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zoom RSS 思い出エッセイ〔456〕「昔の昭和:戦後の生活5−3」

<<   作成日時 : 2013/08/20 09:34   >>

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 小学校(当時国民学校)の2年や3年で、「教育勅語」を暗唱し、神武天皇に始まる歴代天皇の名をそらんじた世代です。

戦争が始まって、空襲を避けるために疎開したのに、疎開地で空襲に遭い、住む所を求めて彷徨い、人生で最も厳しい数ヶ月を経験する。戦争にも負けてしまった。
やっと東京へ帰れた。ところが・・・

待っていたものは、それまでの教科書に墨を塗り、昨日まで鬼畜米英撃滅、お国に命を捧げようと言っていた先生方が、いつの間にか、180度変わって、ムズカシイ左翼思想を煽るように語り、教科書には民主主義が溢れる・・・これもまだ小学生の時です。

教育制度もすっかり変わって、校舎の用意もできずに、間借りをして、新制中学と言う名前の学校にとにかく入る。
学校教育については、ほんとに何が何だか分からない子供時代を過ごしました。

新制中学が、何もかも足りない、整わない中で、学ぶ、友達と付き合う、遊ぶ、そうした一番基本的なことだけは、子供達の活力や先生方の努力で、何とか保たれて来たと思います。

高校は、空襲に遭わなかった、そして旧い伝統を、戦後の混乱に捉われずにまもってきた学校と先生のお蔭で、戦後初めて、学校らしい、落ち着いた、環境、雰囲気に出会えた感じがしました(それも後に抱いた感想です)。
今思うと、そうした教育環境をつくるために、学校側、先生方、関係者の並々ならないご苦労があったと思うのです。

それまでは、旧制中学の入学試験で選ばれた生徒に、長く培った、定まった対応をすればよかったのが、新制中学生という名の、それも三校+αの新制中学の生徒が、不合格が非常に少ない(と聞きました)試験を受けて、ドッと入って来る、在校生も新制高校生となって、旧女学校との間で、生徒の大幅な入れ替えが行われる、しかし、新入生は、そんなことも殆ど意識しない、と言うか、知らないし、関心もない。
今迄味わったことのない教育環境も、当然のように入り込み、すぐ慣れる。

ただP市のような地方都市は、新制中学から新制高校への、言わばある種の変則的な編入と言う、大都市にはなかった問題を抱えていたのでは、と推測しています。
県立の旧制中学、旧制女学校(両校共既に新制高校に移行)が2校しかないところに、数校の新制中学生が、ほぼ無試験状態で、振り分けられたのですから。
当時東京では、既に学区制になっていて、今で言う高校偏差値が既に存在していたようなもの、と言うか、能力・成績によって受けられる高校が決まっていたと言ってもいいようです。私立の高校へ進学する者も多かったようですが。

私のような年になっても、凝り固まった優越感は消えないらしく、自分の高校からは、ノーベル賞候補者も出ている、要するに寄せ集めの学校だった新制中学や小学校には懐かしさも感じないと言われたこともあって、母校などと言う思い出などには拘らない、過去切捨て型の人もいるのかと、寧ろ感心しました。
(ふと気になって、母校の高校の偏差値を見てみたら、トップクラスに初めて名前を聞く新しい高校が入っているけど(私が住んでいた所のすぐ近くのようです)、あれ、母校は、当時と違って、かなり下の方に・・・少々残念だけど、公立高校は、学区制に変動があったり、見直しがあったりすると、すぐ偏差値に影響するようです)

母校の話に戻ると、マイナス印象は殆どなく、特に楽しみにしていた映画鑑賞会以外にも色々な行事があって、今迄になく勉強に集中して、お楽しみも本格的、緩急があると言うか、メリハリが効いていると言うか、充実した学校生活でした。

ただ一つ、急に友人関係が希薄になったと言う思いがあります。
授業は一時間みっちり勉強して、休み時間は原則次の教室へ移動、そしてクラスのメンバーが変わる、受験勉強が始まると、課目によっては、能力別のクラスに分けられる、先生方も雑談など殆どなく、生徒も緊張して授業を受ける、今ならごく普通の学校風景とも言えますが、私には、戦後初めて(或いは小学校入学以来初めて)、色々な意味で、充実した学校生活と思えました。

