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zoom RSS 思い出エッセイ〔496〕「子供時代:思い出したこと」

<<   作成日時 : 2014/12/08 09:09   >>

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 少し前に、子供の頃のことを思い出せるだけ思い出して書き出したいと言う意味のことを書いたのですが、以後何も書かないまま日が過ぎて行っています。昔の記憶は、思い出そうと思って思い出せるものではなく、キッカケがあって思い出すからかも知れません。

最近、いとこ夫妻と会って、長時間、昔話に花を咲かせ(何とも平凡な表現ですが)、忘れていたことを思い出し、私は知らなかった、思いがけないことも聞きました。

子供時代、幼稚園の卒園が近い頃、荻窪の清水町から馬橋(現在の高円寺南)に越したこと、そこで過ごした数年については何度か書きました。
軍人の父が、所謂日華事変から帰国して、陸軍省勤務となり、母方の祖父母の家から、馬橋の、伯母の留守宅に引っ越したのです。

留守宅と言って、旧制高等学校に通う従兄がいて、彼のお世話をするということが条件と言うか名目だったと思うのですが、ねえやと呼ばれていた女中もいて、当時から母は自分の思い通りに振る舞う人で、詳しい事情など知らない私は、自分の家に従兄が一緒に住んでいて、ねえやもウチが雇っていると思い込んでいました。

隣家のÝ家は、伯母が母の一番上の姉で、伯父と共に多くの親戚の頂点にいた感じの家で、ずっと年上の従兄姉が三人、それと私より二歳上の従兄がいて、いずれにしても、全員が年上で、一番歳が近い従兄以外、最初から敬語で話しかけるような、言わば目上の親戚と言う感じでした。

私より十歳以上年上の従姉とは、長年年賀状だけのお付き合いだったのが、何がきっかけだったか、電話で昔話を話すようになり、適当に日を置いて、電話をかけると、弾んだ声で返事が返って来て、当時のことを飽くことなく話し合いました。

馬橋時代と自分で勝手に呼んでいるのですが、子供時代でも、或は私の人生の中でも、一番いい時代だったかも知れません。
馬橋の家に越してから、戦争が始まり、その中に戦況が悪くなって来て、その家から北陸に疎開するまでの数年が、子供時代だけでなく、敗戦による苦しい時代が長く続いたことを考えると、その時代以上にいい時代は二度と訪れなかったとも言えます。

前置きが長くなってしまいましたが、隣家の二歳上の従兄は、師範の付属に通っていて、友達も異なるし、当時二歳上の男の子と一緒に遊ぶということはなく、親しいようで、一緒に行動したり、話し合ったりすることもないという感じでした。

成人して、家庭を持ってから、偶然家が近くなって、夫妻と親しく付き合うようになったのですが、お互い仕事も持って忙しく、偶にしか会うことがありませんでした。

最近会う機会があり、最初のところに話を繋げれば、昔話に花が咲いた、今迄聞いたことがない話題も出たということなのですが、従兄が突然、「X君、覚えているでしょう」と言いました。
「覚えているわよ」
よくある名前で、どのX君か分からないことも考えられるのに、小学生時代、何度も会ったことのないX君が咄嗟に思い浮かんだのは、どういう理由でか、記憶に刻み付けられていたのかも知れません。


馬橋時代の、最初の遊び友達は、同じ並びの家のF子ちゃんとM君でしたが、X君は、M君の友達で、たまにどこからか来て、遊びに加わった、それも数回でした。
それでも彼のことを名前は憶えていたのは、近所の友達の友達だったからか、それとも一度道で出会って、ちょっと話したことがあるからか、男子組のクラスの級長だったからか、いずれにしても、私は、昨日のことは忘れても、子供時代のことは、不思議な程よく覚えています、だから記憶しているだけだと思うのに、何故従兄がX君のことを知っているのだろう・・・

私の遊び友達とは話したこともないはずの従兄が、しかもX君は近くに住んでいたわけではないし、と思っていると、彼は、X君がどこに住んで、どういう家の子であるかを話し、私がどうしているか聞かれたから、近況を詳しく話したことがあると言います。

「亡くなったこと知ってる?」
従兄は、一瞬言いよどむような調子で言いました。

「いえ、全然知らない。子供の頃から一度も会ってないし」

X君は登山で遭難死したと、思いがけないことを聞かされました。
子供の頃の友達は、会うことがなくても、それより前に名前も忘れかけて、ギリギリ記憶している状態でも、元気にしているだろうと漠然と信じ込んでいるものです。

