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zoom RSS 思い出エッセイ〔479〕「昔の昭和:戦後の生活5−4−1」

<<   作成日時 : 2014/05/05 11:15   >>

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 戦後の、1940年代後半から1950年代前半の、関西での学校生活について大まかに書いて来たのですが、書きかけのまま7か月も経っていることに、さすがに余生もいくらもないのに何をダラダラと、と反省しました。と言って思い出したこと全て書こうと思っているわけでもないのですが。

中学、高校と、思い出すことは、まだいくらでもあるのですが、時代と言うより、軽く言って、世相と絡める形で書いているので、とりあえず大学生活に進みたいと思います。
今回は、日や時期を追って書くということではなく、思い出したことを、ランダムに、ちょっとしたエピソードの形にするという感じで書いてみたいと思います。
まとまらない文になると思いますが。

落ち着いた高校生活を送れた、というのが、高校についてのひと言感想です。
先生方は、中学の時のように気軽に、せんせいー、と声をかけられる感じはなかったのですが、二年と三年の担任だったA先生は、一番の恩師と思っています。
眼鏡がキラリと光る、笑顔を見せることも殆どない、厳しくお説教をされることも時々あり、また病の起伏があって、長く休まれることもあり、近づきがたい感じの方でしたが、私には今も懐かしく思い出す先生です。

一つだけエピソードを書きます。
A先生が、何か月か自宅療養されている時、学校側が決めたことらしく、各クラス代表全員ということでもなかったようですが、女子生徒四人でお見舞いに行くように言われました。

P市から西は、当時は汽車しかなく、姫路の近くまでかなり時間をかけて行きました。
先生か奥様のご実家なのか、大きな農家風のお宅でしたが、先生は意外にお元気そうで、よく来てくれたね、と学校では殆ど見たことのないにこやかな表情で、迎え入れてくださいました。
奥様も本当に感じのいい方で、少ししてお暇しようとすると、折角こんな所まで見えたのだから、もう少しゆっくりして、と、赤ちゃんをおぶって、何回もお茶とお菓子を出してくださいました。
先生と色々とお話したことが、それまでの近づきにくいと言う感じを払拭したのかも知れません。

復職と療養を何回か繰り返され、学校でのピシッとした印象は相変わらずでしたが、私の心の中には信頼の気持がしっかり根付いていました。
私が住んでいた県営住宅の一方の側は雑木林の丘になっていて、そこの療養所に入院されている時、私が貧血気味と聞いたと、今で言う漢方の治療薬を、お酒と書いてあるけど、子供が飲んでも差支えないそうだからと、わざわざ丘を降りて持って来てくださったことがありました。

父兄との進学相談で、先生は母に、先生の出身大学の文学部を受けるよう強く勧められたと聞きました。
実は、私は早い時期に進学したい大学を決めていました。新聞の大学紹介記事を読んで、そこに進学したいと思い、両親とも異存はなかったのです。

先生が開口一番強く勧められたことなので、母もすぐには私の希望を言わなかったのか、どうしてもそこ(に進学すること)が難しかったら(遠方で、当時その大学に寮があったとは思えず、あったとしても女子寮はなかったと思われます)、女子寮のある旧師範系の某大学をと言われたそうですが、そこは私も希望しなかったし、母がどういう理由か、師範系は行って欲しくないとはっきり言っていました。教師タイプと言う古い印象に捉われていたのかも知れません。

いずれにしても母は気をとり直して、私が、希望と言うより、ある大学の受験を決めていることをお話しすると、勿論先生は納得され、それでも、残念だなあ、と本当にがっかりしたように言われ、K君のことは分かっているつもりなんだけど、と言われたと、母が話しました。
今でも先生が勧められた大学に入っていたら・・・と思うことが偶にありますが、殆ど何も思い浮かばないので、進学先については自分の選択が正解だったと思っています。

下宿はダメと言うのが母の絶対の条件で、私が入りたいと思っていた大学は、通学可能な神戸にあり、語学系ということも両親が妥当と考えた理由だったと思います。

それまで、大学の建物を見たことがなかったので、その大学が旧女学校で、大学としては非常に小さいということも気が付かないと言うか、気にならないと言うか、卒業した直後に反対側の敷地に立派な?図書館が建ったり、今から30年位前、別の地に新学舎が建って、漸く大学の体裁が整ったことなど、私とは一切関係がなく(と言うか、恩恵を受けず)、しかしこうやって書いていても、現学生や卒業生の多くに気付かれない〈恐らく〉と言う気楽さ?があります。悪口に類することは全く思い浮かばないし、戦争と戦後を体中に滲みこませている私には、寧ろ相応しいと言っていい学生生活だったと思っています。

