思い出エッセイ

アクセスカウンタ

zoom RSS 思い出エッセイ〔488〕「ペットたちT」

<<   作成日時 : 2014/08/01 16:39   >>

トラックバック 0 / コメント 0

 今まで、自分のことを書く時、印象に残っていることを、時期を切り取って書いて来ました。最近になって、私が生きて来たこれまでを、思い出せる限り思い出したい、と言うか、最初の記憶と言っていい辺りから、思い出すことを書き留めると言う感じで書いて置きたいと言う気持が湧いてきました。

文を書く、まとめる、と言うより、思い出した事実をメモるという感じです。
思い出しやすく、身近にいて、愛情を持っていた、具体的な対象、ペット達のことから書いてみたいと思います。今までに書いたことと重なる部分が出るかも知れません。

こんな風に思ったきっかけは、例えば、犬、タロについて書き始め、それで終わっていることに今更ながら気づいたことです。タロの死によって、犬をもう飼うことはしないと決めたと言う理由もありますが、それまで飼った、関わった犬達のことを何故書いていないのか、その理由はともかく、とりあえず記憶にある最初の犬のことから書いてみたいと思います(プラス猫のことも少々)。

最初の犬は、マメという名の、テリアです。ずっとテリヤと呼んで来たのですが、テリアが正しいようなのでそう表記することにします。
幼稚園時代後半から戦争のため地方疎開する小学校四年まで住んだ高円寺・馬橋の家です。

調べてみると、マンチェスター・テリアと言うのがマメそのものです。
病気になると動物病院に入院させたりしましたから(当時犬を飼っている家は結構多かったと思うのですが、雑種が殆どだったと思います。犬を買い求めるということは、殆ど聞いたことがなく、知人からもらったり、おとなしそうな野良犬を飼い犬にしたりするということが一般的に行われていたと思います。病気になったからと言って入院と言うのは稀なことでした。動物病院も医院も見かけたことはありませんでした)、マメは、今で言えば血統書付のちゃんとした?犬だったのでしょう。
仔犬ではなく、しかしごく若い犬ということは、今思い出しても確かと言えると思います。生後六か月位か、いずれにしても、一年以内だったと思います。

当時は犬を家の中で飼うと言うことは殆ど見たことがなく、マメも縁側のすぐ傍にいて、私の姿を見ると、いつも千切れる程しっぽを振って、甘えて来る可愛い犬でした。
時々庭を走り回っていて、特に散歩に連れ出すこともしていませんでした。
何しろある日、マメがいて、買ったのかもらったのか、そういうことを気軽に聞くということもしない、そういう親子関係でしたね。

はっきり思い出せないのですが、数か月位経って、マメは具合悪そうに見え、次の日には横になって、荒い息をしていました。
動物病院に入院させることになり、病院の人がマメを連れて行ったと聞きました。
それから一週間、もっと早かったか、制服の人が来て、電報のようなものを母に渡しました。

マメが死んだわ、母はそう言いました。今思うと、あれは本当の電報だったのかも知れません。何か説明があったわけではなく、例えばお金を払うとかするわけでもなく、ただ紙片を受け取っただけでしたから。
母の前で泣くということはありませんでしたが、今に至るまで、マメがちぎれるほどしっぽを振る姿を忘れることはありません。

それから、夜、ムクムク肥った黒い仔犬の姿を見ただけで、次の日、学校から帰って、犬がどこにいるか聞くと、母は、あの犬、お座敷に糞をしたのよと、とんでもない目に遭ったという口調で、すぐに返したと当然のことのように言いました。顔も見ていませんでした。仔犬にお座敷も外も分かるはずはないし、夜、外に出すわけにもいかず、おそらく玄関か台所のたたきにでも置いたのでしょう。
仔犬でなくてもどこがトイレか分かるはずもないのに。箱でも置いて、一回でも教えていたら、覚えたでしょうけど。
その時までもそれ以後も、母は、犬や猫に、人間と同じ理解力を求めるような面があったと思います。

