島玉砕戦-生還者61年目の証言」の紹介のみに留めます。  《清水町ハナ》

この記事へのコメント

ひろ
2013年05月03日 01:57
極限状態の人間の醜さ、また人間の美しさ、日本兵に栄光あれ。
2013年05月03日 13:27
この時代、この状況に生き死んだ将兵の方々に、今日本と日本人が安らかに生きていることを見せてあげられればと思います。

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