一番の親友とは、変わらず親しくしていて、他にも何人か、中学時代からの親しい友達と会うようにしていましたが、その他の同級生、同学年生について、特に他校から来た人については、思い出どころか記憶さえも希薄なのです。

中学3校からどっと入学して、高校1年生となって、クラス分けされ、親しかった友達とは一人も同じクラスになりませんでした。
しかも授業課目ごとに、教室を移動する。

1年の担任は、漢文の先生だったので、1週間に1回しか、自分の教室で授業がありません。 
理科は選択で、二年生の担任の先生の担当課目はその年度、取らなかったので、先生に会うのは、朝のホームルームだけでした。
ホームルームと言っても、出席を取って、先生からその日の連絡事項などが伝えられる程度だったと思います。

英語、国語、数学など授業時間数の多い課目は、決められた同じ教室に移動します。はっきり覚えていないのですが、その先生の担任の教室へ代わる代わる生徒が出入りすると言う形だったと思います。
英語は、二年生から能力別(と言うか試験の点数別の)クラスに分けられました。

しかもそれぞれの教室の席順は、決められていて、それもクラスごとに分けられているわけではなく(朧な記憶を辿ってみると、アイウエオ順に、窓際から縦に席順を決めたのかも知れません)、周囲は知らない子ばかりと言うのが殆どでした。2人掛けの長椅子だと、知らない子と並ぶことになっても、ぼつぼつ話して、親しくなると言うこともありましたが、それも1週間に1回か2回のことです。

当時は、男の子と女の子がしゃべると言う姿は、殆ど見かけず、ちょっとでも同じ相手としゃべっていると、何か言われると言うか、学校側も男女交際に厳しかったのか、それすら分からなかったのですが、美人の上級生が退学になり、お父さんが先生の、普通に親しかった友達が、男性と泊まったからとコッソリ教えてくれたのですが、泊まると退学になるのか、フーンと聞き流す、そんな程度ですから。

まあ、でも上級生には、明らかにカップルと見える感じの人達がいましたが、仲がいい、それだけのことだったのか、ステディだったのか、あまり関心もありませんでした。
ハンサムで目立っていた上級生の相手が、同じ県営住宅の、中学の時の同級生のお姉さんで、これにはどうやってgetしたのだろう(などと思ったのは、ずっと後のことですが)と意外に思えました。今思ってもごくごく普通のお姉さんだったので(などと大昔のことだからと思って、失礼なことを書いていますが、2人の顔を今でもはっきり覚えています)。

3年の担任は、国語の先生だったので、ほぼ毎日自分の教室の授業があったのですが、病気がちの方だったので、割りに長く休まれることが何回かありました。
この先生が高校の一番の恩師と思っていますが(他にも何人も忘れられない先生がいらっしゃいましたが)、後述します。

同じクラスで、ずっと一緒に勉強した中学の同級生は、今でも名前を覚えていますが、その友達と、高校で、同じクラスになったことが殆どなく、授業で一緒になっても、終わるとすぐ教室移動、話す機会もないままに、そのまま卒業して、記憶の底に沈んでしまったという感じです。
広い学校でしたから、出会うことも殆どなかったのです。

他校から来た生徒は、高校で親しくなった人は皆無と言うと言い過ぎですが、名前も知っていて、話もするけど、親しいとは言えない、と言う感じで、親友以外、中学時代の友達とも疎遠になってしまい、つまり、高校の同学年生について、全体的に、記憶も印象も希薄になってしまったのです。数年後には東京へ帰りましたし。
中学時代と違い、休み時間に遊ぶと言うことを全くしなくなったことも原因かも知れません。

敗戦後、色々な意味で、一番恵まれた学校生活を送れたのは、高校だったと、最近になって、思い出す始末です。
穏やかに、普通に、学校生活を送れるということが難しい時代に、殆ど何の問題もなく、充実した毎日が送れた、それが却って、際立った記憶とならず、特に思い出すこともなく、日々が過ぎた。

英語以外、先生が、生徒個人の名前を呼んで、当てるということが殆どなかった、講義調の授業が多かったので、先生は、中学の時のように、親しみを持って接することがあまりなく、ある意味かなり距離のある存在だったとも言えるのですが、学問と言うと大袈裟ですが、専門性を感じる授業に魅力を感じたというところでしょうか。一方で、立派な図書館で本もせっせと借りて読んでいたし、海辺の市図書館にも相変わらず通っていたのですが。