もう一匹来ました。白い長い毛の、ヨークシャーテリアのような犬で(当時は犬種については詳しく知られていませんでした)、母も結構可愛がっていて、ある日いなくなったと、ご近所にも聞いていましたが、かわいそうなことに、金網の仕切りに紐が引っかかって、ぶら下がって死んでいたと知らせてくださった方がいたそうです。
夜紐をつけたまま放していたことを知りました。

戦争も敗色が濃くなり、北陸に疎開して、そこで犬を飼っている家は見かけたことがありませんが(戦中、シェパードなど、軍用犬として徴用されることがありました)、ウチには猫が来ました。
猫と言うと、イコール野良猫のように考える人も多い頃で、母も猫を飼うのは初めてだったのではと思うのですが、二ヶ月か三カ月で、おなかをこわして、離れた所にある蔵の前の猫トイレ(と言う言葉は当時ありませんでしたが)まで何回も行くのは大変だったと思うのですが、よろけながらも、律儀に、途中の火災時用の重い扉の、深い溝になったレールを飛び越え、それに続く上り坂になった廊下を必死に上り、猫トイレにたどり着く姿が可哀そうで、トイレをこっちに持って来てやったらと言いました。そんなことを母に言うことは初めてのことと言っていいと思います。

母は、最初下痢をしていてうつるといけないからと言っていましたが、結局近くに移してやりました。それから間もなく死にました。
夜になって布で包んで袋に入れて近くの小川に流しに行きました。底の底まで透き通った清流で、悪いような気がしましたが8今は許されることではありませんが)、流れが急で、蛍が輝く中あっという間に流れて行ってしまいました。
空襲の当夜のことと思っていた時期もありましたが、それより二三日前だったと思います。
生きていても、あの空襲を逃れることは、猫でも難しかったでしょう。

敗戦となって、食糧難が長く続き、犬や猫を飼うことは難しい、と言うより不可能な時代でしたが、祖父母の家に何世帯も一緒に暮らしていた時、実家が食料を扱っていた親戚はさすが母猫と子猫を数匹飼っていましたっけ。

外地から父が帰国して、関西で新たな仕事をすることになり、住宅難の折50数倍の倍率を幸いにも当たった県営住宅がマッチ箱のようにチッポケな家で愕然としたことは何度も書きましたが、食糧難が解消の方向に向かうと、またまた母はどこからか犬を連れて来ました。

普通子供が犬を飼って、とお母さんに頼む、と言うのがよくあるシーンですが、ウチは母がどこからか勝手に連れて来ると言うパターンで、根っからの犬好きの私には自分で選べなくても犬を飼えるというだけで大満足だったというわけです。

戦後最初の犬は、母がスピッツの合の子(昔はよく使われた言葉ですが、あまりいい感じではありませんね)と言っていましたが、白い長い毛の、可愛い子でした。チロと名付けました。

ちょっと話が変わりますが、私が子供の頃は、東京でも、野犬や放し飼いの犬がよく歩いていて、と言って、犬もルールを知っている感じで、おとなしく、噛まれたという話は殆ど聞いたことがありません。ただ狂犬病にかかった犬に噛まれて亡くなると言う事故は結構あり、知人にも亡くなった人がいましたし、子供達は、狂犬病にかかった犬に注意するように言われていました。

涎を垂らして、異常とすぐ分かる様子で走って来る、万一遭遇したら、バッグなど持っているものを噛ませて、逃げる、狂犬は前方へ突っ走るから、後方とか横道に逃げるように、などと教え込まれていました。

野犬捕獲人も当然いて、複数で行動していることが多く、それと分かるのですが、犬殺しと言う呼び方が半公然と使われていました。現在は放送禁止用語とありますが、この言葉を使う人もいないでしょう。誰が嘗ての愛犬を死に至らしめるのか、捕獲する人であるとは到底言えないでしょう。

昔は警察の許可をとって、犬の捕獲人となり、犬の処分も任されていたとあり(Wikipedia)、この記述については、公的機関による捕獲、処分がなかったのか、すぐ検索できるかと思ったら、見当たらず、戦後の混乱期は犬の取り扱いについては、上記のような形が一般的だったのかも知れません。