入学してみて驚いたことは、女子学生が非常に少ないということで、 新入生が十数人しかいなかったことです。もともと規模の小さい大学で、合格者全体の人数も少なく(倍率だけは高かったのですが)、それにしても30数人の一クラスに、私のクラスの女子は3人、一番前に座って、結束堅く勉強していましたが、一人が病気のため休学となったのはショックでした。しかし今でも年賀状は勿論、時々連絡を取り合っています。狭い日本で、三人は三角形に離れてしまったのですが。

大学生活が始まったことも大きな変化でしたが、大学に入って、神戸に通うようになったこと自体が、私にとって、それまでの生活、日々を大きく変えることでした。
昭和28年、1953年です。
いくつかの年表からこの年の主な出来事をランダムに列挙すると、


・NHKがテレビ放送を始める。受信料は月200円だが、テレビは、1台20万円から30万円で一般家庭では全く手が出ず(so-net 「ザ・20世紀」)。
(私の記憶ではサラリーマンの月給が1〜2万円)
・因みに拾円硬貨、百円札が発行されたのもこの年。
・「バカヤロウ」解散。
・エドモンド・ヒラリー卿とテンジンがエベレスト初登頂。
・エリザベス女王戴冠式。
(当時の皇太子が列席したが、私の記憶では、席次が一番最後から3番目。敗戦国であったからです)
・ローゼンバーグ夫妻処刑。
・朝鮮戦争休戦。
・奄美群島、日本に返還。


大学に入る前は、神戸に行くことは、一年に何回かデパートに買物に行く位でした。
それが、神戸、それも六甲の山をちょっと上ったような所まで毎日通うことになったのです。

ウチの近くに小さな駅がある私鉄は、「神戸」と言っても、大分手前が終点で、それより先の国鉄とは繋がっていないので、後戻りする形でP駅へ行って、国鉄に乗り、「神戸」「元町」「三ノ宮」と言った、神戸の中心街を通り過ぎて、「六甲道」で降ります、それから六甲山の方向へ、なだらかな上りになっている道を結構歩いて、最後は「地獄坂」と呼ばれていた相当な急坂を大学までのぼります。
一時間半以上かかったと思いますが、この通学路を苦に思ったことはありません。

一年から四年まで固定したクラスでしたが、とにかく上級生の女子学生はもっと少なく、四年生は一人だったと思います。
新入生にも拘わらず。私達は結構積極的で、女子学生の控室をつくって欲しいと大学側に要望したところ、ただでさえ教室が少ないのに、あっさり一部屋を「女子学生控室」にしてくれました。
用意してもらった以上利用しないわけにいかず、お昼休みだけでなく、授業の間の短い休憩も、さっとその部屋へ行ってしまって、同じクラスの男子生徒とは殆ど話もしない始末でした。

専攻の外国語授業が週三日、一日2コマ3時間づつ必須、試験と出席日数をクリアしないと即留年で、それ以外にも必修科目が多く、特に第二外国語のフランス語は厳しくて苦労しました。最初の二年の教養科目も必修で、今思うと、卒業に必要な全科目を履修するのは、予習が必要な課目が多く、かなり大変だったと思います。
進駐軍基地でアルバイトをする程会話が達者な上級生が出席日数不足で3回も留年になったと聞いたこともあります。

社会科学に興味を持つようになったのは、福武直・日高六郎、共著の『社会学』をテキストとした社会学の講義がきっかけだったと思います。
分厚く大きい値段も高い本で、ベストセラーだったかどうかは分かりませんが、当時大学の教養課程でよく使われた本と聞いたような記憶があります。

大きい教室で、社会学を学ぶのは初めてと言う学生が多かったのではと思いますが、何と言ったらいいか、講師が、学生に、対等に、最初から最後まで熱っぽく話しかける、独特の講義で、(単なる例示に過ぎませんが)「こういう結論になるわけですよ、愉快だなあ、アハッハ」と講師は呵々大笑、学生もつられて、笑う・・・そういう感じでした。

今でも覚えているのは、「日高君は、ああいう貴公子然とした人ですからねえ」という言葉で、これは私がこの耳で確かに聞いたことで、ああいう、とはどういう感じなのだろうと思って、それがある種のきっかけになり、その後も日高六郎氏が書かれた文が目に留まると、ちょっと読むということをして来ましたが(当時、と言うよりその後長く、日高氏は、人気がある、と言うと失礼かも知れませんが、著作や書かれるものが長くよく読まれたと言う感じを持っています)、社会学を専攻する、と言う方向へいくことはなく、しかし、文学オンリーだった高校までの読書傾向に社会科学が入り込み出したきっかけとなったことは確かです。