英語は、当時は訳読法と呼ばれる授業法で、学生とのコミュニケイションを取り入れるという授業ではなかったし、受験英語が意識されていたと思うのですが、それでも英語の時間はクラスが活発だったという印象が残っています。
二年の英語の先生は、GHQに勤めておられたことがあるとも聞いたことがあり、英語が実に達者、教え方も巧み、生徒を惹きつける、生徒の名前も覚えるだけでなく、例えばYさんと私が親友であることをご存知で、そのことを絡めたジョークなどもちょっと言われる、後年教師になって、この先生の授業をよく思い出しました。

三年の先生は、中年過ぎの方でしたが、端整な顔立ちの、素敵な先生で、授業も端整、Miss〜と呼んで、一人一人に丁寧に接する、と言う感じの方でした。
通り道の一つに、大きな庭の邸宅と言っていいお宅があり、そこで先生が庭木の手入れをしておられ、立ち止まって、見上げて、ご挨拶をしたことがありました。先生も手を挙げて、声をかけてくださいました。

邸宅と言うと、ちょっと親しくなりかけて、一度遊びに行ったことがある友達の家は、文字通りの大邸宅で、お庭は、山あり川あり、という、有名な庭園を模したのではないかと思える、まあ、その後それ程の庭にはお目にかかったことのない、P市にこんなお宅があるのだと思った程でしたが、彼女はその後好きな方向に進んで、全くの没交渉になりました。

静かに穏やかに過ぎて行った高校生活ですが、ちょっとした個人的な波乱?もありました。
時期をはっきり覚えていないのですが、おそらく三年の新学期が始まって間もなく、一人の年輩の英語の先生が新任で来られ、英語の時間が増えた、でも倍になったのではなく、週に二回位がその先生だったように思うのですが、これは私にとって、不運(などと言ってはさすがに気が引けますが)の始まりとなりました。

このまま書き進めたい気分ですが、特殊な個人的事情にもなることで、大まかな高校生活と言うか、戦後初めての、恵まれた教育環境の雰囲気のようなものを書いたところで、当時の世情、我が家にもかなり大きな変化があったことを書いて置きたいと思います。

食糧事情は、好転して、と言って、量的にほぼ充たされるようになったというだけで、現在の、何でも手に入る、美味しいものも何でもある、ということが当たり前と言う状況とは全く異なります。

前にも書きましたが、近場にお店がない、おそらく、電車に乗って、中心部の市場に買物に行けば、お魚などは、結構手に入ったのではないか、現に、お客が見えたりすると、母は、前菜風の盛り合わせに、当時珍しいカキフライなどもつくったりしていましたから、目立つ、華やかな雰囲気が好きな、母には、美味しいものを料理するために、食材をいつもより手をかけて,買いに行くには、ある種の甲斐のようなものが必要だったのだと思います。

街中で、パッタリ、中学の担任の先生にお会いし、私は、当時、名前も知らなかった、お好み焼きをご馳走していただきました。
形態も食感も、全く食べたことのないもので、実は美味しいとは思えず、必死に食べて、半分位で、申し訳ないけど、おなかがいっぱいになってとお詫びすると、生徒には少々厳しい、何でも言う、だけど暖かい、ザックバランな先生は、久しぶりに会って、ご馳走したのに、とご不興の様子で、申し訳なさに縮みあがる思いでしたが、どうしてもそれ以上ひと口も入らず、今でもあの時は、申し訳なかったと思っています。似たようなものは、ホットケーキしか知らず、大袈裟に言えば、異種食文化と言う感じでした。
東京には、モンジャ焼があったと、ずっと以前から言われていますが、これも子供時代、見たことも聞いたこともない、全く知らなかったし、そもそも東京には、大きな鉄板で焼く食べ物がなかったのでは。

子供の頃、祖母が、孫達が集まると、ワッフル(当時ワップルと呼んでいました)を次々と焼いてくれて、ジャムとお手製のクリームを入れて、一人二つずつ振る舞ってくれました。

母方の従兄弟は、20人以上いて、ずっと年上の従兄達や、集まりに出られない子達がいても、いつも10人は、自分の番を固唾をのんで見守っていました。
そのワッフル専用の小さな鉄板焼が、唯一思い出せるものです。