住んでいた県営住宅の中にも時折捕獲人が来て、一度仔犬を長い棒で引っ掛けて地面に叩き付け、キャンとひと声あげて、絶命したらしい場面を見かけて、震えが止まらなくなったことがあります。
処分も任されているのなら、あり得ることだったのでしょうけど。

チロは、ちょっとチョロチョロした感じの犬で、今思うと、主人と言う認識をはっきり持っていたかと言う感じがありました。顔を見たら、喜んで尻尾を振るという風ではなく、学校から帰って来ても、喜んではいるけど、タロが毎日家族の誰かが帰って来ると、全身で喜んで迎えたのに比べると、あ、帰って来たの、という感じでした。

この当時のことは、期間について記憶が曖昧で(と言っても一年ではなく九か月だった、という程度なのですが)、短期間に色々なことが起き、毎日の生活も大きく変わって行ったためだと思いますが。

昭和⒛年代の後半、私が高校に入った頃には食糧事情も好転していましたし、朝鮮戦争の特需などで全体的な経済情勢も○○景気などと呼ばれる時代が間近でした。

ある日、チロがいなくなりました。
いつもきちんと繋いでいたし、第一逃げようと考えることなど絶対ないと感じさせる犬でした。この家を守るという意識があったというわけではなく、自分はこの家の一員、目の前の道路にだって出たりしないと言うタイプでした。

三日目位だったか、チロは帰ってきました。
まあ、帰って来たのね、と言う母の声音に私が不審な表情でも浮かべたのでしょう、実は公園に置いて来たと全く信じられないことを言いました。
どうしてそんなことをしたのかとも聞かない、相変わらずそういう関係でした。問い質すなどいうことは、母に対する許せない反抗と捉えられるからです。

公園は、私鉄電車で、五つ目の駅で、歩いては行けない所でした。どうやって連れて行ったのか、今の今まで思いつかなかったのですが、誰かに頼んだのではないか、母は、子供には厳しいけど、人付き合いがいい、と言うか、色々な人とすぐ知り合いになり、家に食事に招いたり、悪く言えば、人を取り込むことが巧みな人でした。

少し離れた山道の一軒家に聾唖のご夫婦が子供さん達と住んでいましたが、ある日、そこのご主人がウチへ来て、紙に達筆で、頼まれたことはやったとお母さんに伝えてくれと言う意味のことを書いたので驚きました。
よく会うので挨拶はしていましたが、母が頼み事していることなど全く知らなかったからです。

そんな遠い所から帰って来たのだから、まさかと思っていたのに、またいなくなり、今度はもっと遠くへ置いて来たと言い、場所を言いませんでした。
何故これ程家にも家族にも慣れていると言うか、一歩でも他へ行きたい素振りも見せないチロを捨てる理由は何なのか。例え聞いても納得できる理由は聞けなかったでしょう。

チロを捨てたからと言って、犬を飼うことを止めたわけではありません。
それからどの位経ってのことだったか、中高校への通学は、長い山道を歩いて行ったと言うか、低い場所から高い丘の上まで続く坂道を上ったのですが、ある日その道で、一頭の犬に出会いました。高校3年の時か大学に入ってからか思い出せません。いずれにしても、通学しなくなってからも散歩で歩いたり、牧場に買物に行ったりしていました。
それまで一頭と呼ぶような犬を飼ったことはないのですが、その犬は、風貌は秋田犬のようで、しかし秋田犬よりは少し小さく、とにかく立派な犬で、何故こんな所にいて、傍に寄って来たりするのだろうと思いました。首輪をつけていない。

私の後をついて来る。さすがに県営住宅の中までは来なかったのですが、翌日か、二三日経ってからだったか、また同じ所で会い、親しげに寄って来る。
母に話すと、すぐ関心を持ち、見てみたいと言います。

