思い出エッセイ〔19〕 「神戸-思い出の喪失」

 1995年1月17日、早朝、5時46分、阪神・淡路大震災の発生時刻です。発生当初は詳しい被害が全く分からず、NHKテレビでも強い地震が起きたという一報だけでしたが、暫くして、丁度神戸に帰省していたらしい、朝の番組を担当していた若い男性アナウンサーが簡単な実況報告をしました。おそらく六甲山か近くの山の中腹辺りの高さからと思われました。ここから見る限りは市内に異常は見られないという意味の報告をしたのです。

私は安心して、出勤の準備に戻り、テレビからも離れました。
出勤直前、もう一度テレビをつけたか、消そうとしたのか、覚えていません。目に飛び込んで来たのは、高速道路が大きく崩落している映像です。我が目を疑いました。

高速道路などというのは、素人には単純な構造に見えることからも、誰もが大地震に最も強いと思っていたのではないでしょうか。関東大震災以来、大都市に非常に大きな被害をもたらした地震というのは、発生していず、高速道路という東京オリンピック以後の産物については、一般には判断基準がなかったとも言えます。

傾いたビルの映像も続けて映し出されたように思いますが、はっきり記憶していません。とにかく大きな被害が出たらしいということだけを知って、仕事先に出かけ、事務の人に詳報を尋ねようとしたのですが、そんなに慌てて、どうしたんですかというようなことを言われ、大地震発生のニュースも知りませんでした。

その後の状況はご存知の通りです。
よく簡単に「第二の故郷」などと言いますが、そして私も第二の故郷はと聞かれれば、迷わず、神戸と答えて来ました。大震災までは。

東京の人間と言っても、東京を知り尽くしている人など非常に少ないと思います。それほど巨大であり、変貌を続ける都会であるからとも言えますが、毎日生活していて、出かける先は大体決まっており、足を伸ばしたとしてもタカが知れているのです。
タウン・ウォーキングと称して、あちこち(私の基準で)歩いてみたこともありますが、それも東京の極くごく一部の短い線上を通過したに過ぎません。

例えば渋谷がお気に入りの街として、路地の隅々まで知っているとしても、それは渋谷の地図が分かるということで、東京を知っているということとは繋がらないと思います。銀座が東京の中心という時代でもないでしょう。

しかし震災前、或いはもう少し昔、旧き佳き神戸について、中心街はと問われれば、殆どの人が、三ノ宮のセンター街から元町通りと答えたでしょう(三宮とノを入れない表記の方が正しいようですが)。既に出来上がっていたポートアイランド辺りも新都心と言えますが。

学生時代、その地域は自分の庭というのは、言い過ぎかも知れませんが、山と海の間の狭く細長い地域である神戸市は、繁華街も細く、長く、ちょっと歩けば、海に出てしまいます。センター街、元町通りはよく知っていたと言って、差し支えないと思います。
阪神・淡路大震災以後、漸く再建も急ピッチで進み、大震災も今後の備えや教訓が言われるようになった頃、私は神戸について、深い喪失感を抱くようになりました。

私が関西に住んでいた期間は、中学校の二年の終わりから大学卒業までの八年に過ぎません。その後も両親は十数年神戸に住みましたが、父の定年退職と共に神戸を引き揚げました。
私の学生時代は神戸に続く中都市に住んでいたのですが、神戸の大学に入ってからの四年間が、私にとって初めて自由を得た期間でもありました。別のブログで書きましたが、軍人だった父が、海外から復員してきて、まずは、神戸で財閥系の会社に勤めていた伯父が戦後興した貿易会社で第二の人生を始めたため、東京から関西に越すことになったのです。

当時は大変な住宅難で、奇跡的に五十数倍の県営住宅の抽選に当たったのですが、そのオンボロぶりは、建てた大工が五年もたないと言ったとか。私は大して気にもならなかったのですが、母は関西引越しを期に変わり始めたように思います。

大家族の末娘で、常に祖母や伯父・伯母達に囲まれて、その庇護の下、好き放題に近く生きてきた母にすると、住んだことのない関西、オンボロ住宅、軍人でも、渉外・情報将校として、軍縮会議の随員になるなど、華やかな面が多かった父が、一介のサラリーマンになる、まだ続いていた戦後の窮乏生活、と、生活、状況の激変に耐えられなかったのだと思います。気性の強い人でしたから、それが一層顕著になるという形で、私も子供ながらに苦労しました。

旧軍人は、戦後、生活に困り、父のように殆どブランクがなく、就職できたケースは少ないと思います。とりあえず、生活できるだけでも非常に運がよかったのですが。
ただ伯父からは、二三年経って、他の就職口を探すように言われ、それも母の不安材料になり、情緒不安定が増しました。
但し表面的なプライドだけは益々強くなり、外部の人には、気の強いお嬢さん育ち位にしか見られなかったようですが。
今から考えると、五十代前半の若さで癌で亡くなった伯父は、当時既に体調の不調が出ていたのかも知れません。

フランス語が堪能だった父は、神戸にある、フランス資本の会社の重役の家で、旧フランス領インドシナ時代の知り合いがメイドをしているからと、相談に行ってみると出かけました。
主人に伝えると言ってくれたそうですが、望み薄とも言われたとか。そこで、ただ一人の日本人重役に採用を希望する手紙を書いたところ、双方から同時に会うと言って来たのです。困って、双方に事情を話し、結局採用され、最初から好待遇を受けました。

メイドをしていたという人は、父が「おヨネ」などと呼び、あの婆さん、などとも言っていたので、すっかり本当にメイドが仕事の人と思い込んでいたのですが、父が亡くなってから、ハノイで大きなホテルを経営していた女主人と知りました。
あれ、父とどういう間柄だったのだろうともちょっと思いました。当地で父と親しかった方が、ほんとに女性関係など、コレッパカシもない、不思議な人だったと、逆に信じたくなる妙な言い方をされましたが。

父は、結構姿がよく、上官夫人にももてたのか、重宝がられたのか・・・バイオリンなどもいじっていて、本間中将夫人(ご主人の戦犯裁判で、夫は無実であると主張され、当時の新聞にも取り上げられた方です)から、「~さーん、バイオリンお弾きなさいよ」と満座で言われたという話しだけ聞いたことがありますが、根は固い人で、少なくとも復員してきてから、浮いた話しなど全くありませんでした。
ただ妙齢の(いくらなんでも私はこういう言葉を使う世代ではありませんが、ちょっと使ってみたくなりました)独身女性が父に好意を寄せているのが、私にも察知できたというケースはいくつかありましたが。

関西で私と過ごした八年間、父は、陋屋に住んでも、決して矜持を忘れず、持てる教養や知識を全て私に与える努力をしてくれました。父の思い出については、別のブログで書きたいと思っています。

父がフランス系の会社に移った頃から、食糧事情も日本経済も少しずつ上向きになって来ました。神戸の喫茶店で美味しいかき氷がメニューに出たそうだから、行ってみようと連れ出してくれたことがあります。

「高砂や」という喫茶店で、今でもその時の感激は忘れられません。かき氷に抹茶がかかっていて、上に(下だったかしら)アイスクリーム、食べ進むと餡、更にギュウヒ、白玉、他にも入っていたように思いますが、流石に忘れました。当時では考えられない贅沢さでした。京都の「都路里」のかき氷の原型という感じでしょうか。

神戸の大学に入ってからは、往復に時間もかかるし、朝出て、夕方帰宅する、一日仕事なので、さすがに母も細かく私に干渉することもできなくなりました。
家から離れているので、それなりのお小遣いもくれるようになりましたが、私も家庭教師のバイトをしたりして、観たい映画をみにいったり、友人と喫茶店でお茶を飲んだり、時々は元町の南京街に繰り出して、評判の中華饅頭を食べたり、ピロシキにボルシチという簡単なセットながら、お気に入りのロシア料理店に食事に行ったりと、結構好きなことができました。

一人でも映画を観にいきました。講義をサボって、当時の朝日会館とか、阪急会館で映画を観るのです。それまでの私では考えられないことでした。
三宮のセンター街から元町通りを歩いて、古書店とかを覗いたり、足に任せて、神戸駅まで歩いたりもしました。

高校では、大人と一緒でないと、喫茶店に入ることが禁止されていましたが、大学に入ってからは、友人と喫茶店でダベル(これも過去の言葉となりましたが)のは、日常茶飯事。などと、いくら書いても、現代の学生には、それでどうしたと呆れられるでしょうけど、友人数人で二泊三日位の旅行を計画した時、全員が親に大反対された時代です。女の子が泊りがけで旅行に行くなんて、とんでもないというわけです。上に書いたような何でもないことが、私にとっては、精神の自由を得ることに繋がって行ったのです。
大学は六甲の高台にあり、当時の国鉄「六甲道」駅から、かなりな時間をかけて、坂道を登ります。校庭から神戸の街を眼下に見下ろせ、神戸を手中に治めたような気分になったものです。

私は大学を出てすぐ結婚したのですが、それから間もなく、両親は三ノ宮駅前のビルの上階のマンションのはしりに引っ越しました。私にはひと言も相談がなく、オンボロ住宅とはいえ、近い中の払い下げがほぼ確定と聞いていましたし、土地は住宅の前後に結構あり、まともな家の新築には充分でした。とりあえず払い下げを待って、それから引っ越したらよかったのにと思いました。

晩年の父に聞いたことですが、東京に本校がある大学の関西分校に妹を入学させ、その短大だけで修了のつもりが、東京にどうしても行きたいと妹が言い、進学させたところ、名だたるお嬢さん大学で、こんなボロ屋に住むのはいやだ、恥ずかしくて友達にも言えない、と言い続けられ、ある時、家の中には入らないと外で何時間も座り込みのストライキをしたそうです。根負けして、引っ越したというのです。私には露ほども考えられない行為で、何でもはい、はいと言うことを聞き、我慢してきた私は、母からすると、それが当たり前、ちょっとでも不服の表情を見せるだけでも母は、厳しい態度をとりました。妹の我が侭にも怒るものの、実は慣れてしまっていたのです。

三ノ宮駅前の角にそごうデパートがあり、南へ下れば、市役所、そして海ですが、駅前の大通りの歩道をそごうから東に50メートルも行かない所に、一階にショールームがある、私達は「関電ビル」と呼んでいたビルの上階がアパートになっていたのです。七階か八階か、はっきり記憶していないのですが、南側の窓から臨む海側は、かなり下に見え、七、八階からの眺めではなかったように思います。下の階はオフィスなので、天井が高かったからということもあったかも知れませんが。

一つ大きなプラスは母が息を吹き返したことです。神戸の中心に移り住み、食事も度々近場の有名レストランに行き、それまでと違って、旅行にもよく出かけ、文字通り飛んだ毎日を送っていました。もともと都会育ちの母には何よりの良薬だったかも知れません。
父は、友人・知人が多い人で、三宮の駅前の住まいともなると、訪ねて来る人も多かったようです。

幼年学校や士官学校に在籍して、途中退学し、他の分野で一家を為した方もおられ、変り種といっては失礼ですが、宝塚のダンスの振り付けをされていた方とも親しくしていました。江川さんか、江口さんといわれたと思いますが。旧い話しでは、父は幼年学校卒業直前、肋膜にかかり、一年療養したのですが、警察官僚で、それほど余裕がなかったと思われる祖父がポンと須磨に療養のための別荘を借りてくれたとか、そこへ東京からわざわざ詩人の三好達治氏が見舞いに見えたということです。氏は、幼年学校中退と父から聞いたと記憶しています。

当時は核家族という言葉が使われ出した頃で、母は、自分達も娘に頼らないから、娘や孫の世話もしないと宣言し、事実その通りに実行しました。十年ほどのことでしたが。
そのビルは震災より前に取り壊されたようですが、はっきりしたことは分かっていません。

両親が神戸を引き揚げる時、私は、うちで引き続きその部屋を借りたいと申し出ましたが、父は少し考えて、神戸を引き揚げるということを決めたのだから、きれいに引き揚げたいと言いました。お金があったら、ポートアイランドのマンションの小さい部屋を別荘として持ちたいというのがうちの夢でしたが。

両親の死後(母は震災の二週間前に亡くなりました)、神戸出身の友人がある時、その辺りに「関電ビル」というのは存在しなかったと、言いました。誰か神戸に詳しい人から聞いて来たらしく、彼女は軽い気持ちで言ったのでしょうけど、私にとっては、ルーツの一つを否定されるようなことです。

その後彼女も気になったのか、再び確かめたらしく、やはり該当の場所に「関電ビル」はなかったことは確かと告げました。彼女のニュアンスには、「関電ビル」というより、ビルそのもの、上階がマンションになっているビルが存在しなかったという含みがあるように思われましたが、そのビルの存在については私達だけでなく、親戚や多くの人が訪れているのですから、間違いのないことです。

当時の住所は葺合区(現中央区)小野柄(通り)、何丁目か忘れました。新聞会館の向かい側です。
最近になって、その言葉が気になり出しました。自分史をまとめようと思い出したことも関係があると思います。それと、神戸に、関西電力が高いタワーを建て、それが関電ビルと呼ばれているらしいことを知ったからです。関電のホームページの「お客様係」に聞いてみました。震災前の建造物については、詳しいことは分からないが、該当の場所に当社のビルはなかったと思う、但し、向かいの新聞会館には関電のショールームがあった、また何か分かれば、知らせるという返事でした。
「関電ビル」というのは通称で、本来のビルの名称が違うのではないかとも考えてみました。ビルの隅にあるエレベーターで上がり、ビルそのものには殆ど関心がありませんでしたが、今思い返してみると、新しいビルではなかったように思います。

震災後一度神戸に行ってみましたが、保険会社の大きなビルが建っている辺りではと思いました。両親がその部屋を出たのは1971年だと思います。お隣は県立か市立の病院に勤務している若い医師夫妻でした。震災の25年近く前ですから、或いはかなり早い時期に取り壊されている可能性もあります。

今現に存在しないものを、ビルの名前を知ったからと言って、どうなるものでもないとも思います。第一あの震災で、現役のビルも民家も多く喪われてしまったのですから、郷愁だけで喪失を嘆く贅沢は許されないはずです。自分の青春は神戸にあったと思っている人間が、その思い出に纏わる地をことごとく震災で破壊されているのに、何故旧いビルの存在に拘るのか・・・

三宮センター街も元町通りも、そごうデパートも大丸デパートも大きな被害を受け、そして母校の大学は震災より前に西に移転していて、殆ど損害がなかったのは不幸中の幸いでしたが、私が通っていた六甲道から当時の大学までの道筋は、殊更大きな被害を受けたようです。

一番大きな被害を受けた長田区には、父が勤めていた会社がありました。同区のN中学校は、私が教育実習をした学校です。実習が終わってから、担当したクラスの生徒全員が手紙をくれました。彼や彼女の顔を今でも十人以上思い出せます。また同校の先生方の熱心なご指導も、最終的に言語教育の仕事を選んだ私には、貴重なアドバイスとなりました。燃え盛る炎の映像に、いたたまれない気持ちでした。
実際に被害に遭われた方は、思い出の地がどうしたとおっしゃりたいでしょう。疎開地で空襲に遭い、その後空襲より厳しい体験をして、被害を受けた方の気持ちも理解できるつもりです。