敗戦直後に公立の専門学校として出発して、大学に昇格して何年も経っていない頃でした。
最初の頃は、復員服姿の学生もいたそうですが、ある教授が、出席をとり、一番前に座っている学生が勢いよく「はいっ」と返事をしたので、顔を見たら、何と兵役中の上官で、それ以後、先生と呼びかけられると、つい「はっ」と返事をしてしまうと言うような話も聞きました。笑い話ではなく、おそらく事実だと思いますけど。

戦後に創立された大学の生活を詳しく書くことも意義があるかと思いますが、今回は、最初に書いたように、思い出すままの書き流し文といたします。

日高氏のことにちょっと戻ると、今から⒛数年前、ウチの近くの病院の眼科に、治療に通っていた時、その眼科は、ある手術で有名で、著名人をよく見かけたのですが、座って順番を待っていると、中から出て来られたのが日高氏だと思いました。
かなりくたびれた黒い鞄が、両手で抱える程パンパンでした。
勿論、その手術のために来られたのかどうか分かりませんし、もしかすると人違いかも知れないし、こんな風に書くのはプライバシーのことで失礼だとも思いますし、私も、大学時代のちょっとした記憶を思い出したに過ぎません。
その後割に最近、フランスで暮らしておられると言う記事を読みました。

一年生の時の文法の先生は、助手か講師の若い方でしたが、よく透る低い声で、話される英語の発音が実に素晴らしく、下を向いてじっくり聞き入ったものでした。若くして亡くなられたと聞きました。

英作文は、他の大学から講師が見えていて、川端康成の『雪国』の英訳を一年かけて、できるところまでやったのですが、勿論英訳本などないし、他に参考にするものもなく、苦戦しましたが、英作文と言えば、まず文型を考える、と言うやり方をして来て、感情の機微を表すということなど殆ど考えることもなかったので、文芸作品を訳すということに新鮮な刺激を受けたことは確かです。
黒板に自分が当たった分を書いて、クラスで意見を出し、最後に先生の締めと言うやり方だったと思うのですが、時々この先生が、女子学生の存在など無視して、結構際どいことを言われることがありました。あまり問題がないところで、祇園のお座敷に行くと、舞妓が「こんばんはー」(裏声でマネをして)って、入って来る、あれはいいね、など、あの時代に相応しくない話も聞かされましたっけ。
別にこれと言って印象深いことでもないのに、何十年経っても小さなエピソードを覚えているということは、記憶の選択肢と言うのは、どういう風に記憶として留まり、表面に現れるのでしょうか。

大学の話は、始めてみただけという感じですが、神戸の大学に進学したこと自体が、私に多くの変化を齎してくれたと思っています。
ごく狭い範囲で生活して、家庭が絶対の中心だったのが、家は一日の終わりに帰る所となって、新たな生活に入った、自立した、と言う感じが一番強かったかと思います。

大学の帰りに友人と喫茶店でオシャベリしようが、講義をサボって、映画に行こうが、高校生になってもあれこれ干渉した母も何も分からないし、高校まで映画によく連れて行ってくれた父も、時々食事に一緒に行く位で、口には出さなくても、好きにやりなさいと見守っている感じでした。

卒業するまでには、三ノ宮・元町周辺など、神戸の中心街にもすっかり詳しくなり、今でも当時の様子を思い浮かべることができます。
当時中華饅頭などを食べに行った「中華街」は、大きくなって、あの頃とは全く違うと、今も時々電話で連絡をとっている先輩から聞きました。
しかし、先輩の言うすっかり変わった中華街も「阪神淡路大震災」の後の姿であり、私が子供の頃P市に住んでいた祖父母を訪ねた頃の神戸は、空襲で焼失し、私が今語っている大学のあった六甲の辺りは、神戸の中心街と共に震災で大きな被害を受けたと報じられました。

幸いと言うべきなのでしょうけど、既述したように大震災よりかなり前に、同じ神戸市でも中心街からは離れた所に大学を新築し、殆ど被害がなかったと聞いています。
しかし私の思い出は、六甲の山に向かって、地獄坂を上った六甲の地にあり、思い出は湧いて来ても、それを字で表すのに胸につかえるような感じがあるのは、既に喪われたことについて書いているからでしょうか。喪われているからこそ書いた方がいいという思いもあるのですが、今回は何のまとまりもないままに、この辺で一時ピリオドといたします。  《清水町ハナ》

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