後年、わが家も、時折自家製のお好み焼きをつくるようになり、いつもあの時は先生に申し訳なかった、何ガ何でも完食するべきだったと後悔の念が湧き上がります。

先生がご馳走して下さったのは、高校生の時で、つまり、お好み焼きのような小麦粉が主の食べ物だったら、どんな物でも美味しいと食べた時代は終わっていたということにもなると思います。
高校時代、喫茶店などに、生徒だけで出入りすることは禁じられていましたから、巷でどんな食べものが流行っているかということにも疎かったのです。

そうは言っても、食事情について、不足、偏りは、ちょっと思い出してみても、子供の頃の手作りおやつの殆どがすぐには作れない、など、やっとお腹が空いた状況からは、解放され、とにかく手に入るもので、工夫して美味しいものをつくる、という状況だったと思います。
子供の頃、「家庭百科事典」のような本の写真を見て、こんなもの死ぬまで食べられないのかなあと思っていた、ショートケーキ、デコレーションケーキなど、夢のまた夢という感じでした(その後案外早く「夢」は実現するのですが)。

私にとって、象徴的な食べものにバナナがあります。
戦争中、敗色が濃くなるまでは、当時日本の植民地、台湾から入っていたバナナが、供給が途絶え、戦後、年表『戦後昭和史』の「食の年表」の項では、昭和24年(1949)「バナナ戦後初輸入。翌年には新橋でたたき売りが復活する」とあり、『歴史データベースon the Web』(『中西正和氏年表』)では、昭和28年(1953)「台湾・香港との三角貿易による台湾バナナ3200篭の初輸入の契約が締結される」とあります。
更に「(バナナは)戦後、輸入が再開されたものの、GHQにより不要不急品として、輸入制限が課せられていた為、希少品である事に変わりは無く、価格は4〜5本につきサラリーマンの平均給与の2.5%程度(平均月収30万円ならば7500円←(この月収額の例示は当時の額とかけ離れています。この額の10〜30分の1以下:筆者))であった。1963年にバナナ輸入が自由化され、フィリピン産バナナが台頭するなどにより安価な普及品へと変化した」(Wikipedia)。

最初の1950年に新橋でバナナの叩き売り再開、と最後の1963年頃に安価な普及品となった、という記述には、13年もの開きがあり、私の経験からは、バナナが1950年に安価にすぐ手に入ったとは、到底考えられず、「叩き売り」があったとすれば、1回限りのショーのようなものだったのでは、と思います。

バナナが、私にとって、特別の食品である理由は、初めて食べたのが、高校生以後(ある時期までいつ、と覚えていたのですが、忘れていることに今気づきました)であることです。
子供の頃、バナナは、疫痢になると、食べさせてもらえなかったのです。

今は、どこにでも子供を連れて、外食するようですが、私が子供の頃は、大人の仲間入りをさせてもらえず、お客などに食事を出す時も、子供は、小さい卓袱台で簡単な食事を済ませ、別の部屋で大人しくしている、ずっと年上の従兄も、子供の頃、お客があると精養軒の岡持ちが来るのが羨ましかった、などと、子供は数に入らないことを言っていました。

その上にあれもこれも、疫痢になるとか、お腹に悪いとか、禁止事項が多く、バナナなど、とうとう戦況が逼迫して、姿を消し、戦後も長く、手に入らず、延々と、食べる機会を失ってしまったのです。
同じくお刺身とか握り鮨を子供の時食べたことがなかったのですが、隣家の従姉は、当時もお寿司なら、どこどこ、お刺身も食べていたと、事もなげに話し、これも今思うと、大人達は食べていて、子供には当たるから、などと言う理由で食べさせてもらえなかったのかも知れません。存在すら知らなかったという感じです。

バナナが、やっと店頭に出るようになっても、高価で、いつ初めて食べたか、その時はこんな美味しいものを食べさせてもらえなかったことを恨む気持ちにさえなりましたが、安くなると、飽きてしまって、今も買うことは殆どありません。バナナ味と言うのは結構好きなのですが。

高校に入学して2ヶ月余の昭和25年(1950)6月25日、朝鮮戦争が始まりました。
また戦争、不安な気持ちになりましたが、日本は関係ないことと言う思いがあったと思います。
この一週間後には、金閣寺が放火により全焼し、大きなニュースになりました。