一目見て、母は気に入り、首輪をつけていないから、何か事情があって、飼えなくなったんでしょう、などと勝手に事情を推測して、ウチで飼うことになりました。
今思い出したのですが、関西の県営住宅での最初のペットは、東京から連れて来た一羽の雄鶏でした。銀座の夜店で買ったヒヨコの一羽が育って中雛になったのを連れて行き、暫く育てる中に立派な雄鶏となり、そのために結構立派な鶏小屋を造り、雌鶏も何羽か買って、以後卵には不自由しなくなっていたのですが、ある日雄鶏がいなくなっていて、母は、この鶏は闘鶏に向いていると言われて引き取ってもらったと言います。
絶対育たないと言われていた、露店のヒヨコから立派な雄鶏になった、大事なペットなのに。

それまでの犬達は小柄だったので、簡単な箱のようなものを犬小屋代わりにしていたのですが、ルー(と名付けました)は大型犬なので、すっぽり入れるような犬小屋を造ってやりました。それを元の鶏小屋の跡に置いたのです(鶏は4,5年位飼っていました)。

はっきりした記憶がないのですが、私は家の塀も造る程本格的に工作好きだったので、簡単な犬小屋を作ったのは私だと思います。他に誰も作る者がいなかったし。

それまでの犬は小型犬だったので、紐を取って、狭い庭で自由にさせてやる位でしたが、ルーは大型犬なので、ほぼ毎日散歩に連れ出しました。決まって、通学山道です。

ルーは、ほんとに犬の典型のような犬でした。寡黙?で、我慢強く、落ち着いて、思慮深く、堂々としていました。
甘えたり、喜怒哀楽(犬なりの)を表すということは殆どありませんでしたが。
ウチにいるだけで安心、任せられる、という感じでした。

犬について書いてるの?と言われそうですが、ルーを、ウチで飼わない方がよかったと悔やんでいるので、こんな前書きを書きました。
どの位ウチにいたか、はっきり思い出せません。半年もいなかったように思うし、一年以上いたような気もします。ルーについては、記憶系統が普通ではなくなっているのです。

ある朝、ルーがいませんでした。
ルーはどこにいるんですか、私の口調は抑えられない切迫感できつくなっていたと思います。
それがね、母は視線を落として、今朝早く死んでいたの、あなたが知ったら、悲しむと思って、お父様と山の方へ埋めに行ったのよ。
山の方と言うのは、住宅の奥の方にある、未開発の丘陵地帯のことでした。

涙が溢れました。何故、どうして・・・ルーの死を見せないことが私への心遣いなんて。

ルーは、私にとって、それまでの犬と全く違う存在で、いつも親しい友人に話しかけるように接していました。ルーもいつもじっと聞き入っていました。
その後も様々な感情が、波が押し寄せるように浮かび、しかし言葉に出して語ることはありませんでした。

母はもう犬を飼うとは言わなかったし、もし飼うと言ったら、私は反対と言うより拒絶の言葉を言っていたと思います。
優しい父の無言が何かを語っているようにも感じました。

それから日々は過ぎ、私は結婚によって、切望していた東京帰還の機会も齎され、しかし関西を離れても、ルーのことを忘れることはありませんでした。
両親は神戸の中心街に移り住んで、父の定年まで過ごし、母も数えるほどしか東京に来ることはありませんでしたが、ある時、どういうきっかけだったか、父が、ルーはね、と口にして、母が、お父様、と鋭く遮るシーンがあり、そして、十年か、それ以上か、経ったある日、母はルーについて短く語りました。

ずっと忘れることはなかったと、母は言い、私はその時、ルーが、犬とも思えない、突然訪れた死を、声も出さず、全く表情も変えず、従容として受け容れたと言う事実だけをルーの思い出として刻むことにしました。母はルーの立派さに打たれてもいたのです。
父は決して嘘をつかない人で、表情は淡々としていましたが、心から私のことを思ってくれる人でしたから、いつか真実を語らなければならないと思っていたはずです。
その父のためにも、私は、母の話を聞いても、ただ頷いて終わりにしました。

ルーの死から、次の犬、アメリカン・コッカスパニエルのタロを飼うまで、十数年が経っていました。  《清水町ハナ》

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
思い出エッセイ〔488〕「ペットたちT」 思い出エッセイ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる