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zoom RSS 思い出エッセイ〔501〕【日記:6月のある日(2015)】

<<   作成日時 : 2015/06/13 08:41  

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 丁度キリもよく501番目となりましたが、今後のブログの殆どをこの「日記」のタイトル、スタイルで書いて行くつもりです(書ければ、の話ですが)。テーマをしぼって書くのではなく、日々のこと、思いついたことを、言わば書き流しスタイルで書いて行きたいと思っています(そうと決めているわけではありませんが)。


前回から日が空いてしまいましたが、‘高齢者’をテーマの一つにして書いている中に、ちょっと寝込んだりしたこと、一番の趣味、映画をみに行くことが少々難しくなってしまったことも、一つの原因と言うか理由です。
ゆっくり、ながら、確実に年齢相応の状態が進んでいるように思えます。身体も頭も。

それはともかく、「日記」の最初は、やわらかいテーマ、内容で、と思っていたのですが、所謂「高齢者問題」の中で、全国の多くの高齢者の方達には、それほど問題となることではなかったかも知れないけど、私はショックを受けた、そのことについて書く、それを新たな「日記」の始まりとしたいと思います。
(続きは次回、ということになるかと思いますが)

私が衝撃を受けたのは、ある日の朝刊の一面トップのタイトル、【高齢者の地方移住を】(「朝日新聞」2015/6/5)です。東京圏の対象者を殊更に取り上げています。
購読しているもう一紙は、同じくトップながら、「介護難民」と言う言葉を使い、団塊の世代すべてが後期高齢者となる2025年問題と言う扱いで、こちらは全体的な捉え方で、私も素直に今から考えなければならない問題と受け止めることができました。
いずれも民間機関、「日本創成会議」の提言に拠っています。

二面にも更に具体的な記事があるのですが、今回は、私の個人的な思いをまず書きたいと思っているので、高齢者は東京を出て行け、と言わんばかりの、当該新聞社の同感度、主張が色濃く出ていることがはっきりしている記事に、まず個人的、感情的な思いと言われるかも知れないことを(事実その通りなのですが)、書いてみたいと思います。

一回で書ききれることではないので、今後も取り上げて行くつもりです。

三カ月もブログをストップさせてしまったのは、最初にちょっと書いたように、めずらしく病気で寝込んだり、確実に年をとって行くと感じさせられる、老化現象などに甘えると言うか、かまけた日々を送って、知的?行動の方に頭が向かない、他色々思い当たることはあるのですが、「高齢者は東京を出て行け」と言われて、ガンと頭を打たれ、とりあえずこれはひと言書かなければ、と言う思いが湧いたわけです。

三カ月前に書き始めようと思っていたことは、誕生日が来て、文字通りの高齢世代となり、その時、つまり生の終わりが近づいている、いつ死んでもおかしくない世代となって、一番心に残ること懐かしいことは何だろうと思ってみて、子供時代、非常に多くの親戚と親しく過ごした日々、と言う結論になりました。

一度書いたことがありますが、私の母は十人兄弟、母方の祖母は赤坂の生まれで、十四人兄妹、その一人一人が, 子だくさん(今では殆ど聞かれない言葉ですが)の人が多く、子どもの頃は、その親戚が代わる代わる訪ねて来て、ほぼ全員が集まる機会もありました。
私の子どもの頃は、父が外地勤務が多く、その間、祖父母の家で暮らしたので、そもそも家族が多いところにお客がいない日はないという毎日でした。

祖父母の家は、荻窪の清水町にありました。
陸軍の将官だった祖父が退官後、一族郎党を引き連れて、のんびり暮らそうと、千葉に大きな家を建てたそうですが、そこで何年も暮らさない中に関東大震災で家は崩壊、すぐに家を建て直したものの、もともと東京出身の祖母が、やはり東京がいいと、清水町の建売りの家を買ったと聞いています。

「清水町」と言うのが、祖父母の家の代名詞、時としてそこに住む人も指すようになり、当時の身内・親戚には、清水町から歩いて行ける所に住んでいた者が何軒かあり、とにかく殆どの親戚が杉並区に住んでいました(現在荻窪の清水町は場所が移ったと聞いています)。

多くの身内、親戚に囲まれて育った、東京の子ども時代が、私にとっての、よき東京の象徴的な時期であり、小学校一年の時に太平洋戦争が始まったのですが(1941)、敗色が濃くなり、学童の疎開が始まる頃までは(1944)、内地の子供たちにとっては、比較的穏やかな毎日が続いていました。

北陸に縁故疎開をし、その地で敗戦⒛余日前に空襲に遭いました。
小さな街は120余機のB29による猛爆で全て燃え失せ、数日経っても焼け跡に入ると、ブスブスと音をたてて燻り、火事で絶対燃えないはずの大きな頑丈な蔵も、形を残したものは何一つなく、親戚が黒ずんだ刀身を一本見つけただけのようです。
お米の買い出しに行っていた農家に置いてもらって、翌月敗戦、もしかしてこのままここでの生活がずっと続くのだろうかと子どもながらに絶望的な思いを時折感じていた時に、母が、身内や親戚、東京自体がどうなっているか分からない、敗戦の年の晩秋、とにかく東京へ帰る決心をして、私は再び東京へ戻ることができたのです。

昭和⒛年(1945)、文字通り日本が負けたその年に混乱を極める東京での生活を再び始めたのです。疎開地に赴くまでの東京生活とは、天と地ほども違う、敗戦国、敗戦国民としての生活です。当時を経験した者でなければ決して分からない東京生活です。曲りなりにもそれをクリアしたことが、殆どの人が知らない東京のある時期の姿を知っていると言う、ある種の自信を伴う特別な思い、思い出となっているとも言えます。

テーマについてのはっきりした意見や考えを殆ど書いていませんが、私の頭の中には「国家規模の姥捨て提言」と言う言葉もチラついています。もう一つ、今の世の中、姥は高齢者を指すとは限らない、と言う思いも見え隠れしています。
高齢者の死の自由も考えてもらいたい(死に方、死に場所の自由、と言う具体的な表現では却ってインパクトに欠けるように思いますが)。

しかしそうした私としてのビッグワードを正面に出して行くのではなく、どちらかと言えば、これからも自身の体験や思いを書くことによって、私の東京観、東京に対する思いを機会を見て書き続ける、高齢者は東京を出て行け、などという方針、主張は、個人を無視している、東京に住むか住まないかは、まず個人の自由である、と言う、ごく当たり前の常識を個人として主張して行きたいと考えています。(みほこ、または、清水町ハナ)


【ニックネームについて】「清水町ハナ」と言うニックネームをつかって来ましたが、実は、今になっても自分が馴染んでいるとは言えず、本名のひらがな書きに変えたいと思い出していました。と言って、長く使っていたネームであり、迷っています。今回は名前のひらがな書きと併用してみましたが・・・

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