神戸の思い出とか、神戸は第二の故郷などと言ったり、書いたりすることも止めました。しかしそう意識したことによって、却って、私のかけがえのない青春期、自由を得たのは、神戸或いは神戸時代だったとはっきり認識したのです。両親が住んでいたビルの存在に拘るのは、両親、特に父が戦後最も活き活きと生活できた時期と重なり、唯一形があるもの、糸を手繰り寄せられるきっかけと感じているからではと思います。

一方で、ポートアイランドについて、「歴史」という項目を調べてみたら、震災に全く触れていないことに驚きました。過去は過去として、再生のみ見つめるという立場もあるということでしょう。私も、自身の思い出は、震災と関係なく、はっきり見える形で捉えるべきという思いもあります。寧ろ、記憶のありったけを動員して、現実に喪われたものの元の姿の復原につとめるべきではとも考えてみているのですが。

神戸についても、阪神・淡路大震災についても、私の考えや事実の記録としても、まとまらないものになってしまいました。まだ私自身が、私の考え方が、揺れているためだと思います。まとまるまでのプロセスと自分に言い訳をしています。両親との思い出、自身の青春の思い出と直接繋がっている地が震災によって殊更大きな被害を受けた、しかし自身はその場に不在だった、或いは既に思い出の地となっていた、大きな声では主張できない、そうした要素がまだ自分で整理できていないということです。 《清水町ハナ》


(注:阪神・淡路大震災の際の大丸デパート神戸店の被害について、私は中程度以下と誤認識していました。念のため、大丸デパートに問い合わせたところ、「建物の三分の二が倒壊の大被害」とすぐ返事を頂きました)

(注2:上記文中、詩人三好達治氏を「幼年学校中退」と書きましたが、Wikipe dia 他の資料によると、士官学校中退が正しいようです。訂正します)

この記事へのコメント

haru
2008年04月25日 13:23
はじめまして。
関電ビルで検索してこちらのページにたどりつきました。
小野柄通の関電ビルですが、震災後もしばらく
ありましたよ。
中庭があって、上の方が住居部分で、
レトロな感じのビルでした。(私は好きでした)

(現在、私は30歳なのですが、中学の頃に通っていた
個人塾が関電ビルの中にありました。現在も近辺に住んでます。)

現在は、ラウンドワン(ボウリング場)になってしまいました。

この付近は震災の影響でビルが危険な状態だったので
建てかわった建物が多いです。
2008年04月25日 15:08
Haru様 懐かしいコメントをありがとうございました。「関電ビル」について、雰囲気的に両親が住んでいたビルのように思うのですが、(中庭があったことは知りませんでした)上記に書きましたように、「関電」に聞いてみた結果が、「新聞会館」側、というか、中という返事だったのと、私自身震災後行って見て、「そごう」側には元の場所に新しい大きなビルしかなかったので、震災前に壊されたという情報を信じていたのですが。もう一度再訪したいと思います。「そごう」側、つまり、大通りを東に向いて、右側になります。
haru
2008年04月25日 15:58
以前、関西電力の社員の方に聞いたところ、
「昔あった関電ビルと関西電力は全く関係ないねん」
と言われたことがあります。

国道2号線の南側、そごうより東の場所に
関電ビルありました。小野柄通6丁目あたりです。

是非、また一度おこしください!
2008年04月25日 16:44
Haru様 決定的な証言をありがとうございました。聞くべき両親は既に亡く、頼りの関電に否定され、更には、「あの辺のことなら何でも知っている」‘蟻の巣まで’(とまでは言わなかったのですが)という「あの辺通」からもそんなビルはないと言われ、万事休すと思っていました。ビルの向かって左を入ると、小さなエレベーターがありました。葺合区という味のある名前も中央区になってしまいましたね。再訪した時は、ここにあったのだという自信が持てるようになりました。

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