朝鮮戦争は、1953年7月27日に休戦となるまで続きましたが、高校時代、正直に言って、この戦争を身近に感じたことは少なかったと思います。
朝鮮戦争特需と呼ばれる、好景気もあったのですが、直接生活の中で感じられることはなかったように思います。

それよりもこの戦争の勃発と、若干でも何らかの関係があったのか分かりませんが、その年に、父が勤務先を変えたことが、わが家の一大事でした。
外地から復員後、敗戦で解体された、財閥企業に勤めていた、父の兄である伯父が、神戸で小規模な貿易会社を興し、そこに父が勤めることになったので、私達は東京から関西に越したのですが、伯父からは、父に合った仕事を見つけた方がいいと言われていて、と言って、世の中、失業者が溢れていて、既に中年になっていた旧軍人が家族を不足なく養えるような仕事を見つけることは至難でした。

ただ、父には、語学が達者、他、平たく言って、ウリがあったのですが(例えば、ある地域、その事情に詳しいと言うような)今思うと、当時、それまでになく急に、積極的に、父らしくない動き方をしたのは、それなりの成算があったのではと、今頃思っています。

父の親友の一人が関西にいて、何度かウチにも見えたのですが、越して間もない頃は、そのX氏以外、父の友人、同期生と言った人には連絡がとれていないように見えました。
有利な仕事の紹介と言うことなら、そのX氏が真っ先に紹介してくれるのではと言う立場で、それどころか、「よく旧軍人なんかとるなあ」と言って、母が取り乱す程怒り、実際敗戦までは、父はXにとって、有力な知己でもあったはずで、私も今でもそのことだけでなく、他の理由で、X氏に許せないという感情を持っています。

前置きが長くなっていますが、父は、ある外資系(と言うより、当時は、外国の会社の日本支社だったかも知れません。詳しいことを書く必要もありませんが)の会社の、おそらくたった一人の日本人重役に就職希望の書簡を出したのです。
ところが、それが何らかの引き金になったのか、その直後、父の任地で知人だった女性が、その会社の外国人重役の家でメイドをやっていることが分かって、会うことになり、彼女がその重役に父の就職を頼んでみると言う話になり、その重役はすぐ父に会うという話になって、言わば、二股をかけたことになってしまったのです。日本人重役からも、会うと言う返事が来ていました。
父は私にも困ったと言い、日本人の重役にすぐに事実を話して謝ろうかと思うと言うので、それがいいと思います、というようなことを言いました。母にも話すのですが、すぐ感情的になるので、私に話すということも多かったのです。
日本人重役からは、了解した、外国人重役の判断に任せるという返事が来て、私までほっとすると言うか、胸を撫で下ろしました。

採用がすぐ決まり、ところが母が現状を変えることに不安を言い出し(それまでは伯父の会社に勤め続けることの不満を言っていたのに)、これも私が断固として?父の転職に賛成しました。
父は入社して間もなく、買い付けと言うか、購買関係の部長になり、定年後も10年も勤務しました。

今頃あれこれ憶測してみても何も明らかにはならない、と言うか、確とした事実は分からない、今から事態が変わるわけでもないのですが、何の紹介もなく、いきなり重役に手紙を送りつけても、全く相手にしてもらえないと言うのが、普通なのに、また父は慎重な人で、そんなことはしそうもない人だったのに、2人の重役が即会う、採用すると言ったということは、父が、求めている人材だった、父も今が好機と思った、外国の会社だから、当該国の語学ができることも大きなプラスの筈だが、戦争が始まったことも間接的に関係があるのだろうか、などとあれこれ思ってみても、今となっては、単なる推測に過ぎないわけですが・・・

父は昔のことや自身の思い出など、よく話してくれる人でしたが、聞いて楽しい話と言うか、父自身にとっても、いい思い出の話が多く、例えば、敗戦後3年もの、現地での抑留生活については、ひと言も話したことはなく、私が聞けば話してくれたのではないかと今頃になっても悔やむ思いが消えません。

会社のことなどは分からないのですが、買い付けと言って、恐らく国内ではなく、海外、それも父が詳しい、例えば長年の任地が関係していたのではないかと、推測しています。

その会社にすっかり馴染んだと思う頃、父に、自分の会社に来てもらいたいとしきりに誘った、中堅の貿易会社の経営者がおられました。父の旧任地がメインの取引先の会社と聞きました。
その方は昔からの父の知人ではなく、おそらく、父を誰かから紹介されたか、新しい会社の仕事内容を知ってということではと思うのですが、鄭重に、しかしきっぱり断っても、諦めず、何度もいい条件での誘いがあったと聞きました。