亡くなったと聞いたからということではないと思うのですが、突然、全く忘れていた、ある苦い思い出が頭に浮かび、そう言えば]君も同じ目に遭ったと思い出しました。

自分で言うのもヘンですが、子供の頃、特に母の躾は非常に厳しく、全て母の言う通り、ハイ、ハイ、と聞き、言い返すことなど思いも寄らず、まして学校の先生の言われることは絶対でした。

言わば、お行儀のいい生徒だったわけです。普段、先生に例えばよそ見したとか、オシャベリしたとか注意されたことは一度もありませんでした。

以前、関西に越してから、満座で教頭から怒られたことがあることを書きましたが、小学校での事件を忘れていました。
校庭での朝礼の時、いつも進行を務める、Kという教師が、突然、檀上から、私の名前を呼んで、走って来て、私の前に立ち、私がワケも分からず気をつけの姿勢を取ると、「気をつけ、じゃない、休めだ」と怒鳴ったのです。

その教師に教わったことはないのに、何故私の名前を知っていたのか、これは後から思ったことですが、当時PTAのようなものはなかったけど、母は結構学校に顔を出す方でしたから、何か目障りと思われたのかどうか、それにしても私が何故あんな目に遭ったのか今でも分かりません。

しかし、その後どの位経ってだったか、X君も、同じようにK教師に怒鳴られ、Kは、同じくX君の所に走って来て、彼に対しては、何かわめきながら、気をつけの姿勢をとっている腕の辺りを何度も叩いたのです。X君は泣いているように見えました。

朝礼は、当時、天皇の御真影(そう呼ばれていました)を奉安殿に収める儀式などから始める厳粛な雰囲気で執り行われるものでした。

K教師が話し始める時は、一般の注意事項などを話した、つまりガチガチの緊張の時間は終わっていたのですが、どういうことをしたら、檀上から生徒の個人名を呼んで怒るのか、その時も今も思いつきません。隣りの子としゃべるなど思いも寄らず、姿勢一つ乱さず、全員が静まり返って威儀を正しているのですから。
もしかしたら、Kはその異様な静寂を一度破ってみたいと思っていたのかも知れません。

今でもK教師の容貌、頭を大仰にそらして長髪を上げる仕草や、白い線の入った黒の背広姿を覚えています。

まあ、自分の都合や趣味で生徒を怒るような教師は、いいところを見せようとか、この辺で全体にカツを入れようとか、あいつを一度あの雰囲気の朝礼で恥をかかせてやろうとか、何を思ってか分かりませんが、生徒に不当な罰を与える、しかも無実の罪?をなすりつけようとすれば、少なくとも、その犠牲になった生徒からは、一生、我が師とは認められなくなることを考えた方がいいと思います。

小学生(当時は国民学校生ですが)の時は小柄で、クラスで前から三番目をキープしていた私が、高校生になってから背が伸びて、中学の先生から、倍位になったと驚かれたのですが、X君も背が高くなったのかどうか、遊んだ時は、ビー玉を弾いてぶつけるゲームをしたり、男の子がメンコで遊ぶのを眺めていたりで、彼の背丈については。はっきりは覚えてはいないのですが、当時は決して高い方ではなかったという記憶があります。
目立って姿勢がいい少年だったということを思い出しました。
しかし成長した姿を思い浮かべることはできませんでした。

どっちにしても、子供時代の遠い思い出しかない私は(と言って、はっきり記憶しているということは印象に残っているからこそとも思うのですが)思い出話を語る立場にないと思います、ただ元気にしているのだろうと思い込んでいたのに、亡くなっていた、ショックでした。
それも雪崩に巻き込まれたのだそうです。

しかし、従兄は、X君に聞かれて私の近況を詳しく話したということから話し始めました。
私は知らなかったけど、従兄は、どういうキッカケでか、ある時期から、]君と親しくなったか、少なくともよく知っている、彼の家のことも彼自身のことも知っていたのですから、彼の死はショックでもあり忘れられない記憶なのでしょう。

私は知る由もない、だから一見唐突に彼は]君のことを話題にした、私にはそううつったのだと思います。
数十年も前のことかも知れません。
私達は、数十年前のことを、昨日のことのように話していたのですし。

検索してみると、該当するかも知れない山岳事故がいくつかあります。
それ以上読み進めませんでした。遅過ぎることですが、ただ]君の冥福を祈りました。  《清水町ハナ》

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