思い出エッセイ〔16〕 「自分が最も輝いていた頃とは」   

                                               
 台所仕事をしている時、満州、とか引き揚げという言葉がテレビから聞こえてきて、居間に行ってみると、満州引き揚げ体験を数人の著名な、文化人と呼ばれる人が語るという番組を家族がみていました。手を放せなかったので、音を大きくして、チラチラ見ながら、やりかけの仕事を続けたのですが、聴衆は、年恰好と言い、真剣に聞き入る様子と言い、おそらく引き揚げ体験者が多かったのではと思われます。

それぞれがひと通り体験を語り、多少の座談という形で番組は終わり、中途半端の印象は拭えませんでした。おそらくその後に、放送分の他に会場との話し合いというか、シンポジウムのような形式の続きがあるのだろうと、家族とも話したのですが、引き揚げ体験を語るのに、高い壇上の著名人の経験談と個人個人が異なる厳しい経験を持つ聴衆と満足のいく話し合いを持つことが可能なのか、ちょっと疑問に思いました。

私がその番組の中で、強い印象を得たのは、一人の高名なジャーナリストが、自分の人生が最も輝いていたのは、その時、兄と二人で、家族の生活を支えた時期、そういうような意味のことを言って、少し間を置き、その後の人生は、どうということもないですね、という意味のことを、斜に構えて(姿勢も。聴衆の方を見ないで)、何気ない調子でトーンも落として、しかし、おそらく彼自身に断言したことです。

私と同世代のそのジャーナリストが何をして家族を支えたのか、聞き漏らしたので、家族に聞くと、洋モク(外国製タバコのこと、念のため)を売り歩いて、十人位の大家族の家計を支えていたということです。戦争、満州、引き揚げ体験というテーマに対して、さり気なく提出したアンチテーゼとも言えます。

それを聞いて、私は、自分の心の深奥に潜んでいることが分かっていてもはっきり認識できない、まして言葉では言い表せない部分を言い当てられたような思いを抱きました。
自分の人生で一番厳しい体験をしたこと、辛い目に遭った時こそ、それを乗り切ったという事実だけで、実は人生の最も輝いていた時ということになるのかも知れません。戦争中と敗戦後という時期であることを考えると、非常に個人的な捉え方ということになると思いますが。

戦争中に小学生だった世代、その中でも疎開世代の多くは、精神的に大きく背伸びさせられ、とにかく身近では親を助けなければならない、国のためにも必死に頑張らなければならない、と決心し、あらゆる状況・場を、身の丈に遙かに余る努力というか、無理をして、クリアしてきたと言えます。

私の場合は、疎開先で空襲に遭い、その後やっと見つかった、身を寄せた先での体験が、最も厳しかったと思います。自作農、中農で、当時の農家としては比較的恵まれたお宅でした。しかし、一見結構大きい家でも、部屋は、出入り口はあっても、窓というものがない、大きな重い引き戸を閉めると、暗くなってしまい、畳はなく、筵敷きです。私達母子三人が貸してもらった部屋は裏庭への出口があったので、そこを明り取りにしていました。 

お手洗いは外の粗末な小屋で、紙を使わず、藁を使うのは最後まで慣れませんでした。土間の隅にも大きな甕があって、男性陣はそこで用を足します。女性も器用にひょいと中腰になって、小用をします。こればかりはいささか閉口で、私は何回か試みましたが、母は最後まで使いませんでした。

いつ頃までだったか、食事に加えてもらいました。囲炉裏を囲んでの食事は、ご飯とお味噌汁、漬物だけ。味噌汁の具はハンで押したように大豆を平たく潰したもの、それと煮沢庵も具になります。空襲前、既に市街地では食糧難になっていましたから、毎食白米のご飯が食べられるだけで充分でした。

私は自分が手伝えることは何でもしました。石臼を使って、大豆を一粒ずつ潰して、味噌汁の具を作る作業などは格好の手伝いでした。毎日の決まった作業を見ていると、自分がどれを手伝えるか、分かって来ます。