プライバシーに触れることのないよう、分かりにくい書き方をしていますが、私は、特に敗戦後の経験について、そして例えば父のことについて、当時の子供っぽい思考からは、何も、一歩でも踏み込んだ事実を読み取れなかった、父が拒んでいたわけでもないのに、ごく表面的なことを見るだけで過ぎて来てしまったことに、後悔の念を抱いていて、今からでもほんの少々でも事実に近いことを復元できないかと考えているものです。

特に父が最晩年、それまで黙していたことについても語り始めたので、しかしいくらも話さない中に亡くなったので、一層残念に思い、できるだけの事実に近づくことをしてみたいと思っています。父のことだけでなく、パブリックと言えないまでも、個人的なことに留まらない事実の一片を得られるかも知れません。
父自身は、伯父の会社を入れると、第三の職場で最後まで勤め上げ、言わば、前半生とは比べものにならない、平凡な、ルーティンの会社仕事を淡々とこなして、あまり平穏だったとは言えない余生を終えたわけです。悪い病気さえ見つからなければ、あと何年かでも、父の望む静かな余生を送ることに私も出来る限りのことをしたのですが。

朝鮮戦争に関係があることに戻ります。
現在の自衛隊の前身は、警察予備隊であると軽く言われていますが、警察予備隊は、朝鮮戦争の勃発により、在日米軍が殆ど朝鮮半島に派遣され、日本に米軍が不在、或いは不足する事態になったため、マッカーサー元帥の要請により、急遽募集された、準軍隊とも呼ぶべき存在です。
当初は一般募集のみだったため、指導層が不在で、組織を成せず、急遽「旧陸軍士官学校58期を入隊させたが」(Wikipedia)、(陸士58期は陸軍士官学校卒業直後、59期は卒業前、60期は2年前、61期が最後で陸士に入学したばかり:筆者)それでも経験不足のため指揮層とはなり得ず、旧軍の佐官クラスを指揮層とするため、昭和25年(1950)10月、1万余人の公職追放を解除する。
「11月10日旧軍人3250人の追放解除。以後次々と解除され、昭27・4.28の講和発効で公職追放は失効」(『現代史年表』小学館刊)。

朝鮮戦争のため、なし崩しに旧軍人は公職追放を解除され、指導者層が、GHQのある種の選択指名によるのか、いずれにしても公募ではなく、同期の佐官で、当時警察予備隊に入った者は、その後自衛隊所属となり、トップの地位まで登りつめた人もいるが、戦中の軍の中枢にいたために、排除されたのではと推測される者もいる、或いは、後で気がついたのですが、作戦畑を優先したとも考えられます。

更にマッカーサー元帥は、朝鮮半島や中国の状況、事情に疎かったと言われ、旧大本営参謀クラス、地域ごとの事情に詳しい旧軍人をGHQに囲い込み、戦略面の実質上のアドバイスを受けたと言われています。

歴史研究会などと言う呼称で呼ばれた、事実『大東亜戦争全史』の編纂も行った、このグループについては、結構長い間、その存在、役割が知られておらず、10年位前か、もう少し前後するか、NHKの番組で、メンバーの写真も見た記憶があります。このグループ自体については、詳しいことは知りませんが、一つのケースを、ご本人から聞いたことがあります。
父と同期で、敗戦時の任地も同じ、ごく親しかった方ですが、父より2年遅れて、帰国。丁度朝鮮戦争勃発の1950年、船で復員。横浜か横須賀か、覚えていませんが、船を降りたら、GHQの車が待っていて、(有無を言わせず)連れて行かれ、そのまま、GHQの上記のグループで、命じられるままの仕事をすることになったということでした。

父が亡くなった翌年、その方は亡くなられたのですが、それまでに、当時の仕事の一部も話して下さって、最後に近い頃、自分は、同期生に(一番親しい友人は同期生であるのに)、GHQで仕事をしていたことを話さなかった、それが心残りである、という意味のことを話されました。

おそらくその事実を知っている方は結構多いのではと思えましたが、自分の話したことは、どのような形でもオープンにしていいと言われていましたし、その時、その事実を話してもいい、というより、積極的に話してもらいたい、というようにも聞こえたのですが、既に同期生は全員亡くなられた今、このような目立たない形で、ひっそりと記したいと思います。

朝鮮戦争そのものが関係があるということではないのですが、ある種のきっかけとなって、動き出したことが多くある、当事者や周囲の者がそれに気づいていない場合も多い、そんなことを、言わば、勘のようなものとして感じています。

当時、動乱が始まっていたのは、朝鮮半島だけではなく、東南アジアで、ベトナムでは、1946年から第一次インドシナ戦争が始まっていました。
実際に戦っていたのは、旧宗主国フランスですが、戦費の80%を負担していたのはアメリカです。

父は、どうやって、出会ったのか、任地で知人だった女性を、例えば、おタネばあさん、などという呼び方をしていたので、外国人重役のメイドをしているということだったし、父と会って、話す時、家の中へ招じ入れず、邸宅の門の前の階段に座って話した、つまりほんとの、メイドさん、という印象を、私は持ったのですが、ずっと後になって、彼女が、実は、父の任地の、大きなホテルの経営者だったことを知りました。

スワ、どういう関係ということになりそうなものですが(後付けの言葉で、当時は微塵もそんなことは思っていませんでした)、父に限って、と言うと、甘いと言われそうですが、実際、父は、女性関係は、全く問題ない、と言うか、女性に対して、実に淡々と普通に接する人でした。‘おタネさん’とも定宿の主人という知人に過ぎなかったと思います。

あれこれ書いて来て、今、まとまった、私の推測では、父からコンタクトを受けた日本人重役がすぐ外国人重役に話し、おタネさんをメイドにしていた重役は、おそらく、おタネさんのホテルに泊まったこともある、知り合いだった、日本に来て、おタネさんが困っていることを知って、メイドとして雇った、父の経歴から、彼女に父のことを知っているか聞いたところ、勿論知っている、と話し、とりあえず、おタネさんに連絡をとらせた、などと、或いは実際の筋書きは全く異なるかも知れませんが、そんなことでもなければ、殆ど日を置かず、偶然おタネさんと出会って、二股になる可能性が考えられないように思ってみたのですが・・・

任地から帰国と同時に、GHQに連行されるように強引に車に乗せられた、父の親友は(仮にZ氏と呼びます)、任地の渉外畑を、ラフな言い方で言わば仕切っていて、ずっと以前から当地に詳しい父と異なり、ある大きな作戦実行のために当地に派遣され、最初の中は、父に従って、現地を調査、作戦実行に備え、結果的にその作戦が成功したために、父より早く大佐に昇進したと言う経緯があり(父は敗戦の2週間前に大佐昇進の内示があったものの、結局中佐止まりとなりました)、いずれにしても、Z大佐は、それまでも大きな作戦を実行して来た実績があり、当地についても、父とは異なる、つまり渉外・情報と言うレベルではない、全体的に深く細かく当地に食い込んで関わっていた、とも言えます。それをGHQは必要としたのでしょう。

プライバシー、他のため、不明瞭な書き方をして、恐縮ですが(父やZ氏のことを直接語っているのではないため)マッカーサーとGHQは、第一次インドシナ戦争に続いて、朝鮮戦争の勃発と言う、予期しない事態に、解体した筈の旧軍を、目的に合わせて手足の如く使うために、個人の意志などは無視して、ピックアップし、言わば、捕虜を自由に処遇するように思うままに動かしたと言えるかも知れません。敗者とは、戦争に負けるとはそういうことであるのでしょう。
ただ、‘選ばれた者’が、彼らの意図に唯々諾々と従ったかは、明らかではありませんが。

年をとると、昔のことばかり思い出す、語る、と、よく言われますが、それはやはり、既にこの世にいない人に、こうすればよかった、と言う後悔の念がさせることではと思います。

今頃になって、知っても、悟っても、仕方がないようで、それを記憶の中から探り出すことは、上述した、小さな歴史に繋がる可能性のある事実を掴めるかも知れず、少なくとも自身の総括にも繋がることでは、と思ってみていますが・・・
文章としてまとめることより、記憶を形にすることに捉われているので、ダラダラとした流し書きとなり、申し訳ありません。(この項続く)  《清水町ハナ》

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