銀杏とか胡桃のシーズンがあり、少し離れたお隣の、私より何歳か上の女の子と一緒に林に収穫に行きました。クルミと聞くと、多くの方は茶色の固い形を思い出されるでしょう。胡桃狩りに行って初めて、クルミは緑色の果実で覆われていることを知りました。梅の実を少し大きくしたような感じです。

横道に話しが逸れますが、以前、賢いカラスと言って、クルミの実を道路に置いて車に割らせる映像をテレビで何度か見たことがありますが、外側の果実を誰が取ったのか、カラスがそれを食べてから、車に轢かせたとは考えにくく、クルミを人が与えるか、用意している、一種のヤラセと、これはこの時の経験から、推測したことです。

若い兄弟三人は応召で戦地にいて、長男夫婦と、高齢の両親、二十歳前後の二人の娘という家族構成で、下の娘は結核を病んでいて無理ができないので、働き手は足りず、農繁期は特にネコの手も借りたい忙しさです。

ある日夕食の用意をする時間になっても誰も帰って来ず、私は、やってもいいかどうか少し迷ったのですが、その家の高齢の母親がいつもやっているように、味噌汁用の大きな鉄鍋に水を入れて、囲炉裏にかけ、燃料の藁に火をつけました。鍋の底全体に火が廻るように見覚えた通りに束ねた藁の先をほぐし、根元の方に火が廻ったら、次の藁を入れて、お鍋の水が少し沸騰しかけた時、いきなり後ろから罵声を浴びました。

「このメロー」というような言われ方をしました。その家の母親が立っていました。勝手に火なんかつけて、この家を火事にする気かというようなことを繰り返し大声で言われました。それまで怒られたことは一度もありませんでした。私は思わず泣き出し、それでも母親は怒りが治まらない様子で、怒鳴りつけるので、声を挙げて泣きました。父親が帰って来て、悪い気でやったんじゃないからととりなし、漸く母親も鉾を収めましたが、今考えると、火を扱う年齢制限のようなものがあったのではとも思います。

振り返ってみると、私は子供の時も泣くということはあまり記憶にないほど、泣かない子だったと思います。親に叱られるということが少なかったとも言えます。妹は自分のしたいこと、言いたいことを我慢するということをしないで、通そうとする子で、それが叶わないと大声で泣き、それに対して母が叱って、また泣きということの繰り返しで、結局思い通りにし、その分、私は我慢するのが当たり前と思われてきたように感じます。

再び話しが横道になりますが、大声で泣き続けた記憶が一回あります。東京から疎開先に引っ越す時、何年も抱いて寝ていた白いテディ・ベアが見当たらないので、母に聞くと、信じられないことに、引越し作業をした運送屋にあげてしまったというのです。

軍人一族で、質素を旨とすると言っても、意外に華やかな面もあったものの、やはり生活ルールは厳しく、贅沢は戒められました。昔の財閥系の企業でいいポストに就いた伯父達などは、裕福と言っていい生活ぶりでしたが。一人、母の従姉で、大金持ちがいました。その美貌を望まれ、全国で一位か二位の資産家と結婚、しかし早くに夫に死に別れ、莫大な財産を相続した人で、私が子供の頃はまだ数軒の別荘を持っていて、鎌倉の別荘には時々遊びに行きました。
行きつけの美容院にも運転手つきの自家用車で出かけ、ちょっと香港に遊びに行ったりとか聞きました。戦後はご他聞に洩れず没落し、別荘も次々に売り、父の仕事の都合で学生時代、関西に移った時、その小母も関西に住んでいて、舞子の海岸にあった最後の別荘を売って、垂水に、それでもかなり大きな構えの家に住んでいました。

舞子の別荘は、海岸沿いを走る電車からよく見え、海岸というより海の中に聳える要塞のように高い大きな石垣を土台に、頑丈そうな高い塀で囲まれた家で、庭でいながらにして釣りが出来ると聞いていました。

私の相棒、縫いぐるみのクマは、その小母のヨーロッパ土産で、おそらく真正のテディ・ベアだと思います。
運送屋がいいクマだと褒めるとかしたのでしょう、母は私がどんなに大事にしているか知りながら、ポンと赤の他人にやってしまったのです。

この時ばかりは、今から運送屋に行って、返してもらって来てくれと、普段は考えられないセリフも言って、泣き続けました。さすがに母も困った顔で、口答えなどしたら、叱りつけるところを、あげてしまったものを返してなんて言えないでしょう、などと歯切れ悪く言っていましたが、結局泣き寝入りでした。

今でもあの時、それなら自分で取り返しに行く位言えばよかった、更には実行に移せばよかったと思うほど、口惜しさ、哀しさが忘れられません。因みにその運送屋は通っていた小学校の傍で、近くにはかかりつけの開業医院がありました。

すっかり違う話になってしまいました。元に戻します。何十年も前のことを書いているのに、気分が暗くなってきて、意図的に脱線しました。これも明るい話題ではありませんでしたが。
(それと自分の思い出を書いているこのブログは、書きたいテーマ・モチーフで、一つの文には仕立てられないエピソード・レベルのことを、ここなら入れられると思ったら、脱線と断ってでも入れてしまうことにしています)

夕食の準備の一件は、その日の中に母からも叱責されることを覚悟していました。ところが母は何も言わず、それから何日経っても何も言わないので、黙っていてくれたのかと思いかけた頃、家の人がいない時、外にいた私に母が、火をつかって怒られたそうねと後ろから声をかけてきました。黙って下を向いていると、「手伝おうと思ったんでしょう」と優しい調子で言い、そこで私は再び泣いてしまいました。泣き声を押し殺して。

一つは、どちらかと言えば、感情的に叱る母の、そのような言い方は初めて経験することだったという所為もあったと思います。間違ったことをしたと分かっていても、ああいうひどい罵声を浴びるのは初めてで、大きいマイナスを作ってしまったという思いも強く、更にはそのことを自分からは到底母に言えない、自分で抱え込んでいたところに思いがけず、母から優しく言われて、緊張が緩んでしまったとも言えます。

稲刈りが始まる農繁期になると、学校は休みになります。それまでも田んぼの雑草刈りとかちょっとした農作業を手伝っていたのですが、稲刈りのような一貫した農作業は初めてでした。私が手伝うことを申し出ると、未経験の上に体も小さいので、無理をしなくてもいいと言われ、寧ろ母に手伝って欲しいようでしたが、母は農作業を殆ど手伝ったことはなく、結局私が出ることになりました。母の手縫いの野良着?を着て、働きやすいように、また田んぼの泥が入らないようにするために、ズボンの膝の下と踝のところを藁できりりと縛り、いざ出陣です。

自作農ですから、田んぼも何箇所かにあり、作業量は結構ありました。実った稲を、下から一定のところで刈り、数本の稲で下の方をしっかり縛ります。少し溜まったところで、別の所に置いてある稲枷に掛けに行きます。

くれぐれも注意するように言われたことは、鎌がよく切れるので、全部切れる少し手前で止めるような感じで切ること、足の開き方に注意することでした。鎌で足をざっくり切ってしまう事故がよく起きるということでした。干した稲は脱穀機で脱穀します。この脱穀機は引き込まれると、指など飛んでしまうということで、最初は許可が出ませんでした。それでも一人が何かの作業をしないとそれだけ遅れが出るので、やらせて欲しいと申し出ました。
 後ろに身を引いて、稲の束をしっかり持ち、ペダルを足で踏みながら、稲束の先の方を万遍なく押し付けて脱穀します。万一引き込まれそうになったら、すぐ手を放すように言われました。一番の働き手の長男もお世辞でなく褒めてくれました。

火を使ったことで、一度は激しく怒ったおばあさんも全く私に文句を言わなくなり、「役に立つ子や」と言ってくれました。咄嗟に激しく怒ったものの、まさか火遊びとは思わなかったでしょう、藁のくべ方など合格点と後で気づいたのではと大分後になって、密かに思ってもみました。これは単なる後付の言い訳、自己満足に過ぎませんが。
お昼に白米のおむすびを好きなだけ食べられるのも魅力でした。

一つ思い出しましたが、稲刈りより前に、イナゴを取るのも手伝いの一つでした。たくさんとって、駆除と同時に佃煮など作るのです。長い木綿糸としっかりした長い針を用意し、とったイナゴを首の下辺りで針で刺して、糸に数珠つなぎにするのです。イナゴを取るのは平気でしたが、針を刺すのが勇気が要りましたが、一石二鳥の仕事をしているのだと思ったら、全く平気になりました。

今はどうか知りませんが、その村の田んぼは深く、普通でも膝の近くまで足が沈み、作業がしにくかったのですが、その他に非常に深い、子供の背が立たないというような底無し沼のような田んぼが離れた場所にありました。高台の窪地に当たるような所だったと記憶しており、田んぼの形も不定形でした。大人が足に大きなカンジキをつけて作業し、長男のお嫁さんが一人で作業をしていて、田んぼに近寄ることも厳しく禁止されました。

当時農繁期には小さい子供でも何らかの手伝いをし、小学校四・五年生ともなれば、一人前に農作業をこなし、私のしたことはごく当たり前のことです。それでも全く未経験のことにしては、結構一人前によく出来たと自画自賛しています。

今だったら、いい子ぶってとか、点数稼ぎ、と軽く言われるかもしれませんが、当時はそれどころではない、追い出されたら行くところもない、敗戦ともなり、東京の家や親戚もどうなったか分からない状況で、それこそ子供ながらに必死でした。

学校も田んぼや農地を所有しており、そこの作業もやらされました。こっちはそれこそいい思い出は何一つなく、まだ詳細を書く気にはなっていません。

これが、私の人生で最も輝いていた時期と言えるかどうか、迷うところです。一人で、未経験の、自分にとって困難な仕事をクリアしたという点で、その後それに比較できることはしていないとは言えます。ただ、最近というか、近年というか、好んで農業を職とする人も多く、また田植え経験などと言って、イベントとして、手軽に農作業体験をするなどというご時勢で、当時の農家の劣悪な環境、厳しい作業、働いても働いても楽にならないという状況での農作業の思い出というか、記憶というのは、過去の遺物になってしまった観もあります。

私の親しい友人で、満州の引揚者で、ソ連兵が入って来た後の最悪の体験をした人がいます。お父さんはシベリア送りとなり、お母さんと引き揚げてきて、中学生の頃の一時期、占領軍の将校の家庭で、二人で住み込みのメイドをしたとか、大きな絨緞を外に出して、ブラシでクリーニングするのが一番辛かったなどと聞きました。
彼女にこのテーマを聞けばおそらくその時期を挙げると思います。私と違って、その後の人生でも、自分の力で多くを勝ち取り、真のセレブとなりました。それでも自分にはあの時の体験があるから、どういう状況になってもくじけない自信があるという言葉を聞いたこともあります。因みに、阪神大震災の時、大阪に住みながら、地震を夢の中の出来事と思っていたというツワモノです。

こういう文を書いていると、すぐ思い浮かぶ一枚の写真があります。何年か前、週刊誌に載っていて、記憶されている方も多いと思いますが、十歳前後の少年の写真です。
粗末な服装で、おぶい紐で赤ちゃんを背負い、指の先までピシッと伸ばして気を付けの姿勢をとり、表情は緊張に満ちています。赤ちゃんは首を後ろに傾けて、寝入っていると思うのですが、短い解説を読んで、愕然とします。
弟(妹)の火葬の順番を待つ少年とあるのです。この少年は親も亡くしたのか、どれほどこの赤ちゃんを守ることに頑張ったか、でもその最愛の弟(妹)も亡くなり、彼が必死に頑張った全ての体験は、輝いているなどとはとんでもない、苦渋に満ちた経験としか捉えていないでしょう。

最後に明るい映像を。おそらく占領軍が8ミリで撮ったのではと思いますが、敗戦直後の焼け野原の東京で、バラックの外で、親子三人か、四人だったか、ミカン箱のようなもの(ミカンなどありませんでしたが)を食卓にして、これから食事という場面で、きちんと正座をして、おそらく「いただきます」と言っているのでしょう、軽く頭を下げて、しゃんとした姿勢で食事を始める場面の映像です。
どれほどの苦境に陥っても、前向きに生きる日本人の、確かな輝きのある民族性を信じたいものです。  《清水町ハナ》

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